ガラスの靴は私たちがあげる。でも、踊るのはあなたよ。シンデレラ!
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「メイクは魔法? 映画でトロピカる!」
活躍したひと
さんご
ごぞんじ今年のあざとい枠。部活ではまなつとローラがゴリゴリ場まわししており、本人の変身願望がどちらかというと内面に向き気味なのも相まって、普段はそこまではっきりと変わった印象がない。けれど、一番身近で見ているお母さんからするとやはり変わったらしい。
ゆな
おどおどしているところがかえって癒やし系とされて人気急上昇中の新人俳優。自分の素の性格だと思っている部分を評価されると新しいペルソナに付け替えることに抵抗を感じてしまいがちなのは、芝居の世界あるある。
トロピカってたもの
デレラちゃんの着ぐるみ
結局どうしてパンダなのか謎のままだった化粧品のキャンペーンキャラクター。なにやら濃ゆいキャラクター付けがなされているらしく、着ぐるみを被ったからには普段の自分をかなぐり捨てずにいられない。
メイクの魔法
第1話でまなつが語っていたニュアンスとはちょっと違うかもしれない。
うまくいかなかったこと
新人俳優・ゆなに既存イメージと異なる配役が当てられたが、彼女は新しいキャラクター像をうまく表現できず悩んでいた。
やりきれたワケ
自分の既存イメージに囚われていた意識は着ぐるみによって包み隠され、あるいはメイクによって塗り替えられて、ゆなは自分のなかから新しいキャラクター像を引き出すことに成功した。
いわゆるハマり役、持ちキャラがある俳優を評価するか、幅広い役柄を演じ分けられる器用さを重視するかは、実は芝居のプロの間でも意見が割れるところです。
“演技力”というと後者をイメージする人のほうが多いのはわかりますけどね。ですが、実際にお客さんの目に触れるものは映画や舞台といった完成品のお芝居なわけですので、演じられる役柄が狭かろうが完成度の高い芝居ができる俳優なら高く評価されるのは当然のことです。合わない役柄なんて別の俳優に回したらいいだけのことですし。
ゆなの周りの業界人にはたまたまそういう考えかたの人が多かったんでしょうね。ですが、今回の映画では違う考えかたの人間と一緒に仕事をすることになったようです。スポンサーかプロデューサーあたりでしょうか。割とよくある話。
幅広い演技ができてこその俳優。特定の役柄しかこなせないなんて芝居をしていないに等しい。素の自分のまま舞台に立って、素の自分の口調で喋っているようなものだ。そんなの芸として何の面白みもない。そういう考えかただってもちろんあるわけですよ。
どちらが正しいとか、どちらが間違っているとかって話ではありません。どちらにも充分納得できる思想があって、どちらにも必ずしも納得しがたい意見だってあって、そしてどちらでも世間で充分に評価してもらえる可能性があって、大昔から現在に至るまでずうっと結論の出ることのなかった二項対立です。個人的な好みの違いと言ってしまってもいい。
特定の役柄しか演じられない俳優は演技をしていないのでしょうか?
いいえ。俳優と演じる役柄とでは、たとえ一見した印象が似通っていたとしても、出生や思想、交友関係など、それぞれの人格をつくったバックボーンが当然ながら異なります。バックボーンが異なるということは、それぞれの人格は赤の他人同士ということです。
人格の差異は細かな仕草や口調、表情、視線などのひとつひとつとして表出するものです。そこに、どうしたって演じ分けは発生します。人間は台本に書かれた赤の他人のセリフを自分自身の言葉として読むことはできません。絶対に。
幅広い役柄を演じ分ける俳優は完成度の高い芝居ができないものなのでしょうか?
いいえ。すぐ上に書いたように、俳優とは与えられた配役を人格レベルから深く考察・読解して一から役づくりする仕事です。お決まりのテンプレを考えなしに模倣する“ごっこ遊び”とか“モノマネ芸”とかではないんです。
自分の人生経験からほど遠い人格のバックボーンを理解することには困難が伴いますが、想像力を駆使すればけっして不可能なことではありません。むしろ、その程度もできない半端者が「演じ分けできる」俳優として評価されることはないでしょう。
結局のところどちらも演技で、どちらも芝居なんです。
今回ゆなが自分の演技に迷ってしまったのは、そういう、本当はどちらの考えかたであれ常に芝居していることに変わりないはずの自分を見失っていたせいともいえるでしょう。
イメージ
「私、デレラちゃんに入る前に、久しぶりに『シンデレラ』のお話読み返してみたの。そしたら昔は気にならなかったことが気になって、あのお話で魔法使いのお婆さんからシンデレラがもらった一番のものは何だったんだろうって」
「え?」
「きれいなドレスでしょ?」
「ガラスの靴?」
「カボチャの馬車とか?」
「ちっちゃいころは私もそんなふうに思ってた。でも、今は――、シンデレラが受け取った一番のものって、舞踏会に出て自分の新しい運命を切り拓く、そのための勇気だったんじゃないかって。そう思ったんだ」
物語を読み解くという行為は、作者が想定した正しい意図を見つけるためのものではありません。
そもそも読書は体験です。本に書かれているものは作者が考えた文章かもしれませんが、それを読んでいるのは私たち自身。作者と私と、1対1の共同作業。私たちは、私たちの主観を通してはじめて物語と触れあうことができるようになります。
だから、私たちが物語を読み解こうとするとき、私たちの視線は必然的に、物語そのものと、自分の内面、両方ともに向くことになります。
さんごの言っていることは『シンデレラ』の物語のどこにも書いていません。
『シンデレラ』に勇気を見出すのはさんごが勝手にやっていることです。誰もがそういうふうに読解できるわけではありません。さんごが読むからこそ、『シンデレラ』の物語はそのようなテーマを帯びることになります。
もっといえば、今のさんごと昔のさんごとですら読みかたは全然違ってきているわけで。
「昔の人はジュゴンを見て人魚と間違えたんだって」
「えー? 人魚って絵本だともっとかわいいじゃない」
「わかった! ホントは人魚もジュゴンみたいな面白顔なんだよ」
「あはは。ウケる! 人魚、面白い顔説!」
「間違いない。人魚は面白顔!」(第3話)
いってしまえば、実は第3話でさんごが反発した友達の冗談と似たようなことをしています。
はっきり書かれているわけじゃないけれど、私が思うからそうだと断ずる、その横暴。きっとグリム兄弟やさらにその元となった民話の創作者たちは『シンデレラ』の物語に勇気なんてものを込めてはいなかったことでしょう。
「私は――信じる! 私は逃げない!」(第3話)
さんごが目指しているものは、実はそういう横暴さです。
周りの考えに振りまわされずに自分の“かわいい”を大切にするということは、そういう意味にもなります。
「あの。私いつもこんな感じで、癒やし系とかみなさん言ってくださって。それで、そういう感じのお仕事ばっかりいただいてきたんですけど、でも、今度の映画で演じるのは全然違う役で」
「でも、どんなにお稽古しても上手にできなくて。どうしようって迷ってるうちにフラフラとロケ地まで来てしまって」
「あんまりにも普段の――、みんなが応援してくれる私のイメージと違いすぎて。ガッカリされたら怖いし、もうどうしたらいいのか・・・」
「実は知り合いのメイクさんに相談して色々試してるんですけど・・・」
「でも、ダメなのね?」
今話はさんごの当番回。さんごの物語を踏まえたうえで、ゆなの言っていることを改めて見てみると――、もう、わかりますよね。
ゆなは自分の考えと自分以外の考えを混同してしまっています。
いくらお稽古しても納得のいく芝居にならないのはゆな視点でのこと。
メイクを試行錯誤してみて納得のいく出来にならないのもゆな視点。
けれど、ゆなに癒やし系のイメージを持っているのは彼女のファン。
イメージが崩れてガッカリするかもしれないのも彼女のファン。
そこを切り分けないから彼女は迷ってしまうんです。
当たり前じゃないですか。ゆなと彼女のファンとは最初から他人同士なんですから。見えているものも、考えかたも、立場も、価値観も、全然違うんですから。
私たちはいつだって主観を通して物事を読み解きます。だから、意見なんて分かれて当然です。どうしたらいいのかわからなくなるのは当然です。
船頭多くして船山に登る。本来他人同士であるはずの考えかたを等しく尊重することに意義なんてありません。
混乱してしまっているんですよね。
これまでは既定のキャラクター性に合った仕事ばかりしてきたところ、急にそういう価値観とは180度異なる、あえて自分のキャラクターを壊すような、全く新しい考えかたに出会ってしまったから。
2つの考えかたの間に挟まれて、自分なりに飲み下せていないまま、両方とも尊重しようとしてしまっているから。だから、自分の考えと他人の考えまでごっちゃに混同してしまうことを、まるで正しいことのように思ってしまう。
「私がどう見えるかとか、似合うとか、似合わないとか、嫌われるかもとか、そんなのどうでもいい! 一歩、踏み出す」
だから、今回彼女の悩みを解消することができたのは、“勇気”という名の横暴さ。
余計なものを強引にでも振りはらって、今、自分にとって一番大切なものにだけ向きあう真摯な姿勢。
トロピカってる価値観。
どうせ俳優の仕事なんて、台本から配役の人間性を読み解いて、自分のなかに一個の人格として定着するまで恋人のように寄り添いつづける、そのただ一点なんですから。自分に似ているかどうかですら、その意味では大した問題じゃない。
やるか、やらないかです。
いいえ。
やりたいか、やりたくないかです。
結局のところ。
「ずいぶん積極的なんですね、さんごさん。・・・ええと。なんとなく、おっとりっていうか、私に似た雰囲気を感じてたので」
「そうね。たしかにちょっと前までは少し受け身で、みんなに嫌われないように自分の好みをはっきり言うのをためらうような子だったわ。でも、最近変わったの。たぶん部活のお友達と出会ったからね」
「そんなことないよ。さんごは変わったんじゃなくて、もっとトロピカれるようになっただけなんです」
ほら。人が見るイメージなんて三者三様。同じものを見ているようで、それぞれ違った主観を通して少しずつ違った姿形に見えているもの。
見えかたなんて、考えかたなんて、本来バラバラなのが当たり前です。それでも世のなかなんとなく回っています。それぞれ別の価値観として併存しながら。
みんなバラバラのことを考えて好き勝手生きているこの世界で、さあ、あなたは何をしたいですか?
ペルソナ
「あ! いっそプリキュアになってもらえば? ガラッと変身できるんじゃない?」
まなつの思いつきは結果として着ぐるみというかたちで昇華されました。
こういう場面でプリキュアの何が都合いいって、見つかっても正体を悟られないところと、気兼ねなく思いっきり暴れられるところですね。
ところで我らの名誉黄色枠はなんでまたあの話の流れで着ぐるみをゆなに勧めるのではなく、真っ先に自分が着たのか。黄色だからか。
まあ、要するに、何か新しい自分に変身できるものがあればいいっていう話です。
『トロピカル~ジュ!プリキュア』のモチーフ的に、ここではもちろんメイクが大きく取り上げられることになります。プリキュアや着ぐるみもただはっちゃける分にはいいけれど、匿名であること前提なので自分名義での仕事には使えません。
「大丈夫。深呼吸して。私にできるのは、みんながなりたい自分になる、そのほんのちょっとのお手伝いだけ」
そんなわけで、着ぐるみを体験することで余計な考えをシャットアウトする勝手を掴んだゆなは、最終的にメイクで自分のイメージを塗り替えて撮影に挑むわけですが――。
「実は知り合いのメイクさんに相談して色々試してるんですけど・・・」
「でも、ダメなのね?」
そういえば、さんごのお母さんに施術してもらう前に自分でも何度か試していたはずなんですよね。
あれはどうしてうまくいかなかったんでしょうか?
そこはまあ、心構えの問題ってことになるわけですね。
メイクの濃さでいったら知りあいに施術してもらったときのほうがよっぽど濃く、いかにも悪役らしい造形に仕上がっています。なのに、さんごのお母さんの施術と比べてどちらがより悪役らしく見えるかといえば、明らかに後者。
表情の違いですよね。
以前のものは普段のゆなの弱気そうな顔にそのまま悪役メイクを施したせいでチグハグになっていましたが、さんごのお母さんが手がけたほうはもう表情からして悪役っぽいんですもんね。高慢なほどの自信に満ちあふれていて威圧感があります。
「そういうときこそメイクだよ! みゆきさんにメイクをしてもらえば、うりゃー!って気合いが入って、絶対うまくいくよ! ですよね」
「あ、えっと・・・」
これを見ると、まなつの言葉にさんごのお母さんが複雑な表情を見せていたのも納得です。
「ローラもちょっとやってみる? ――ほら! どう? 勇気が湧いてこない? 『トロピカるぞー!』って感じで! 『トロピカるぞー!』っていうのはね、常夏の太陽みたいにキラキラ眩しい幸せな気持ちが、胸の奥からこう、ぶわーっ!って湧きあがってくるような感じ!」(第1話)
ちょうど、まなつのメイクに対する価値観と対照的な考えかたになっているんですね。
まなつはメイクをすれば無条件にやる気が内側から湧きあがってくるものだと考えていますが、さんごのお母さんの考えかただと、むしろ本人の変身願望があってはじめてメイクが魔法の力を発揮する、と。
なるほど。このあたりのお話、次話以降に深掘りすることもあるんですかね? というか私がもうちょっと深く聞いてみたい。
「ガラスの靴は私たちがあげる。でも、踊るのはあなたよ。シンデレラ!」
さておき。
ゆなは無事に変わることができました。さんごの考えかたに触発されて。そして、さんごのお母さんのメイクに支えられて。
心の問題だけ追いかけると割と自己完結気味な考えかたになっているんですが、そこにお母さんのメイクが絡んでくるのが面白いところです。そういえば第3話時点だと、さんごの物語において他人は自分の“かわいい”を阻害してくる敵でしかないので、ここでようやくプリキュアらしい、周りの人たちとの関係性にまで言及されたことになるんですね。
自分の思いを押し通すことと、周りの人たちに支えられること、このふたつをさんごがいったいどのように両立させていくのか。またいっそう1年後どうなっているのかが楽しみになってきました。
コメント
今日のトロピカル~ジュプリキュアはヌメリ―の「プリキュアは確実に強くなっている」というセリフにシックリ着ました!!☆☆♬
これは日曜の10時までに終わるアニメ作品のシリーズ的に感慨深かったですね!!☆☆♬
で、次回はヤラネーダより強いゼンゼンヤラネーダの登場
トロピカル~ジュのプリキュアの新しい必殺技が楽しみですね!!☆☆♬
ゼンゼンヤラネーダとかいう全然パワーアップしているふうに聞こえない語感よ。
私、今朝の夢に見たんです。新しい協力技でオープニングの謎鳥が召喚されて――、コケコッコー!と高らかに鳴く絵面を。
正夢にならないかなー。朝っぱらからそんなもの見せられたら間違いなくやる気出るわー。
涼村さんご曰く、シンデレラが魔法使いの老婆からもらったものは「勇気」だったらしい。
では、魔法使いが見返りに得たものは、何だったのか?
まさか「オーッホッホッホ。いえいえお金は一銭も頂きません。お客様に満足していただければ、それが何よりの報酬でございます」ということなのか?
……いや、実際「笑ゥせぇるすまん」の喪黒福造と「シンデレラ」の魔法使いって、やってる事に何も違いはなかったりするんですよね。ーーーーーーだから「喪黒福造って黒白基調で小太りでパンダみたいだよね。よし!「でれらちゃん」のモチーフは“高笑いするパンダ”にしよう!」てな発想だったんじゃ……(一之瀬みのりレベルの名推理)。
では、“ココロのスキマを埋められたお客様”シンデレラは何故、「笑ゥせぇるすまん」の客達のように破滅することなく、幸せになることが出来たのか?その理由はーーーーーー「門限ギリギリには撤収してくる」「靴合わせに自分からしゃしゃり出てくることはしない」というシンデレラの“自制心”にあるのかもしれません。
与えられた「勇気」を「無謀」や「狂気」に変えてしまわない節制や謙譲、慎重さ、そして根気。せっかくのチャンスを無駄にせず確実にモノにしていく粘り強さが、シンデレラを勝利(ビクトリー)に導いたのではないかな、と。
そう考えていくと、涼村さんごってシンデレラ的サクセスストーリーに適合性の高い娘であるように思えます。彼女、決して臆病なのではなく、あくまで“慎重”に勝負どころを見計らうタイプっぽいのよね(そういえば第1話でPretty_holicを覗いた夏海まなつに自分から微笑みかけたのが涼村さんごで、何気に「お城にガラスの靴を置いていく」的な布石の打ち方が出来る天然策士でもあったりする)。
おとぎ話に出てくる善玉魔法使い自体、基本的には主人公に無償で施しをくれる役柄ですからね。『ピーターパン』とか『花咲か爺さん』の犬とかの超越者も含め。
むしろ『人魚姫』の魔女みたいに対価を要求してくるほうが珍しい。・・・だからディズニー版だとヴィラン扱いになってしまうわけですが。
『シンデレラ』って、普通に読むなら相当受け身な物語だと思うんですよ。
魔法使いがドレス一式どころかお城行きの馬車までお膳立てしてくれて、あげくガラスの靴のおかげでアフターケアまで万全。シンデレラはただ運命に身を任せるだけでいい。
シンデレラが自分で何かしたことなんて、それこそさんごの言うような、舞踏会に行く決意を固めたことくらいです。
そこにシンデレラの勇気を見いだすこと自体、さんごがまだまだ控え目な性格である証拠です。
ただ、今回いきなり“自分が”着ぐるみを着ることを決めてみせたように、この子の決断は意外な爆発力を秘めていますね。第3話でもずっと風見鶏だったのが急に手のひら返して自己主張していましたし。
第1話のあのスマイルもすごかったですよね。アメリカ流の処世術のひとつに、うっかり目が合ってしまって気まずいときはとりあえず微笑み返せっていうのがあるそうです。そりゃ確かにそういうリアクションもらったら誰でも悪い気持ちにはならないでしょうが、日本でそんなことしている人なんてめったにいませんし、一般的じゃないということは、それだけアメリカ人以上に勇気を必要とするということです。それができたんだからあの子は大したもの。
さんごが理想にしている“自己主張できる自分”って、案外まなつみたいなグイグイいくタイプじゃないと思うんです。
だって、あの子周りに合わせているときも普通に楽しそうですし。
おっしゃるとおり、彼女はここぞというときにだけ勇気を出せるようになれたらそれが一番幸せなんだと思います。