私は空っぽだから。だから外側から塗り固めないとダメなんです。
――大望抱く王女のつぶやき

「ひどい国よね、ここは」
すでに私たちは知りました。
第6話、下層民たちの再起を許さぬドン詰まりを。
第7話、児童労働者たちを虐げる蒸気機関を。
今こそ私たちは知ることができます。
今の彼女がスリの女の子に向ける視線の温度を。
幼い頃の彼女が志した理想への熱量を。
プリンセスの不屈を。アンジェの敬愛を。
彼女たちが何と戦っているのかを。
空っぽの少女
すでに語ってきたとおり、この時代の子どもたちの扱いは悲惨なものでした。
産業革命がもたらした産業構造の工業化は農村的な大家族を破壊し、元農民たちは工場労働者となって首都ロンドンにこぢんまりとした核家族世帯を構えることになりました。
当時は社会保障が整備されておらず、また女性の社会進出もおぼつかない状況でした。もし一家の大黒柱が大きなケガでもしたら・・・たったそれだけであっけなく家族全員が破滅します。
そんなわけで当時のスラムには孤児が溢れかえっていました。
犯罪に身を染めた子もいました。理不尽な労働条件に心身を冒された子もいました。何もすることができず黙って死んでいく子もいました。
さすがに政府もまるっきり何も対策しなかったわけではありません。孤児院に補助金を出し、孤児たちの救済を奨励しました。
結果、補助金目当てに養育不可能な数の孤児たちを集めてネグレクトする施設ばかりが増えました。中には集めた孤児たちに盗みまでさせてトコトン私腹を肥やした者すら。
真の意味で子どもたちを慈しんでくれる志高い大人はあまりに少なく、必然、彼らも救うべき子どもを選別することを余儀なくされていたそうです。
子どもたちをスリ師に仕立てるにしても、せめて最低限の技術くらい教えろっての。
何も教えられないまま、何も与えられないまま、空腹だけを抱えてロンドンの街をさまよう幼子。
それがいつかの日のアンジェ・・・今はプリンセスと呼ばれている人物の本来の姿でした。
「ねえ、前から聞いてみたかったんだけど・・・どうして私のこと、『プリンセス』って呼ぶの?」
私はプリンセスじゃないのに。
カエデの花言葉
富める者も貧しい者もいなければいいのに、という女の子の素朴な夢想を聞き入れて、イジワルな黒蜥蜴星人は昔語りを紡ぎます。
「これは遠い遠い、新大陸よりずっと遠い、黒蜥蜴星の物語。そこには小さな王女さまが住んでいました――」
身なりよく、良質の教育もたっぷり詰めこまれた王女さまは、そのあまりの豊かさに窮屈さを感じていました。
輝くブロンドのシャーロット・・・今はアンジェと名乗る少女は、いつかのあの日、ただのつまらないお姫さまでした。
その日彼女は自分そっくりのスリの子と出会うわけですが・・・。
――実際のところどうなんでしょうね? どうしてスリを生業とする子があんな人気のない王城の外郭にいたんでしょう。
まあこのあたりは物語上必要があれば設定が生えてくるでしょうし、不要なら偶然で済ませるべき話です。今のところはとりあえず偶然と考えておくべきでしょうか。
とにかく、彼女たちはお城の「壁」を挟んで、出会うべくして出会いました。
それはとても新鮮な出会いでした。
スリの女の子は、王女さまが当たり前に食べていたお菓子を夢中になって頬張りました。
スリの女の子は、王女さまが当たり前に遊んでいたゲーム盤を興味深そうに眺めました。
スリの女の子は、王女さまが当たり前に読んでいた文字を真剣な顔で学びました。
スリの女の子は王女さまの服を着たことがなくて、王女さまもスリの服を初めて着ました。
満たされていたはずのお姫さまにとってそれは初めて目にする新鮮な反応ばかりで、この子と一緒の日々はいつも刺激に満ちていて、それはそれは楽しいものでした。
「ねえ王女さま。私たち、友達になろうよ」
スリの女の子がまたステキなことを言ってくれます。
「私はつまらない子よ。お友達になっても楽しくないと思うわ」
けれど王女さまはしゅんと目を伏せます。
だって、たくさんの新鮮な驚きを運んできてくれた目の前の女の子と比べて、私はなんてつまらない、このステキな女の子に釣り合わないことでしょう。
でもね。
「ううん、楽しい!」
言うんですよ。スリの女の子は。またもや新鮮な驚きに満ちた言葉を。
「どうして?」
「だって、私たち、正反対だから!」
スリの女の子は貧しい生まれで、持ち物も知恵も何も与えられてこなかった、空っぽの子どもです。何もかもを持ち合わせている王女さまにあげられるものなんて、本当はひとつとして持ち合わせていないはずなんです。
けれど、実際に王女さまは彼女からたくさんのものを受け取りました。
どうして?
なぜならそれは、「正反対だから」。
スリの女の子は王女さまと違って何も持っていなかったからこそ、王女さまにたくさんの驚きをくれることができました。
正反対に考えてみましょう。
あなたは、目の前のステキな女の子と違って、何もかもを持っています。
わかるでしょう。貧しい女の子がお姫さまであるあなたにとって誰よりステキなら、だったらお姫さまであるあなたは貧しいこの子にとって・・・。
あなたは「つまらない子」なんかじゃない。少なくとも、この子にとっては。
いつかの日の想い出。
つまらない王女さまはスリの女の子に出会って、たくさんの楽しいものを受け取り、そしてたくさん与えました。
空っぽの女の子は輝くブロンドの王女さまと出会って、たくさんの楽しいものを受け取り、そしてたくさん与えました。
「正反対だから」。
だから、いつかの日のこの大切な想い出はいつまでもいつまでもふたりの胸の中に、宝石のように輝き続け、そしてまたいつの日にか、再会の割符となるのです。
「こんにちは」
「どこかでお会いしたかしら?」
「初めてです。でもあなたのお顔はずっと知ってました」
「お名前は?」
「アンジェ。私と友達になってくれませんか?」
「私はつまらない人間よ。お友達になっても楽しくないと思うわ」
「ううん。楽しい」
「どうして?」
「私たち、正反対だから」
「いいわ。私たち、お友達になりましょう」
「よろしく、プリンセス!」
ライク・ア・スワン
「壁」で分かたれていた、富める者の世界と貧しい者の世界。
けれど、試しにその「壁」を越えて触れあってみれば、そこにあったのは何にも換えがたいステキな出会いでした。
出会う前の私とあなた、それぞれの過ごしてきた不幸を、そして分かたれているがゆえの軋轢を知った今、かつてつまらなかったお姫さまは誓います。
「アンジェ。私、女王になる。アンジェと入れ替わったおかげで、私わかったの。みんなを分ける見えない『壁』がいっぱいあるって。私は女王になってその『壁』を壊してやるの」
「そうしたら、アンジェ。わたしとあなた、ずっと一緒にいられる!」
その熱い理想は、残念ながら「壁」の軋轢に儚くも押しつぶされてしまうのだけれど。
望まぬままに、かつてスリだった空っぽの女の子はプリンセスにされてしまいます。
貧しい者が富める者の振りをする、この正反対の「嘘」は容易なものではなかったでしょう。
けれど、それでもプリンセスは血反吐を吐いて耐え忍びました。
「彼女は、ほんの少しの綻びが死に直結するプレッシャーのなか、すべてこなしてみせた」
彼女にそこまでさせたのは、さて、死への恐怖だったのでしょうか?
いいえ。私は違うと思います。
第4話、彼女は胸のうちに渦巻く熱い思いを吐き出していました。
「だからって危険を増やすことはないだろう!」
「同じですよ。皆さんの失敗は私の秘密に直結します。だったら私は作戦が成功するために命をかけなければなりません」
彼女には自身の生存よりも優先すべき理想があります。命をなげうってでも叶えたい約束があります。
「必死だっただけよ。知識も気品もなにもなかった。私は『空っぽ』だったから」
違うよ。あなたは「空っぽ」なんかじゃない。
あなたは言いました。
「それでも・・・それでも、私は女王になって、私たちを隔てているものをなくしたい」
いつか「壁」に押しつぶされてしまった、王女さまのあの熱い理想。あなたはそれを丹念に拾い集めて、歯を食いしばって生き抜くための魂の支えとしていました。
「どうして私のこと、『プリンセス』って呼ぶの?」
なぜなら。
今そこに立っているあなたは、もう空っぽの女の子ではありません。かつて空っぽだったそこには、あなたが大好きだった王女さまの理想が詰めこまれていて、あなたが大切な人から受け継いだ熱いもので満たされていて、だから、
「あなたはもう、本物のプリンセスよ」
そう呼ばれるのが気恥ずかしいなら今はまだそれでもいいでしょう。
だって、あなたの理想はまだ叶えられていませんもんね。
目指す「プリンセス」像は未だその手に届かず、遠い遠い、あの壁の向こう側であなたを待っているんですもんね。
空っぽのスリの女の子ではなく、つまらない王女さまでもなく、かといって理想のプリンセスでもなく。
血反吐を吐いて無数の「嘘」をつき続けてきたあなたには、そうですね、もっとふさわしい呼び名があります。
そう。
「――ただのスパイです」
今は、まだ。
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