
全ての証拠が示しているの。あなたが大王だって。

「エクリプス・シャドウ」
大きな出来事
メインキャラクター:るるか
目標
くれあが大王になってしまうのを止める。
課題
ミラージュの書に記された1999年7の月が終わるまでもう時間がない。間もなくくれあは本人の意志と無関係に、世界をウソの影で覆う大王になってしまうだろう。
それでいて、キュアエクレールの力は強大無比。るるかのキュアアルカナ・シャドウの力では手も足も出ないとわかっている。
結末
【未達成】
案の定、キュアアルカナ・シャドウではキュアエクレールに勝てなかった。るるかは危険を承知でデッチ・アゲインに更なる力を求め、新たなる姿エクリプス・シャドウへと変身を果たした。
心の変化
【ネガティブ】
るるかは今でもくれあを友達だと思っている。それでいて世界は守らなければならないとも思っている。
くれあと戦うのは泣きたくなるくらい辛い。
バトル1
ヒャクニチソウの花壇を素体としたハンニンダー。
苦戦
苦戦はしていない。
勝利
味方であるはずのるるかが後ろから攻撃し、くれあに促して即座に浄化させた。
今話のハンニンダーは実質、るるかが望んでデッチ・アゲインと協力しているわけではないことを示すための舞台装置。
バトル2
キュアエクレールとキュアアルカナ・シャドウのバトル。
苦戦
あんなとみくるはデッチ・アゲインに妨害され、2人の一騎打ちの構図となった。
結末
お互いに技を繰り出し、一見激戦のように見えるが、実際には(直撃すらしていない)くれあの蹴りの一撃でるるかはあっさり変身解除している。戦力差は歴然。
ピックアップ
花壇の青い花

アメリカンブルー。花言葉は「あふれる思い」「ふたりの絆」など。途切れることなく次々に花が咲く様子、茎を大きく広げてお互いに絡みあう様子が由来。
なお、比較的新しい園芸種ということもあり、日本以外ではまだこれといった花言葉を託されていないらしい。こういうのって西ヨーロッパ先行の文化だと思っていたからちょっと意外。
ピンクやオレンジの花

ヒャクニチソウ。日本では色別に花言葉が異なるという認知はメジャーではないが、スミソニアン協会のブログに言及がある。マゼンタ(≒ピンク)が「変わらぬ愛情」で、黄色(≒オレンジ色)が「日々の追憶」。他に、赤が「不変」、白が「善良」だと紹介されている。
ヒャクニチソウは花をつける時期が長いことから、「時間の経過」をコアイメージとして持っているわけだ。
別に、いうほど縁起の悪い花ではない。
ピンクを「別れてしまった友への思い」、オレンジを「古き良き時代」とするデッチ・アゲインの解説も間違いではないのだが、これだと花言葉の由来がどこから来ているのかを無視した、やや不誠実なものになってしまっている。(「生徒さんたちは卒業しても~」というフォローアップのほうがむしろ本来のニュアンスに近い)
ちなみに、デッチ・アゲインがバンクシーンで使っている花でもある。
第28話の感想文で私はこの花をガーベラと誤認しているのだが、あとで間違っていたと知って「ヒャクニチソウとガーベラの見分けなんて葉っぱ見るしかないじゃん! わざわざ葉っぱむしって持って来やがって! ムキー!」ってなったのはここだけの話。
切り戻し

花を咲かせ終わったり、茎が伸びすぎてしまっていたりする花をあえて切り落とすことで、養分を再生のために集中させ、次の元気な花を咲かせることを促す。
ちなみにヒャクニチソウの場合、切り戻してからだいたい3週間くらいで次の花を咲かせてくれる。切り戻さなかった場合は2週間ほど花を咲かせつづけることになる。
・・・新学期に向けて切り戻すには時期が遅いよ! 学園長!
コティングリー妖精事件

1917~1920年、2人のイギリス人少女が妖精と戯れている様子を5枚の写真に撮って発表した。世界中のスピリチュアリスト、特に当時すでに著名作家だったコナン・ドイルが本物だと主張したことから、この写真をきっかけに妖精の実在について世界的な大論争が巻き起こった。
なお、騒動のきっかけとなった少女たちは後年、この写真について絵本を模写したイラストと一緒に撮ったものだと認めており、フェイク写真だったことがはっきりしている。
シャーロックホームズシリーズの作者として知られるコナン・ドイルが、実はホームズを殺したいほど嫌っていたというのは有名な話。
コナン・ドイル自身は意外とホームズのような合理主義者ではなく、さらに第一次世界大戦で息子や弟を亡くした経験から、もっと情緒的でウェットな心霊主義に傾倒していた。
また、当時のイギリスは産業革命の生む富への熱狂が一段落したところであり、科学偏重の息苦しい社会から古き良き時代への回帰を望む声が大きくなっていたという側面もあった。
当時の大ヒット作『ピーター・パン』において「子どもが『妖精なんていない』と言うたびに妖精がひとり死んでしまう」というセリフがあったように、この時期イギリスのスピリチュアリストの間では、科学に満ちたこの世は、積極的に大勢に信じさせないと神秘が絶滅してしまうという、一種の危機感があったようだ。
コナン・ドイルらが子どものイタズラを真に受け、かたくなに妖精の実在を主張していたのには、そういう背景があったのかもしれない。
虚像のエクリプス

それ、本当に拾うのかよ!
「予言は間違ってなどいない。・・・旧暦ということもあるか」(第27話)
第27話の感想文中で一度触れました。
現実世界におけるノストラダムスの大予言の信奉者たちは、1999年7月に何も起こらなかったことに愕然とし、認知的不協和を起こして、後付けで「実は旧暦の7月なんだ!」「いや、ユリウス暦だ!」と予言の真偽判断を保留しました。これらの暦における「7月」は、現代の暦における8月ごろです。
で、1999年8月に何が起きたかというと。
歴史上最大規模で皆既日食が観測されました。
この日食は、西ヨーロッパ諸国から中東、インドにかかる世界の人口密集地の多くで観測可能だったため、世界的に大きな話題となりました。
まあ、それだけだったんですが。
今どき日食が起きたからといって何よ?
そりゃまあ、ノストラダムス存命の時代だったら、目の前で太陽を失った世界中の人々が恐慌を起こしていた可能性も多少はあったかもしれませんけどね。
ちょうどいい具合に符合するイベントが起きたことで、予言の正体は皆既日食だったんだと主張する者も現れました。
ですが、だったら何だというのか。
もともとノストラダムスの大予言が大きく持て囃されていたのは、ナポレオンの出現やヒトラーの台頭、9.11同時多発テロなど、他の予言で歴史的大事件を言い当てていた(とされる)からです。これらの事件はね。さすがにね。現代人の感覚でも恐ろしい出来事だったってわかります。
最終予言が日食て。日食で世界が滅びるかよ。グランドクロス? ハハッワロス。
ただ外れただけでなく、一部の神秘主義者たちが帳尻合わせ的に予言と天体イベントを結びつけだした長閑な雰囲気も手伝って、当時の一大オカルトブームに対する世間の興味関心は潮が引くように一気に消え失せました。
そういう元ネタを押さえたうえで見る、先週の次回予告。エクリプス・シャドウ。
「1999年7の月。真の地で、真実の石を抱くもの大王となる。そして、世界が嘘の影で覆われる」(第13話)

いや、お前かよ。
大王ってお前のことだったのかよ。
来週、さっそくキュアアルカナへと再変身するようです。
そうだよね。8月終わっちゃうもんね。しゃーないしゃーない。
・・・あんまり冷笑系の顔を前面に出していても、イヤな気分になる人が増えるだけなのでこのくらいで。
そんなわけで、実はるるかもまたミラージュの書の予言の解釈を間違えていたわけです。
たぶんトップオブリリーフレグランス関係で何か具体的な危険性の根拠を見つけたから飛びついてしまったんでしょうが、少なくとも今回の予言で語られた大王とは、キュアエクレールのことではありませんでした。るるか自身でした。
そういえば今話の事件は花壇の花の切り戻し。
犯人(?)である理事長に悪意はなく、また、そもそも事件性がありませんでした。本来は花壇の管理の一環として当たり前にやること。たまたまそのことを知らなかったれいが、ちょっと慌ててしまっただけ。
るるかが大王の正体を間違えて独り相撲してしまっている今の展開に、ぴったり符合します。
(ちなみに史実で皆既日食が起きた日は1999年8月11日なので、仮に切り戻しを行った劇中のこの日が同じ日付だとしたら、新学期に向けた手入れ時期としてむしろ適切だったと見ることもできます。さすがに製作スタッフもそんなひねった整合は考えていないと思うけど!)
「帆羽くれあ――。彼女の過去を覗き見ることで、君の推理と憂いは理解した。消さないとね、キュアエクレールを」

なんというか、改めてひどいやつだな! こいつ!(自分の冷笑は棚上げ)
今回いつにも増してデッチ・アゲインがるるかに協力的だと思ったら、こやつめ、ぜんぶわかったうえでるるかをコケにしていたわけですね。
なんでわざわざ取水塔に場所を移したのかと思っていたけれど、予言に重ねるためだったというわけですよ。なんという愉快犯の演出家気取り。
「ここはくれあが初めてプリキュアになった場所でしゅ!」
「君たちにぴったりの舞台だろう?」
やかましいわ。
溺れる者のワラ

「純粋――。ユリの花言葉よ。急に思い出して。・・・純粋だからこそ、誤ったほうに突き進んでしまうのかもしれない。あの人、あなたたちふたりのきらめきを信じているのね」(第23話)
この物語はプリキュアです。基本的に賞賛される道徳性といえば、友達・諦めない・将来の夢の三本柱。
ただでさえそういうシリーズなのに、劇中でもひとり孤独に戦っていることを重ねて批判されていたくらいですから、そりゃあもうね。今のるるかのありかたはそもそも最初から否定されるべくして否定されます。
今のるるかが身を置く状況を見ていて、わかりますよね。彼女がどうして失敗したのか。
味方がいない。
相談できる相手がいない。
マシュタンがついていてくれるのが幸いですが、彼女も予言の解釈はるるかと完全一致しちゃっていたので、この件に関しては頼りになりません。
まして今話、エクリプス・シャドウの力を危険視したるるかは、ついにマシュタンすら自ら遠ざけてしまったわけで。
いよいよひとりぼっちです。

孤独な人には詐欺師が寄りついてくるのが世の常。
ゴウエモンもたいがい信用ならない隣人でしたが、デッチ・アゲインは輪をかけてひどい悪魔。味方のふりして積極的にこちらを騙そうとしてきます。
全ての判断を自分ひとりの責任で行うしかない孤独な人は、こういうとき、コロッと騙されてしまうわけですよ。気をつけましょう。
そして、裏を返せば今のるるかを救えるのは、彼女に能動的な善意で接しようとする人だけなわけで。
だってほら、デッチ・アゲインみたいな悪党がるるかに積極的な干渉を行っているのが今の状況なわけですよ。
ただのお人よし、全方位に優しいだけの人の善意は、そういう状況の人には届きません。
悪党のほうが積極的だから。悪党のほうが親身に見えるから。
「なんか優しそうな顔でこちらを見ている人」と「こちらを心配して手を差しのべてくれる人」なら、どちらを信用します?
そりゃあ、後者でしょうよ。追い詰められている人ならなおさら。
ちなみに前者があんなたちで、後者がデッチ・アゲインです。

だからこそ、この場でるるかを救うことができるのはくれあだけ、という立て付けになっているわけですね。この状況って。
冒頭でも引用した第23話、まだ記憶を取り戻していなかったころのくれあが、るるかの救いになりうると思った人物は、あんなとみくるでした。
当時はまだ、自分がるるかの友達だったなんて知らなかったから。
くれあが知っている範囲でいうなら、あんなたちが比較的るるかに親身に接しているように見えたから。
だから、るるかを孤独から救える人がいるとしたら、それはあんなたちだと思っていました。
他人事でした。
ですが蓋を開けてみれば、本当にるるかに一番距離が近かったのはくれあだったわけで。
るるかを助けられる可能性が一番高いのはくれあだったわけで。
「どうしてそこまで・・・?」
「全ては君の存在。それが理由さ、キュアエクレール」
「黙ってて!」
「今の力じゃあなたは倒せない。もっと強い力を」
「俺が授けた力では不足とでも? いいけど、今の君に扱えるかな?」
「るるか! 危険すぎるわ!」
「わかってる。けど、そうしなければ世界は救えない!」
ひとり破滅へ向かっていくるるかを目前に、しかしくれあは彼女を心配しません。
自分が大王だと言われ、敵意を向けられたことで頭がいっぱいで、友達だったはずの彼女の苦しみに気づいてあげることすらできません。
本来ならくれあが一番、るるかを救うことのできる立場にいるというのに。
溺れるるるかが必死に掴もうとするデッチ・アゲインの欺瞞を押しのけて、本物の救いとして彼女の手を掴んであげられるのは、くれあだけだというのに。
記憶を取り戻す前も、取り戻した後も、実は記憶を失う前からも、この全てに対する“他人事”の姿勢こそがくれあの最大の欠点。

もう時間がないというるるかの焦りは勘違いでした。
でも、くれあのポイント・オブ・ノーリターンは実は目前。
「別れてしまった友への思い」。
「古き良き時代」。
「変わらぬ愛情」。
「日々の追憶」。
「あふれる思い」。
「ふたりの絆」。

日食とともに、1999年8月が終わろうとしています。


コメント
理事長、なんて紛らわしいことを……やっぱ報連相は大事。
ガチでキュアエクレール=大王だとしても、これじゃどっちが世界を揺るがす存在なんだって話ですよねえ。
というか次回が次回とはいえ、このサブタイでエクリプス・シャドウが顔見せ程度→次回へ続くとは思いませんでした。何もそんなところで平成感出さなくても。
理事長からしたら「何かあっても真っ先にこちらに相談に来るだろうしそのとき教えたらいいか」くらいの感覚だったんでしょうね。ちょうど自分が作業を終えたあたりでれいが戻ってくるのも偶然だったでしょうし。
皆既日食にかけた一発ネタである以上あんまり引っぱらないのは既定路線で、なおかつ最近のプリキュアシリーズはプリキュアのピンチで週またぎしたがらない傾向がある(活躍させようとしたらエクリプスシャドウが圧倒する展開にせざるをえない)ので、必然といえば必然なんでしょうねえ。
未来自由の書における「大王」って(例の「恐怖の大王」「アンゴルモアの大王」などと違って)この「大王」がいかなる性質を持つ存在なのかを示す修飾語とか説明が無いんですよね。「そして世界が嘘の影で覆われる」という後段の説明にも“誰が”世界を嘘の影で覆うのかは言及が無い有り様で……。
それこそ「君臨すれども統治せず」皆から可愛がられ親しまれる存在、が本書に言う「大王」なのかもしれないし……あれ?ウソノワール様、「ウソみたいに強い」甲冑も「世界を嘘で覆う」野望も剥奪されたお陰で「怪盗団ファントムの象徴」「ファントムメンバー統合の象徴」として怪盗達から(も視聴者からも)親しまれる「大王」に成れたんじゃないんですか?!予言的中しとるでコレ!
まあ、他にも1999年7月19日に(回収されたビッグマコトジュエルを保管している)ポチタンを抱きしめた金田れいが「真の地で真実の石を抱く者」である可能性も否定出来ず(やたら「妖精と仲良くなれる人間」だという描写が挿入されたり、ニジーやデッチにやたら粘着されたりするのも、れいが「“人間と妖精の共生と不和の歴史”が根幹にある物語のキーパーソン」であることをほのめかしている、とか)―――なんかキュアエクレールダービーが終わったと思ったら、いつの間にか「大王」ダービーが始まっていた(いや、そもそもキュアエクレールダービーの正体が「大王」ダービーだった)ような……。
「世界が嘘の影で覆われる」とは結局どういう事なのか?「世界を嘘で覆う」とどう違うのか?
そもそも我らが主人公明智あんな/キュアアンサーは2013年生まれで1999年には存在しない人間/プリキュアであり、即ち“存在自体が嘘”の人間/プリキュアな訳ですよ。
さらにその相棒小林みくる/キュアミスティックは「みくるはあんなと出会わなければプリキュアに成れなかった」「キュアアンサーとキュアミスティックは二人組みでなければ変身出来ない」事から、“嘘”のプリキュアの存在を前提にプリキュアに成れた彼女もまた“存在自体が嘘”のプリキュアな訳です。
で、あんなとみくる(特にあんな)は「嘘が嫌いで、“世界を嘘で覆う”などもってのほか」という考えの持ち主な訳ですけど―――しかし彼女達“嘘のプリキュア”が1999年の世界で活動すれば、いやただ存在するだけでも、1999年の世界は彼女達の“影”響を受けて、否応なしに本来あるべき“真の”姿とは異なる姿に変わってしまう。「ただそこに立っているだけで、影が伸びて周囲を覆ってしまう」ように……。
つまり、(ウソノワールが目論んだように)「世界を(能動的に)嘘で覆う」のではなく―――「1999年世界に本来存在しない“嘘”の人間/プリキュアが、その出現によって世界を(結果的に)“嘘”の姿に変化させていく」―――様を表現したのが「世界が嘘の影で覆われる」という記述……なのではないか、と。
……では具体的に、いかなる“真”が“嘘”の影に覆われる、のか?
それは「キュアエクレールが大王となり世界を破壊する」「この破壊を阻止する為、森亜るるかが親友帆羽くれあとの友情と思い出を犠牲にする」という“真”(つまり天才探偵森亜るるかの推理自体は的中している)が、“嘘のプリキュア”キュアアンサーとキュアミスティックの“干渉”によって覆(くつがえ)される―――ということなのではないでしょうか。
ということで……「これが私のアンサーだ!!」と、明後日の答え合わせを前に宣言しておきたい訳ですが、果たして。
「真の地で、真実の石を抱くもの大王となる。そして、世界が嘘の影で覆われる」、つまり大王と嘘の影の間に因果関係があるとは限らないんですよね。
予言の成就を食い止めることで世界を守るというアプローチならまだわかりますが、全ての元凶が大王だと決めつけて倒しにかかるというのはちょっと勇み足がすぎたかもしれません。その大王が本当は倒したくない相手だったならなおさら。
そして、そもそも予言を覆したいなら、予言書の想定外である奇跡のふたりに介入させるのが一番まっとう(王道展開)なアプローチだろうと私も思います。
そのるるかは、くれあを本当に「一人の人間」として見ていたのか。
くれあは「大王になる“可能性”」そのものでも、「危険だから排除しなければならない“災害”」でもありません。
怖がることも、傷つくことも、自分で考えることも、自分の未来を選ぶこともできる、一人の人間です。
本来なら、「くれあをどうするか」ではなく、「くれあ本人はどうしたいか」を考えるべきだった。
ところが、るるかは本人の意思を確かめるより先に、くれあの未来を決めつけ、その判断を理由に敵対する道を選んだ。
私にはここに、くれあへの尊重が見えません。
あなたのため」「世界のため」という理由があっても、他人の人生を本人より先に決めていいことにはならない。
そのるるかの独善的な加害行為を擁護するために、被害者であるくれあを「他人事の姿勢が欠点」などと批判するなんてね
そもそもの話、私は「どちらが悪いのか」という論点に興味がありません。加害者を痛めつけたところでいったい何が変わるというのか。
私はその手の結果論について考えるのは非建設的だと思っています。私の興味は基本的に、本人がどうしたいのか、どうすればそれが実現できるのかです。
おっしゃるとおり、るるかはくれあが自分で運命に抗うことを期待せず、全部自分ひとりで解決しようとした結果、何も実現できずに失敗してしまいました。
ただし、それは本人が納得ずくで決めたことです。るるかに足りなかったものは「もっと周りに頼るべき」という学びであり、現状彼女の視点から考えられる意志決定プロセス自体は適切です。
対して、くれあはるるかのことを大切に思っている割に、現状まだ何もしていません。怖がることも、傷つくことも、自分で考えることもできる立場のはずなのに、常にどこか他人事のつもりでいます。
その結果もたらされる未来に一番納得できないだろう人は、くれあ自身でしょう。だからくれあ自身が望みを叶えるためには、(るるかが自分から変わることを期待せずに)自分自身が他人事の姿勢を変えることが一番手っ取り早いということになります。
クレなんとかのステイマはもううんざりだよ
みました。