意識高い系って厨二病の言い換えだよね

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注意:アニメ感想ではありません。

 この時期は普段あまりネットに書き込みしないタイプの人たちがあちこちでさかんに話題を提起するので、ネット全体がちょっと新鮮な(あるいはノスタルジックな)雰囲気になりますね。
 何年前だかに流行った「意識高い系」のネタがまたあちこちで再燃しつつあるっぽいので、私もおもったことをつらつらと。

 新語、とりわけ若者語というのはどうにも権威ある定義がなされにくく、そのためなんとも語りにくいものなのですが、wikipediaの見出し文が私の理解に近かったのでまずは引用。あと記事タイトルどおり厨二病も。

 このふたつ、書いてあることがだいたい同じだと思うんですよね。適用年齢層は「若手(若者)」と「(中学2年生頃の)思春期」。やってることは「自分を過剰に演出」と「背伸びしがちな言動」。そしてどちらもそんな言動を自嘲ないし嘲笑する言葉です。
 ちなみにかつては「大二病」という、もっとド直球に意識高い系の前身的立ち位置にある言葉も存在していました。当時、厨二病から派生した言葉は同時多発に山とあったので、全部まとめてあんまり流行りませんでしたが。

 ただ、厨二病という言葉は流行ってすぐに意味が大きく変わっちゃったんですよね。厨二病からの派生で「ラ・ヨダソウ・スティアーナ」とか「影羅」とかの邪気眼コピペが流行って、いつの間にか厨二病=邪気眼ってことになってしまいました。
 だからこそ本来の厨二病を言い換える形で意識高い系って言葉が出てきたんだともいえるのですが。

 子どもの頃の私はそりゃあもうイタい子でした。今でも大概イタい人間ですが、子どもの頃は今にも増して恥ずかしいエピソードてんこ盛り。
 例えば筆記用具は好んで鉛筆を使っていました。三菱鉛筆のhi-uni。高いだけあって書き心地も良好ですが、そんなことはどうでもいい。なんといってもあの古式ゆかしい小豆色がサイコーにカッコよかった。
 それを毎時間、授業の前にカッターで削るんです。これ見よがしに机の上に鉛筆3本並べて、ひとりで黙々と。木材部分はあえて大雑把に削って無骨な雰囲気を演出。それでいて芯は丁寧に円錐形に磨いて技術()の高さをアピール。当時は「これをやると授業中いい感じに集中できるんだ」なんてカッコよさげ(個人の感覚です)なことを言っていましたが、ぶっちゃけそういう“特別な自分”をみんなに見てほしかっただけでした。残念ながら始めた当初に何度か質問されたくらいで、その後は完全にスルーされていましたけれど。
 大学に入ってからはもう少し悪化して、講義室の最前列ド真ん中に陣取って、音楽(ゲームサントラ)聞きながら講師が来るまでひたすら鉛筆削ってました。何人かの講師は最初面白がってくれましたが、最前列に座るくせに講義中平気で寝こけてたので次第に興味を持たれなくなりました。

 さて、こんな私は厨二病でしょうか、意識高い系でしょうか。もっと直接的に「ただのバカ」という罵倒が最も適切な気がしますが、とりあえずそれは無しで。
 今だともう厨二病と言われることはないかもしれませんね。邪気眼に取り込まれた時点で、なにかもっと面白おかしいキャラクターを指す言葉に変化しちゃいましたから。けれど大学卒業間際、いいかげん多少は理性を取り戻した私は「あ、これ厨二病だ・・・」と思い至ったものです。

 思うに、こういう“中身を伴わないカッコつけ”を指す言葉って、いつの時代にもあった方がいいんじゃないですかね。
 だって気恥ずかしいじゃないですか。居心地悪いじゃないですか。こういうイタい言動してる自分に気付いた瞬間って。あるいは知人がそういうことしてるのを知った瞬間って。そのなんともいえないむず痒さを、厨二病なり意識高い系なりって言葉は取り払ってくれるんです。そういう言葉が世に存在しているってことは、イタい人間は自分(あるいは知人)だけじゃないって証拠ですから。
 そういうイタさを内包してくれる言葉がないのって、たぶん相当ツラいことですよ。それは逆に「こんな恥ずかしいヤツこの世にひとりしかいねーよ」というレッテルを貼られたようなものですから。ものすごく孤独です。いえまあ私がそうだったように、この手のきっかけって“特別な自分”として見られたい自己顕示欲が発端なことが多いのですが、それは孤独になりたいって意味じゃありませんから。むしろチヤホヤしてほしいわけですから。かまって!
 そんなわけで、こうしたイタい誰かを笑い飛ばす言葉はいつだって流行っていてほしいものです。私はそう願います。“特別な自分”を望んでいた自分が実は“誰かに構われたかった”んだって気付かされた、私の世界観のパラダイムシフトは存外実り多きもので、たぶん今の私のものの見方に大きな影響を与えています。あの頃からカッコイイものもカッコワルイものも、善も悪も、有為も無為も、全部ひっくるめてとりあえず存在することだけでステキだと、そう思うようになりました。そして私はそんな考え方を好ましいと、今の私が好きだと、そう思うわけです。

 若者言葉って活きがよくて、ちょっとしたきっかけでいきなり意味が大きく変わっちゃうものなんです。厨二病しかり。意識高い系も「本当に意識高い人」を切り離したあたりから変質しはじめていて、最近妙なキャラクター性を帯びてきているように思いますが、まあ、そんなものでしょう。問題ありません。
 言葉が本来の意味から著しく逸脱したら、またなにか新しい言葉が生まれるだけです。言語ってそういうものです。「お前」「貴様」「てめえ」、二人称を示す尊敬語のことごとくが侮蔑語となりながら、それでも今なお「あなた」とか「貴殿」とかちゃんと機能している尊敬語も存在するように、需要がある限り言葉は新しく生まれ続けるでしょう。意外と新陳代謝するんですよ、言葉って。
 だからまあ、私は厨二病や意識高い系に続く新しい言葉の需要があり続けてくれるよう、こっそり願うわけです。「こっ恥ずかしい私みたいな人、もっともっと増えろ」と。

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