――変わっちゃダメなの?
(主観的)あらすじ
自分のせいで美術部の先輩を変えてしまったんじゃないかと恐れるココナ。その不安をフリップフラップの大人たちには難しい言葉ではぐらかされたまま、今日もココナはピュアイリュージョンを冒険します。
今回のピュアイリュージョンは無人の街と、それから七色に姿を変えるパピカ。「私の知ってるパピカじゃない」パピカに困惑しつつも、ココナはたくさんのパピカそれぞれに合わせて遊びます。けれどパピカとの対話の果てにやがて「私の知ってるパピカ」が恋しくなり、ココナはひとりでパピカを探し回ります。
ひとりぼっちのココナを、「私の知ってるパピカ」はちゃんと見つけてくれました。ふたりはピュアイリュージョンから帰り、シロツメクサの花畑で遊びます。
自分を見つめなおす今夜の夢は第八夜。鏡越しに奇妙でもどかしい虚像たちを眺める夢。個人的には夢十夜で唯一ピンとこない一篇だったのですが、こうしてステキに料理されると見る目が変わりますね。
夢が現実を変えてしまう虚構を目の当たりにして戸惑うココナ。そりゃまあこんな直接的な干渉は現実にはありえないわけですが、一方であなたの干渉が誰かを変えてしまうなんてこと、ごく当たり前の、よくある日常です。夢は現実を変えます、実際に。それに係る戸惑いをあくまで個人の主観的な問題として訴えるフリップフラッパーズの物語はつくづくステキ。
・・・この文章だけだと何言いたいんだかさっぱり意味が通じませんね。さっさと感想文に移りましょう。
変わる世界
前回イロちゃんの問題を解決したことがどう作用したのか、美術部の先輩は絵に対する執着を薄めました。中学校の公民だか保健だかでも習いますね、ストレスに対する防衛機制のひとつ、昇華。
「天気がいいから筆が進まないんだ。雨の日も進まないんだけど」 先輩は満たされないモヤモヤした気持ちを絵にぶつけていました。だからすっきりと晴れた日は描けないし、露骨にどんよりした雨の日も描けませんでした。どんな形にしろトラウマが解決したならこうなることは必然です。
廊下に飾られている例の絵を見て「恐いです。でも・・・」と語ったココナの「でも」の先を、今の先輩は聞きたがるでしょうか。「私も好き、この絵」 あのときココナと先輩は絵の不気味さへの共感で繋がっていました。あのとき見て取れた先輩の影が、ココナが彼女に惹かれるようになったきっかけが、今の彼女からは見られません。
言ってしまえば寂しいんです。ココナは。自分の好きだった先輩を失ってしまったから。ピュアイリュージョンで爪切りを見つけるほどに、彼女はマニキュアを塗った先輩を拒絶してしまっています。
「自分の都合で世界をつくりかえるなんて傲慢だ!」 みたいな主張、少年マンガにはよく見られることですが、私はアレあんまり好きじゃないんですよね。
そりゃあ確かに傲慢ですし、自分を変えずに世界を変えようとする性根に不快感も感じます。けれど、それに対して「世界をつくりかえる」こと自体をタブーのように扱って、大義のもとに正義の鉄槌を食らわす、これもまた不誠実な話じゃないかなと思います。その大義は本当に大儀ですか? そのタブーは本当にタブーですか? そこまで言及された物語を私は知りません。
世界を作りかえることに反対する理由が個人的な事情なら理解できます。カードキャプターさくら/クロウカード編の「一番好きな者への『好き』という気持ちがなくなる」ことに対して恋を知る少女さくらの「一番好きって気持ちが失われるなんて、そんなの悲しすぎるよ!」とか。コンクリート・レボルティオの「超人のいない世界」を目指す里見に対して、現実を変えようとする者を「笑うやつ」のカウンターになるべく戦った超人爾朗とか。そういうのなら納得できます。
ココナは先輩を変えてしまった自分に対して漠然と、しかし切実な罪の意識を感じます。自分の知る現実を塗り替えかねないピュアイリュージョンを恐れます。ですが、その気持ちがどこから来たものかといえば・・・。
先輩は前よりも笑うようになりました。前回の「キレイでしょ」なんて満面の笑顔で、とってもステキでした。友達とおしゃべりするようにもなりました。それでいてココナたちへの柔らかな物腰は変わりません。さて、先輩が変わったことで不幸になってしまったのは誰でしょうか。刺激臭が苦手なパピカです。
鏡には自分の顔が立派に映った。
やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈り始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。粟餅や、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい杵をわざと臼へあてて、拍子を取って餅を搗いている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
自分はあるたけの視力で鏡の角を覗き込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。札は十円札らしい。女は長い睫を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。膝の上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
自分は茫然としてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子の方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
そんな前フリがあったものですから、今回のピュアイリュージョンは無人の街と、七色のパピカです。
毎度思うのですが、ピュアイリュージョンって優しいですよね。ココナをココナの望むココナへと、いつも導いてくれています。
誰かを変えてしまうことが嫌なら誰とも会わなければいいじゃないかと言わんばかりに、とりあえず無人の街という極論をココナに突きつけます。電車やエレベーターは動くしごはんも出てくる、ひたすら彼女に都合のいい世界です。私も疲れたときとか1週間くらい滞在したい。
据え膳上げ膳まで自動化される前提なら、日々の生活ルーチンは案外誰にも会わずとも達成できるものです。ココナも違和感を感じながらいつもの生活を送ります。ただし無表情。当たり前ですけどね。ですがこの無表情も含めて、これこそがいつものココナの日常です。パピカと出会うまで、彼女はほとんど表情を動かさない子でした。
これならココナは誰も変えないで済みます。ココナ自身の生活すら一切変わりません。さて、これはココナにとって幸せなことでしょうか。
同時にピュアイリュージョンはもうひとつの極論を突きつけます。七色のパピカ。(全9人のうち、いつものパピカと小悪魔パピカを除いた数) みんなそれぞれ見たことのない姿のパピカで、それでいてみんな根っこはやっぱりパピカです。パピカらしくどの子もみんなココナのことが大好きで、パピカらしくどの子もみんなココナを振り回します。
けれど似ているのはそれだけ。7人みんな性格が違うので、それぞれ対応を変えてあげなければいけませんし、一部は着ている服すら変える必要があります。そりゃあもう振り回されっぱなしです。けれど、ひとりでいるときと違ってずいぶんとココナの表情は生き生きしていますね。
七色に変わるパピカは、めまぐるしくココナを変えます。ついさっき他人を変えてしまうことを恐れていたココナを。これはココナにとって不幸せなことでしょうか。それとも他人が自分を変えるのは別問題?
ひととおり無人と七色双方のプレゼンテーションが済んだら、さて、今度はココナに鏡が突きつけられます。
変わるあなた
「もう疲れた。このままでもいいのかな。でも先輩を元に戻さなきゃ」 無人(=変わらない)も七色(=変わる)も、そのどちらの生活もココナはよく知っています。だいたいパピカ以前とパピカ以後。少なくとも漠然と生きるだけならココナはどちらも平気。
「変わっちゃダメなの?」「そういうわけじゃ・・・」 そこまでなら、初めから答えが出ています。自分が変わることはたぶん嫌じゃない。ここまではココナも整理できています。
「私、ココナが変わってもココナのこと好きだよ。ココナは?」 自分が変わってもいいなら、他人だって変わってもいいじゃないですか。ココナはパピカによって変わりました。だったら先輩だってココナによって変わってもいいはずです。
「私はあなたのこと、わからない」 ココナがそれを否定する理由は、相手のことがわからないから。
「どうして?」 もう少し深く考えてみましょう。わからないと、変えてはいけないのですか?
「私の知ってるパピカじゃないから」 ココナが本当に問題にしているのはここです。自分がパピカによって変えられるのはいい。だって変わる前と変わったあと、どちらの自分もよく知っていますから。どちらが良かったか自分で判断できます。たぶん。けれど先輩のことについては、変わる前と変わったあと、先輩自身が本当はどちらを好むのか、ココナは知ることができません。そこが気になります。
もう少しだけ突っ込んでみましょう。
「あなたの知ってるパピカじゃなきゃダメ?」 変わったあとの先輩はキラキラしていました。快活で、ステキな笑顔が増えました。
「そういうんじゃないけど・・・」 ココナが知りうる限り、少なくとも先輩は不幸せになっていません。影を見せていたのはむしろ変わる前です。ココナの主観で見る限り、先輩は確かに幸せになったように思えます。だとしたら、それでもココナが気にしていることの本当の根っこはいったいどこにあるのでしょう。
「じゃあ私のこと、好き?」 ココナがどちらの先輩を好きだったか。たったそれだけの話です。
「友達として、だよね?」「どうしてそんなこと聞くの?」「だって好きは好きじゃなくて・・・」
そんな主観的な、自分の好悪でものごとを判断するような思い上がりが、果たして本当に許されるのか。ここからはあなたの価値観次第です。価値観を定めなければこれ以上は答えなんて出せません。求められている答えは好きかどうかってだけなのに。主眼から外れた受け答えではぐらかしてしまうだけです。「許されるのか」と書きましたが、実際に許すのかどうかを決めるのはあなた自身です。
だってこの問題は究極的にあなた自身の問題です。あなたがどう思うかであなたの世界が決まります。先輩も先輩で自分の答えを定めるでしょう。変わる前の自分を知らないのはアンフェアだ、と思うかもしれませんが、それは先輩の主観にはない物語で、そんなもの今の先輩には関係のないことです。
だから、この問題に対してあなたはあなた自身の答えを出さなければいけません。あなたにしか答えが出せません。あなた自身の価値観を見定め、あなた自身のためのあなたの答えを出してください。
ココナもきっと自分の答えを出すでしょう。作中で明確に描かれるかどうかはわかりませんが。
単純に現時点での好き/嫌いで選ぶなら、以前の先輩が好きだったココナは自分のやらかした罪を嘆くでしょう。あるいはどうにか頑張って本当に元に戻すかもしれません。
自分の選んだ選択を信じるなら、ココナは今の先輩がいかに幸せであるかを知ろうとし、今の彼女を好きになれるように自分自身を変えていくでしょう。
これは本当に主観的な問題です。ココナが迷子のパピカを探していたのに、パピカからするとココナの方こそ迷子だったように。「こっちがそっちを覗いたら、そっちもこっちを覗いてた」と歌われるように。観測者によって答えがいくらでも変わる問題です。
だから、ココナとは別にあなた自身もこの問題について答えを出さなければいけません。
何をエラそうに、てな言い方をさっきからしているんですが、これたぶん今後のフリップフラッパーズを好きになれるかの分岐点な気がするんですよね。
ここまでのところ、この物語はシンプルな成長物語です。ド王道のボーイミーツガール。けれど、「成長」というのは今の私のまま良いものだけを増やして大きな私になることではありません。
実際の「成長」とは「変わる」ことです。良いものとか悪いものとか以前に、そもそも以前までの私とは別の私に変わることです。先輩の例とは違って連続はしていますが、それでもやっぱり別物です。
以前はできたことができなくなることもあるでしょう。以前は夢見ていられたことを信じられなくなる日も来るでしょう。だって昔の私と今の私は別物だから。それでも、いいものを増やすどころかときに捨て去ることだってある、「成長」した自分を、あなたは好きになれますか?
ココナは進路を決められずにいる少女です。それでいて「どこでもよくはないから」と言いきれるような、自分が成長することについてきちんと向き合おうとする、真面目な人物です。また、対比対象として置かれたヤヤカは自分の身の振り方を組織の「情報」に委ねようとして、今回手ひどく裏切られました。
ココナを主人公のひとりに置く限り、この物語はまず間違いなく今後も「成長」を描くでしょう。彼女は何かを得るかもしれません。何かを失うかもしれません。けれどその全てをひっくるめて、停滞せず変わり続けようとするならば、それはきっと成長譚です。夢に遊ぶのだって本っ当に楽じゃない。
「摩擦のないユートピアなど存在しない」 そんな物語を好きになるか、嫌いになるか。全てはあなたの価値観次第です。(ものすごく当たり前なこと言ってる結びだ・・・)
三つ葉のシロツメクサにはそれぞれの葉に別の願いが託されています。すなわち「愛」「希望」「信仰」。信仰に縁が薄い日本人向けには「心の安定」と言い換えた方が本意に沿うでしょうか。これが四つ葉になると「幸運」が加わります。いずれも良く生きるための基本的な条件ですね。
あなたの価値観がどういうものかはわかりませんが、いずれにせよ、どうか幸せな人生を歩めますように。・・・「歩め」って言っているようなものですね。言ってしまえば私のスタンスはつまりそっちです。
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