ヒーリングっどプリキュア 第8話感想 空は青く、海も青く、そしてちゆも青い。

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気がついたらそこは青一色の世界だった。空と海が溶けあって、ひとつになっていて、このまま海を越えて空まで行けそうな。――空を、泳いでみたいって思った。

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(主観的)あらすじ

 ちゆが上手に跳べなくなりました。ライバル校の選手が自分より高く跳べるという噂を聞いたことが原因みたいです。
 心配したペギタンが似た症例を探すと、イップスというものが当てはまるように思われました。もしイップスなら無理をさせてはいけません。なのに、ちゆはいつも以上にがんばって練習に打ちこんでいます。

 無理しないで、とはもちろん言いました。だけどそれを言ったのどかたちに対して、ちゆはまっすぐな笑顔で「それでも私は跳びたいの」と語るのでした。
 ちゆは小さなころ、泳ぐことが好きでした。いつものように夢中で海を泳いでいたある日、ふとあたりを見渡すと、そこが一面の青い世界だったことに気がつきました。海の青と空の青が溶けあって、このまま空まで泳いで行けそうな――。
 泳いでみたい。そう思いました。それがちゆがハイジャンプをはじめたきっかけなのでした。

 そんな強い気持ちがあるならムリヤリやめさせるわけにもいきません。
 だから代わりに、のどかたちは応援してあげることに決めました。応援旗をつくって、大会本番の観客席で思いっきり声を張りあげて。イップスを心配していたペギタンも一緒に応援します。ちゆが決めたことをとことんがんばらせてあげたい。

 残念ながらビョーゲンズが暴れたせいで大会は中止になってしまいました。
 けれど、誰もいなくなった会場のトラックで、ちゆはひとり跳んでみました。・・・前みたいに高く跳べました。それでちゆは満足です。陸上競技はあくまで自分との戦いなんですから。
 子どものころから憧れていた高い青空に、また一歩、近づけました。

 おととい公開予定だった春映画『映画プリキュアミラクルリープ みんなとの不思議な1日』ですが、残念ながら新型コロナウィルスの影響で延期となってしまいました。新しい公開日は5月16日です。
 思ったより遅くにズレこんでしまいましたが、ゴールデンウイークには『おしりたんてい』や『仮面ライダー電王』などの東映新作映画がすでに予定されているので仕方ないです。私はこの日仕事なので、残念なことにまた子どもたちのいないレイトショーを見に行くことになりますね。かなしい。

 ちなみにプリキュアのYouTubeチャンネルにて特別番組が配信されており、そのなかでほんの少しだけ映画の本編映像も見られるようになっています。雲梯にはさまれてかわいいかわいそうなことになっているラビリンを堪能したいかたは要チェック! プリキュアたちの姿ももちろん見られます。
 太っ腹なことに、春映画公開までの期間限定で過去のプリキュア映画も無料配信されていますよ。

肝心なことはひとつじゃない

 「ちゆは、ちゆはイップスかもしれないペエ! なのに今日も練習してるペエ! ――お願いペエ! のどかとひなたからも『無理しちゃダメ』って言ってほしいペエ!」

 “イップス”というのは、スポーツ選手などがある日突然自分の思ったとおりのプレーをできなくなる症状のことです。過度なストレスなどが原因で身体動作に迷いを生じさせる心因性の障害とも、同じ動作を何度も繰り返すうちに脳神経が余計な反射運動を命令するようになる神経性の疾患だともいわれています。特に完璧主義者に出やすい症状だともいわれていますね。
 原因が未確定なことからもお察しのとおり、確実な治療法はまだ確立されていません。報告例ごとに効果のあった治療法がマチマチです。
 ただし、一般的にイップス中のフォーム練習は禁忌とされているみたいですね。心因性ならそれは自らトラウマをえぐりにいくようなものですし、神経性なら脳神経のエラー命令をむしろ強化・定着させてしまうので。
 もしちゆがイップスだったなら、現実的にはペギタンの言うとおり、せめてジャンプ練習だけでもただちにやめさせるべきでしょう。

 とはいえ今話はそういう理学的なお話ではありません。話題はあくまで応援することの意義に絞られています。プリキュアは努力と友情の物語です。

 「気がついたらそこは青一色の世界だった。空と海が溶けあって、ひとつになっていて、このまま海を越えて空まで行けそうな。――空を、泳いでみたいって思った」

 ちゆは好奇心の子です。
 自分で好きになれることを見つけ、ひとりで没頭しつづけるタイプの子です。
 彼女は行動する動機がそもそも自分のなかだけで完結していて、“他人にどう思われたいか”という観点が基本的にありません。だから誰に言われなくてもやるべきことをやり遂げる高いモチベーションを常に持っていますし、だから水族館のときのようにときどき意図せず辛辣な物言いになったり、のどかのお母さんの職場で見せたような普通そこまでしないってレベルの行動力を発揮したりもします。

 そういう子のことを応援するのって、・・・無意味じゃありませんか?
 だってそうでしょう。自己完結しているってことは誰に何を言われようと自分で決めたことを曲げないってことですし、放っておいてもがんばるべきときは勝手にがんばるってことですし、他人を気にしないということは「がんばれ」と言われて「あの子のためにがんばろう」とはならないってことです。

 『スタートゥインクルプリキュア』の星奈ひかるがまさにそういう子でした。宇宙と星のことが大好きで、子どものころからひとり遊びをしていても特にさびしいとは感じないような子でした。プリキュアになってからもあんまり周りの話の流れには乗らずにフリームーブ。友達と離ればなれになってからも、やっぱり自分で決めた目標のため一途に努力しつづけ、しっかりと夢を叶えていました。
 その割に、彼女は人一倍友達を大切にしていた子でもありましたが。

 その点はちゆも同じです。
 「自分の限界を感じたとき、海を見るとまた『跳ぼう!』って思えるの。海と空が溶けあったあの青い空に近づくために」
 この子は本当にひとりで何もかもができる子です。何かあったとき自力でメンタルリセットする術まで身につけています。
 「でも、今日は海のおかげじゃなくて、ふたりのおかげね。ありがとう」
 けれどその一方で、友達の好意はまた特別にありがたいと感じる気持ちも間違いなく抱いています。

 応援なんかなくてもがんばれそうなのに、それでも応援があると何かが違う。
 その“何か”って、何なんでしょうか?

海を仰ぐ、この青い空の下

 「えっ! ちゆ。それって県大会の記録より高いよ?」(第7話)
 ちゆの自己ベストへの挑戦は、某ストーカー男をのどかから引き剥がすために行われ、そしてみごと成功しました。

 「気にならないといえば嘘になるけど。・・・陸上は自分との戦い。私のライバルは私だから」

 自分より高く飛べる選手がいると知って動揺するちゆ。ですが、そのとき言った言葉も本音でしょう。
 ちゆは自分が空を泳ぐためにハイジャンプ競技をしています。
 高く。高く。あの空の高さまで。

 背面跳びの頂点に達した瞬間、あるいは越えきってマットに横たわるとき。ちゆはいつも瞳をつぶらにしたあどけない表情で空を見つめています。幼いころからの夢、まるで青空を本当に泳いでいるかのように。
 自己ベストを出したときもそうでした。挑戦しようと思ったきっかけこそのどかを守るためでしたが、いざ実際に跳んだあとは、のどかのことも益子くんのこともすっかり頭から抜け落ちた様子でした。

 それはたったひとりで臨む挑戦。
 幼いころに見た原風景がそうであったように。
 空も海もなくひたすらに青い世界の真ん中に、自分だけがぽつんとひとり。
 どこまで行けるだろうか?
 行く意味なんてあるんだろうか?
 いいえ。どれもこれも自分が決めること。
 だって私のいる世界はどこまでもどこまでも青いんだから。
 青い海に映る鳥をただ見守る雛も、いつか遠い空を胸に秘め羽ばたく大瑠璃。
 夢見るのは私。憧れるのも未来の私。今いる場所は青。目指す先も青。青は私。
 青から青へと飛び立つ鳥は、きっと生まれついて自身も青い翼を一対備えているのでしょう。
 ちゆは自分が青いから、どこまでも広がる青に溶けたい。
 夢を叶えた私はカッコいい。なぜなら、今がんばっている私がカッコいいから。

 自分より高いところを他の鳥が飛んでいるのはちゆにとって都合がよくありません。
 かかとにバーが触れる感触も不愉快です。
 ちゆの泳ぐ世界は青一色じゃなければなりません。
 自分より高く飛べるライバルとか、足を掬うバーとか、そういう不純物があると、ちゆは青に溶けきれません。

 「カッコ悪いとこ見せちゃった・・・」
 「ううん。そんなことないペエ。毎日一生懸命がんばっているちえはカッコいいペエ」

 まだらな翼を見つめて思う。
 カッコ悪くて困るのは自分自身。だから、ペギタンがいくらカッコいいと言ってくれても何の救いにもなりません。
 ただ、少し驚きます。今の自分をカッコいいと思える見かたがあるだなんて。

 ちゆにとって、友達からの応援はそこに価値があります。
 彼女たちはいつも、ちゆのステキなところを見つけてくれたから。

 「ふふ。沢泉さん、おうちが大好きなんだね。すごく楽しそうに教えてくれるから」
 「え? ――そうね。大好きで、大切な場所よ」
(第3話)

 「ちゆちー、なんか教室にいるときと感じが違うね」
 「私、そんないつも怒ってる?」
 「じゃなくて! なんか、雰囲気が柔らかいっていうか――」
(第5話)

 ちゆの夢は現実には叶わないことがわかりきっているものです。
 本当に空を泳ぐことなんてできるはずがありません。
 空は限りなく遠く、いくらハイジャンプで記録を伸ばしてもそんなものは数センチメートルの差。記録が伸び悩むたびに初心に返らなければならないくらい、その数字自体に価値を見出すことは困難です。

 だからこそ、応援には意味があります。
 自分ひとりではときどき疑わしくなる努力の価値を、周りの友達が「すごい!」「カッコいい!」と保障してくれるんですから。
 これまで自分では気付いていなかった、けれどたしかにステキなところを、彼女たちはいくつも教えてくれました。そののどかやひなた、ペギタンたちがカッコいいと言ってくれるのなら、ちゆは自分のがんばっていることが無意味じゃないんだってことを信じることができます。

私の価値を決めるもの

 「がんばるのも大事だけど、あんまり無理しないで。ちゆちゃん」
 「記録出なくても死なないし。ね!」
 「・・・それでも私は跳びたいの。今は無理してでも自分の限界を超えたい」

 がんばっている人に「がんばれ!」と言ってはいけない、という話があります。
 これは場合によっては正しい考えかたですが、実は正しくない場合もあります。

 じゃあ、どういうときに「がんばれ!」と言うべきで、どういうときがそうじゃないのかというと、その判断が難しいんですけどね。
 ざっくりいうなら、「がんばれ!」を文字通り「がんばらなきゃいけないぞ」という命令の意味に捉える人に対して言うのは危険で、「がんばるあなたが好きだよ」と単純な好意として受け取る人にはどんどん伝えてあげないとむしろ苦しめてしまう、といったところです。
 今話のちゆの場合は後者。ちゆは他人の言葉に強制力を感じる性格ではありませんし、のどかたちが自分に好意を持ってくれていることも知っていますしね。

 ちゆが挑んでいるのは自分との戦いです。競技中に助けてくれる味方はおらず、ライバルとの勝ち負けにすら大した意味はありません。最終的に得られるものは記録という、わずか3桁ほどの数字だけ。
 その数字に自分がどれだけの価値を見出せるか、その数字のために自分はどれほどの努力を費やせるか、という戦いになります。そういう意味での、自分との戦い。

 「何が正しいのか、私たちにはわからない。だから私たちにできることは、ちゆちゃん本人が決めたやりかたを応援すること。それだけだよ」

 そんな、自分自身すらも疑いたくなる瞬間に、信頼できる誰かから言ってもらえる「がんばれ!」がどんなに頼もしいものか。

 「空へ!」「限界突破!」
 「ちゆ! 行くペエー!!」

 特にペギタンはちゆを強くしてくれた子です。
 「怪物は私も恐いわ。でも、それ以上に大切なものを守りたいの。どうしても守りたいの!」(第3話)
 大好きな旅館を守りたいのに、そのための力がなくて何もできない自分。やりたいと思っているくせに実際はただ見ているだけの情けない自分。
 そんなちゆを救ってくれたのがペギタンでした。この子は何もできないちゆに、プリキュアという、できるようになる力をくれました。
 「ペギタン。さっきの声援、嬉しかったわ」
 そのペギタンが、今、ちゆはがんばっていいんだと保障してくれているわけですよ。

 「ちゆ。カッコよかったペエ! もう大丈夫ペエね」
 「うん。みんなのおかげでね」

 ちゆがハイジャンプをがんばっているのは、空を泳ぐため。幼いころに憧れた青い世界にたどり着くためです。
 冷静に考えたらその夢には何の価値もありません。実現不可能ですし、そもそも空を泳げたからって何だというのか。
 空虚な夢に価値を持たせられるのはちゆ自身。だからこそ、ハイジャンプをがんばっているちゆはカッコよくなければなりません。こんなにカッコいい自分が夢のためにこんなにがんばっているくらいだから、夢を叶えられるようになった未来の自分は、きっと今よりもさらにずっとカッコいいんだ! ――そう信じるために。

 「また一歩、あの場所に近づける――!」

 ちゆは自分が青いからこそ、青い空に憧れていられます。

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    コメント

    1. 東堂伊豆守 より:

      「沢泉さんはおうちが大好きなんだね」と花寺のどかに言われたとき、沢泉ちゆが一瞬怪訝な表情になったのは、彼女にとって奉仕や献身が「自分の意志に基づくもの」でも「義務的にやらされていること」でもなく「当たり前のこと」だったから、なんでしょうね、たぶん。
      幼い頃から老舗旅館の後継者たるべく英才教育を叩き込まれてきた”若女将サイボーグ”。「些細な異変も見逃さず、迅速・的確に対処する」けど「相手のプライバシーには踏み込まない」ーーーーーー接客業の基本を刷り込まれてきた旅館沢泉の期待の星(現・若女将の母親とは星飛雄馬・一徹親子みたいな関係か。平光ひなたとニャトランが矢吹丈・丹下段平(に風大左衛門・ニャンコ先生をミックスさせた)みたいな関係だったり、”小さい頃は病弱”主人公・のどかも含め、どうも本作は昭和スポ根のノリを好んで取り込んでいるような)。
      そんなちゆも実は自分の生き方に”無意識の内に”窮屈さ・息苦しさを感じていて……いつしか「空と海が溶け合う青一色の世界」=「無限に広がる自由」への憧憬を抱くようになったーーーーーーのではないかと思います。つまり、ちゆにとって走り高跳びとは「自我を解放させる(唯一の)手段」であり「自由にたどり着く為の翼」なんだろうな、と。
      それ故に「記録更新」という”枷”を意識してしまうとーーーーーー「自由への飛翔」が「周囲への責務」に変わってしまうとーーーーーー途端に調子を崩してしまうんでしょうね。記録を意識しないで跳べるときに本来の力が出せる(今回のラストジャンプも、前回の「益子クンの注意を引き付ける為の」ジャンプも記録更新を目的にしていない)。そして……ペギタンやのどか達の応援が効を奏したのは、「記録更新を期待された」からではなく「”自由への飛翔”を支持された」からだった、んだろうと。
      「食べたい物」を聞かれて”旅館の朝飯定番メニュー”しらすおろしを所望する程に訓練された若女将サイボーグ・沢泉ちゆ。そんな彼女が手に入れた「走り高跳び」と「親友」という”翼”は、あくまで一時の憩いを与えるだけなのか、それとも大いなる飛翔の原動力となるのか……。今後確実に展開されるであろう「沢泉”家”との対峙」が大いに注目されるところですね。

      • 疲ぃ より:

         ちゆは“当たり前”と思い込んでいることが天然で自分の興味と結びついているのがすごいんですよね。「やらなきゃ」とか「やるべき」とか、そういうのに辛さがない感じ。結果的にメチャクチャ健全なので根本的な部分で微妙にズレていることに誰も気付かないという。
         この子、今のところ誰よりもフリーダムなんですけどね・・・。そんな子がなぜか果てしない自由に憧れているズレっぷり。いや、もう、好きにしろよと。まあ好きにさせると変なところでこだわりはじめて勝手にもつれるメンドクサイ子でもあるんですが。
         天然で結びついているところを改めて見つめなおすことですね。今のところ見えている、この子の取り組むべき課題。

    2. ピンク より:

      この物語は公立中学校の春休み最終日からスタートします。
      おそらく4/6が始業式なので、今回映ったカレンダーの大会当日(5/3)までに休日は週末の合計3回。

      ひなたの覚醒回
      水族館回
      で既に週末を2回使ってるので、益子くん回と今回がほぼ同じ週の話だったと確定できます。
      話の内容的にも大きな矛盾はないので、脚本周りできちんとカレンダーを確認してるのでしょう。

      ……すみません、こういうこと気になって。
      ちなみに去年も同じことやったんですが
      ・どう見ても始業式スタートではない
      ・↑に加え数日間ひかると会ってたララが制服を知らなかった
      ・故にスタプリ第1話はGW辺り
      と仮定したためペン集めはギッチギチなスケジュールでした。まどかが大変!

      さて、偶然なのか同日放送されたキラメイジャーでも
      「現在進行形で苦しむストイックな仲間(ブルー)を仲間はどう支援すべきか」
      というお話が展開されました。
      まあナルシスト気質由来のストイックなので、ちゆとはまた少し違うんですけど。

      こういう時、誰よりも渦中にいるはずの本人の気持ちって案外無視されがちなのかなあ……と、傍目から見て思います。

      • 疲ぃ より:

         時系列は脚本会議でちゃんと管理しているでしょうね、こういう規模の大きい作品の場合。
         私の場合、その手の細かい話は製作者側でうまいことやっているだろうと信頼して基本的にスルーですねえ。考察に必要になるようならその都度さりげなくアピールしてくるだろうというメタ読み込みで。はい。メンドくさがりのダメ人間です。そういう自作資料をマジメに管理できる人をすげーって思います。

         現実的に考えると、今話のちゆみたいなのはある程度本人の意向を却下することも必要なんですけどね。自分のことこそ一番よくわからないってやつで。ハタから見ているぶんにはダメな結果になるのが目に見えているのに、本人だけがそれに気付いていないというのはままあることだと思います。
         ただし、だからこそのどかたちが大丈夫だと思ったのなら、そのときはガンガン応援してあげるべきだという話でもありますね。止めるのも背中を押すのも結局のところ本人のためなので、最終的には本人が望むところに着地させてあげないと意味がない。

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