笑顔だけじゃなくて、悲しいことも、涙も、私たちに分けてよ。
とりあえずよもやま雑感
私が今住んでいるところの最寄りの映画館は初回上映が9:30と遅めの時間なこともあり、プリチュームを着込むなどした気合の入ったお子さん連れがホールいっぱいに大集合していました。
近くに座っていた女の子などは映画中大興奮でずっと喋っていたんですが、これがなかなかどうして鋭い視点を持っていまして、これ書き起こしたら私がブログを書くよりずっといい記事になるんじゃないかなと思うほど。映画そっちのけでヨソの子に注目するとか不審者でしかないので大半聞き流すことにしましたけどね。
一個だけ記憶に残っています。同時上映のほうでキュアサマーが登場したとき、「昔のプリキュアだよ!」ですって。・・・子ども時間!
それはさておき、良い映画でした。
ストーリーの密度が高かった割にセリフがよく整理されていて、プリキュア映画にありがちな早口で詰めこむような芝居もなく。子ども向け映画特有の唐突な展開が一切無かったわけではないですが、画面が華やかだとそういうの気にならないものですね。全編作画良好で、カメラワークや演出も素晴らしい、満足感の高い映画でした。
というかバトルに至る流れよ! 舞台が遊園地のアニメ映画といったら絶対どこかでホラー演出が入るものだと思っていたんですが・・・、無かったですね。ドリーミアってどこまでも子どもの味方なんですもんね。子どもを怖がらせるようなことは絶対にしない。演出方針が作品テーマとよく噛みあっていて感心しましたよ。あれだけたくさんの子どもたちが観ていたのに泣きだす子がひとりもいなかったんです。
そしてそんな子どもに優しいドリーミアなのにも関わらずプリキュアとバトルすることになる自然なシナリオ運び、アイディアの妙よ。最高かよ。
とまあ、ガラにもないよもやま話はそんなところで、ぼちぼちネタバレごりごりな感想記事に入ります。
コメコメのヒーロー
「コメコメはもっともっとがんばって、ゆいみたいなヒーローになりたいコメ!」
物語は憧れから始まりました。
コメコメはゆいに憧れていました。
ゆいはとても強いプリキュアで、どんなときも諦めず、しかも優しい。お婆ちゃんに教わった「ごはんは笑顔」という言葉を大切に実践している芯の強い人物でもありました。
コメコメ自身、もう何度もゆいに助けられています。いつも一番傍にいてくれて、一緒にごはんを食べたり笑いあったりしていました。
「すごいコメ! ゆいはいつだって誰かのためにがんばってるコメ!」
「ゆい、強いの? どうして?」
「この世で一番強いのは、誰かのためにがんばる心なんだ」(第2話)
コメコメの知っているゆいはいつも誰かのためにがんばっていました。
というのも、それこそがゆいの強さの秘訣だったからです。ゆいは小さなころから強い子でした。お婆ちゃんの助言に従い、昔からずっと、今にかけてなお、そのときゆいを強くしてくれたことを大切にしつづけていたから、ゆいは強いんです。
「コメコメは早く大きくなって、ゆいみたいなヒーローになるコメ!」
だから、ある意味ではほんのちょっとだけ、コメコメにとってゆいは厄介なヒーローでもありました。
だってコメコメはゆいみたいに強い子ではありませんから。
ゆいは昔から強かった。だから今でも強い。それはつまり、強くないコメコメが彼女のまねっこをしてもなかなか同じようには強くなれないという意味になります。コメコメが彼女に並び立つには、ゆいには無い、もっと他の何かで強さを補強する必要がありました。
だから早く大人になりたいと願います。
憧れのヒーロー・ゆいは別に大人なんかじゃないけれど、スタートラインが彼女と違うコメコメがヒーローになるには大人の力を得る必要があるでしょうから。
なのに今回の物語の舞台、お子さまランチのテーマパーク・ドリーミアは子どもが子どものままでいることを尊ぶ世界でした。
自称猫妖精の着ぐるみを着た園長・ケットシーはむしろ大人を憎んでいました。大人というのは子どもの純粋な夢を壊そうとする存在なのだと。一度大人になってしまうともう子どもじみた夢は叶えられなくなってしまうんだと。
コメコメは困ってしまいます。自分のなかにある子ども観と大人観、ケットシーの言う子ども観と大人観。お互いにまるで正反対なんですから。
コメコメは夢を叶えるために大人になりたい。
なのに、ケットシーは大人になれば夢は叶えられないという。
「ケットシーさんはお子さまランチ食べないコメ?」
「ボクはいいよ。そんな資格ないから・・・」
ケットシーがどんなにお子さまランチというものを大切に思っているのかは見ればわかります。
彼は心から子どもという存在を慈しんでいて、子どもが一番喜ぶであろうごはんがどういうものか本気になって考えてくれています。
なのに、そんな最高においしいごはんを彼自身は食べられないというのです。ケットシーはもう大人になってしまったから。
なるほど。たしかに彼はもう自分の夢を叶えられなくなってしまったようですね。
大人になっちゃいけないというなら、コメコメはどうやってヒーローになる夢を叶えたらいいんでしょうか。
ケットシーは言います。
「君にはステキな夢があるんだね。今の君のままでも夢は叶えられるんだよ」
ゆいのヒーロー
「やっぱり、“ごはんは笑顔”だね!」
あのとき、たしかにごはんは笑顔をくれたんだと信じていました。
コメコメがゆいに憧れているのと同じように、ゆいにもまたヒーローがいました。
なにせゆいのお婆ちゃんは本当にすごい人なんです。拓海にイジワルされて泣いていたゆいを、おむすびひとつで泣きやませてくれたんです。“ごはんは笑顔”。幼いゆいにとってそれは、世界がひっくり返って見えるような世紀の大発見でした。
雨のなか傘も差さず、カサカサの瞳で虚ろにさまよっているお兄さんを見つけたとき、だからゆいの心にあったのはきっと、ただの同情心だけではありませんでした。
今こそ自分もお婆ちゃんみたいなヒーローになれるとき!
ドリーミアでマリちゃんを助けようとしたときのコメコメと一緒です。ヒーローになりたいという情熱が、きっと誰にでもできることではないこの人助けのため、ゆいを突き動かしました。
おむすびだけじゃなく、なごみ亭の冷蔵庫にあった常備菜も片っ端から引っぱり出したのに、お兄さんは笑顔になってくれません。おむすびひとつで笑顔をつくってみせたお婆ちゃんに比べると、今のゆいは全然力のない子どもでした。
それでも諦めたくありませんでした。自分ならどういうごはんが一番笑顔になれるか一生懸命考えて、お惣菜全部一皿に盛り合わせてお子さまランチにしてみたのにまだ笑顔になってもらえなくて、お子さまランチといえば旗が大事なんだと気付いて絵を描いたところで、やっと、不意にお兄さんが笑ってくれました。
「ありがとう。おかげで元気が出たよ。ボク、がんばってみるよ」
お婆ちゃんと違ってちょっとカッコつかないタイミングだったかもしれないけれど、それでもゆいはあのときたしかに笑顔をつくることができていました。
もし今の自分がコメコメのいうようなヒーローをやれているんだとしたら、それはきっとあのときの笑顔のおかげ。憧れのヒーローとしてのゆいの強さは、あのときの挑戦とその手応えから始まっています。
なのに。
「何があったの? 私たち、会ったことあるよね」
そのはずだったのに、あのとき笑顔になってくれたお兄さん――、ケットシーは今、再び笑顔を失っていました。
ドリーミアは子どもたちの純粋な夢を大人たちから守るためにつくられたんだそうです。
全然理解できないことでした。だって、ゆいの憧れはお婆ちゃんで、お婆ちゃんがいてくれたからこそゆいはヒーローになれたのに。
「今が幸せでも、いつか心が粉々になることがあるのかもしれない。誰にだって起こることかもしれない。――あのときの笑顔じゃ、“ごはんは笑顔”にならないのかな・・・」
それとも、ただゆいが思い上がっていただけで、あのときから本当は“ごはんは笑顔”が実践できていなかったんでしょうか。ゆいはお婆ちゃんと同じになれていなかったということでしょうか。
ケットシーはきっとゆいの知らないところでたくさん傷ついて、きっとゆいの手が届かない遠い場所で大きな絶望を味わったのでしょう。
ひょっとしたら同じことが自分の身にも起きるかもしれない。そうなったらきっと立ち直れない。だって、ゆいのヒーローは、お婆ちゃんは、すでにこの世にいないわけですから。
ケットシーが笑顔を失ってしまったという現実は、ゆいの強さの根幹を揺るがしかねないとても恐ろしいものだったのでした。
ところが、ゆいの隣でコメコメが言うのです。
「ケットシーさんにとってお子さまランチはとっても大事なごはんコメ」
ケットシーのヒーロー
「そんな! ボクはあの子にもらった笑顔をみんなに分けてあげたくて・・・!」
ケットシーもまた一度はゆいに憧れていたことがありました。
誰も助けてくれようとしないこの世界のなかで、唯一、あの5つも6つも歳が離れていそうな小さな女の子だけが、彼に笑顔をくれました。
大人たちはあの子よりもずっと大きな力を持っているはずなのに。
ギフテッドである自分も大人顔負けに優れた力を持っているはずなのに。
なのにあの子は、他の誰にもできなかったことをやってのけました。
大人にはない素晴らしい力。子どもだけが持つ純粋な思いこそがこの世界を変えられるのだと、そのときケットシーは確信します。
「純粋すぎる。いつまで子どもみたいなことを言っているんだね?」
その憧れは、汚い大人たちの悪意に踏みにじられてしまったのだけれど。
今やケットシーもその大人の一員になってしまいました。もはやこの身があの子のようなヒーローになることはないでしょう。
だからせめて、これから先の子どもたちにだけは自分と同じ絶望を味わわせたくない。
ケットシーはその一心でドリーミアをつくりました。
「ケットシーさんにとってお子さまランチはとっても大事なごはんコメ」
ああ、そうだとも。お子さまランチはあの小さなヒーローの象徴。子どもの純粋な思いは大人の力を上回るのだという何よりの証拠。
「君にはステキな夢があるんだね。今の君のままでも夢は叶えられるんだよ」
だから夢を叶えられるとしたら、それは大人ではなく子どもだけが成せること。大切に守ってやらなければなりません。
いいえ。
「おいしそうに食べるねえ。見てるこっちも笑顔になっちゃう」
「お婆ちゃんがよく言ってたんだ。『ごはんは笑顔』だって!」(第1話)
コメコメの憧れのヒーローはゆいで、ゆいの憧れのヒーローはお婆ちゃんです。
だから、いいえ。
子どもだけが善い存在で、大人は悪い存在だなんて事実はありません。
ヒーローに憧れるコメコメとゆいが健やかに育っている時点で、お婆ちゃんのヒーロー性は揺るぎません。
そもそもがケットシー自身、子どもたちを大切に慈しんでくれる、とっても優しい大人の人じゃないですか。
「あの子にもらった笑顔をみんなに分けてあげたい」 子どものころの夢、大人になってからでもちゃんと叶えられているじゃないですか。
翻っていうなら、コメコメがヒーローになるためには必ずしも大人になる必要はありませんでした。
ケットシーが笑顔を失った現実はゆいのヒーロー性を否定するものでもありませんでした。
ゆいに憧れたケットシーが笑顔を失いながらも想い出は忘れることなく、大人になってしまった我が身を呪いながらも子どもじみた夢を叶えられていることが何よりの証拠です。
「小っちゃいとか大きいとか、本当は関係なかったコメ」
夢を叶えるために唯一必要だったものは、純粋に何かに憧れる思い。
本当ににただそれだけ。大人も子どもも成功も挫折も、何も関係ありませんでした。
「ドリーミア、とっても楽しかったコメ。コメコメの夢を応援してくれて、コメコメ嬉しかったコメ。だからコメコメは絶対にヒーローになるコメ!」
かつて心を空っぽにしていたケットシーに笑顔と夢を与えてくれたのはゆいで、“ごはんは笑顔”を実践できているのか不安になったゆいを信じてくれたのはコメコメで、大人にならなければヒーローになれないと焦るコメコメを救ってくれたのはケットシーでした。
三者三様の夢はお互いにお互いを支えあい、引き立てあい、まるでみんなの大好きを詰めこんだお子さまランチのように、ますます強く輝いていきました。もちろん、きっとこれからも。
3人はこれから、今以上のヒーローになっていくことでしょう。純粋な夢の目指す先を阻めるものなど何ひとつありません。
コメント
その喋り倒してたお子さんのお話、すごく聞きたいです!
私は過去に見聞きした創作物のごった煮から先に考えちゃうというか、オタク気質強すぎて、経験値が浅い人の視点には戻れませんからね……ケットシーの言うこともすこーし分かるような?
ちなみに私が観た回だと、近くに座ってた女の子が『ようこそお子さまドリーミア』に合わせて身体を揺すってました。
あの歌、たしかに不思議と踊りたくなっちゃいます。私も特殊EDで初めて聴いたとき、なんとなく適当にリズムを刻んでました。
内容について、中盤辺りが少し怖かったものの、前後のバトルアクションのハイレベルさと可愛らしいキャラクターデザインでバランス取れてたのかなと。
ケットシーがあからさまに善意で動くタイプ(この辺を終始滲ませられる、花江さんの凄まじい表現力!)ですし。
29話でクッキングダムの技術はよそで使えないと明かされましたが、これは
・おかず池など、食べ物を生み出す技術のみを指している
・単純にケットシーたちの技術力がクッキングダムの想定を上回っている
・デリシャストーンはクッキングダム以外で発掘及び加工される
のどれかなのか、あるいは全然違う真相なのか……。
オタクに染まっていると真っ先にテンプレとかフラグとか当てはめちゃいますよねえ。ウチのブログもテンプレベースで直観的にストーリー解釈したあとで、(思い込みを排除するため)本編描写から再検証しなおすって段取りで書いてますし。
あの子は、何だったかな、たしかコメコメの行動原理がゆいへの憧れから来ていることをきちんと押さえていたところに感心した覚えがあります。マリちゃんを助けようとした理由とか、妖精だけで行動するシーンで勇気を見せた理由とか、ああいうのを道徳的正しさ以外の切り口からお母さんに解説してたんですよ。
ちなみに2回目に見に行ったときはリングをよく振ったりコメディシーンでよく笑ったりする、反応のいい子がたくさんいました。こっちもこっちでその感受性のまま大人になってほしい・・・。
クッキングダムの技術は電気ではなくほかほかハートを基幹エネルギーにしているから別の世界では使えない、とかそういう意味なんでしょうね。ケットシーの研究によるとデリシャストーンも人の思いの力をエネルギーに変えるって話なので似たような原理ですし。
まあ、そのデリシャストーンを動力源に使ったドリーミアがおいしーなタウンで稼働できている時点で、案外別世界でも使える技術なのでは?という気がしないでもない。