デリシャスパーティプリキュア 第43話感想 相容れない価値観同士を結びにいこう。

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お婆ちゃんね、「人と人、思いと思いを結ぶ人になれますように」って。

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「レシピボン発動!おいしーなタウンの危機」

Lead Character:がんばったひと

ゆい

Major Happening:大きなできごと

 拓海は傷つき倒れ、コメコメも力を使い果たしてしまった。全て甘い考えを持っていたゆいのせい。今やゴーダッツの世界征服は目前に迫っている。ゆいは自分に何ができるのかすっかり見失っていた。
 そんな彼女に拓海が語りかける。お前が止めてくれたから大切なことを思いだせた。迷ったときは大切な人の笑顔に答えがある、と。それは、ゆいのお婆ちゃんが拓海に教えてくれた言葉だった。
 ゆいはこれまでおいしい笑顔を守るために戦ってきた。みんなのおいしい笑顔を守りたい。その思いは今なお変わらなかった。

 だから、今のゆいはみんなのおいしいごはんを奪うゴーダッツと戦わなければならないし、もうひとつ、かつてゴーダッツが一番大切に思っていた人の笑顔の意味を思いださせてあげなければならない。

Sub Questions:小さなできごと

 「ゆい」という名前はおばあちゃんがつけてくれたのだという。この名前には「人と人、思いと思いを結ぶ人になれますように」との願いが込められている。
 ゆいとゆいの大好きなおむすびとは、生まれた瞬間から縁が結ばれていたようだ。

ほかほかハート蓄積装置

 ジンジャーがおいしーなタウンに隠したほかほかハート蓄積装置。それを起動させるキーワードは「おむすび」だった。
 人と人、思いと思いを結ぶその言葉は料理を奪われて荒む人々の心を再び結びつけ、「おいしい」を独り占めせず、分けあうおいしさを思いださせてくれた。

Battle Depiction:どんなバトルだったか

 ゆいが自信を喪失したのを目の当たりとし、ゴーダッツとの絶望的な力の差を見せつけられたここねたちは、しかし、それでも希望を失うことがなかった。
 彼女たちは今、この世で一番強い力、「誰かのためにがんばる心」を胸に、戦っていた。

I’m curious !:気になるポイント

その道のプロ

 どうしても自炊がうまくなれず、料理は全てプロに任せるべきだという持論を持つに至ったセクレトルー。しかし、その道において最上級のプロであるはずの“神の舌”も、実は自分で料理するのは苦手なのだという。優れた味覚すらも必ずしも絶対的なものではなく、いつも迷いながら、食べる人の笑顔を思いながら味つけを決めているのだと。
 セクレトルーと“神の舌”との間に根本的な才能の差はなかった。あったのはほんの少しの考えかたの違いだけ。

告白失敗

 ゆいが我が身を省みず止めてくれたおかげで、復讐を果たすことは大切な人の笑顔につながるだろうか、と踏みとどまることができた拓海。ほとんど「自分の大切な人はゆいだ」と言っているようなものだし、拓海自身そのつもりで本人にうち明けたわけだが、もちろんゆいは気付かない。
 拓海一世一代の告白に対するゆいの答えは「みんなを笑顔にしたい」だった。

産霊

 「おむすびの花・・・?」
 「これ、どこから!?」
 「お料理が消えたんだもん。現れることだってあるわ。おむすびのつくりかただって閃いちゃった!」
 「みんなにごちそうできるぞ!」

 古代日本において“ムスビ”という言葉は特別な意味を持っていました。

 “ムス”は「産むす」を語源として「自然に発生するもの」という意味を持ち、“ヒ”は「霊」と書いて「霊的な働き」を指しています。
 すなわち“ムスビ”とは“産霊”。万物の根源たる魂を創造する営みのことを、太古の日本人は“ムスビ”と言い表していたのです。

 神道における主神、アマテラスオオミカミが誕生するより遙か以前、混沌より天地が開闢したそのときに生まれた原初神3柱のうち2柱がタカミムスビとカミムスビ。“ムスビ”を名に持つ神々でした。
 以後、八百万の神々のなかにはたびたび“ムスビ”を名に持つ神が生まれています。ただし、これらの神々はその名と裏腹、もともと何か2つ以上のものを結びつけるという役割を担っているわけではありませんでした。

 たとえば火の神カグツチもホムスビという異名を持っていますが、彼の神が為したことといえば太母イザナミを焼き殺したこと、そしてその罰に自らも首をはねられたことくらいです。
 しかし、首をはねられたカグツチ(ホムスビ)の死体からは8柱もの神々が生まれました。斬首で散った血からはさらに10柱。カグツチの死は神産み神話の一端として重要な意味を担っています。

 神が神を産むように、人もまた人を産みます。男女ひとつがいの間に子どもが産まれ、そしてその子どもが自分のつがいを見つけてまた子どもを産み、家族をつくっていきます。
 いつしか“産霊”たる“ムスビ”という言葉は、「2つ以上のものを繋ぎ留める」という新たな意味合いを帯びていきました。後世、ムスビの神々の多くもまた、縁結びの神として信仰されるようになっていきます。それぞれ元来の神性とはまた少し別のところで。

 「ゆいのお友だちはみんないい子だね」
 「よねさんのつけてくれた名前がよかったのかなあ」
 「お婆ちゃんが?」
 「知らなかった? お婆ちゃんね、『人と人、思いと思いを結ぶ人になれますように』って」

 “ムスビ”とは人と人との縁を取りもつことであり、同時に、この世に新たな魂を生み落とす営みのことでもあります。
 一見まったく異なる意味を示すこのふたつの事柄は深いところで互いに相関しており、だからこのふたつの事柄がひとつの同じ言葉で言い表されていることは必然です。

 和実ゆい。
 人と人、思いと思いを結ぶ祈りに抱かれて生まれたひとりの女の子は、今、大切な何かをこの世に生みだそうとしています。

 「レシピッピの種類など気にしたことがない。気にすべきことはもっと他にある」
 「そうかもしれないけど、でも、私は気になるんです。『おいしい』『うれしい』『ありがとう』って笑顔になるとこの子たちは現れる。レシピッピって『ごはんは笑顔』そのものだなって」
(第10話)

 「マリちゃん! レシピッピを、レシピッピを助けないと!」
 「でもあなたを、やっぱり巻きぞえにはできない!」
 「大切な想い出なんだ。――レシピッピはお婆ちゃんとの大切な想い出。いつも笑っててほしい。だって、『ごはんは笑顔』だから!」
(第1話)

 だって、彼女の大好きな「おいしい笑顔」は、ひとりでごはんを食べていても生じることがなく、誰かと誰かとの間に思いがやりとりされて初めて生まれるものなんですから。
 ゆいとお婆ちゃんとの間。人とレシピッピとの間。友達と友達との間。あるいは、フェンネルとジンジャーとの間。

 「みんな分けあって食べてるコメ」
 「うん。――ジンジャーさん。あなたの思い、結ぶから!」

 どうかみんなが結ばれてほしい。
 結ぶ価値は、きっとそのときに生まれます。

 ゆいはそう信じています。

ひとにしてはいけないこと

 「私のせいだ――。私のせいで拓海もコメコメも傷ついた。私が、傷つけ・・・。ひどいことしちゃった・・・!」

 あのとき拓海は言いました。

 「ゴーダッツが父さんの大切なものを奪った! 俺はあいつを許せない!」(第42話)

 あのときゴーダッツは言いました。

 「お前に何がわかる? お前はただ、自分が信じたいものを都合よく信じようとしたにすぎない」(第42話)

 ゆいには拓海の憎しみが理解できませんでした。ゆいの価値観において、復讐に焦がれる暗い思いなんてものは絶対に幸せなものじゃありませんでした。ゆいが知っている拓海には似合わないと感じました。
 だから止めました。当然に。必死に。だって、絶対に間違っているから。

 けれどゆいがそう思って行動した結果、拓海は傷つき、ゴーダッツからは自分勝手な想像を押しつけているだけだと言われてしまいました。

 ゆいは相手の気持ちを理解できないまま、干渉しようとしました。その結果が今です。

 みじめでした。
 だって、どうしてこんなことになったのかすらわからないんです。拓海の気持ちが、ゴーダッツの気持ちが、ゆいには今なおよくわかりません。だからどうして反発されてしまったのかもよくわかっていません。
 自分が絶対に正しいんだと思って行動しました。だけど本当は、自分以外にとってそれが本当に正しい行いだったのかどうか、今もわからないままです。

 止めなければよかったのでしょうか?
 そうすれば拓海は復讐を成し遂げ、自分はゴーダッツから憎しみを向けられることもなく、全てが丸く納まっていたのでしょうか?

 わかりません。
 ゆいにはわからないことだらけです。

 「どうも食事に対して恨みがあるみたいなのよね。自分に合う食べものがあまりなかったうえに、好き嫌いも激しいらしいの。そのうえ極端な猫舌で、みんなと一緒に食事をするのが苦手だったみたい。プライドをこじらせ、居場所もなくて、それでブンドル団に入ってしまったのかも」(第33話)

 「悩みとは弱さ。弱さは弱点。それを見せれば最後、足を引っぱられ、つけ込まれ、築きあげたもの全てを失う。私の経験上、完璧でなければこの世界では生きていけません」(第39話)

 わからない思い。相容れない価値観。これまでもそういったものと戦ってきました。
 理解したいとはずっと思っています。話しあいたい。わかりあいたい。だけど、これまでずっと、それはうまくいかなくて。戦うしかなくて。

 「誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸せだ。笑う者の影には常に泣く者がいる。それが理解できないのは、お前たちが常に恵まれ、奪いつづけてきたからだ!」(第42話)

 「ごはんは笑顔」のために。
 これまで気付いていなかっただけで、自分のしてきたことは、むしろ誰かの笑顔を損なうことでしかなかったのでしょうか。
 善と悪は表裏一体。自分にとっては絶対に正しいことも、他の人から見ればそうじゃないのかもしれない。だとしたら、誰かのためを思って行動すること自体、根本的に全てが間違っていたのかもしれません。

ひとりではできないこと

 「ごめん・・・! ごめんなさい。私――」
 「謝んなよ。俺こそ、ヨネさんに謝らなきゃいけないのに」

 いいえ。それは違います。

 たとえ相手の気持ちがわからなかったとしても。
 知りたいと思って、それでも理解できない価値観があったとしても。

 それで他人と関わることをやめてしまうのは、もっと間違っています。

 「『味つけに迷ったら、大切な人の笑顔に答えはある』――」
 「もしかしてそれ、お婆ちゃんの?」
 「うん。お料理を教わったときに言われたの、ずっと忘れてて。でもあのとき思いだしたんだ。『これで本当に大切な笑顔を守れるのか』って。そう思ったら、答えはすぐに見つかった」

 気持ちがわからないなりに必死に拓海を止めようとしたゆいの思い。
 復讐にはやる拓海と相反するゆいの考えかた。

 それはちゃんと拓海の心に届いていて、拓海を動かしていました。彼にとって好ましい方向へ。
 どうしてもやりたかったことを邪魔されて、成し遂げられなくて、なのに拓海は、嬉しそうにゆいに笑いかけてくれます。あのときゆいがいてくれてよかった、と。

 わからなくたっていい、とまでは言いません。相手の気持ちがわかるなら、価値観をともにできるなら、もちろんそれに越したことはありません。
 けれど大切なことはもっと他にあるんです。
 “あなたは”いったいどうしたいのか。誰かに関わろうとするにあたって、一番大切なのはそっちです。

 人はみんな違います。
 わかりあえる部分もあれば、わかりあえない部分もあって、それぞれの価値観はどうしても、絶対に、完全には一致しません。
 人と関わるなかに摩擦はあります。衝突だってするでしょう。気持ちが理解できない人なんて世のなかに掃いて捨てるほどいます。

 そのうえで。

 「あつあつごはんで、みなぎるパワー! キュアプレシャス! おいしい笑顔で満たしてあげる!」

 ゆいはみんなのおいしい笑顔を守ることを選びました。

 みんながみんな、それを望んでいるとは限らないのに。
 みんながゆいと同じだけそれに大きな意義を感じているわけじゃないのに。

 それがみんなにとってもいいことなんだと信じて、ゆいはこれまでずっとみんなのために戦ってきました。

 あなたはそれを誇るべきです。

 人はみんな違います。
 誰しもがお互いに理解できない思いを抱いていて、どこかしらに相容れない価値観を持っていて、自分以外の誰かを完全にわかってあげようだなんてことはそもそもが不可能です。
 誰かの余計なおせっかいで迷惑を被ることがあります。親切にしてくれる人が邪魔にしか感じられないことだって多々あります。

 それでも、私たちには誰かと関わりを持てなければ救われない瞬間が、絶対にあります。

 だって、私たちは、自分ひとりでは自分の価値観でしかものを見ることができないから。

だから、ひとのためにすること

 「全ての料理は私のものとなった。・・・ジンジャー。あなたが間違っていたことを証明してみせる。あなたの力を受け継ぎ、誰よりも使いこなせるのはこの私。私を選ばなかったこと、後悔するといい!」

 ゴーダッツが明らかに間違った行動原理に突き動かされています。
 きっと100人いれば99人がおかしいと感じることでしょう。残りの1人、ゴーダッツ自身もいつか後悔することになると容易に想像できてしまいます。
 いったいどうして大好きな人のことを思って、あえてその人の名誉や尊厳を傷つけようとしてしまうのか。それにどんな意味があるのか。そうした結果何が得られるというのか。

 前話では拓海が同じような破滅的な考えかたに支配されてしまっていました。
 ゆいが止めてくれたので後悔するようなことは起きませんでしたが、あのときの拓海にはそういう自分のありようを冷静に見つめる余裕がありませんでした。
 だからゆいに感謝します。自分には気付けなかったことに気付いてくれて、自分では止められなかったことを代わりに止めてくれたから。

 「・・・どうすれば、間違いませんか? あ、つまり、あ、味です。正しい味はどうやって見極めて――」
 「私も迷いますよ。“おいしい”に正解はないから。だから、迷ったときは昔聞いたステキな言葉を思いだすようにしているの。『味つけに迷ったら、大切な人の笑顔に答えはある』」

 ゆいはそういう、きっと自分自身にだけは絶対にできないことを、みんなのために率先してやろうとしてくれる子です。
 みんなでごはんをたべる。みんなでおいしい笑顔になる。そのために、みんなとの繋がりをつくろうとする。繋がりを守ろうとする。繋がりが途切れないように、一生懸命悩んで、ときには余計なおせっかいまでしちゃうかもしれない。だけど、そのおかげで“ムスビ”は残る。みんながゆいと繋がっていられる。

 ゴーダッツはゆいのしていることを「自分勝手な想像を押しつけた」と評しました。
 そのとおりです。ゆいは自分の価値観において正しいと思えることをしているだけです。
 復讐に囚われた拓海や、嫉妬に突き動かされるゴーダッツの価値観に合わせるようなことはしてくれません。代わりに、彼女は彼らにはない考えかた、思いで、彼らと関わろうとしています。

 「私、自分自身の言葉も見つけていきたい。みんなを笑顔にできるように」(第39話)

 それこそが、誰の受け売りでもない、自分自身の考えを持つということでもあるんですから。

 こういうことを書くと、きっと誰もが思うことだと思います。
 手前勝手な信念で周りに多大な迷惑をもたらす人間もいる、と。
 その通りです。今のゆいのスタンスではそういう危険性をゼロにすることはできません。他人に干渉しようとすること自体が、本質的にそういうものだからです。
 たとえば今話、拓海やコメコメを傷つけてしまったと涙を流していたように。

 それでも、周りとの関わりを持とうとする人にしかできないものというのはあるもので。

 「ゆいは強い子だね。仔猫がこんなに元気になって。ゆいのおかげだよ」
 「ゆい、強いの? どうして?」
 「この世で一番強いのは、誰かのためにがんばる心なんだ」
(第2話)

 「大丈夫。誰かのためにがんばる心はいつだって無敵よ。ね?」

 ゆいは、だから、強いんです。

 「誰かにとっての幸せは、誰かにとっての不幸せだ。笑う者の影には常に泣く者がいる」(第42話)

 さて。ところで前話においてゴーダッツがこんなことを言っていました。

 何をバカな。
 ゴーダッツの知る世界観においてはそういうものなのかもしれませんが、ゆいにとっては違います。そんなわけがありません。
 「ごはんは笑顔」。
 みんながおいしいものを食べて笑顔になっているとき、それを理由に傷つく人なんてそうそういるものじゃありませんから。(※ いるにはいましたけどね。昔のナルシストルーとか)

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    コメント

    1. ピンク より:

      お料理が消えたあの瞬間、ナルシストルーがメンタル安定度トップクラスに君臨してた説。
      てか、まさか本当に世界征服の交渉材料にしてくるとは……プリキュアのラスボスにしてはなかなかリアルな真似を。

      スマプリのれいかが留学するしないで悩んでた時、お祖父様から『寄り道脇道回り道、しかしそれらもすべて道』とアドバイスされました。
      咄嗟に受け止めきれず上滑りしてしまったその言葉は、キュアハッピーたちが泣きながら「行かないでほしい」と懇願したとき、初めてれいか自身の願いも合わさって繋がりました。そして、少なからず視聴者たちの胸を打ち、今なお語り継がれる名エピソード兼名言になりました。
      ……という話を、今作を通して密かに何回か反芻してたり。

      言葉自体も大事ですが、やっぱりコミュニケーションってのはその人の気持ちというかマジ次第なんだと思いますよ。↑の場合、れいかのお祖父様のシーンの方は(名言の初出なのに)殆ど話題に出ませんしw

      • 疲ぃ より:

         せっかくリンゴのおいしさに目覚めたところだったのに、「こんなことなら最初から知らねばよかった・・・!」ってなるやつじゃないですかヤダー。

         言った人の気持ち、なんて話になると属人的な概念だと捉えられがちなのでちょっとアレ(その理屈だとアニメの登場人物はみんな非実在の被造物だから響く言葉を言えないということになる / 人によってはそれでもなぜか響いてくる理由に声優や脚本家の属人性を見出そうとする)なんですが、そういうのとはちょっと違うんですよね。
         「誰が」じゃなくて「どうして」を聞きたいんだというか。あんまりうまく言えないんですけど。背景にあるドラマが知りたいんだ、みたいな感じだとまたちょっと違いますし。うーん。私、このあたりの感覚あんまりうまく言語化できていないのかもしれません。
         このブログ自体、私個人の人間性に囚われずキレイゴトを訴えることを自重したくない思いでやっているので、私にとっても大事な概念なんですが・・・。

    2. 亀ちゃん より:

      今日のデリシャスパーティプリキュアでは、近頃のプリキュアにおける最終決戦では準決勝も同然の2回戦である話でした
      今日のデリシャスパーティプリキュアではマリちゃんとキュアフィナーレがシックリ着たセリフを発しましたが、仮面ライダーの時間になって自宅の近くを10数分程散歩して自宅に入る時にはすっかり忘れましたね!!(笑)
      ちなみに和実 ゆいの名前は和実 ゆいのおばあ様が、良いようになって欲しいという由来の元で名付けたと知りました
      プリキュアの主人公は全員と言っていいほど良いようになって欲しいという由来の元で名付けられますね
      私の場合は、岡山龍谷がある地域の親戚のおっちゃんの奥さんがいるお兄様と同じ次男ということで、その親戚のおっちゃんに近しい名前となるように名付けるべきじゃーとお父様の方のおじい様が言い出しました
      その後漢字はお母様が見るからに書き取りやすそうだからということで、名前の読みが分かりづらいという話になっています(苦笑)
      私の場合、いとこのお姉さんや弟とは違って良いようになって欲しいという由来の元で漢字を決めてくれなかったのが残念でなりませんね!!(怒)
      それでも私はだいたいの人に良いようになってないがと言われます(汗)
      だから私の場合、娘が生まれ時は4人目まで良いようになって欲しいという由来の元で漢字をつける気がマンマンです(今のところない物ねだりだけど)
      それでも私は喉から手が出るほど今でも娘が欲しいですね
      プリキュアサイトの管理人もプリキュアにハマってくれる娘は自分も欲しいと私に豪語することもありました
      一方で、六畳半のすごし方の管理人がお母様のハラの中で妊娠していた時、何故か女の子が妊娠しているものだと思い込んでいたそうです(もちろん夫婦ぐるみじゃなかったのかとツッコミも入れたくなる!!)
      で、実際に生まれたのは男でまったく名前を考えてなくてギリギリまで粘って季節にちなんだ安直な名前ですが、その人個人としては気に入っているし、名字と合わせると面白いというので、私にはその人のフルネームもだいたいはわかるような気がしますね
      さらにその一方で、キュアホワイトソックスのお母様のハラの中で、2人目が妊娠していた時は、夫婦ぐるみでキュアホワイトソックスのお姉ちゃんが生まれるものだとそそっかしいエピソードもありました
      でも実際に生まれたのは大阪桐蔭の3年の夏だけ甲子園にショートでスタメンフル出場を遂げたキュアホワイトソックスの兄貴でした
      キュアホワイトソックスの妹のお兄様というのは大きな特長ですね
      2年の夏も甲子園には出ましたが、代打で出場しただけでした
      それでも1年から2年にかけて時が充実した公式戦出場経験だとも豪語するのもキュアホワイトソックスの兄貴ですね
      秋の大会ではキュアホワイトソックスのお兄様が駅伝部OBである浪速大付と当たった時は、スタメンの先輩の代打で出場することになり
      「○○さんに代わって☆☆です」
      と球審に告げたのも私個人としては自分が好きな二次元作品的に感慨深いと言えますね
      しかもその後はショートで途中出場してから最後の最後までエラーを犯しながらも起用される続ける体験談もあり、それが1年から2年にかけて甲子園に出るまでは1番充実していた高校野球人生だったと振り返り続けます
      で、次回は最終決戦の決勝戦ですね
      ゴーダッツはフェンネルに邪悪な心が映った男キャラなので、改心して救われるものだと信じ込んで止まないです

      >プリキュアとは無関係な雑談で言いたことは
      実は1月の正月明けに今回はMOVIX倉敷でも放映されることを知ったアイカツより一足先に紺色のセーラー服姿の女子生徒が登場するかがみの孤城を見ました
      結果的に後味は映画館では二度と観たくないと感じましたが、泣きそうで泣けず私が映画を観た時の青春が半減ですね!!
      私はからかい上手の高木さんを観て、もらい泣きしたので、青春だったので、キュアベースボールギャンブラーのお父様がキュアベースボールギャンブラーらとアイカツの映画を観て、プラネットの時に、キュアベースボールギャンブラー自身が悲しくて泣きそうな時
      「☆☆☆。泣いて良いだぞ。映画館で泣くのは青春だ!」
      と助言することがありました(愛媛県のエミフルMASAKIの映画館にて)
      だからアイカツの映画では初めてマジになって泣くことがあるとこれも青春ですからね!!☆☆♬
      私もアイカツの昨年の映画では思いっきり同情出来るセリフをアイカツプラネットの主人公が言って、泣きそうになった気がします

      • 亀ちゃん より:

        かがみの孤城について書き忘れていたことなんですが、風歌(フウカ)はルックスがみのりちゃんにメッチャ似ていて、声もそのみのりちゃんと瓜二つに感じ取れたのは気のせいかもしれませんが、かがみの孤城のみのりちゃん(キュアパパイア)という感じもしました

      • 亀ちゃん より:

        また追記の返信失礼します
        かがみの孤城を見た後で、充実感はバッチリ味わうことが出来ました!!☆☆♬
        で、今週の土曜になると今度はアイカツの最新作の映画を観ると張り切っています!!☆☆♬
        いとこのお姉さんの次女はアイカツもプリキュアやアンパンマンそしてリラックマと同じように好きかどうかはわからないので、その娘とは約束していませんが、中学校の友達同級生が倉敷商の最後の夏だけ甲子園の試合にも出場した友達同級生である私の現職の会社の後輩とは
        「○○くんの分までアイカツの映画を観て楽しんで来るわ」
        と、昨年の夏に公開されたアイカツの映画の時と同じように約束しました!!
        特に今回のアイカツの映画のエンディングは只野 菜摘さんが作詞を担当してくれる最新作なので、メッチャ期待値がありますね!!☆☆♬
        一方、プリキュアに関しては、デリシャスパーティプリキュアの最終回にて、和実 ゆい達が何のために変身するか楽しみです
        ウバウゾーが現れて変身して、それで最新作のプリキュアも急遽登場し、お手伝いとなると、魔法つかいの時から断続的に続く感慨深さですからね!!☆☆♬

      • 疲ぃ より:

         私の名前は今どき珍しいことにお寺の住職さんがつけてくれたものです。母によると、それこそ良い意味をたくさん込めた名前にしたかったから、そういうようにしたんだとか。それはそれとして、結局自分たちで名前を考えなかったことをちょっと後悔もしていましたけどね。
         どっちのほうが正解だったのかの親心はわかりませんが、とりあえず私は自分の名前に込められた意味を今でもちゃんと覚えています。住職さんは顔も名前も知りません。

         『かがみの孤城』、話題になっているのを見て興味は湧いているのですが、まだ観に行けていないんですよね。近所でやってませんし、今他にやりたいことが立て込んでいるので配信が始まるまで観れないかもです。

    3. 与方藤士朗 より:

      前回のゆいの言動に正直イラっとした私でしたが、1週間そのもやもやを抱えながら過ごした後に、今度は久々に岡山駅前のこもり先のホテルでプリキュアに亡命しました。

      さて、前回のゴーダッツ提督がメガネおねえさまを排除した件につき、大和艦長の有賀幸作提督(戦死時は大佐。死後中将としての敬称)が沖縄出撃前に士官候補生らを退艦させた事実と重ねて論じましたが、今話を観て、有賀提督と同等の行為を成し遂げたのは、実は、ゆいもそうだったのかと。
      彼女の弁は確かに、男社会でしか生きていない私にとっては、イラっとするものであったが、こうして俯瞰してみると、なるほど、復讐心の一審で拓海が提督がやり合ってもしょうがないわな、と。
      その意味では、ゆい君に、「あっぱれ」ですな。

      さて、おにぎりとおむすびはどちらが正しいのかという論争もあるようですが、このプリキュアに関する限り、あきらかに「おむすび」という言葉がしっくりくるのは、無理もないか。
      日本最初の駅弁は諸説あるようですが、通説では、東北本線(当時は日本鉄道)宇都宮駅で発売されたもので、おむすび(おにぎり)2個と漬物が添えられたものだったとのこと。
      小学校の同級生である黒崎博氏が監督した映画「太陽の子」でも、ほぼラストに近い場面で「にぎりめし」が出てきますが、大型の丸いもの。
      これだって、「おむすび」ですわな。
      それを言い出せば、有賀幸作提督が沖縄特攻時のあの戦闘中に食べたのも、戦闘食としての「おむすび」だったかもしれません。
      もうひとつ。
      昨日のプリキュア放映終了後、この度市議会議員を引退する大先輩の後継の方の事務所開きがありまして、そちらに伺いましたが、そこでも、カンパを兼ねた炊き出しの中に、「おむすび」がありました。
      100円(縁)也(苦笑)。

      単に「握った」飯ではなく、人と人、心と心を結ぶ「おむすび」であるという点において、実は、今話のプリキュアで突如現れた「おむすび」は、今私が述べた「おむすび」以上に、人とのつながりを再認識させてくれるものだったように思えてなりません。

      へびのあし
      先ほどの市議会議員の大先輩は、以前私が自伝を出版した際、「岡山を出るぞ」と書いていたのを読み咎め、直ちに電話がかかってきました。そのときのお言葉が、ふるっていました。
      「岡山を出るのは構わんが、人とのつながりは、簡単に切るものではないぞ」
      ここで「人間関係」なる言葉を使っていれば、恐らくこいつは反発力マシマシ(らんらん風に~苦笑)になるだろうという判断をされたのだろうと、思っております。

      あ、マシマシと言いましたが、客車の食堂車の記号は「シ」。
      マシ35はじめ、重量上から2番目の食堂車は、何形式かありました。
      もう一つ下は、「スシ」、「オシ」、「ナシ」・・・。
      何だか、らんらんの言うことには(本人は間違いなく意識ないと思うけど~苦笑)、密かに食堂車が入っているなと、思わず苦笑。

              ~プリキュア御意見番・二代目喝御大

      • 疲ぃ より:

         一番最初の料理名として「おむすび」と「おにぎり」のどちらが正しいのかという話でしたら、まあ、「おにぎり」でしょうとも。(叛意) こんな料理ともいえないくらい素朴な料理は大衆が最初に発明したはずで、女房言葉的な上品な言葉づかいになるはずがありません。ましてこんなことでわざわざタカミムスビなんてマイナー神から名を取ったなんてことあるわけがないですしね。
         握る形と同じで名称にも地域性があるということでしたら真でしょう。ただし、丸型を「おにぎり」と三角型を「おむすび」とする俗説はウソっぱちです。単に形状と名称にそれぞれ地域性があるというだけの話であって、ちゃんと調べると丸形かつ「おむすび」派、三角型かつ「おにぎり」派の地域もあるんだという研究があったりします。とはいえこれもコンビニが普及する前の研究だったはずなので、今だとその地域性すらも崩れているかもしれませんが。

         人間関係かあ・・・。すみません、私、切っちゃってます。転職のたびに業種から変えてますし、県をまたいでますし、そもそも仕事以外で連絡先を交換する習慣が身についていませんし。そのへん反発するほどのこだわりすら持っていないのでなおさら淡白かもです。

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