フリップフラッパーズ第6話感想 第九夜。夢が現実を変えられる、という虚構について。

私たちが誰だったのか、
もう一回!

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(主観的)あらすじ

 美術部の先輩はマニキュアを持っているのに、それを画材にばかり使っていて、爪には塗ろうとしていませんでした。
 ココナとパピカはピュアイリュージョンの奥で不思議な穴を見つけます。その向こうにあったのは、どこにでもありそうな景色。気がつけばココナたちはイロちゃんになっていました。
 イロちゃんの家はなんだかギクシャクしている冷たい家でした。けれど隣の家には優しくて暖かなおばちゃんが住んでいて、だからイロちゃんは家がどんなに息苦しくたって、毎日おばちゃんと楽しく遊ぶことができました。
 ところがある日、おばちゃんはいなくなってしまいます。病院でその姿を見つけられたものの、イロちゃんが大好きだったおばちゃんの心はそこにありませんでした。おばちゃんは認知症を患い、イロちゃんのことを忘れてしまっていたのです。
 悲しい物語をひととおり体験して、それでもココナとパピカはその続きへと進むことを選びます。自分のために、イロちゃんのために、おばちゃんにもう一度イロちゃんのことを教えてあげます。彼女の名前は「彩いろは先輩」。
 こうして、イロちゃんの物語は悲しさを超えて新しく進み始めました。大きくなったイロちゃんはおばちゃんからもらったマニキュアを爪に塗って、今日も楽しそうに笑います。

 夢が現実を変える今夜の夢は第九夜。戦争に赴いた父の無事を願い、幼子を抱えた母が夜毎にお百度参りを繰り返す、祈りの夢。
 ちょうど最近『君の名は。』の感想で似たようなことを書いていたので、サブタイトルはその対にしてみました。夢は現実を変えられません。現実を生きる私たちはそのことをよく知っています。けれど、では現実を変えられるのはいったい何でしょうか? それは唯一、夢だけです。私たちはそのこともまた、よく知っています。

先輩

 どうしてこの人はこんなにも不安そうな絵を描くんだろう。今回の物語はそんな疑問から始まります。
 黄金に輝く美しい階段は、しかし幾重にも曲がりくねり、真っ黒な人々の見下ろす橋の下をくぐり抜け、暗い夜闇を所在なく、か細く弱々しく折れ曲がって、やがて消えていきます。
 カメラの動く方向は階段の向こう側から根元側ですから、ココナと私たち視聴者は、ちょうど先輩の思い描く暗い現在(ないし未来)から輝かしい過去へと視線移動させられたことになるわけですね。

 「天気がいいから筆が進まないんだ。雨の日も進まないんだけど」 私たちは先輩の鬱屈した心情を知っています。ですがその事情までは知りませんでした。他人の事情なんてその程度のものです。知ってたって知らなくたって、どうせ何も変わりません。知る必要がありません。
 「塗る資格がないから」 けれど、時折私たちはどうしようもなく他人の事情に興味を持つことがあります。それはどういう気持ちなんでしょうか。どうして私たちはそこに興味を持つのでしょうか。その興味には何の意味もないのでしょうか。
 ピュアイリュージョンはそういった問いかけに応えます。

赤と青と青

 子どもならではの無知と好奇心とによって関守石(立ち入り禁止を示す標)の向こうへと進んだココナとパピカは、「イロちゃん」の物語をなぞる体験をします。

 イロちゃんの毎日には幸せな赤い時間と不幸せな青い時間の両方がありました。大人なら誰しもが子どもに幸せな時間だけを味わってほしいと願うものだと思うのですが、大人にもそれぞれ自分の都合というものもあるわけで、なかなか理想どおりにはいきませんね。
 「だってこんなにかわいいんだもの」 当然の願いですら、現実というやつはなかなか成就させてくれなくて、「ごめんなさい。またおいでね、イロちゃん」 だから大人は子どもに謝ってばかりで、ささやかなことしかしてあげられません。

 「だって、変。パパとママが変って。普通に描きなさいって」 イロちゃんの幸せはただ自分をありのままに認めてくれること、そんなちょっとしたことだったのに。現実はそれすらままなりません。
 「おばちゃん、その絵好きだよ」 たったその一言でイロちゃんの世界は暖かく赤くなるというのに、「イロは部屋に戻ってなさい」 せっかく上手に描けた家族団欒の絵は一目見てもらうことすら叶わず、イロちゃんの家は冷たく青いばかり。ほんと、ままなりません。

 耐えがたいことを耐えなければいけないとき、あなたならどうやって乗り切るでしょうか。テキトーに受け流す、気分転換や休憩を挟む、不満を創作活動にぶつける、あるいは物や人に当たるという場合もあるでしょうか。最後のはあんまり感心しませんが、そういう防衛機制を私たちは人生を通じて自然に学んでいます。
 ところが、そういう防衛機制の構築が未成熟な子どもが高ストレス環境に晒されてしまった場合、稀に特殊な防衛手段を編みだしてしまうことがあります。
 嫌な時間、嫌な気持ちを自分の心から切り離してしまうんです。嫌なものそのものを切り離してしまえば、とりあえずはストレスから解放されるでしょう。
 「嫌だ! イロも、イロと替わって!」「イロ、助けて! イロと替わって!」 ですが、自分の心から切り離した部分もまた、自分なんです。結局防衛機制が未熟な「もうひとりの自分」が、より高密度なストレスに晒されてしまうだけ。実際は一時しのぎにもなりません。「イロはイロだよ」

 そうしているうちにイロちゃんを取り巻く現実は悪化の一途を辿ります。おばちゃんが陰口をたたかれるようになり、あるいはおばちゃんの様子が少しずつおかしくなり、またあるいはおばちゃんがいなくなってしまったり。
 あれだけ暖かく赤かったおばちゃんの家も、おばちゃんがいなくなれば冷たく青くなってしまいます。おばちゃんその人ですら、記憶を損なってしまえばその人はいなくなったも同然で、あれだけ暖かだったあの人の傍も、冷たく、青く。
 暖かくて赤い場所を失ったならば、さあ、どうすればいいでしょう。赤と青で彩られていた世界が、青と青に塗りつぶされたなら。もはや自分をふたつに分けたって、そもそも逃げ場がありません。
 さあ、どうすればいいでしょう。

 ひとつ、誰でも生まれながらに知っている防衛機制があります。
 我慢することです。場合によっては諦めるといった方が正確かもしれません。ストレスのかかることを根本的に諦め、切り捨て、考えないようにすれば、あなたはストレスから解放されるでしょう。周りじゅうなにもかもがストレスなら、なにもかもを我慢すればいい。諦めてしまえばいい。鬱屈してしまえばいい。
 代わりに、あなたは何もかもをできなくなってしまうでしょうけれど。

こんな悲い話を、夢の中で母から聞いた。

 一通り夫の身の上を祈ってしまうと、今度は細帯を解いて、背中の子を摺りおろすように、背中から前へ廻して、両手に抱きながら拝殿を上って行って、「好い子だから、少しの間、待っておいでよ」ときっと自分の頬を子供の頬へ擦りつける。そうして細帯を長くして、子供を縛っておいて、その片端を拝殿の欄干に括りつける。それから段々を下りて来て二十間の敷石を往ったり来たり御百度を踏む。
 拝殿に括りつけられた子は、暗闇の中で、細帯の丈のゆるす限り、広縁の上を這い廻っている。そう云う時は母にとって、はなはだ楽な夜である。けれども縛った子にひいひい泣かれると、母は気が気でない。御百度の足が非常に早くなる。大変息が切れる。仕方のない時は、中途で拝殿へ上って来て、いろいろすかしておいて、また御百度を踏み直す事もある。
 こう云う風に、幾晩となく母が気を揉んで、夜の目も寝ずに心配していた父は、とくの昔に浪士のために殺されていたのである。

 ところが、幸いなことにココナは鬱屈から這い上がるヒーローです。彼女自身、まだ自覚は追いついていませんが、ココナの心性は鬱屈して終わるバッドエンドを決して良しとはしません。

 「あの、あといくつ集めればいいんですか?」「知れば確保率が上がるのか?」「心づもりができます」
 何の心づもりができるのか、自分で言っていて理解しているのでしょうか、この子は。欠片の収集が終わることは、すなわち冒険の終わりを意味します。ところでココナは叶えたい夢があるから欠片を集めているんでしたっけ? 違うでしょう。「あと、たまに少し、楽しい」 彼女はパピカや冒険そのものを好きになったから欠片を集めることにしたのでした。
 そのまま単純に捉えるなら、ココナにとっては欠片集めが永遠に終わらないことこそが本願になるはずです。けれど彼女は直観しています。自分が何を望もうとも、この冒険が永遠には続かないことを。彼女が求めている心づもりは、だから楽しい時間の終わりにまた今までのような鬱屈した日々が訪れないようにするための、成長猶予。
 ・・・まあどう考えたって今の彼女がそこまで自覚しているわけはないんですけどね。だからこそソルトも一笑に付しているわけで。けれど彼女がこれまで積み上げてきた思いを整理すると、要するに自分の成長を望んでいるということになると思います。

 イロちゃんに成り代わり、彼女の悲しい思い出を追体験するココナは、2度途中で打ち切る機会を得ながら2度とも継続を決断します。あたかもお百度参りのように、繰り返し、繰り返し。欠片を巡る攻防に負けて、もはやピュアイリュージョンに留まる理由すらないはずなのに。(もっともココナ個人にとって欠片集め自体はさほどの重大事でもないんですけどね)
 何が彼女を突き動かしたのでしょう。「確信はないけど、気になる」 おぼろげながら、イロちゃんの正体が先輩であることに気付きはじめていました。「パピカも私もイロだった」 それでいて、その動機は必ずしも先輩を思いやってのことではありません。イロちゃんとして体験したあれこれが他人事ではなく、自分自身の問題にぴったり重なるからです。イロちゃんの気持ちがわかるからです。

 どうして私たちは他人の事情に興味を持ってしまうのでしょうか。それは、どこか自分の問題に通じるものがあるから。共感してしまうから。見ていて自分も傷つくから。放っておけないからです。
 ステキな先輩がどこか投げやりな様子でいるのを、ココナは良しとしません。イロちゃんが悲しい気持ちのままでいるのを、ココナは良しとしません。
 「行きたい、けど・・・」 だってこれはココナの問題とも重なることなんです。たった一言、おばちゃんに自分の名を告げることを尻込みしてしまった先輩の後悔を、ココナはよく知っています。今だって「けど・・・」と弱気の虫が顔を出しています。
 それでもやらなければいけないことは、やらなければいけないんです。先輩のためではなく、イロちゃんのためでもなく、ただ自分のために。自分の道を決められるのは自分だけ。いつまでも鬱屈してばかりではいられない。ココナはいつだって、本当はそれを良しとしません。
 だから「行きたい、けど・・・」ではなく「行きたい」

 夢が現実を変えるだなんて、そんな都合のいいお伽話は現実には起こりえません。フリップフラッパーズの物語はかなりの部分を主観的世界観に支配されている寓話です。世の中こんな都合よく行きませんとも。
 けれど、それでもやっぱり夢は現実を変えるんです。だってこの世に現実を変える力があるとしたら、それは意志の力でしょうから。当人がなにか変えようとしなきゃなにも変えられません。なにか変えようとするからなにかを変えられるんです。だから夢は現実を変えられます。だから物語はステキ。
 意志の力の源泉は「ああなりたい」「こうしたい」というあなたの強い願い、すなわち夢なのですから。

 ココナの物語は鬱屈した日々からはじまり、今はそんな自分を変えようと必死でもがいています。夢で遊ぶことによって。遊ぶのだって楽じゃありません。

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