
先週のライブでせっかくアイデスから新曲が2曲も供給されたので、『つくろう』と合わせて解釈を試み、これらの曲に象徴的に描かれたアイデスの人間性についてほんのり想像していきます。
前提情報 『アポリアの解』より

初回のパフォーマンス以来、なかなか歌ってもらえなくてファンがヤキモキしていることで知られる『アポリアの解』。
この曲にはLiLYPSEの暁みかどと暁おぼろ、そしてアイデスの3人それぞれの思いを歌ったカギ括弧つきのフレーズが計6回登場します。
ここだけたまたまメモしてありました。
暁おぼろ「どうしてなの。」暁みかど「許せないよ」アイデス「もうやめてくれ」
アイデス「忘れさせてよ」暁みかど「愛してよ」暁おぼろ「受け入れて欲しいよ。」
アイデス「何もいらない」暁おぼろ「一緒に居たい。」暁みかど「ここから出たい」
暁みかど「生きさせて」暁おぼろ「愛させて。」アイデス「赦してほしいよ」
暁みかど「右も左」暁おぼろ「蒼も紅。」アイデス「嘘はいらない」
アイデス「正解は」暁おぼろ「いつだって。」暁みかど「一番近くに」
全体としてはそれぞれ、暁みかどが前に進んで何かを変えようとする思い、暁おぼろが相手を自分の領域に引き込んで一緒にいたい思い、アイデスがこの場に留まって他人からの干渉を拒もうとする思いを歌っている感じですね。
暁おぼろのパートにだけいちいち句点が付いていて目を引きますが、この記事はアイデスについての記事です。そこはとりあえず脇に寄せておきましょう。
アイデスについての話だと、上から5番目のが興味深いです。
暁みかどが歌う「右も左」とは、LiLYPSEの並びについてのことだと思われます。ほとんどのイメージ画像では左が暁みかど、右が暁おぼろになっている(全部ではないです)ので、これは「暁おぼろも暁みかど」というニュアンスだと思われます。
暁おぼろが歌う「蒼も紅。」はふたりのイメージカラーのことでしょうから、こちらは反対に「暁みかども暁おぼろ」というニュアンス。
『アポリアの解』初出のオンラインライブ『反神叛戯XENOGLOSSY』では、ふたりそれぞれ自分の視点から見た相手の存在について再整理していたので、これはわかります。
じゃあ、アイデスの「嘘はいらない」とは何か?
アイデスは嘘つきなので、“嘘”について語ることまでは納得です。
問題は並び。ここでは暁みかども暁おぼろも「相手は自分」という、まるで鏡に写すみたいに相手の存在から自分の存在を見出す論理を示しています。これに対応するなら、アイデスは「“嘘はいらない”も“嘘つき”」みたいなことを言っていることになります。いや、嘘つきって評したのはあくまで私の言葉なので、丸っきり今書いた言葉そのままで考察しちゃいけないんですけど。
でもまあ、要するに、暁みかどと暁おぼろがお互いのありかたに自分らしさを見出したのと同じで、アイデスは“嘘はいらない”という思いにも自分らしさがあると見出しているわけですよ。普段どこまでが嘘でどこからが真実かよくわかんない語りばかりしているくせに。
結論らしい結論をここで出すわけじゃないですが、そのあたりをなんとなーく心に留めつつ、以降、アイデスの3つのオリジナル曲について考察を深めていきたいと思います。
つくろう

初オリジナル曲がいきなりラスボス曲。
アートコアとプログレッシブメタルをぐしゃぐしゃにかき混ぜて加速したような情報の洪水、いいえ、“洪水”なんていう偶発的な自然現象に喩えられるものではなく、もはや明確に聞く人への攻撃の意志を感じさせる暴力性。これこそが魅力の一曲です。
ドカドカと暴れまわるドラムがひたすら炉に燃料をくべつづける一方で、シンセサイザーが無機質な音色で悲しみの感情を訴えかけてくるという暴走気味な二重構造。二頭の荒馬をアイデスの変幻自在な歌声が力尽くでねじ伏せ、矛盾しながらも一体感がある、荒々しくありながら技巧的でもある楽曲としてまとめています。
歌という体裁をとったこの物語の全編を貫いているのは、怒り、怒り、怒り。
自分本来のクリエイティビティを理解しない大衆への失望から始まる冒頭はもちろんのこと、抜け殻のような虚脱感にも、工業製品のように作品を生産しつづけることへの自嘲にも、全てのシーンにことごとく怒りがこもっています。比較的静かなフレーズでもアイデスはガナってるんですからよっぽどです。
解釈に迷う歌詞について勝手解釈
散々なんだ、誹謗を聞かせたって共感性すらないのに
誰が誹謗し、誰の共感性がないのか解釈に迷うところです。
すぐ次の段に「伝わらないからこんな手段に抱きついたんだ」「これしかないことを知ってる僕らに」とあるので、おそらくは「僕ら」が誹謗した側だと考えられます。
また、この歌詞は「自分勝手な消費者」への批判(というかもはや攻撃)的な態度が徹底しているので、主人公が共感性すらないと嘆いているのは「消費者」のことだと考えるべきでしょう。
「伝わらないから~」のフレーズと合わせると、
- 当初この主人公は常識的な表現で自分の作品にメッセージ性を込めていたのに、作品の受け手はそのメッセージを全然理解してくれなかった。
- 主人公はどんな工夫をしてもメッセージ性が伝わらないことに業を煮やし、(ちょうどこの歌詞のように)受け手に対する誹謗同然の攻撃的な表現で挑発を試みた。
- しかし、受け手は攻撃されたことに怒るばかりで、主人公がここまでしてでも伝えたかった肝心の真意(伝えたかったメッセージ性)を推し測ろうともしてくれなかった。
- 主人公は失望し、伝えようとすることを諦め、取り繕うような弁解をして場を納めようとした。だが、受け手の怒りは収まらず主人公への批判を繰り返すばかり。「・・・・・・もうやめにしないか?」
・・・というストーリーが見えてきます。
「騙されたんだ」と言っても誰も何も言わないようだ
「騙された」とは何についての話かはっきりしません。
まず、↑の「散々なんだ~」のトピックで考察したように、この主人公は自分の作品の受け手のことを、作品を何も理解できない愚者としてはっきりと見下しています。
ひとつ前のフレーズで「僕や僕以上の愛が具現化したこのイメージや虚像から僕が失くなっていく」と歌っているので、「騙された」というのは“こんな中身空っぽの抜け殻みたいな作品を受け手が持てはやしている様子”のことを指していると考えられます。
また、次のフレーズで「こうして殺した僕らをまた喰らって生きている」とあるので、先の炎上を経ても中身空っぽの作品ばかり発表しつづけても、少なくとも主人公は商業的には成功していることが窺えます。
主人公はSNSか何かで「こんなクソ駄作を崇めているお前らwww」とでも煽ったにも関わらず、受け手には「また何か言ってるよゴミ作者・・・」程度にしか受け止めてもらえなかったのかもしれません。
保った形が綺麗であるほど汚い景色が広がる
それか壊れた瞬間、取り繕うように浄化されていく
主人公と作品の受け手の関係性を整理すれば、これらの意味はだいぶわかりやすくなりますね。
体裁だけ整えた中身空っぽの作品が持て囃される様子は、主人公みたいなタイプのクリエイターにとっては地獄のような光景でしょう。
また、私のこの考察では主体を“主人公”と書いていますが、実査の歌詞では「僕ら」と歌われています。つまり、主人公のような苦しみを味わっているクリエイターは1人じゃないということです。
苦悩の果てにクリエイターが自殺なり引退なりしたとき、受け手がまるで自分は最初から高尚なものだと理解していたとでもいわんばかりに手のひら返しする、よくある光景を「取り繕うように浄化されていく」と皮肉っているわけです。
不快の意味が不壊と知れば気づいてくれるかな
主人公は冒頭で炎上騒ぎを起こしています。
それにも関わらず「ひたすら書いては、ひたすら書いては」と歌詞にある程度には商業的な成功を収めています。
作品の受け手にとって、あの炎上はすでに過去のことになっているのでしょう。
それを、主人公は「今でも恨んでいる」と表明すれば少しは自分が伝えたかったメッセージ性を理解してもらえるだろうか、と言っているわけです。
まあ、無理でしょうね。冒頭の炎上騒ぎがそれこそそれをやろうとして失敗した結果ですから。
模造品のよう、レプリカ模様 その姿はまるで我が子
「我が子」という表現にはポジティブなニュアンスを見出したくなるところですが、ここでは逆です。直後に「汚れてんだよ、汚れてんだよ、」と続きますから。
主人公は「我が子」=自分の作品をすでに中身空っぽな作品と見なしています。
そんな駄作を生みつづける自分自身を、まるで自分の作品そっくりな空っぽな存在だと言っているわけです。
“それ”をなくすため捧げただけなんだ
「“それ”」とは何か?
主人公は現在、自分のメッセージ性を理解できない大衆に迎合して中身空っぽな作品をつくりつづけているわけですから、ここでいう“それ”とは本来伝えたかったメッセージ性。歌詞から拾い出すなら「僕や僕以上の愛が具現化したこのイメージや虚像」のことということになります。
だけど、どんな手段を使ってもこれだけは譲れない
具体的にどんな手段を使ったのかは歌詞のなかで語られません。
「最後の叫びを あなたに届ける」という抽象的な表現ならあります。
あるいは「これが何度も起こらないように ただ願って祈っているんだよ」がこの手段にあたる可能性もあるといえばありますが、この苛烈で性格の悪い主人公がそんな穏やかな手段を選ぶとは思えないので、可能性は低いでしょう。
ああ、そういえばもう脈打ってない_
誰が死んだのか?
この歌詞のなかで死んだのは、主人公(の信念)と、彼の作品(のメッセージ性)です。
さらに、ひとつ前のフレーズに「君は何も言えないようだ」という客体表現があるので、ここで「脈打ってない」と語られているのは作品のほうだということがわかります。
生きてたかったよ、ちょっとは それはそう、難問だ
もう何秒か心が通じてたんならきっと良い世界だろうな、と
物語の発端が「誹謗を聞かせたって共感性すらない」「伝わらないからこんな手段に抱きついたんだ」だったので、まさにこのことですね。
まあ、この主人公の性格だと、よっぽど感受性の高いファンに恵まれないかぎり叶わない願いでしょう。ねえ、アイデス。
アイデスが暁みかどに対して愛憎両極端の感情を抱くわけです。今さらですもんね。
彼女の強すぎる光から逃げて、暁おぼろと傷の舐めあいをしたがっている気持ちもなんとなくわかります。
人称代名詞についての整理
この歌の詞は人称代名詞を細かく使い分けています。
僕
僕ら
この主人公はもっぱら「僕ら」という一人称複数形を好んで使っているのですが、「僕や僕以上の愛が具現化したこのイメージや虚像から僕が失くなっていく」というフレーズだけ単数形になっています。
世間のニーズに合わせて自分の作風をねじ曲げざるを得なくなるクリエイター(僕ら)は大勢いるかもしれませんが、普通自分の作品を創るときは自分ひとり(僕)の作業になりますからね。自分との語らいのなかでクリエイティビティが生まれるというか。
彼ら
「手のひら返しの 彼らを横目に」というフレーズに登場。
ここにある「手のひら返し」とは何かといえば、↑の勝手解釈でもやった「それか壊れた瞬間、取り繕うように浄化されていく」のことですね。
つまり「誹謗を聞かせたって共感性すらない」「自分勝手な消費者」。この歌を通して主人公が延々批判というか攻撃を繰り返している対象のことです。
あなた
「最後の叫びを あなたに届ける」とあるので、この「あなた」とはこの主人公にとって特別に大切な誰かなんだと思いたくなるのですが、同時に「そうして殺したあなたは何を想って生きている?」ともあります。
この歌詞において誰かを殺した人物といえば、「僕ら」もしくは「彼ら」です。そして、「最後の叫びを あなたに届ける」というからには少なくとも「僕」のことではありません。消去法で「彼ら」のことだということになります。
ただし――(2つ下のトピックに続く)
君
「「信じてたんだ」と言っても、君は何も言えないようだ」というフレーズにと登場。
↑の勝手解釈でも書いたとおり、これは主人公の作品のことです。
手のひら返しの 彼らを横目に 僕らを殺して 息吸う刹那に 最後の叫びを あなたに届ける
一連のフレーズのなかで、同じ対象を指していると考えられる「彼ら」と「あなた」が同時に登場します。困りましたね。
「彼ら」も「あなた」も、「僕ら」を殺した人物であることはまず間違いなくて、実際主人公も両者に同じように侮蔑的な目を向けています。そのうえで、なぜ主人公はあえて同じ存在である両者の人称を使い分けているのでしょうか?
答えは少し前のフレーズにあります。
「凄惨なんだ 一つの価値すら伝わらないことばっかだ」「だけど、どんな手段を使ってもこれだけは譲れない」
何を譲れなかったんでしょうか? それはこの物語の発端となった、何をしても大衆に伝わらなかった作品のメッセージ性(一つの価値すら伝わらないことばっか)を、それでも伝えることです。
誰に伝えたかったんでしょうか? 当然、大衆です。「彼ら」や「あなた」です。
だからこそ、主人公は「彼ら」が相変わらずクソみたいな言動を繰り返しているさなか、それでも愚直にもう一度だけ、自分のメッセージ性を「あなた」に叩きつけてやったわけですね。
具体的に何をやったのか明確にされていないので規模感はよくわからないんですが、少なくともこのことから「彼ら」⊃「あなた」(「彼ら」のなかに「あなた」が含まれる)という関係性なんだろうことを察することができます。
では、愛とは何か
「愛は創作性の愛だ 想像上じゃ理解すら出来ない解を導いていく」というフレーズがあります。
そもそもこの主人公、なんでそこまでして自分の作品に込めたメッセージ性を誰かに伝えたかったんでしょうか?
その答えがこのフレーズに示されています。
「創作性の愛」なんだそうです。じゃあしかたないね。
世のクリエイターがみんななんであんなに苦悩してまで作品を世に送り出すのかといえば、あれは自己表現だからです。自分について深く考えていくなかでインスピレーションが生まれ、自分とはどういう存在なのかを他人にも伝わるように言語化(小説)し、あるいは音(音楽)や形(美術)に変換して、自分はこういうことを考えているんだよということを広く知ってもらうために作品というかたちで発信していくんです。いわば承認欲求。
だから、「作品」には“自分の存在についての深い洞察”と“洞察の結果を他人にもわかるようにする翻訳作業”の2つの側面が必ず両方含まれます。
その意味では、(ひどく冷めた言いかたをするなら)この主人公は“翻訳作業”を怠って「どうして伝わらないんだ!」と相手に当たり散らしたために破滅したともいえます。
でもまあ、気持ちはわかりますよね。クリエイターじゃなくっても、私たちは日ごろ何気ない会話のなかで自分の気持ちをうまく言語化できずヤキモキしているじゃないですか。あんな感じです。
そして、ならばあなたにはわかるはずです。
この主人公が誹謗まがいのことをしてまでも、どうしても作品に込めたメッセージ性を誰かに伝えずにはいられなかったのか。
「愛」です。
あなたに伝えたかったから。みんなに伝えたかったから。自分の考えていることを知ってほしかったから。たくさんの人に共感してほしかったから。だから、彼の愛は創作性の愛というかたちを取ったんです。
では、最後にもうひとつだけ謎解き。
「だけど、どんな手段を使ってもこれだけは譲れない」
この主人公は、結局どんな「手段」を使って“創作性の愛”を伝えようとしたのか?
再三書いたとおり、これは歌詞のなかに具体的に書かれていることではありません。あくまで私の推察です。
伝えたかった相手は大衆、つまり「あなた」。
この主人公は「最後の叫びを あなたに届ける」というかたちであなたに愛を伝えようとしました。
「最後の叫び」とは何か?
この歌詞に登場する「あなた」とは「彼ら」のことであり、「彼ら」とは「誹謗を聞かせたって共感性すらない」「自分勝手な消費者」のことです。
主人公は「あなた」及び「彼ら」をはっきりと見下しています。
ところでこの『つくろう』という楽曲。
最初に書きましたが、やたらと暴力的で、聞く人に対する攻撃性すら感じさせます。
一貫して込められているのは、怒り、怒り、怒り。怒りの感情。
つまり。
この主人公はこの『つくろう』という、最後の叫びにも似た作品を通して、あなたに愛を伝えようとしたわけですね。
からふる

タンゴを思わせる哀愁と激情を、ジャズの都会的な音色が美しく洗練させ、そこに現代的な電子音がひどく歪つな違和感を加えていく一曲です。
私は音楽的な素養とか語彙とか全然ない人なのでもう開き直って詩情的な表現をしちゃいますが、まるで熟練の人形つかいが長年手入れされていなかった古いマリオネットを操るような、歪みときしみを強く感じる演奏です。
ボーカルはまるでミュージカルのように技巧的で、そして演劇的。一般的なアーティストが自分自身の思いとして歌を歌っているのとは明確に異なり、ここでは“どこかの誰か”の思いとして歌いあげています。
それゆえに一篇の物語として完成された美しさがあるわけですが、電子音が醸すかすかな違和感と相まって、はて? 結局アイデスはどんな気持ちを込めて歌ったんだろう? という思いが聞いた人の胸に引っかかりつづけます。感情表現は豊かだったはずなのに。
解釈に迷う歌詞について勝手解釈
冷えきった朝食も 茜射す晴天も ずっと変わらず褪せてしまう
「冷えきった朝食」が明らかにネガティブ表現なのに対し、「茜射す晴天」は普通に考えたら美しい光景なはずなので、地味に解釈に困るフレーズです。「褪せてしまう」と、まるで色が見えなくなることを惜しむような表現をしているのでなおさらです。
物語が進むにつれ、この歌詞の主人公が実は色(特に赤)に対してけっして肯定的な感情を持っているわけじゃないことがわかってきます。まず全体を通して鑑賞してみて、もう一度最初に戻ってきて、そこまでしてやっと真意がわかる、やたらひねくれた表現だと思います。
この主人公は個人的に、「茜射す晴天」に「冷えきった朝食」と同じ、ネガティブなイメージを抱いているんですね。
心を伝うキャンバスで虹を描く? 七色を知りたい
↑のフレーズが異常にひねくれた感性で歌われていることがわかれば、直後のこのフレーズの印象もガラリと変わってきます。
この主人公、「七色を知りたい」なんて微塵も思っていません。
見えないの もう見えないの 表紙を開かず読んだ本のよう
そりゃ開きもしてないなら何も見えなくて当然だろうよ。
一応“目が見えない人が想像で本を読もうとした、みたいなたとえ話”という解釈ができなくもないですが、同じ段に「世界は灰色」というフレーズがあるので、この主人公は少なくとも全盲ではありません。たとえ話と見なすにしても同じ土俵に立っていません。
というわけで、このフレーズ自体わけのわからない表現ですが、このわけのわからなさそのものが“主人公がきわめてひねくれた性格をしている”という前提を理解するためのヒントになっているわけですね。
讃えられた名声も 抑えられたあの声も きっと跳ね返ってしまう
分裂をして輝いて 時に丸くなるからわからない
これもわけのわからない表現です。突拍子がなさすぎて、これだけではそれぞれの語句にポジティブな感情が込められているのか、それともネガティブな感情が込められているのかすら判別がつきません。
おそらく『つくろう』に登場した主人公と大衆の関係性が前提にあるんだと思います。名声だの抑圧だのの話をしているのはあちらの歌詞なので。(※ ただし、アイデスが『つくろう』の歌詞どおり元アーティストだったとか、『からふる』のように色覚異常を持っている、みたいな安易な考察をするのは危険です。具体的な根拠を得るまでは、あくまで何らかの比喩、モチーフとしての解釈だけに留めておくべきです。念のため)
あちらの主人公は自分が作品に込めたメッセージ性が大衆に受け止めてもらえないことに強い怒りを抱いていました。だから「跳ね返ってしまう」は完全にネガティブ表現です。
「分裂」「輝く」「丸くなる」は、いずれもそもそもどうしてそんなことになるのか理解しかねる事象です。主人公にとって“どういう結果になるのか予想できない”“自分でコントロールできない”事象についての比喩表現だと考えられます。
特に「丸くなる」については、『つくろう』の主人公の性格ならむしろ尖った作品を好むでしょうから、この表現から強いネガティブ感情を読み取ることができます。
『からふる』の物語と『つくろう』の物語がある程度つながっている可能性を示す文脈でもあります。
世界真っ黒よ 枯ら振る
タイトルでもある『からふる(カラフル)』とのダブルミーニング。「からぶる(空振る)」も合わせたらトリプルミーニング。
「枯ら」については、この歌詞において“赤”が熱情を象徴しているので、その対として「枯れる」という表現が来るのはふさわしいでしょう。
では「振る」は? これは“それらしく装う”という意味の接尾語です。「学者振る」とか「偉振る」とかの「振る」です。
まるで自分がすでに枯れてしまっているように装っているわけです。
見たいものを見るだけよ それがわたしのからふるなのかな
一見すると色を認識することができない主人公が「暗闇は七色」と、現実に見えているものに理屈をつけて自分を納得させようとしている、前向きな心境変化のようにも読めます。
しかし、実際のこの主人公は「表紙を開かず読んだ本」なら色が見えないものの、「裏表紙まで読んだ本」であれば色を知ることができてしまうから辛いと語っている人物です。
文字どおり「見たいものを見るだけ」なんです。自分が見たくないから、世界にある色を認識しようとしていないだけ。
色の変遷
「咲いてる 色づく」から始まる曲の冒頭では「あの花と 私の色は 似ている 熱くなる」と、色を認識できていた様子が窺えます。
それが、間奏をはさんで「冷えきった朝食も 茜射す晴天も」のくだりになると「褪せてしまう」「七色を知りたい」として、いつの間にかモノクロの世界になっていたことを提示されます。
「表紙を開かず 読んだ本のよう」のくだりでもまだ「世界は灰色」。
ところが、間奏を挟んで次の段に移ると「赤く咲いてる 色づく あの花と 私の色は」と、また急に赤色が見えていることが示されます。
ちなみに『逆説のファンタジア』でのパフォーマンスに登場した「ヒガンバナ」の花言葉は「情熱」「あきらめ」「悲しい想い出」です。1つ目は真っ赤な花の色から、2つ目と3つ目は墓場に多く植わっていることからのイメージです。
そこからまたしばらく色が見えている描写が続き、一瞬の沈黙。
明けて「わからないの わからないの」から始まる段になると再び「世界は灰色」になります。
なお、ステージ演出においてはアイデスだけがモノトーンになり、ステージ自体は赤く染まっていました。
続く「見えてしまう 見えてしまう」の段。
ここでは「昇る熱と共に 映る真っ赤っ赤」と「世界真っ黒よ 枯ら振る」という、色彩的に矛盾したフレーズが平然と並立します。
ステージ演出でも一瞬モノトーンになったり、また赤色に戻ったりと、混乱したような表現がなされていました。
最終段は「暗闇は七色で できてるから」と歌われているので、作中世界的にはおそらく暗黒。
ただしステージ演出では歌い終わりの暗転まで赤いステージでした。
全体として、色が付いているシーンでは最初に出てくるフレーズから「色づく」「赤く咲いてる」など明確に色が見えていることがわかる描写から始まっています。対してモノクロシーンでは冒頭にそういった具体的な描写が見られず、じわじわとそれらしい匂わせが続いて、最後になってから「世界は灰色」などと明かされるパターンが多いです。
偽りの「暗闇は七色」
そんなわけで、この歌の詞全体を貫く物語は「主人公は意識的に世界をモノクロとして見ようとしているものの、ふとしたとき急に鮮烈な赤が視界に入ってしまう。それでも主人公は再びモノクロの世界に閉じこもろうとする」というストーリーになっています。
この主人公が「七色を知りたい」なんて本気で思っているわけがない。
「見たいものを 見るだけよ」、こっちが本音。
どうして色を見たくないのかといえば、この主人公にとって赤は情熱の色だから。赤い色を見ていると自分の心まで熱くなってきてしまうから。
じゃあどうして情熱を感じたくないと思っているのかといえば、一番肝心のその部分だけ歌詞からすっぽり抜け落ちています。コノヤロウ。
唯一それらしい心情が窺えるのは「讃えられた名声も 抑えられたあの声も きっと跳ね返ってしまう」、あとは「わからないの わからないの どれが美しくて 汚れてるか」くらいでしょうか。
後者は抽象的すぎて字面から読み取れる以上のことは何もわかりません。前者は――、↑の勝手解釈で書いたとおり、おそらく『つくろう』と物語的につながっているフレーズですね。
『つくろう』のほうでは大衆に失望したあとも伝えたい思いが未練がましく燻っていて、最後にもう一度叫びを上げたはずなんですけどね。
『からふる』のほうはその抑えきれない情熱を自ら抑えこもうとする、諦めの思いを歌った歌という位置づけになるんでしょうか。
「暗闇は七色で できてるから 見たいものを 見るだけよ」
個人的には好きなフレーズだし、そういう考えかたも全然アリだと思うんですが、ことこの主人公に対してだけは「んなわけねーだろ。現実を見ろ」と言ってやりたい。
じょうく

擦りきれたカセットテープのような前口上から始まり、ちょっと聞いただけでも昭和のサーカスだなあと理解させる陽気で華やかなスウィング。それでいて、ボカロなんかでよく聞くイマドキのカッコいいダークヒーローっぽさがエレクトロやロックの文脈で刺激的に描かれています。
歌としてはクライマックスの慟哭が最大の見せ場。それまでの軽快なメロディはクライマックスをギャップで引き立てるために存在しているようなもの、という印象すらありますが、別にクライマックスがなくてこれ単体で聞いたとしても。小気味よくクールな歌として完成しています。
解釈に迷う歌詞について勝手解釈
『じょうく』
この曲だけタイトルにダブルミーニングがありません。厳密には「ジョーク」と「冗句」で掛けている可能性もありますが、どちらもほとんど同じ意味なので二重表現として含みを持たせる機能はありません。
というか、この曲だけ歌詞のストーリーがいやに素直です。多少聞き慣れない言葉は出てきますが、『つくろう』や『からふる』と違って解釈が難しい部分が全然ありません。仮面の下で泣いているピエロというモチーフ自体使い古されていますしね。
この曲単体で聴くなら充分凝った歌詞ではあるんですけどね。いかんせん『つくろう』や『からふる』のひねくれっぷりと比べると。
たぶん、この曲は“素直”であることをテーマにしているんだと思います。
哀れなペドリーノ
「ペドリーノ」とは、イタリアの伝統的な即興演劇『コメディア・デッラルテ』に登場するキャラクターの名前です。(※ 『コメディア・デッラルテ』は即興劇なのでその場のアドリブで進行するのですが、キャラクターとシチュエーションにある程度のパターンが決まっています。いわゆるテンプレとかスターシステムみたいな感じです)
一言でいうと、現代におけるピエロのイメージの原型になったキャラクターです。純真で素朴。喜怒哀楽がはっきりしていて、やたらと不器用。失敗ばかり。素直すぎて簡単に人に騙される・・・、といった具合のコメディリリーフです。
JOKER 設定遵守のフール
「設定」と書いて“ロール”と読んでいます。
ロールプレイングゲームのロールですね。ロールはただの「設定」ではなく、むしろ「役割」に近いです。
ある人が会社では“係長”として部下を叱ったり上司にヘコヘコしたりする一方、家に帰ったら妻に対する“夫”であったり、子どもに対して“父親”として接したりすることをイメージするとわかりやすいでしょう。
ロールは「役割」のなかでも“自ら進んでその役割を演じようとする”というニュアンスを含みます。誰かに与えられた設定を嫌々守っているわけではないので、この歌詞のなかでもそこは頭に留めておいたほうがいいでしょう。
SHOW TIME! 全心全霊 ストリーミング
何気に「全身全霊」であるべきところが「全心全霊」になっています。この歌が心の問題を扱っていることがわかります。
「ストリーミング」は動画配信に広く使われている技術のことですね。配信者のことをストリーマーともいいます。LiLYPSEやアイデスのオンラインライブにもストリーミング技術が使われています。
この歌はサーカスのピエロをモチーフにしているはずですが、「©」や「炎上」などwebでよく見かける言葉も歌詞に取り入れられています。
お代は後付け お気持ちはチップでね
サーカスの観覧料を後払いにするという話はちょっと聞いたことがありませんね。終盤の「お代は不要 でもどうか愛をください」と合わせて考えると、後払いであることが重要というよりは、チップのかたちで客の気持ちを受け取りたいがために、あえてこうしているように見えます。
配信におけるスーパーチャットやスタンプなど、投げ銭文化を表しているようにも見えます。実際、今回のアイデスのライブでは歌唱中、チップ型のスタンプが多数購入されました。
主人公のこういった心情描写には『つくろう』とのつながりを感じます。
「たまの炎上」をしたのはあちらの主人公も同じですし、実利よりも心の救済を必要としていた点も同じ。どこか大衆を見下しているような語り口も。
反対に、自分以外にやたら攻撃的だったあちらの主人公に対し、こちらの主人公は自傷的だというところは明らかに異なる部分です。
奇々怪々素顔のクラウン ©ない透明人間
「©」と書いて“マルシー”と読んでいました。copyright、つまり著作権表示のマークですね。
直後「興味関心 消失イリュージョン」と続くあたり、何の個性も特筆性もない、あえて著作権を主張するほどでもない、平々凡々とした人物であることが想像されます。
ニワトリ頭の愚かなドンキー 嘘で固め鈴を鳴らす
「ニワトリ頭」は物忘れが激しいマヌケの比喩表現です。ピエロがよくかぶっているジェスターハットをニワトリのとさかに見立てている可能性もあります。
「ドンキー」はロバのことで、鈍感で頑固な人の比喩表現でもあります。
先ほどの「素顔のクラウン」との対比で、化粧中の(演技中の)ピエロのことを言っているのだと思われます。
ピエロは全身に鳴り物を身につけて、滑稽なパフォーマンスにユーモラスな音を合わせ、マヌケさを強調することがあります
生死 境界 線上 タイトロープ
「タイトロープ」は綱渡りのことです。
ただでさえ危険度が高い演目なのに、さらにピエロの場合は派手に失敗してみせなきゃいけないので命がけです。
常時笑顔がルール
本来「JOKER」から始まるべきフレーズなんですが、最後の段だけ1つめの「JOKER」が歌われていません。
直前が「どうか どうか 気付いて」というこの曲一番の見せ場のフレーズなので、シンプルに「主人公がピエロに戻るまでの心の整理に時間がかかった」という表現上の狙いだと考えるべきでしょう。
総合考察
曲としては華やかだしカッコいいし、アイデスの歌声にも似合うし、最高なんですが、「考察してみよう」っていうこの記事のテーマ的にはちょっと困っちゃう曲です。
前2曲に比べたらマジで素直な歌詞。わざわざ熟読したり整理したりする必要一切ありません。初見で歌詞の意味が100%わかっちゃう。(※ それが普通ではある)
むしろ前2曲と並べてあえてこの曲を持って来たことにこそ深読みしたくなるんですよね。
一番最初に『アポリアの解』を持って来たのは、この曲の立ち位置を理解するためです。
『つくろう』や『からふる』を聞くぶんには、これを歌っているアイデスという人物はとんでもないひねくれ者で、嘘つきで、とっつきにくい性格をしているように感じます。
でも、そこにこの『じょうく』が加わるんですよ。このクッソわかりやすい歌物語が。
しかも『じょうく』が歌っているのは、“嘘にまみれた自分を誰かに救ってほしい”と願う思い。助けを求めているわけです。とても素直な言葉で。
暁みかど「右も左」暁おぼろ「蒼も紅。」アイデス「嘘はいらない」
ね? 「嘘はいらない」という言葉が、なんだかすごくアイデスらしい言葉であるように感じられてくるでしょ?
「張り付いた笑顔が 魂魄に刻み込まれ 自分が同化する」
「どうか どうか 気付いて」
そう思うと、暁みかどってだいぶ本質的なところを的確に捉えていたんだなあと改めて思うわけです。
もっとも、あの子は感性に頼りすぎるし、アイデスのことを頼りになる仲間だと思っているので、彼女の弱さにまではなかなかたどりつけないんでしょうけど。
そういうところはたぶん、冷静に考えてひとつひとつ言語化しようとする、暁おぼろの得意分野なんでしょうね。
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