HUGっと!プリキュア 第44話感想 いつかあの人と同じ高みへ。

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お母さん。――生んでくれてありがとう。

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(主観的)あらすじ

 今日はさあやがずっと夢見ていた親子共演の日! 大女優のお母さんと、それから産婦人科医のマキ先生と一緒にスタジオ入りします。・・・と、思ったら誰の仕業か撮影スタジオがVR空間に! でも気にせず映画の撮影をはじめます。

 さあやの演技は傍目からは上手に見えました。けれど、共演する一条蘭世は怒りだします。本気が感じられない、何か他のことに気を取られている、と。お母さんも厳しい目で同じことを言いました。さあや自身からしても――図星でした。
 さあやは迷っていました。お母さんとの共演を夢見ていたのは偽らざる本心。でも、先日見た産婦人科医の仕事にもまた憧れるようになっていました。
 さあやはマキ先生に問います。最初から産婦人科医になるのが夢だったのか? マキ先生は首を振ります。初めは外科医を目指していた。けれど、夢を追いかける途中で産婦人科のお仕事に出会ったのだと。迷うことも、後悔することも、いつもある。だからそういうときは自分の心に正直でいようと思っている、彼女はそう語るのでした。

 さあやの目の色が変わりました。
 この撮影をやりきったら、次は医者を目指そう。そう考えると自然と演技に心が篭もり、観る人の胸を震わす情熱的な芝居ができるようになるのでした。

 そんなさあやを見守るお母さんの胸中は複雑です。心の隙を突かれてお母さんはオシマイダーにされてしまいました。
 お母さんを救うため、さあやはお母さんの心に触れました。そこにあったものは母親として我が子が夢を見定めたことを喜ぶ気持ちと、愛する娘が自分のもとから巣立ってしまうさびしさ。ふたつの相反する気持ちでありながら、どちらもさあやに対する溢れんばかりの愛でした。
 さあやはお母さんに感謝の言葉を伝えます。生んでくれてありがとう。

 お母さんが元の姿に戻り、不思議なVR空間も元のスタジオに戻って、さあやとお母さん本来の共演作撮影がスタートしました。
 芝居を通じてさあやは改めて自分が新しい道を歩むことを宣言しました。お母さんはそれに対し、凜として厳しく、けれど愛情深く、彼女の決意を応援するのでした。

 あれは私の高校受験のときだったか、大学受験のときだったか。ふと両親が親としてではなく、ひとりの個人としてエゴを見せることがあると気がつきました。
 最初は腹立たしく思いました。親のくせに!って。
 というかすごく困りました。この人たちが親の立場から私を導いてくれないのなら、私はこれから自分の進路を自分の責任で決めないといけないのか、と。
 ・・・あ。別に放任主義だったわけじゃありません。むしろ普通よりちょっと過保護気味だったくらいです。だからこそ自分で決断しなきゃいけないと思ったときに目の前が真っ暗になったわけですが。

 両親に親として以外の顔があることがすごく衝撃的で、親としてだったり一個人としてだったりひとりの人間が複数の視点を持っていることがとてつもない大発見で、あのとき、私の世界観がひっくり返りました。
 まあ肝心の進路決定はうまくできたとはいいがたいんですけどね。優柔不断でいつも失敗ばかりしています。それでも、あのときの気付きは今の私にとってすごく重要で、これは両親からもらった一番の宝物だなと密かに感謝しています。(たぶん口に出したら変に誤解される)

芝居

 「ありがとうございます、ナイト様。私はあなたの強さに憧れる。広い世界に旅立ち、同じ目線に立ったとき、この泉のように湧くあなたの強さの源が私にもわかるのでしょう。私も新たな道を進んでいきたい。夜明けはもうすぐ――」
 型にはまった抑揚。型にはまった所作。型にはまった情感。
 一条蘭世がカチンときたのはそのあたりでしょうか。

 他人事なんです、当初のさあやの演技は。
 このセリフを言うお姫さまならきっとこういう話しかた、こういう身ぶり手ぶりをするだろうと、頭のなかに想像したお姫さま像を忠実にトレースしています。お姫さまの視線はどこを向いているでしょうか。特に何も見ていません。強いていうならカメラを意識しています。お姫さまの手の動きは何を表現しているでしょうか。いかにもそれらしい優雅さだけです。
 マネキンじゃないんだから。
 芝居というのはそういうものではありません。役になりきるのではなく、役を降ろすんです。なりきることを芸とするのはモノマネ芸人、もしくはコント。俳優の芸はその人物そのものになることです。話しかたや身ぶり手ぶりを演じるのではなく、来歴や思想、ものの見かたなどを演じるんです。

 「ふん! お姫さまは結局お姫さまですわね。あなた、これで本気ですの?」
 「何ですの、今の演技は! 他のことに気を取られて芝居の世界に入り込めていない!」

 ネタキャラっぽくても一条蘭世はやはり芸人ではなく俳優なんですね。きっちり見破ってきました。
 ↑でエラそうなことを書いていますが、ぶっちゃけ私は彼女の指摘がなければさあやの演技の問題に気付くこともできなかったでしょう。そもそも書いた内容自体昔教わったことの受け売りですし。

 「私はあなたの強さに憧れる」「広い世界に旅立ち、同じ目線に立ったとき」「あなたの強さの源が私にもわかるのでしょう」「私も新たな道を進んでいきたい」「夜明けはもうすぐ」
 こんな勇気ある力強いセリフを自分自身の言葉として話すことのできる人間がいったいどれほどいるものか。
 「野乃さんは自由な発想があって、なりたい自分の未来があって、私よりずっとすごいよ。私には何もないから」
 「それくらいしかできないの。野乃さんみたいな勇気がない」
(第2話)
 かつてさあやは自分には勇気がないんだと思っていました。
 「色々考えすぎちゃうのかな。この人は私に何を求めているんだろう。何が正解なんだろうって」(第7話)
 だから、賢くて優しい子に育ちました。自分を強く主張できない分、代わりに他人の期待することを一生懸命考えて、精一杯応えようと。
 「ルールーだってかわいいと思ってる。きっと。ルールーの表情見てればわかる」(第14話)
 他人の気持ちを汲んで、それに寄り添うことのできる人間になりました。
 「お母さん、どう思うかなって。――もし困らせてたらイヤだなって」(第26話)
 反対に、自分のせいで誰かに迷惑をかけてしまうことは人並み以上に気にするようになってしまいました。

 「さあや。芝居に心が感じられない」
 けれど今さあやに期待されていることは、他人事ではない自分の思いとして表現することです。

 「さあやちゃん勇気あるよ! だって、誰かに優しくするってすっごく勇気の要ることだもん!」(第2話)
 「なんで。それめっちゃカッコいいじゃん!」(第7話)
 「意外だった。さあやにこんな負けず嫌いなところがあったなんて」(第14話)
 「その節はありがとう。5分間、感謝したぞ」(第24話)
 「さあや先生。遊んでくれてありがとう!」(第35話)
 みんなが褒めて、あるいは感謝してくれていたさあや“らしさ”。
 他人からの期待に目を向けるあまり、自分ではそれまで気付くことのなかった自分らしい魅力。
 今日はそれを自覚的に発揮することが期待されています。

勇気

 「いつも不器用でイヤになる」
 たくさんの人の期待に応えてきました。
 子役としての芝居。学級委員長としての雑用。お仕事体験での業務。友達としての親切。
 ひとつひとつはたぶん誰にでもできることで、絶対にさあやにしかできないことなんてひとつもありませんでした。色々頼んでもらえたのはたまたま自分が都合よくその場に居合わせられただけ。色々なことをやってきたくせに、たとえばほまれのスケートのような、これこそ自分らしさだと胸を張れる特別な何かは、結局見つかりませんでした。
 さあやは誰にでもできるようなことしかできません。大女優のお母さんと違って。

 「マキ先生。先生はずっと産婦人科のお医者さんになることが夢だったんですか?」
 立派な人と自分との違いって何だろう。特別なことのできる人って、やっぱりはじめからどこか特別だったのかな。
 マキ先生は首を横に振ります。
 「ううん。最初は親と同じ外科を目指してたんだよ」
 新しく生まれくる命を取りあげるというとても素晴らしい仕事をしているマキ先生。彼女の出発点は、実はさあやとよく似ていました。

 「研修医のとき、内科、外科、いろんなところをまわって経験を積むうちに――、出会っちゃったんだよね」
 「先生は強いですね。そうやってはっきり道を決めたら後悔することは――」
 「あるよ。人生そんなものだよ。どんな道を選んでも後悔はする。だからさ、そのときそのとき心に正直に生きようって、私は思ってる」

 立派な人は、さあやが想像していたような人物とは少し違っていました。

 覚えているでしょうか。大女優・薬師寺れいらの人となりを。
 「れいらさん、昔から料理はちょっと苦手でね。役づくりのために休憩中はいつもああやって練習しているんだよ」
 「あいつはすごくがんばったよ。女優の仕事も、お母さんも。もちろん修司も、そして俺たちも、みんなでがんばった。だからあいつは最大限輝けたし、君もこんなに大きくなった」
 「お母さんは昔からちょっと不器用で、でもすっごくがんばり屋で。一緒にいられる時間は少なかったかもしれないけど、その分いっぱい遊んで、笑って、抱きしめてくれた」
(第26話)
 さあやの尊敬する大女優は、努力の人でした。
 何もかもはじめから器用にできるから大女優になれたのではありません。誰にでもできることひとつひとつに地道な努力を積み重ね、たくさんの人に迷惑をかけながらも大勢の人の助けを借りながら、人一倍がんばってきました。
 不器用な人でした。
 なのに、誰にもマネできそうにない高みへと上りつめた人でした。

 「私のいるこの高みまで上ってこられるかしら?」(第26話)
 いつか彼女は不器用なさあやに問いを投げかけました。まるで挑発するように。微笑みながら、娘の夢への情熱を思いっきり焚きつけていました。
 さあやに期待していました。この子なら努力次第で自分と同じ高みに来ることもできるだろうと。

 はじめは誰もが不器用でした。
 大女優も、産婦人科医も、そしてさあやも。
 はじめから特別だった人なんていなくて、みんな迷いながら、不安に思いながら、自分の道を歩んでいったんです。

 「ありがとうございます、ナイト様。私はあなたの強さに憧れる。広い世界に旅立ち、同じ目線に立ったとき、この泉のように湧くあなたの強さの源が私にもわかるのでしょう。私も新たな道を進んでいきたい。夜明けは、もうすぐ!」
 視線はずっと憧れていた大女優の瞳へ。
 両手は自分の前に広がる未来を抱きしめるように。
 言葉はこれから踏み出すことを決めた「もうすぐ」にアクセントを置いて。

 たくさんの人の期待に応えてきました。
 子役としての芝居。学級委員長としての雑用。お仕事体験での業務。友達としての親切。
 ひとつひとつはたぶん誰にでもできることで、絶対にさあやにしかできないことなんてひとつもありませんでした。
 「しかし5分で癒やされた。あのときと同じだ。君は私に新しい夢をくれた。ありがとう」
 なのに、みんなさあやを褒めて、あるいは感謝してくれました。
 そこにいたのは他の誰でもないさあやで、それを成したのは他の誰でもないさあやだったからです。
 迷っていい。不安に思ってもいい。誰にでもできるようなことしかできなくてもいい。みんなこれまでさあやがしてきたことを、それでもさあやらしいと思ってくれていました。
 だから、きっとこれからも。
 「さあやちゃん勇気あるよ! だって、誰かに優しくするってすっごく勇気の要ることだもん!」(第2話)

 「フレフレ、私」

世界で一番近くにいてくれた他人へ

 「さあや。さあや。初めて抱きしめたときの小ささ。この子のためなら何でもできると思った。愛おしい娘の巣立ち。・・・なのに、どうして私、応援できないの」
 はじめからお母さんだった人なんていません。
 みんなどこにでもいる子どもからはじまって、大人になって、やがて誰かと結ばれて、子を宿して、そうしてはじめてお母さんになりました。
 だから、お母さんはお母さんとしての顔だけでなく、ただの個人としての顔も持っています。
 我が子の幸せのためなら何でもできる大きな愛を抱きながら、それでいて、自分も幸せになりたいというエゴも持ちあわせています。愛しい人といつまでも一緒にいたいだなんて、そんなの当たり前の気持ちじゃないですか。

 「さあやが『お母さんが憧れだ』と言ってくれたこと、うれしかった・・・!」
 我が子のためではなく自分のためにこぼす、薬師寺れいらの涙。
 さあやもそれを見つめて感極まります。
 だって、こんなの嬉しいに決まってるじゃないですか。お母さんが、お母さんとしてだけじゃなく、ひとりの薬師寺れいらとしても自分を愛してくれていただなんて。
 こんなにも大きな愛に守られていただなんて。こんなにも深い愛をふたつも自分に向けてくれていただなんて。

 嬉しくて。愛おしくて。だからさあやもお母さんに告白します。
 「私の今までの夢は『お母さんの見ている世界を見てみたい』だった。その世界に触れることができたから、新しい夢が見つかりました」
 ひとつはこれまでずっと導き育ててくれたお母さんへの、子どもとしての愛。
 「私はお医者さんになってみんなを癒やしたい。笑顔にしたい。お母さんがお芝居で大勢の人を幸せにしているように」
 ひとつはこれからも永遠の憧れである大女優・薬師寺れいらに対しての、隣人としての愛。

 薬師寺さあやは知恵のプリキュアです。
 いつも優しくて親切だけれど、その優しさの本質は相手の気持ちを思いやり、その人のためにできることを考えてあげられる賢さによって成り立っています。

 「お母さん。――生んでくれてありがとう」
 どうかこの大きくて深い愛に見合うような愛を、ほんの少しでも目の前の人に伝えられますように。

 「赤子よ、ケガはないか」
 「元気なったー?」
 「ありがとうございます、ナイト様。私はあなたの強さに憧れる」
 「姫」
 「広い世界に旅立ち、同じ目線に立ったとき」
 「これからもあなたの前には困難が待ち受けるでしょう。けれど、今の気持ちを忘れないで。夢を、明日を、まっすぐ見る瞳があなたの強さなのです」
 「はい。私は新たな道を進んでいきます。夜明けは今!」

 薬師寺れいらはさあやに対し、大女優としての厳しい視線と言葉で、ずっと見守ってきたお母さんらしい愛の篭もったエールを送ります。
 さあやも真剣な面持ちで受け止めます。

 ここから先は今までとは違う、自分の足で切り開かなくてはならない道。
 けれど、道を違えたとしてもお母さんの愛が失われたわけではありません。薬師寺れいらへの憧れが失われたわけでもありません。愛は変わらずお互いの胸のなかでつながっています。
 だから、離れていても、離れはしない。

 「フレフレ、さあや」

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    コメント

    1. 東堂伊豆守 より:

      SECRET: 0
      PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
      薬師寺さあやって基本的にバイプレーヤー気質の娘なんですよね。学級委員長であれお仕事体験であれ、誰かのサポート役に徹するときに真価を発揮するタイプ。特に圧巻だったのは11話で「自信喪失していた野乃はなを"説得"したあと輝木ほまれにハグを任せた」シーンで、あそこでさあやはわざわざ憎まれ役(「はなが自分を卑下するのは勝手だけど、はなを評価している私を否定する資格はないでしょ」と理詰めではなを反論出来ないように追い詰めて、続くほまれのハグが最大限の効果を発揮出来るように仕向けている)を買ってでているんですよね(さらに43話でもほまれへのハグをはなに任せて自分は事前交渉役に回っている)。
      だから彼女が医師という「患者の人生のサポート役」を生業に選んだのは"落ち着くべきところに落ち着いた"ということなのかもしれません。
      そしてこの名バイプレーヤー振りはさあやの好敵手・一条蘭世にも言えることで、実のところ蘭世こそが女優・薬師寺さあやの一番の理解者だったりする。"大女優の娘"という色眼鏡なしでさあやの力量を正確に見抜き、おまけにさあやの抱える弱点(コンプレックスと、女優業に対する"甘さ")まで的確に把握してさあやに"喝"を入れてくる名悪役振り。そりゃ「小悪魔役」に抜擢されるのも当然な訳ですよ。
      ただこの二人、「主役でなければ価値がない」という思い込みを抱えている点も共通している雰囲気があって……、あるいはさあやがこれまで自分に自信を持てなかった理由は「お母さんのように皆の中心で輝ける存在にならなければ存在意義はない」と思い込んで、サポート役を務めることの価値を認められなかったからではないのかな、とも思えるんですよね(逆にとことんスター気質のれいらは「娘のサポート役を上手く務められない」コンプレックスに悩んでいたようで、……もしかすると蘭世に自分に替わって娘の指導役をやってもらいたかったのかも?)。
      ところで……、大女優といい産科医といい、そして財閥の嫡男や主人公の祖母&妹といい、プリキュアの正体が周囲にダダ漏れ(そして皆さん実に物わかりが宜しくていらっしゃる)のように見えるんですが、これは"突っ込まないのがマナー"なのか、はたまた最終決戦に向けての伏線になるのか、どうなんでしょうね?

    2. 疲ぃ より:

      SECRET: 0
      PASS: 83849cf6295498c96deb555e00f4c759
       カメラの後ろの世界は誰にも観測されないので、変身前後に映っていないかぎりは大丈夫大丈夫。(シュレディンガーの猫みたいな)

       いやー、個人的なワガママをいうならさあやにはぜひとも俳優業を続けてほしかったのですが、話の流れとしてはこうなるのが必然でしたね。“なんでもできる、なんでもなれる”を標榜するなら夢を変えることのできる可能性を描くのは必要ですもんね。
       さあやのあの心の機微に対する聡さは本当に俳優向きだと思うんですけど・・・って、これ実のところ最近では医療従事者にも求められている適性なんですよね。主にQOLの関係で。そう考えるとやっぱり落ち着くべきところに落ち着いたのか。

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