
自分のことって自分じゃよくわからないんだね。
(主観的)あらすじ
ヤンヤンが紹介してくれたロケット職人はフレア親方という人でした。アツアツの炎の塊のような姿をしていました。
彼はロケット修理を快く引き受けてくれましたが、ひとつ、ひかるたちに条件を出してきました。修理の手伝いをしてハートを見せてほしい。
修理はフレア親方をメラメラ燃え上がらせることで行います。特に重要な足踏みフイゴはえれなとまどかに任されました。
ところが、このフイゴ踏みが想像以上の重労働。親方の要求水準も高く、ふたりが声をかけあって一生懸命踏んでもちっとも炎が大きくなりません。もたもたしているうちにスコールが降ってきて、作業は一向に進まないまま、いったん中止することに。
えれなとまどかは自分の限界を感じて座り込んでしまいました。自分の力不足のせいでみんなに迷惑をかけてしまったと、どうしようもない思いで胸がいっぱいになったのです。
雨宿りのあいだ、フレア親方は少し昔語りをしました。
フレア親方はプラズマ星という火の星の出身です。ある日、テレビで紹介されたプルルン星に興味が湧いて、どうしても自分の目で見てみたくなりました。ところがプルルン星は水の星。どう考えても火の星の住人が生活できる環境じゃありません。家族や友達もみんな止めました。
けれど、フレア親方は実際こうして今もプルルン星で暮らしています。あのとき諦めていたらハートの炎が消えて、燻ったような生きかたをしていただろうと、親方は述懐するのでした。
話を聞いて、えれなとまどかは親方はすごい人だと心から思いました。
でも、すごいといえば普段のえれなだって笑顔を絶やさないですごいと、まどかは思いました。彼女が今日みたいに「もう限界だ」なんて言うのは珍しい。
えれなも同じことを思いました。まどかはいつもたくさんの習い事や生徒会の仕事を頑張っているのに、今日みたいに弱音を漏らすのは珍しい。
ふたりとも、それではっと気がつきました。さっき感じた限界は、自分で勝手に決めつけていただけなのかもしれないと。
雨が上がり、ついでに水を得たカッパードも撃退したあと、えれなとまどかはもう一度フイゴに挑戦させてもらいました。限界を越えて頑張ったふたりの働きはたちまちフレア親方を白熱させて、あっという間にロケットを直すことに成功したのでした。
「限界なんてない」
すくすく育っている途上の子どもたちならいいでしょうが、越えられる見込みのない壁に毎日ぶつかり慣れているオッサンオバサンにとって、こういうのはなかなか鼻白む言葉です。元よりプリキュアというもの自体最初からそういう物語なので、今さらそれ言う?って思われるかもしれませんが。
ただ、思うんです。
大人らしく素直に限界というものの存在を認めたとして、私たちにはそのうえで何を考えることができるだろうって。
「限界はある」ということを前提にした思考って基本的に不毛なんですよ。
なにせ前提以上の結論が出ようはずがない。“これ以上進めない”なら、“これからどのようにして進むか”なんて進歩的なことを考えるだけ無意味です。答えが最初から出ちゃっているんですから。
なので、この手の思考は“どうして限界なのか”を考える方向に流れがちです。けれどその考えかたも基本的には無意味。どれだけ現状分析したところで未来は“これ以上進めない”で確定しちゃっているわけですから、いかに一生懸命知見を集めてみたところで、それらが役に立つ日はおそらく一生来ません。
もちろん、これが科学研究なら話は別です。自然についての観察・考察を集積することには博物学としての普遍的な価値が生まれ、自分以外の誰かの研究に活用されうるからです。
けれど、個人が感じた限界についての思考は・・・自分以外にとってほとんど意味を成さないですよね。私たちはそれぞれ別の人生を歩む、別の思想を持つ、別の人間なんですから。
だから。
結局のところ私は思うんです。たとえ目の前に限界というものの姿が見えていたとしても、そいつについて思考してやる意味なんて無いな、と。
“限界があること”について考えるより、“仮に限界がなかったとしたら”を考えてみるほうがよほど有意義。机上の空論、理想論、キレイゴトなどと呼ばれるかもしれませんが、しかも実際には限界が存在するので思ったとおり前に進むことはできないでしょうが、それでも構いません。どうせ限界について考えてみたところで、前に進めないという点では結局同じなんですから。
だったら、前に進もうとする自分の意志と、わずかにでも残る未来への可能性を支持します。
「限界なんてない」
プリキュアという物語はちょくちょくこういう、私たちの知っている現実のありようと矛盾するメッセージをぶつけてきます。
そんなのキレイゴトでしかないと私は思いますが、同時に、そんなキレイゴトを胸に抱くことにこそ意味があるんだって、そう思います。
ごめんね
「みんな、ごめん」
「私たちが不甲斐ないばかりに・・・」
スタートゥインクルプリキュアにおける挫折の描写はいつもこういうふうになります。
何かに失敗したときどんなことが一番悲しいのかといえば、それはいつだって、誰かに迷惑をかけてしまうこと。
これが自分だけの課題なら、あとで誰も見ていないところでいくらでも挽回するチャンスがあるでしょう。これが自分だけの都合なら、割り切って違う手段を模索してみるのもいいでしょう。けれど他人を巻き込んでいると、とたんにそんな身軽な立ちまわりができなくなるものです。
「サザンクロスは天文台からは見えないけど、宇宙なら見えるかなって、みんなを誘ったの。でも、そのせいで・・・」(第11話)
いつかのひかるが「はしゃいでいたかも」と落ち込むしかなかったのもそれが原因のひとつでした。
「私の星では13歳で大人ルン。だから、ロケットを直してプルンスたちを連れていくっていう、大人の責任があるルン」(第2話)
かつてのララが大人としての責任を変に重く捉えていたのもそれが原因のひとつでした。
「みんなを戻すためならなんだってする。宇宙怪盗でもなんでも!」(第20話)
ユニが宇宙怪盗という後ろめたい活動をはじめたのも、つまるところは同じ理由。
後ろに誰か連れているから頭が固くなって、背中に何か背負っているから体が鈍くなるんです。誰かのためだと思うから、自分で自分の首を絞めるような考えすら無自覚に受け入れてしまいます。
目の前にはやりたいことというより、やらなければいけないことがあって、けれどうまくできなくて、本当はできないのに、できないとみんなに迷惑をかけてしまうから、それでもやるしかなくて、でも、できない。
「もう、限界かも・・・」
「はい・・・。これ以上はムリです」
重圧をかけられた思考はまるで出来の悪い迷路のようにぐるぐる回り、頭のなかのどこを探してみても状況を変えうる名案なんてひとつも見つかりません。
手が、足が、心が止まります。これ以上は無意味だと。どうせ失敗するから早く楽になろうと。
思考停止。
「えれなさん。まどかさん。大丈夫?」
「・・・ごめんね」
「私たちのせいで修理が遅れてしまって」
言葉が、噛み合いません。
せめて考えることをやめてしまえば少しは楽になれるのでしょうか。少なくとも、迫り来る限界に怯えることはなくなるのでしょうか。
「遅い。アイワーン。ムダな考えは捨てよ。止めよ、思考を!」(第21話)
いいえ。何も考えられなくなるのも、そちらはそちらでどうやら苦痛のようです。
八方塞がりですね。
えれなのほうが、まどかのほうが
誰かと一緒にいるから挫折がより辛く、より逃れにくくなる。
ということは、誰かと一緒にいることは悪いことなんでしょうか?
いいえ。ひかるたちはそれぞれ挫折を味わってなお、今も友達と一緒にいます。
「みんなといると宇宙が広がるルン」
「みんなのおかげで、心のなかの宇宙が無限に広がっていくルン」(第25話)
だって、辛さ、逃れられなさを差し引いてなお余りある、とってもステキな価値がそこにあると知っているからです。
「・・・そういえば、いつも元気なえれなが『もう限界』なんて言うの初めて聞きました」
「え。そんなことないよ。まどかのほうこそこんな弱音吐くなんて――」
「私はえれなほど強くありません!」
「強いよ! まどかは生徒会長も弓道も習い事もちゃんとできてて、すごく忙しいのに、辛いとか言わない。ホントすごいよ」
「えれなのほうが、お店のお手伝いや弟さんや妹さんのお世話をして、それなのにいつも笑顔で。私にはマネできません!」
「まどかのほうがすごいって!」
「いいえ! えれなのほうがすごいです!」
人はみんな違っていて、ひとりひとり違う視点を持っていて、同じものの、違った姿を、それぞれ見ることができます。
“私”という存在ですらどうやら様々な側面を持っているらしく、私の頭に引っ付いた2つの眼球だけでは捉えきれない、自分でも意外な姿がたくさん隠れているようです。
「こうしてさ、パジャマでみんなとおしゃべりだなんて、みんなに会う前、ちょっと前の自分からじゃ想像できなかったよ」(第26話)
「星奈ひかる。あなたがなれたから、私もプリキュアになれると思ったルン」(第2話)
「わからない・・・。星のみんなは救いたい。でも、その前に。・・・倒れているんだ。目の前で。この子たちが!」(第19話)
――だから、ひかるたちは友達と一緒にいることを選びました。
宇宙を巡ればたくさんの知らない世界、知らない人たちと出会えるように、友達と一緒にいるとたくさんの新しい自分に出会えるから。
「自分のことって自分じゃよくわからないんだね。私たち、自分で自分を決めつけてたのかも」
みんなと一緒にいるせいで自分の限界を意識してしまったえれなとまどかは、みんなと一緒にいたおかげで、その突破口を見つけることができました。
限界なんてない。少なくとも私は私の限界を悟れるほど、まだ私について詳しくない。
“限界”の代わりに見つけたものは“可能性”。
ひとりひとりの心のなかにある、無限の宇宙の広大さでした。
「あのとき諦めとったらハートの炎が消えて、一生くすぶっとったじゃろうな・・・」
コメント
限界って多分不安が つくる幻
今ならわかるよ
(ハートキャッチプリキュア!挿入歌
『HEART GOES ON』)
↑これを思い出しました。
今回しがない大人には耳が痛いお話で……。
でもプリキュアって
例えば女の子が肉弾戦したり、2人じゃなくなったり、話の途中で悪役がプリキュアになったり、ガチな恋愛やってみたり、水着を出せるようになったり、戦士じゃなくなったり、なんなら女の子がなるものという縛りすら劇中設定から消し去ったり
あり得ないと思われたことを毎年レベルで実現させちゃうんですよね。
それを作ってるのは大人たちですから、限界を超えるポテンシャルに年齢などないのかもしれません。
まあ私は義務教育時代に諦めた二重飛びや逆上がり等を今更マスターする気はないですが(台無し)
なんなら自分の寿命が尽きても次の世代がうまくやってくれるのでだいじょーぶだいじょーぶ。(卑怯な大人)
・・・っていいかただと冗談抜きにただの卑怯ですが、実際私はそう思います。
もとより個人のちっぽけな力で現実とかいう大きなものを動かそうとしているんですから、急には限界なんて超えられません。限界なんてないと私も言い張りますが、さすがにいつでもできると思うほど今さら頭ファンタジーにはなれません。
だから、(時間稼ぎのためにも)次の世代へ繋げられるものなら繋いじゃえばいいと思っています。
「友達と響きあえば、夢も遠い夢じゃなくていつかリアルになる」(『HEART GOES ON』)です。全体から見た歌詞解釈としては明らかに間違っているけれども。
“限界”と聞いてついつい納得してしまいたくなるオッサンオバサンにはこっちの理屈の方が耳に優しいんじゃなかろうか。
ただし、それを標榜するからには次の世代に今よりもうちょっとマシな世のなかを引き渡せるよう努力せにゃなりませんが。同じ世のなかのままいっちょ前に夢だけ託しても同じ挫折を繰り返させてしまうだけなので。
家族に尽くし、家族の笑顔を守ることを最優先とする天宮えれな。
父親の忠実な後継者、香久矢家の一員にふさわしき存在たることを自身の使命と心得る香久矢まどか。
そんな二人が限界にぶち当たってヘタレたとき、ハッパをかけるのが「自分の夢を実現する為に家族を泣かせることも厭わなかった」フレア親方、というのが何とも皮肉な構図で、……もしかすると今回のエピソードの裏メッセージは「自分の限界を越えるために、エゴを抑えず、家族とも本音でぶつかれ」ということだったんではないか、と思えてしまうんですが……。果たして今回の経験が今後二人にとってどんな意味を持ってくるのか、気になるところではあります。
それから、今回仕事にかこつけて水浴びしに来ただけじゃないのか?と勘ぐりたくなるカッパード兄貴ですけど、”歪んだイマジネーション”を我が刃に吸わせるより余程パワーアップしてそうに見える辺り、この人やっぱり根っこは陽性脳筋体育会系で、小賢しくひねくれた生き方は性に合わないんだろうなぁ、と感じます。
ただそれゆえに却って「”カリスマ”に対して無条件の忠誠を尽くす」生き方(これも一種の思考停止)に馴染みやすいのかもしれず、無駄にプライド高いインテリ気質のアイワーンが(おそらく)ダークネストに自我を乗っ取られたことに屈辱と恐怖を感じてノットレイダーから離れたのとは対照的に、カッパードはノットレイダーへの滅私奉公を当然視していて「ダークネストに自我を乗っ取られる」ことも”ペナルティ”とは考えていない、ということなのかもしれませんが。はてさて。
ふたりが今(今話に限らず)ぶつかっている課題は、周りの人に気を使いすぎて勝手に我慢しすぎてしまっていることなので、その意味でも親方のエピソードはいいヒントになったかもしれませんね。あの優しいふたりはもうちょっとエゴを表に出してみてもいいと思います。
カッパードさんきっと絶対いい人なのに、変なところで考えることを放棄してますよね。あんだけ我が強い人だったらアイワーンが思考停止を強制されたのを見て嫌悪感を抱きそうなものですが。
故郷を失った件、よっぽど絶望的な目にあったんでしょうか。