
萌絵さんの思いとお母さんの思いが重なって、マコトジュエルが宿ったんだ!

「絵の謎を解き明かせ!」
大きな出来事
メインキャラクター:萌絵さん
目標
有名な風景画家だった母、クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江の残した自画像の謎を解き明かす。
課題
風景画家だった母親が自画像を残したことが不可解。
萌絵にとって、母親は美とオシャレへのこだわりが強い人物だった。また、人気画家だった彼女は多忙。肉親としてそんな彼女と接していた萌絵にとって、母親は少し距離を感じる存在だった。だからこそ、自画像を描くなどというイレギュラーなことをした彼女の心情が理解できずにいる。
結末
【達成】
キュアット探偵事務所の名探偵たちによって、この自画像は、母親の我が子への愛情あふれる思いが詰まった作品だということがわかった。この絵をきっかけに、けっして完璧主義者というだけではない、不器用な母親としての一面もあったことに気がつくことができた。
心の変化
【ポジティブ】
手づくりのいびつなマカロンを食べて、「おいしくないね」と一緒に笑いあった母。本当はそんな一面があったのだということに今さらながら気づく。
今は自分自身が母親だ。改めて、愛情深く子育てしようと思う。
バトル
自画像を素体としたイーゼル型ハンニンダー。
ただし、エピソードテーマ的には直前のゴウエモンとの争奪戦のほうがより重要。
苦戦
争奪戦では自画像のコピーを複数つくり、ゴウエモンを撹乱しようとした。しかし、るるかの名推理によって、大切に扱っている絵こそが本物だと即座に見破られてしまった。
ハンニンダーは照射するビームによって対象を絵に変えてしまう能力を持っている。
勝利
大切な絵を取り戻すため、勇気を出して危険なビームをかいくぐり、突進。ハンニンダーを撃破した。
ピックアップ
斉木 萌絵
元ネタに全然見当もつかないのでGeminiに聞いてみたところ、『すべてがFになる』(及び関連シリーズ)の主人公・西之園 萌絵と、その相棒である犀川 創平から来ているんじゃないかとの回答があった。本当かどうかは知らない。
ピポポヴィッチ文江のファッション

上半身はブラウスの上にジレ(チョッキ)、下半身はパンタロン(ベルボトムパンツ)とロンドンブーツ(厚底靴)という構成。それでいて女性らしさを前面に出した豪華な髪型と派手な化粧。1970年代のパリを象徴する、パリジェンヌ・ヒッピーやボヘミアンシックといった最新のモードをよく取り入れたファッションといえる。
70年代のパリといえば五月革命を経たばかりであり、政治的にも文化的にも保守的な価値観から解放された時代。ほんの少し前の時代まで女性がズボンを履くなどといったことはドレスコード的に許されないことだったが、このころには認められつつあった。
日本においては1970年の大阪万博の制服としてパンタロンが採用されたことを受け、社会現象ともいえる爆発的な流行が起きた。1972年には史上初めて女性用ズボンの生産量がスカートを上回ったとされる。
つまり、当時特に日本にとってはきわめて先進的なファッションだったことになる。海外でバリバリ仕事をする、自立した新しい女性像としてメディアが注目したのもうなずける。
一輪挿し

ピポポヴィッチ文江のアトリエに飾ってあるのはピンクのバラ。葉っぱのつきかたどうなってんだよコレ。
バラは色によって花言葉が大きく変わるわけだが、ピンク色の場合は「上品」「幸福」など。バラ自体に美の女神アフロデュテの生み出した花だという謂われがあり、バラ全体の花言葉として「美」というストレートなものもある。
指紋


無粋でしかないツッコミではあるが――、第二関節にはめた指輪の跡が額縁につくわけないだろ!
先に断っておきますが、今回語ることの大部分、脚本の人は絶対ここまで考えて描いていない、と間違いなく言えるやつです。それを承知のうえで私の解釈を語ります。
ウチのブログは普段からその傾向がありますが、今回に関しては完全に意識的に作者の意図に対する考察を意識的に考慮の対象外としています。“考察”と銘打つときであれば、作者の意図を最大限推し測ろうと慎重に根拠を拾うのですが、ここではそれ以上に優先して、私個人の感性を大切にします。
なぜならここは感想ブログだからです。作者の意図よりも私の受け取りかたのほうがはるかに重要だからです。
私は、物語の読み解きとは作品と読者の対話だと思っています。私は作者と対話しているつもりはありません。私はそこまで作者というものに興味がありません。今まさに目の前にあるのは作品です。そして、そこに映る私の心です。
私が向きあっているのは元々普段からその2つです。私は、今まさに目の前にあるものにこそ、真摯に向きあいたいと考えます。
もちろん、それは作品と無関係に好き勝手な妄想をひけらかすという意味でもないのですが。けっして。絶対に。作者と向きあわないにしても、私は作品には向きあっているつもりなので。
私は作者が何を考えているのか、作者にとっての正解を知ることはできません。しかし、目の前の作品に何が描かれているか、私にとっての正解を知ることなら可能です。そちらなら存分に語ることができます。
昨今このあたりはセンシティブな議論になっているので、ダルめの文量で私のスタンスを綴りました。では本題。
風景画家
「この絵の謎を解いてほしいんです。母が生前描いた自画像です。最近海外で見つかったものが自宅に届いて。――母が人を描いたのはその1枚だけ。どうして自画像なんて描いたのか・・・」
今話の物語は、亡き人気画家の娘である萌絵さんが、母親の本心を知りたいと思ったところから始まります。
風景画専門だったはずの母が、なぜか1枚だけ自画像を残した。それも『最高の幸せ』だなんて意味深なタイトルまでつけて。
この謎に対するアンサーはこう。
「一緒にマカロンを食べて、おいしくないねって笑いあって・・・。あの頃を思い出しました。そっか。『最高の幸せ』って、あの瞬間のことだったのね。お母さん――」

『最高の幸せ』とは、我が子がお菓子を頬ばる姿を見つめる、母親としての幸福な時間。
彼女は美しくてイケてるファッションに身を包んだ自分自身の姿を描いたのではなく、幸せを噛みしめている自分の思いを描いていたのでした。
では、なぜそれが自画像じゃなくてはならなかったのか?
自分にとっての幸せを描きたかったなら、そのまま素直に自分の子どもの人物画を描けばいい。そのほうがスマートです。わかりやすい。
直接愛しいものを描いたほうが筆に感情も乗りやすいことでしょう。
それじゃ今話のトリックが成立しない?
そうね。たぶんそこを成立させるための自画像設定。だから私自身、今回ここから先で語ることはたぶん、脚本の人がそこまで考えて描いたことではないだろうなって思っています。
「私も、子どものときは楽しく絵を描いていましたよ・・・」
何やら母親に対して複雑な感情を抱いている様子の萌絵さん。

小さなころの彼女は、大抵の子どもがそうであるように、お絵描きの好きな女の子でした。自分では会心の出来だと思ったクレヨン画を、お母さんに見せに行きます。

お母さんはアトリエで仕事をしていました。お絵描きです。
けれど、その目つきは萌絵さんと違って真剣そのもので、睨みつけるように自分の作品と向きあっています。
お絵描きに向ける姿勢ひとつ取っても自分とは全然違う人なんだって、母親のことを遠くに感じずにいられません。
「母は美とオシャレを愛した人でした。ファッションや食べもの、住む場所、何もかも全てにこだわる人で。私もそういったものに触れて、その良さを知ることができました。でも私、そんなものよりも――」
恵まれた環境で感受性を磨きあげられた萌絵さんだから、なおのこと余計に理解してしまいます。
お母さんは風景画家でした。
自分の目で見た風景を、豊かな感性で誰よりも鋭敏に見つけだした自然のなかにある至上の美を、キャンパスに塗り込める人。
幼い萌絵さんにも、花がキレイだと感じる感受性はあります。その視線にあったものを紙の上に切り出す絵心があります。
けれど、お母さんは格が違うのです。萌絵さんよりはるかに美しい風景を見つけだし、萌絵さんよりもはるかに精緻にそれを描き出すのです。
住んでいる世界が違いました。
見えている世界が違いました。

お母さんはとても遠い――。私なんかに見えている花のキレイさなんて、お母さんにとってはきっと、全然大したことのない、つまらないもの。
そう思うのです。
お母さんの視点から描かれた、お母さんの風景画を見れば、そのくらいわかってしまいます。
「母は我が道を進み、好きなように生きた。一緒に調べていてそれがわかりました。だから思うんです。母にとって『最高の幸せ』とは、自分自身のことだろうって」
もし、この自画像があの人の視線から描かれたものであるなら、つまり風景画と同じように描かれたものであったなら、表題の『最高の幸せ』とはこの絵にまさに描かれた主題そのもの。すなわち自分自身。
美しい事物の、最も美しい瞬間を鋭く見抜く、切り抜く、そんな美しい視線の持ち主。
お母さん――。
その視線に、私はきっと入っていませんでした。
なぜ自画像として描いたのか?
「みんな勘違いをしていたんです。この絵は縦にして見るものだって」
「でも、本当はそうじゃなかった。作者である文江さんが持っていたほうが正しい絵の持ちかた。それがこの向きなんです」
視線。
そう、今話の謎を解く鍵を握っているのは視線です。
「母はいつだって完璧を目指す人でした。自画像を描いたのも、そんな輝いている自分の姿を見せたかったから」
バロック期の名画に『女官たち(ラス・メニーナス)』という作品があります。
非常にユニークな作品です。
絵のなかにはお姫さまとその女官たち、さらにはこの絵を描いた宮廷画家本人まで描かれています。そして、それらの登場人物たちの視線が一様に、手前側を向いています。
そこに誰がいるのかといえば――。実は絵の中央、壁に鏡がかかってあり、そこに2人の人物が映っているのです。実はこの2人の人物が彼女たちの視線の先、ここに描かれた画角のさらに手前側に、立っているというわけです。
2人の人物は国王夫妻。実はこの絵は、国王夫妻の視点から見た光景を描いたものだ、というわけです。
とても高度なコンテキストですが、ここまで理解するとこの絵の印象がガラッと違って見えてきますよね。
我が子を、そして彼女を支えてくれているたくさんの使用人たちを見つめる視線。とても愛情深く、豊かで、温かな情景がここにあります。一瞬の時間を切り取った絵画でありながら、前後の時間まで含めた長い長い物語が、ここに余すことなく塗り込められています。
この絵が本当に描こうとしているのは、視線。キャンパスの手前側にいる国王夫妻、その目には見えない視線に込められた、思いだったというわけです。

クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江が遺した唯一の自画像。
その視線はどこからのものか?
モデルは誰を見つめているのか?
「そういえば、母はよくこの色のソファで――。あ。そうだった。母は・・・、母はあのとき・・・」
お母さんがこちらを見ています。
見たことのある情景でした。
見覚えのある視線でした。
この瞬間、お母さんを見ていたのは誰か?

この絵を通してお母さんが描いた“視線”は、萌絵さんのものでした。
『最高の幸せ』。
お母さんはそれが最高の幸せなんだって言います。
『最高の幸せ』。
この絵が本当に描いているのは、キャンパスの手前側からの視線。
『最高の幸せ』。
――どうか、この子も同じ思いでいてくれていますように。
不器用な祈りを込めて。

この自画像は彼女の死後に発見されました。
彼女は生前から人気画家だった人物。描いた作品はどれも引く手あまただったことでしょう。貴重な風景画以外の作品であればなおさら。
それでも亡くなるまでこの作品の存在が世に知られていなかったということは、知人に私的に譲り渡していたか、あるいは手放さず自分の手もとに残していたかのどちらか。
作品の性質上、唯一の関係者である萌絵さんに贈っていないのならばそれはすなわち、自分自身のために描いた作品だということになります。
たぶん、自惚れるタイプの人ではないと思います。無条件に我が子が自分を愛してくれると信じるほど愚かな人ではないはずです。
次の章で語りますが、この人マカロンをつくっているので。
我が子に嫌われていないかどこか不安で、
もちろん母親として誰より深く愛していて、
子どもにも愛してくれていてほしいと願っていて、
お互いにこの瞬間が最高の幸せであってほしいと祈らずにいられない。
自分が子どものことを愛しているのは自分でわかっています。絵を見て確認するまでもありません。あえて描く必要などありません。
だから、この絵に描き、自分の傍に置いておきたかった彼女の思いはひとつ。
萌絵さんに愛されていたい、ということになります。
「くっ! どれが本物だ!」
「早くマコトジュエルを回収したら」
「お前ら! そうは言ってもだな!」
「簡単ね。――本物なら、絶対に守る」

それが、この絵を描いた人物の一番大切な願い。
どうか、この絵に描いた視線の持ち主が、この絵に与えた表題どおり、私と一緒に『最高の幸せ』を感じていてくれますように。
いびつなマカロン
以前、感想文本文とはほとんど関係ない文脈で、長々とマカロンの歴史を語ったことがあります。
2回同じことを書くのもアレなので詳細については↑のリンク先(もしくはちゃんとした情報サイト)を読んでほしいのですが、要するに1999年当時、マカロンにクリームを挟んだお菓子「マカロン・パリジャン」は、すでにパリに広まっていました。そして日本にはまだ入ってきていませんでした。
私、当時お菓子づくりにハマっていたので、このころの日本のレシピ本ではクリームを挟んでいないメレンゲクッキーを「マカロン」として紹介していたのを覚えています。
「海外にいたときに母がよく買ってきてくれました。あのころを思いだします。でも正直、あまりおいしいとは思えなくて。なんだか形もいびつでしたし」
クリスティーナ・ピポポヴィッチ文江が、お菓子づくり初心者のくせにこのクッソ難しいお菓子に挑戦した理由は、きっとシンプルな理由。
せっかくパリに住んでいるんだから、萌絵さんにここにしかない珍しいお菓子を食べてもらいたかったんでしょうね。
ちなみに、これが手づくりであることはほぼ間違いありません。
マカロン・パリジャンのキモはその美しさ。元型であるマカロン・ド・ナンシーやマカロン・ダミアンはもっと素朴なお菓子で、それこそゴツゴツした見た目をしていました。マカロン・パリジャンからです。マカロナージュなんて技法が不可欠になって、表面をツヤツヤさせるのが当たり前になったのは。
こんな、メロンパンみたいにひび割れまくったマカロン・パリジャンなんてお店に売っているわけがありません。くれあさんが「少しでいいので」と食べてもらいたがったのも、このあたりに違和感があったからなのでしょう。

それをわざわざ箱に詰めて萌絵さんに与えているのは、贈りものにするからには箱詰めするべきだという美意識によるものか、それとも完璧主義者のプライドゆえ手づくりだって知られるのが恥ずかしかったのか・・・。
んー。前者ですかね? 一緒にマカロンを食べて、「おいしくないね」って笑いあえるくらい、本当は大らかな人なわけですから。
今よりも自立した女性が持て囃される時代でした。そういう人、今より珍しかったからですからね。
ジレにパンタロン。すらっとした活動的なファッションに身を包んで海外暮らしする彼女は、自立した女性像(もしくはバリキャリ)のアイコンとしてメディアの注目を集めた側面もあるでしょう。そういう、つくられたイメージに実の娘すら振りまわされてしまった可能性はあります。
ですが、心優しく穏やかで、女性らしい側面を持った人物でもあったわけです。
彼女がアトリエに飾っていたバラ。バラにはたしかに、色を問わず「美」という花言葉が託されます。けれど、バラのそういう側面を愛するなら本当は赤いバラのほうが適切です。「美」の花言葉は赤いバラに限るという人もいます。
ピンク色のバラの花言葉は「上品」や「幸福」。同じバラのなかでも特に奥ゆかしいニュアンスが強い色です。
お母さんは、必ずしも萌絵さんが思っていたような人柄ではありませんでした。
本当は失敗した手づくりマカロンを笑って食べるような人でしたし、わざわざ我が子目線の自画像を描いて大事に取っておく人でもありました。
萌絵さんはお母さんに愛されていました。思いのほか、たくさん、たくさん。
「お母さん!」
全てが解決し、萌絵さんの子どもが登場します。

「お母さん」呼びなんですね、最近のプリキュアシリーズには珍しく。
そして「お母さん」呼びなんですね、萌絵さんと同じく。
愛がつながっていきます。
生前は自分が娘に愛されていてほしいと願っちゃうような、ちょっと自信の足りないお母さんだったけれど。
娘のことを本当に愛してくれているか不安に思わせてしまう、ちょっと不器用なお母さんだったけれど。
迷いは払拭されました。
祈りは成就しました。
萌絵さんはお母さんに愛されていましたし、お母さんを愛していました。
その愛を、今度は萌絵さんの子どもへ。あるいは萌絵さんの子どもから。
今度もお互いに。
『最高の幸せ』を、一緒に。
「あんな。お母さんの得意料理って何?」
「え? ハンバーグだけど・・・」
「きっとすぐに食べられるよ」
愛は離れていても伝わるものでした。死が2人が分かつ、その後ですらつなぎ直せるものでした。
距離も時間も関係ありません。だから、大丈夫です。

離れていても、離れはしない。



コメント
言ってしまえばベタだけど、良い話でした!
娘関係なのは予告時点でなんとなく気づいてて、とりあえず『妊娠した自分の姿を描いた』という推測で見てましたね。お腹に手を当ててたんで(安直)