
あたいの居場所はなくなったのに、自分はちゃっかり居場所を見つけて、超ムカつく!
(主観的)あらすじ
いつの間にかロケットに潜り込んでいた同行者・ヤンヤンが自分の星でならロケットを修理できるというので、ひかるたちは彼女の故郷・プルルン星にやってきました。
まるで水玉のようにキラキラした星でした。水のなかにはたくさんのかわいらしい魚たちが泳いでいて、ところどころに浮かんでいる泡ひとつひとつが島になっていました。はじめて見る景色にひかるたちは大はしゃぎです。
ロケットの窓から景色を楽しんでいるうち、だんだん泳いでみたくなってきました。なにせとっても美しい星でしたから。
ひかるたちはヤンヤンから自由に姿を変えられる“へんしんじゅ”を借りて、人魚に変身してみました。
自分で泳いでみるとロケットから見えた景色とはまた違っていて、プルルン星の海はいろんな魚たちで本当に賑やか。広くて、キラキラしてて、はじめて見るものばかりで、とっても楽しいところでした。まるで宇宙みたい。そう思いました。
ところがそこにアイワーンが襲いかかってきます。彼女はもはやノットレイダーではなく、フワやプリンセススターカラーペンを狙ってきたわけでもありません。ただ、自分を騙したユニへの憎しみだけで攻撃してきたのでした。
彼女は言います。「自分が何かされたら人を騙してもいいんだ」 その言葉はブルーキャットやバケニャーンとしてたくさんの人を騙してきたユニを苦しめました。ユニ自身、自分が悪いことをしてきたという自覚がありました。
けれど、ひかるが反論します。「変わることは悪いことじゃない、楽しいことだよ!」 自分が変わることでいろんな世界に触れられるようになって、新しい自分まで知ることができる。それがひかるの経験則でした。
今はまだアイワーンを納得させるまでに至りませんが、今日のところはひとまず彼女を追い払い、ひかるたちはロケットを修理できるという職人の元を目指します。
プリキュアの物語は基本的に謝罪というものを求めません。現実の子どもたちが少年法で保護されているのと同じように。
そういえば、あなたはなぜ犯罪を犯した人が罰せられるのか、考えたことはあるでしょうか?
それは同じ人が犯罪を繰り返したり別の人が犯罪を模倣してしまう連鎖を断ち切るための抑止力であり、そしてもうひとつ、罪を犯した人に我が身を省みる機会を与えるためです。
古代の慣習法では「やられたらやり返せ」みたいな報復行為が罰の趣旨に込められることもありましたが、現代ではほとんどの社会で報復は認められていません。どんな犯罪者に対する罰も一定期間自由を剥奪するだけに留め、積極的に苦痛を与えてしまうことがないよう配慮されています。死刑のような例外が執行されるのは本当にやむを得ないごく少数の事例のみ。(ちなみに「目には目を」で有名なハンムラビ法典ですら、その趣旨はむしろ過剰な報復を禁止するためとされていました)
罰とは被害者の溜飲を下げるためにあるのではなく、あくまで世の犯罪を減らすため、そして罪を犯した人が社会復帰できる機会を与えるために存在しています。
どんな理由があれ、憎しみに駆られて他人を傷つけたって、少なくともその行為自体には何の価値もありませんから。
少年法が存在するのはそういう理由です。
大前提として、子どもは刑務所に入れられるまでもなく親や地域社会の監督下に置かれていますし、日々の生活のなかで常に何かしらの学習機会を与えられているからです。子どもをとりまく世界は、彼らが自然と変われるように、成長できるようになっているものだからです。残念ながらそれらの健全な環境を正しく享受できていない子どもたちもいますが、そういう子には保護観察者が指定されるようになっていますね。
罰が犯罪者を傷つけるためではなく、むしろ更正を促すためにあるからこそ、少年法というものが成立しています。
プリキュアの物語は問題を起こした子どもに対して基本的に謝罪を求めません。
それは、あえて厳しく咎めるまでもなく、子どもたちには自分の目で、力で、健全な生きかたを見つけられる機会がすでに与えられているからです。
どうか健やかに、幸せに、明るい未来へ歩んでくれますように。
詭弁
「自分が何かされたら人を騙してもいいんだ。すっげえなあ!」
卑怯な言いかたですね。
自分の行いを堂々と正しいとは言わず、相手が同じことをしたうえ断罪されていないことを根拠に、婉曲的に自分の行いが正当なことなんだと思わせようとしています。
彼女の言い分に正当性なんてありません。だってユニは言われるまでもなく自分が悪いことをしていたという自覚を持っているんですから。
「みんなを戻すためならなんだってする。宇宙怪盗でもなんでも!」(第20話)
あんな吐き捨てるように自分の醜さを露呈する子が、自分のしてきたことを本当に正しいと思っているわけがないじゃないですか。この時点でアイワーンの正当性は崩れます。
けれど同時に、ユニは彼女の卑怯さに対して反駁することができません。
罰を受けていないからです。悪いことをしていたという自覚を、反省を、自分以外に対して証明できないからです。
結果、どこからどう見ても正当性なんかないアイワーンの独善を、ユニだけは甘んじて耐えることしかできなくなります。まるでこれが正当な報復であるかのように。まるでこれが自分の罪に対する罰であるかのように。
因果のつながらないただの理不尽な暴力を受けたところで、誰も自分の行いを反省することなんてできやしないのに。
「自分勝手ルン! あなただってコスモの大切な居場所を奪ったルン!」
「はあ? 知らねっつーの」
論理的な思考をするララなら反論することもできます。けれどこの反論に意味はありません。
そもそもアイワーン自身、自分が詭弁を弄していることを自覚しているからです。
そしてララ自身、自分ではこの論理をもって相手を攻撃する意志がないからです。
アイワーンは本当に自分に正当性があると思っているから報復しているわけではありません。ただ、こういう理屈を振りかざしておけば相手は何も言えなくなるという弱みにつけ込んでいるだけ。
ララも別にアイワーンを断罪したくて今の言葉を放ったわけではありません。いつもアイワーンやノットレイダーたちが襲ってくるから迎撃しているだけであって、スタートゥインクルプリキュアに悪を積極的に倒そうという意志は今のところありません。
だから、アイワーンがユニに向けて放つ詭弁はユニに効きますが、ララからアイワーンへの批難はアイワーンに通用しません。理屈に正当性があるかどうかの問題じゃないんです。
「ふざけんなっつーの!」
アイワーンの望みはユニに謝罪を求めることでも、ユニを断罪することですらもありません。
これはただの怒り。歪んだイマジネーション。
ひかるの“前へ進む”イマジネーションと違って、何も変えられない、何も変えようとしない、ひとところに立ち止まろうとする自分を正当化して、建設的な思考から目を背けるための、ただの思考停止です。
「いい気味だっつーの。バケニャーン。マオ。ブルーキャット。地球人。おまけに今度はプリキュアかっつーの。ころころ変わりやがって。お前はそうやって姿を変えて、みんなを騙してんだっつーの!」
実際は「みんな」を代表しているつもりなんてなく。自分自身はバケニャーン以外から被害を受けたことなんてなく。
ただ、憎いユニを痛めつけるためだけに、強く出られない相手を使って憂さ晴らしするためだけに、アイワーンは都合のいい言葉を次々と繰り出します。
こういう身勝手な暴力に対して、私たちはいったい何ができるでしょうか?
楽しい世界
「まるで大きな水族館みたい。キラやばー!」
今話、高橋晃作画監督を起用して描かれたプルルン星の海は本当に魅力的でした。イチゴのグッピーにニンジンとウサ耳のトビウオ。キノコ型のクラゲ。ブロッコリー頭のタツノオトシゴ。キャンディーのシャコ。翼の生えたマンタ。バナナ型のアレは何? イルカ? タチウオ?
三上雅人演出がシリーズディレクターを務めていた『魔法つかいプリキュア!』のナシマホウ界を思い起こす、それはもうメルヘンでかわいらしい、見ているだけでワクワクするステキな映像でした。そりゃあ泳ぎたくもなるわ。
「せっかくこんなステキな星に来たんだから、泳ぎたいよね」
こういうときお話を動かすのは、もちろん“前へ進む”イマジネーションの持ち主。
水中じゃ息が続かないとか、潜水服の用意がないとか、あと半魚人の姿はすこぶる評判が悪いだとか、そういう諸々の障害を乗り越えてでも、なんとか楽しいことを実現できないか友達と相談してみます。
一見して不可能だという事実はとりあえず脇に置いときます。
“他人のことなんてどうせ全部は理解しきれない”という現実がありながら、それでも大好きな人のことをたくさん知りたいと思うのと同じように。“望遠鏡で見られる姿が宇宙のほんの一部でしかない”と知りながら、それでも星空を眺めるのが楽しいことは変わらないのと同じように。たとえ不可能そうでも、ひとつひとつ可能性を追いかけてみるのがひかるのイマジネーションです。
このイマジネーションの力で、ひかるはこれまでたのしいものたくさんと出会ってきました。
「本を開くと頭のなかが楽しい想像でいっぱいになるの。宇宙なんて何十回何百回も行ってるよ」(第2話)
「私、想像してたんだ。宇宙を。ずっと。ずっと。ずうっと。想像してたんだ。だから大好きなんだ。宇宙のこと、わかってないかもしれない。けど私、大、大、大好きなんだ!」(第11話)
「みんなで新しい世界を知ったりとかさ、とっても、とーっても! キラやばー!なんだよね!」(第26話)
今はまだ実際に出会うことができないなら空想のなかで。でもいつかは本当に出会ってみたい。いざ出会ってみたらいろいろ想像と違っていて楽しい。またたくさんの新しい何かと出会うのが楽しみだ。それでいて、まだ出会えていないものを頭のなかで空想してみるのも、それはそれでやっぱり楽しい。
「私、『キラやばー!』って言ってるお父さんが大好き! だから行って! 追いかけて!」(第22話)
「知らないから、もっと知りたい。私も会って話してみたい。この星の人たちと。・・・だってさ、キラやばー!だよ! なんでも好きな姿に変われるなんて!」(第20話)
だから、ひかるのイマジネーションは止まることがありません。
出会うために。いつか出会うために。出会いを楽しみにするために。いつか楽しい出会いを実現するために。
今日も楽しいものと出会えました。
美しくも賑やかなプルルン星の海。
少し前のひかるではこんなの絶対に出会うことができませんでした。ヤンヤンがいなければ人魚に変身するなんてできませんでしたし、まどかたちのような友達がいなければ問題を洗い出してみることも、そもそもララやフワと出会えなければ宇宙に飛びたつこと自体できませんでした。
「ユニ。変われるって楽しいね!」
変われたのはなにも人魚の姿だけではありません。ひかるは毎日少しずつ、たくさん変わりました。たくさんの楽しい出会いとともに。
「見て、あれ!」
「まるで宇宙みたい!」
宇宙はとっても広くて、いっぱいいろんな人がいて、到底全部を知ることは難しいかもしれないけれど。それでも知らなかった何かと出会うのは楽しい。知らない何かとの出会いを空想するのも楽しい。
知らないものだらけの果てしない宇宙は、ひかるにとって無限の楽しみに満ちています。
だから、変われるって楽しいことなんだと思います。
変わって、できなかったことが新しくできるようになって、昨日よりも一歩前へ進んで、今日みたいに知らなかったものと出会える可能性がどんどん広がっていくんだから。
新しい自分
「違う! 変わることは悪いことじゃない、楽しいことだよ!」
だから、変わることを嘲笑うアイワーンの言葉は否定しなければなりません。
何かを変えようとするのではなく、誰かが変わることを抑え込もうとする考えは、絶対に受け入れられません。
アイワーンは言いました。
「あたいの居場所はなくなったのに、自分はちゃっかり居場所を見つけて、超ムカつく!」
辛い現実を前にして、彼女は自分が変わることを放棄しました。自分が変わるのではなくて、他の人を自分と同じに停滞させようと企みました。それで何かが変えられるわけでもあるまいに。
思考停止。
自分が為そうとする行為の結果を彼女は考えません。変わらないための行動なんですからそもそも考える意味がありません。
自分が何をしたいのか、何のために行動しているのか、何がどうなれば満足できるのか。何も考えていません。たとえば、ユニがどのくらい傷ついたとき彼女は溜飲を下げられるというのでしょうか。
だから、ひかるは変われる楽しさを推奨します。
「変わることで新しい自分を知ることができるから」
変わって、いろいろなものと出会って、ひかるは自分がどういう人間なのか新しく知ることができました。
「ひかるのイマジネーションはね、みんなを思って、結びつけてくれるんだ。みんなを新しい世界に連れて行ってくれるんだよ!」(第11話)
出会った誰かが教えてくれることもありました。
「でも、わかったんだ。ひとりでいるのも楽しいけど、みんなとこうしているのもすっごく楽しいんだって」(第26話)
出会いを通して自分で気付くこともありました。
空に広がる星空だけでなく、自分のなかにすら無限の宇宙が広がっていて、未知なる自分がまだまだたくさん、出会える日を待っているんです。楽しくないわけがないじゃないですか。
最初は故郷を救うことばかり考えて張りつめた顔ばかりしていたユニも、最近は一緒に遊ぶうち楽しそうに笑うことが増えてきました。自分を変えることをやめたアイワーンのなかにだって、きっと本当は彼女のまだ知らない新しいアイワーンがいるはず。
「それに、コスモは変わってないよ。自分の故郷を、惑星レインボーを救いたいって気持ち。それは一度だって変わったことはない!」
アイワーンがあげつらった変化による欺瞞を覆すことで、逆説的に変われることのステキを支持します。
変わる目的は必ずしも誰かを騙すためじゃない。
ひかるは元々好きだった宇宙のいろいろと出会うために、これまでたくさん変化を受け入れてきました。新しい友達と出会って環境が変わることがあれば、新しい自分と出会って自分が変わることもありました。けれどいくら変わってもひかるはひかる。宇宙大好きだった昔とちゃんとつながっています。
ユニだって少し前まではいろんな人を騙すことで目的を達成しようとしていましたが、今はプリキュアとしての活動を通すことで全く同じ目的を成そうとしています。手段は変わりましたが、思いは昔からひとつも変わっていません。
だから、アイワーンも変わることを忌避せず前へ進んでみてもいいのに。
「クッ・・・。知るかっつーの!」
今回ひかるが語った言葉はあくまでユニに向けてのものです。アイワーンの気持ちを酌み取ってのものではありません。
けれど、この言葉はユニだけではなく、自分が変わることを選ばなかったアイワーンにも大いに関係あるものでした。
憎しみに心を塗り潰された今はまだ、彼女にひかるの思いは伝わりません。
でも、いつかはきっと伝わるでしょう。ダークネストに思考の自由を奪われたとき、結局のところ彼女はあんなにも苦しんでいたんですから。
彼女は思考停止によって安らぎを得られる人物ではありません。ならばその逆、前へ進もうとすることで幸せになれる可能性は充分にあるはず。
「助けてあげないと」(第21話)
惑星レインボーでの戦いは、まだ終わっていませんでした。
コメント
少し遡れば同じ口で永遠のオリーフィオを悪く言ってた時点で、理屈なんかあったもんじゃないですよね。
ただただ自分と相容れないヒトが許せなくて、後から理由をくっつけてるだけ。
……科学者って本来未知なるものにこそ価値を見出す人だと思うのですが。
難しいことはさておき、漫画『暗殺教室』の名言でも。
「学校や肩書など関係ない
清流に棲もうが ドブ川に棲もうが 前に泳げば魚は美しく育つのです」
後付けの理屈のほうばかり振りかざして、元々の動機についてはろくに内省しようとしないのがこういう人の厄介さですね。そもそも自分がそういう状態に陥っていることにすらなかなか気付けない。
まあ、そちらから目を背けるための後付けなので当然なんですが。
案外、まっすぐ見据えてみれば元々のほうも自分で思っているより醜い気持ちばかりじゃないはずなんですけどね。
それだけバケニャーンのことを信頼していたってことでしょう?
それだけ裏切りに対して不愉快さを感じる真っ当な感性を持っているってことでしょう?
『キラキラプリキュアアラモード』に描かれた心の闇なんてどれも“大好き”の気持ちの裏返しでした。
清流は病原体や泥などのリスクが少ない代わりに栄養価が乏しく、逆にドブ川は危険なものも多く流れている代わりにミネラルやプランクトンが豊富。
あらゆるものごとは常に複数の側面を持っていて、結局のところ、まあ、まっすぐ生きられるかどうかはどこへ目を向けるか次第なのかもしれません。