ヒーリングっどプリキュア 第44話感想 自分らしさのための戦い。

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だから私は戦いつづける。今までと同じ。ううん、今まで以上に戦いつづける。勝つためじゃない、負けないために。

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(主観的)あらすじ

 アスミの作戦が功を奏し、ネオキングビョーゲンのバリアを消滅させることはできたものの、同時にネオキングビョーゲンもテアティーヌ様の結界を突破。のどかたちはネオキングビョーゲンに取り込まれてしまい、地球も一息に蝕まれ、戦いはネオキングビョーゲンの勝利で終わりました。

 ネオキングビョーゲンが体内ののどかたちを嘲笑います。これは地球の生きものたちも幾度となく繰り返してきた生存競争であると。たまたま今回勝ったのが自分ひとりなだけであって、何もおかしいことはないのだと。
 そのとおりだとのどかは思いました。夢に近づくために、自分を好きになるために、大好きな人のために、のどかたちはいつも戦いつづけてきました。戦わなければなりませんでした。
 負けないために。自分のために。みんなを守るために。生きるために。
 だから、改めて思います。

 諦めない。

 諦めず再び立ち上がったのどかのところにみんなが集まってきます。
 ラビリンが。ちゆが。ひなたが。アスミが。ラテが。ペギタンが。ニャトランが。地球のみんなのパワーが。本当は諦めたくなかったみんなが、戦いつづけるのどかに勇気をもらって、続々立ち上がりはじめました。
 一対多。終わったはずの戦いがひっくり返ります。こうして、ネオキングビョーゲンは自分の言った生存競争のとおりに淘汰されるのでした。

 そこで二者択一の生存競争を持ち出したらどう理屈を捏ねたところで結局“負けない”=“勝つ”のが目的になっちゃうのでは? ・・・とか、一言ツッコミたいところもありますが、とにもかくにも、これでようやくのどかの物語は本人の納得のもとで円満に終えられるようになりました。

 「目の前で小さな子がこんなに苦しんでいるのに何もしてあげられない。自分は医者なのに、なんて無力なんだろうって、ぼくは自分の不甲斐なさにすごく落ち込んでね。やがて君は自分で元気になって退院していって、結局ぼくは最後まで何もしてあげられなかった」(第33話)

 のどかの憧れている人はかつて苦悩しました。目の前で苦しんでいる子を助けてあげられない。自分の力ではどうしても望む結果を得られないという厳しい現実に心挫けかけていました。

 「ごめんね、今すぐに君を治してあげることができなくて。でもぼくたちは諦めない。だからのどかちゃんにも諦めずに戦ってほしい」(第11話)

 けれど、のどかから見た彼は全然そういう人ではありませんでした。どんなに難しくとも彼が治療を諦めずにいてくれた優しい現実があるからこそ、病気を乗り越えることができたんだと信じています。

 その2つの“現実”の違い。
 2つの視点から見る、ひとつの現実についての2つの側面。見えかたの違い。

 蜂須賀先生は“諦めませんでした”。

 それこそがあのときのどかにとって何より重要だったこと。
 心震え、救われ、励まされ、生きるうえでの指針にまでなった、一生の想い出。

 他の人にとっての現実がどういうものなのかは知りません。私たちは自分の眼球と脳というフィルターを通してしか目の前のものを見ることができませんから。
 一見、現実は常にひとつだけのように思えるかもしれません。ですがそれは私たちがひとつの視点しか持たないから。実際には見る人ごとに現実のありかたが無数に存在します。
 そして、そのそれぞれの見かたこそが“世界観”と呼ばれるもの。あるいは“価値観”と呼ばれるもの。目の前の現実をどう見るのかは、単純な現実の有りようなどではなく、私たちひとりひとりが何を重要視するかによってこそ決定されます。自分が何にこだわり、何を愛しているか、何を疎かにしているか、何を嫌っているか、それらパーソナリティを総じたものの具現が“現実”。あなたの目の前にある世界。

 「お前がそう思うんならそうなんだろう。お前ん中ではな」
 そうとも。私にとっての現実は私だけもののだ。あなたにとっての現実があなただけのものであるのと同じように。あるいは、あの子にとっての現実があの子だけのものであるのと同じように。
 それが私で、あなたで、あの子だ。

 “現実には”蜂須賀先生はのどかを救えなかったのかもしれません。だけど、“現実には”のどかは蜂須賀先生のおかげで救われました。
 たとえ病気は治せなくとも、“諦めないでいてくれた”から。

 だからこそ。
 この最後の戦いにおいて、のどかは何を欠いても“諦めない”ことだけは絶対に示さなければなりませんでした。

無慈悲な現実

 「絶望するようなことでもなかろう。人間とて我らと変わらぬ。いいや、地球上の生命は全て、万物が同じだ。いずれかの生命がはびこれば別の生命が絶滅へと追いやられる。この世界はそのようにできているのだ。生きるということは戦うこと。戦いに勝った者だけが生きることを許される。その勝者が我ただひとりであったというだけだ」

 ペットや家畜、野菜など、そこらの石の裏なんかに住んでいる虫たち、あるいは人里から距離を置いて暮らす野生の動植物。人間と戦わないことを選んだことで繁栄できている生きものたちについてどう考えているのか、ネオキングビョーゲンにはぜひ一度意見を伺ってみたいところ。
 人間のほうも下手に絶滅させたらまわりまわって自分が損するって学んで、ずいぶん環境保護に熱心になりましたしね。最近じゃ一部の菌やウイルスなんかの力を借りる例まで増えてきて、まさにゴージャスタンゴな時代です。

 ともあれ。

 「『生きることは戦うこと』――。そうだね。私もそう思う」

 のどかもネオキングビョーゲンの言っていることは間違っていないように思いました。
 身に覚えがあったからです。

 「私は病気と闘ったから今元気でいられる。ちゆちゃんは未来の目標に向かってずっと戦ってて、だから毎日が充実してて。ひなたちゃんは自分の嫌いなことと戦いながら、いつも笑顔で、どんどん強くなって。アスミちゃんは戦いの中で生まれて、今もずっと大好きなラテのために戦いつづけて。ラビリンも、ペギタンも、ニャトランも、ラテも、故郷を離れて地球のためにずっと戦いつづけてくれてる」

 「――私たち、いつも何かと戦ってる。戦いながら生きてる。あなたの言うとおり」

 辛いことがたくさんありました。苦しいこともたくさんありました。

 「思いだしたよ。俺を育てたのは、キュアグレース、お前だって。メガビョーゲンの一部だった俺はお前のなかで成長してこの姿になったのさ。まったく面白い。ますます気に入ったよ、キュアグレース。また会おうぜ」(第28話)

 戦いたくないと思っていても、しつこく狙ってくる敵は次から次へと現れるし、

 「私、大会のあと必死で練習して、あなたの記録より高く跳んだわよ」(第34話)

 戦う必要なんてないと思っていても、戦わなければ手に入らないものはどうしてもあるし、

 「私、ちっちゃい頃から水泳も体操もピアノもダンスも、お兄やお姉のマネしてがんばっても同じにできないの。何してもぜーんぶダメ。そういうのテンション下がるじゃん。だから続かなくなっちゃって」(第13話)

 戦わず目を背けていたいと思っていても、それはそれで辛くて苦しいままだし、

 「お願いラテ! 地球さんからもらったパワー、ラテを守るためより、お手当に使ってほしいラテ!!」(第20話)

 場合によっては誰かから「戦ってほしい」と懇願されることまである。

 生きることは戦うこと。
 そのとおりかもしれません。生きたいなら戦うしかない。それが現実なのかもしれません。
 それを裏付ける根拠は、のどかたちのこれまでのなかに、いくつもいくつもありました。

 「でも。それでも! 叶うならもう二度とあんな苦しい思い、もう、したくないよ」(第42話)

 できることなら戦いたくないと願うのはそう特殊な考えかたではないでしょう。みんな、できることなら戦うことを避けたいと心のなかでは思っているはずです。

 だけど、生きることは戦うこと。
 現実にはそれこそが真実だと自分自身思ってしまいます。

 「それにしても、戦うのって超楽しいわ!」
 「戦うのが・・・、楽しい?」
(第12話)

 ・・・本当は戦いたくない思い、諦めるしかないんでしょうか?

のどかたちの現実

 「――だから私は戦いつづける。今までと同じ。ううん、今まで以上に戦いつづける」

 のどかは優しい子です。
 きっとビョーゲンズが現れなければ、ラビリンたちと出会わなければ、こんなふうに戦いの日々に身を投じることなんてなかったでしょう。

 「お願い、ラビリン。私は運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があってもがんばるから! 苦しむ地球をラビリンと一緒に助けたい! これが今、私の一番やりたいことなの!」(第2話)

 「怪物は私も恐いわ。でも、それ以上に大切なものを守りたいの。どうしても守りたいの! あなたは?」(第3話)

 「なあ、ひなた。俺と一緒にプリキュアにならないか。あの怪物。ビョーゲンズから地球を守るんだ。お前のなかの好きなものや大切なものを、お前の手で、守るんだよ!」(第4話)

 「これは何でしょう。心が、私のなかの地球のパワーが、高まり、渦巻き――。いいえ。苦しいのではありません。よくわかりませんが――。それでもあなたの手を取りたいと、どうしようもなく思ったのです。ラテ様。あなたをお守りするためのこの力、あなたの願いのために使わせていただけますか?」(第20話)

 ・・・本当に?

 ずっとみんなに優しくありたいと思っていました。だけど自分じゃ力不足だと痛感していたときに、プリキュアになれるチャンスがやってきました。
 自分の思うとおりのことをしたいと思っていました。自分なりに努力してきたつもりでしたがそれでも足りない瞬間があって、そんなとき、力を貸してくれそうな子の姿が目に留まりました。
 自分にはみんなみたいなことができないと思っていました。本当はできるようになりたかった気持ちを我慢していたとき、「お前ならできる」と言ってくれる人が現れました。
 やりたいことなんて最初は何ひとつありませんでした。与えられた使命を全うするだけのつもりでした。なのに、心震える言葉と出会いました。力になってあげたいと自分の意志で願いました。

 だから。
 のどかは、ちゆは、ひなたは、アスミは――、それぞれ自分の願いを叶えるために、プリキュアになることを決めたのでした。

 「戦いつづける。勝つためじゃない、負けないために。私が健やかに生きるために。大好きな人たちが健やかに生きられるように」

 この戦いはけっして誰かに強制されたものではありません。プリキュアとしての使命によるものでもありません。
 のどかたちは自分の意志でプリキュアになって、自分の意志でプリキュアの戦いに身を投じてきました。

 誰かを守るためにしかたなく戦うのではなく。
 襲い来る敵がいるからしかたなく戦うのではなく。

 誰かを守るのは自分がそうしたいと思うから。
 敵を追いはらうのは自分のしたいことを邪魔されたくないから。

 のどかたちはプリキュアになりました。
 他の誰のためでもなく、あくまで自分のために。
 他の誰のせいでもなく、いつだって自分のために。
 自分にとってどうしても戦いたい理由があったから、のどかたちは戦うことを決めました。

 他の誰かに勝つためではなく、自分自身に負けないために。

 「諦めなきゃいいんだよ。みんな、見捨てるつもりで花のエレメントさんを最後にしたわけじゃないでしょ。全部のエレメントさんを助けたい気持ちは変わらないでしょ。だったら、どんなに難しくてもお手当をつづける。それしかないんだよ」(第11話)

 諦めない、負けない。

自由意志

 「ひとりじゃ難しくても!」
 「みんなで手を取りあって!」
 「諦めずに!」
 「戦いつづけます!」

 正直なところ、ちょっと思うところはあります。

 今作が着地したのは『Go!プリンセスプリキュア』時代の個人主義への回帰です。
 のどかたちは徹頭徹尾自分自身の理想を叶えるためにプリキュアとして在り、誰かの手を借りる理由は自分ひとりでは力不足だからか、もしくはひとりでは心挫けてしまうからという構図になっています。プリキュアになるのもあくまで一時しのぎであって、ラストシーンでラビリンたちが語ったように、最終的には自分ひとりで理想を叶えられるようになることを目指しています。
 また、のどかたちにとって一番大切な思いは常に自分のなかにありました。それは自分に無い新しい価値観との出会いによって磨かれていくのではなく、理想を妨害しようとする数々の試練と戦うなかで研がれていくものでした。
 みんなを守ろうとするのも、それ自体がのどかたちの理想を叶える助けになるからではなく、あくまでのどか個人の掲げる理想が「みんなに優しくできる人になりたい」というものだったため。思ったよりテーマに絡んできませんでした。

 この作風で“味方すらも自分に都合いいように利用する冷血漢”という、周囲との関係性にフォーカスしたキャラ付けのキングビョーゲンをどう扱うつもりなのか最後まで予想できずにいたのですが、どうやらこういうことだったようです。

 「他の全てを見下して、虐げて、奪ってくる。あなたみたいな存在のせいで悲しむ人が増えないように!」

 「こんなところで終われねえ!」「私にはまだやりたいことがある!」「僕にはやりたいことがある!」「もっと生きたい!」「生きたい!」「生きたい!」「生きたい!」「私たちは生きたい!」

 邪魔されたくないと。

 やりたいことを胸に抱き、理想として育てていくのはそれぞれの個人なんだから、それを理不尽に妨害されることは絶対にあってはならないことだと。
 だから、生存競争とかそういうのを抜きにしても、ネオキングビョーゲンのするような暴虐はそもそも許されないんだと。自由意志は最大限尊重されるべきなんだと。
 たぶんそういうことですね。ダルイゼンが退場する直前だけ哀れっぽく描かれていたのも、この一点のみにおいては彼も充分に被害者だからか。なるほど。

 自分の理想を(※ 一時的には周りの助けを借りるにしても)最終的には自分自身の力で叶えるわけですから、なおさらその実現にかかる責任は各個人ひとりひとりに全部かかってきます。
 だからこそ、望まない他人からの介入は徹底して避けるべきという理屈になるんでしょうね。ネオキングビョーゲンみたいな人はどうせ他人の人生に責任を持つ気もないわけですし。

 「お手当て、手伝ってくれて本当にありがとうラビ。今度こそ元気で、平和な日常を、過ご――。・・・危ないことに巻き込んじゃってごめんラビ!」
 「ずっと心配してくれてたもんね。ありがとう。でもね、私ね、大変だったけど楽しかったよ」

 ラビリンも最後までそういう役回りでした。もっとのどかの自由意志であることを信じてくれてよかったのに。
 「かわいそう」だなんて思わないであげてほしかったな。のどかは最初から、第一に自分のために、あなたのパートナーになりたいと言ってくれてたんですよ?

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    コメント

    1. ピンク より:

      おそらくキングビョーゲンは、周りの環境を自分の色にぜーんぶ塗りつぶしたがる存在なのでしょう。
      しかも、人間や大半の動植物とは違いそれで不都合が生じるわけじゃないと。

      結局バグ(虫じゃない方)みたいな存在なんですかね。
      だってこの世界は、違うのが前提の『大好き』があって、助け合って初めて輝く『未来』があって、ひとりひとりが描かなくちゃいけない『イマジネーション』が与えられているんですから。
      ……これ書きながら思いましたが、バグという設定を一言入れるだけで、少々よろしくなかった方向性の反響をある程度沈静化できたのでは?

      ともあれ残すはエピローグ&トロプリへの移行期間。
      明るく楽しくやってほしいです。

      • 疲ぃ より:

         「勝つためじゃない、負けないために」というセリフがありましたが、あれ、どのくらいの視聴者がそのまま「負けない」≠「勝つ」として受け取ったんでしょうね。あのセリフを賞賛する人はいても、あれをどういう意味で捉えたのかまで言及している人を全然見かけないんですよ。私の「自分に負けない」って解釈以外にも多様な解釈がありそうだと思っていろんな人の感想を読んでいるんですが、本当に全然。
         なまじっか生存競争という戦うことを避けられない構図が目の前にぶら下がっているぶん、逆にのどかがどういう思いでこの戦いに挑んだのかにまで視聴者の意識が向きにくくなっている印象があります。生存競争だったならなおさら「勝つためじゃない」ってあえて主張した意味を考えるのが大切だと思うんですけどね。単純な生存競争だと自動的に「負けない」=「勝つ」ってことになっちゃうので。
         種族間の生存競争じゃなくてシンプルにキングビョーゲン個人の思想に問題があるなんだという描きかたになっていたら、たしかにこのあたりの受け取られかたがスムーズになっていたと思います。

        • 匿名 より:

          単純に、ネオキングビョーゲンに屈しないという意味で捉えました。

          そもそも今回の物語、私は最初から生存競争にすらなってないと認識してます。
          侵略行為から撤退した際のデメリット(一定期間蝕まないと命に関わるとか、ビョーゲンキングダム自体が潰れるみたいなの)が、全く提示されてないので。
          究極的に周りをいたぶりたい連中なんだなと。

          • 疲ぃ より:

             ありがとうございます。
             ビョーゲンズ側を見ると確かに生存競争と呼べるだけの情報が出ていませんね。これを人間vsウィルスの構図に置き換えてみても、ウィルスはそもそも生物じゃない(らしい)ですし。(※ 菌類や寄生虫だと怪しいか?)
             そういう見かただと、プリキュア側は地球を守れさえすればそれで充分で、必ずしもビョーゲンズを殲滅する必要がないので「勝つためじゃない、負けないために」が成り立ちそうです。この場合は単純な事実であって特に含意のないセリフということになるでしょうか。

    2. レアハンター より:

      ラビリンの「危ない事に巻き込んじゃってごめんラビ」はのどかを失わなかった安堵と
      甘えた罪悪感から来たものってTwitterで書かれていたのを見て
      こっちまで胸が詰まりそうになりました

      • 疲ぃ より:

         ラビリンはのどかとパートナーになるとき「お願い、ラビリン。私は運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があってもがんばるから!」と懇願されたうえで、当時体力に不安があった彼女をあえてパートナーに選んだ子なんです。
         ラビリンはのどかが危険を承知で、しかもラビリンの使命のためではなくのどか自身の思いのためにプリキュアを志したことを知っています。その熱意を理由にこの戦いへの参加を認めました。それなのにいつまでたっても罪悪感を感じたままというのは正直、のどかの気持ちに向きあおうともしていない、不誠実な態度だと思うんです。まるでのどかが理不尽に巻き込まれたかわいそうな子みたいじゃないですか。

    3. 東堂伊豆守 より:

      人間との共存あるいは棲み分けに活路を見いだしている生物にしたって、あくまでも生存“戦”略として駆け引きをやっている訳で、何にせよ「戦うことで生きていられている」ことに変わりはなかろう?
      人間も最近は環境保護に熱心になっただと?ほう、(自分らに都合の)悪い生物に“害獣”のレッテルを貼って、駆除することにもますます熱心になっているようだが?(ヌートリアァァァ!!)
      ……とまあ、ネオキングビョーゲンが人間をイビるネタはいくらでも存在する訳ですが……、
      いや、アンタ人間にネチネチ説教なんぞしていないでサッサと殲滅していたら、確実に勝利を収めることが出来たのでは?!
      ひょっとして……アンタ自分の価値観や現実認識の正しさを人間達や宿敵・テアティーヌに認めさせて「アンタはエライ。アンタが大将」と“誉めてもらう”ことが最大の目的で、要するに“承認欲求”に取り憑かれていただけだったのではないの?
      だいたい「地球上の全生命を殲滅して、量産した操り人形(メガビョーゲン)に囲まれて暮らす」ことの何が楽しいんだ?という疑問があって、やっぱりキングビョーゲンには「承認欲求を満たすこと」以上の目的は無かったんじゃないか、と思えてしまうんですよね。
      だから、花寺のどかがキングビョーゲンの“主張”は「正しい」と認めたことで彼の承認欲求は満たされ、これ以上戦い続ける意義を失ってしまいーーーーーー迷わず成仏(ヒーリングッバイ)することと相成った、ということであって、最早すこやか市民総出の“数の暴力”に訴えるまでもなかったのかもしれません。
      結局「キングビョーゲンは承認欲求を満足し、地球生命は今後も地球上で生存する権利を手に入れた」という“敗者無き戦争”だったんじゃないかなぁ……とかなんとか。

      • 疲ぃ より:

         共存、棲み分けまで網羅したうえで「生きることは戦うこと」となると、もはやプリキュア側のセリフでも違和感なくなっちゃいますね。すごい誠実そうです。そこまで考えたうえで他種族を滅ぼすことが自分にとって最善の戦いだと結論した相手なら、その熟慮に敬意を表する意味でも、いよいよ思想戦抜きの純粋な生存競争をするしかないでしょう。
         (※ ヌートリア? それこそ君らは人間のおかげで個体数も生息域も増やせただろ? / 心情的には恨まれて当然だけど)

         ネオキングビョーゲンさん、ほんと余計な思想戦を仕掛けさえしなければ勝てていたにね。獲物を前に舌なめずりは悪役の様式美とはいえ。プリキュアのことをヒーリングアニマルのバックアップくらいに考えていたようですし、プリキュアのパワーが思いの強さ次第でいくらでも変動するというオタク教養を履修していなかったのでしょう。

    4. ハリース・みぃ より:

      のどかが一旦はネオキングビョーゲンの言葉を肯定したときに今作は思想で殴りあう気はないんだなと感じました。まあ、すぐに(ネオ)キングビョーゲンの言動を言葉と行動で否定するんですが。それも相手を変えようとはしていないのでやはり論戦をする気はそもそもないんですね。元々のどかはあまり他人を変えようとはしないので順当と言えますね。

      「あなたに言われたくない」とは、あなたと議論する気はないということだったんですね。

      • 疲ぃ より:

         実際のところプリキュアというアニメ作品が思想戦一切抜きにバトル描写するのは不可能だと思いますよ。
         だって、視聴者の没入感を確保できなくなりますもん。主人公の思いが自分にとっても共感できる、他人事じゃないからこそ、視聴者は彼女たちの戦いの行く末が気になって仕方なくなるんです。自分にとってどうでもいい理由での殴りあいなんて街中で見かけるチンピラ同士のケンカと同じです。普通の人はシラけます。
         洋画なんかだと“復讐”とか“怒り”とか、誰でも抱きうる強烈な激情を主人公に持たせることで、視聴者の共感を得るって手法もやっているんですけどね。ただ、これだと思想戦をする必要がない代わりに主人公が社会不適合な狂人という扱いになってしまいます。子ども向けアニメであるプリキュアで同じことはできません。
         実際、『ハートキャッチプリキュア!』にキュアムーンライトが憎しみにとらわれかける展開もあったんですが、あれも直後「愛のために戦う」って思想戦にシフトしましたよね。

         そのあたり考えると、多少強引にでものどかに思想戦をさせることになったのは必然だと思いますよ。
         エンタメ作品を志向するかぎり、たとえ脚本家が意識的に論戦を避けようとしたとしても、(狂人ではない)主人公の戦いにはどうしても思想が宿ります。視聴者の視線を意識するほどに、自然と主人公と敵との思想的対立描写を欠くことはできなくなります。そういうものです。

    5. ハリース・みぃ より:

      思想的対立については既にTwitterで長々と書いたのですが、最終回後にまた書こうかなと思います。

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