おもしろい記事を見つけました。
なにが面白いって、「世界観について」というインタビューテーマを与えられていたくせにこんな記事タイトルになっているところ。実際記事を読んでもこのテーマは序盤で早々に崩壊しています。そもそも話し手がこの言葉を自分の語彙にしていなかったという、インタビュアー痛恨のミス。
そんな大ポカをしているにも関わらず読み物としてちゃんと面白いのがまた。
確かにゲーム業界のシナリオライターなら、この言葉がいかにふんわりした意味合いのものかよく理解しているでしょうからね。
私もインタビュアーと同じくTRPGコミュニティ由来の用語だと思っていたので、そちら出身の芝村さんがそういう観測をしていなかったのは正直意外でしたが、少なくともこの「世界観」という言葉がゲーム業界で生まれたことは間違いないんですよ。であれば彼らは当然この言葉が普及する前後の業界を知っていますし、この言葉が流行した背景にある質感にも想像が及ぶわけです。
元々「世界設定」という言葉が存在していた業界で、どうしてわざわざ「世界観」という新語がほぼ同じ意味を肩代わりするようになったのか、どうしてそれが広汎な創作領域のなかでも特にゲーム業界で発生することになったのか、彼らには自分なりの見解があります。だからこそこの言葉は容易に使えません。
そのあたりについては元の記事を読んでください。以下は若輩の私なりの見解です。インタビュー中の論と重複している部分も多々ありますが、もしかしたら一部私独自の考え方も見え隠れしているかもしれません。
「世界観」というのは元々哲学用語で、一言でいうなら「ものの見方」を意味します。
赤とはどういう色ですか?
死とは悪いことですか?
あなたはどうしてそこにいるんですか?
・・・例えば、もしあなたがこれらに何かしらの回答を提示できるなら、それがあなたの世界観ということになります。
これらの質問に対する回答が、人によって様々あるであろうことはなんとなく想像できますよね? 人はそれぞれものの見方が違います。知識や身体能力、人間関係、あるいは歩んできた人生などによって、同じものを見ていてもそれぞれ全く別の印象を受け取ることがあります。
赤とは夕日の色だよ。いやいやトマトの色だよ。なに言ってんだ#FF0000デショ。熱い色だよね。女の子の色だと思う。ボクの一番好きな色。赤は「止まれ」だよ。などなど。てんやわんや。
こういった「ものの見方」を通じて個人の内的宇宙や外的宇宙を観測していくのが哲学というものですが(若干語弊あり)、それはさておき。
とにかく、そういう原義を持つ言葉が、創作物における「世界設定」という語に置き換わるかたちで普及しました。・・・繋がりがよくわかんないですよね。なんで主観の問題が設定の話になるんだ。
映画やマンガであれば、本来「世界観」という言葉の持つ本来のニュアンスを必要としません。(まあ現在は当然のように使われているのですが) これらには1つの作品に対して1つの物語、1つの視点しか存在しないからです。
観客がどんな人物であろうと提供される物語は常に同じ1つ。だから世界設定はその1つの物語のなかで辻褄が合ってさえいれば、それ以外は特に用意しなくてもとりあえず目的を達成できます。
ところがゲームではこうはいきません。ゲームのプレイヤーが取る行動は千差万別です。鋼の剣を手に入れるためにチマチマザコを倒してお金を稼いだり、ダンジョンに潜って宝箱を探したり、村人の悩みを聞いたお礼にもらったり、あるいは武器屋から盗んだり。100人のプレイヤーがいれば100篇の物語が発生します。
だからその世界設定が1つの物語に辻褄を合わせるようなつくりでは、別の物語を描かれたときに破綻してしまいます。ゲームの世界設定には様々な視点から見ても矛盾を感じさせないような、広汎で綿密な設定の数々が必要になります。
映画やマンガに比べて必要な設定情報が格段に多くなります。設定が増えると、今度は設定同士で矛盾が発生することも少なくありません。ゲームづくりではこの問題を回避するため、設定群を調律する担当者を設置します。具体的にはディレクターとかあの辺の役職。
ひとりの見解で全設定を俯瞰すれば設定同士の矛盾は最小限で済むでしょう。なにせそれはつまり、100篇の物語を紡ぎながらも視点はあくまで1つということになるんですから。規模が大きいだけで、工程的には映画やマンガとそれほど変わらなくなります。
誰かひとりのものの見方で調律された世界設定。だから「世界観」。ゲームの世界設定は、開発規模の大きさの割に特定個人の価値観に強く左右されます。「世界設定」という言葉がゲーム業界で「世界観」という言葉に置き換わったのは、実際に誰かの世界観をベースに世界設定が調律されるから。
ゲームというコンテンツの特異性、膨大な設定を調律する必要から、「世界観」という言葉は生まれました。
・・・でもちょっと待って。それって、映画やマンガでも同じことじゃね?
だって、逆をいうならゲームに比べて小規模なだけで、設定周りの工程は映画やマンガも同じ。特定の誰かが設定を固めていくことには何の違いもありません。
ということで、ゲーム業界で生まれた「世界観」という言葉は映画やマンガ、主にオタク向けのコンテンツ産業を中心に広く普及していくことになります。
・・・けれどまあ、実際のところ「世界観」じゃなくて「世界設定」でも不都合はなかったんですよね、本当は。なにせ単純に置き換えただけなんですから。「世界観」じゃなければいけない理由は、せいぜいそれが誰かの価値観に由来するものだという認識を強調する程度のもの。ちょっとしたニュアンスの差です。
だから語義がふわっとしてる。誰かと語りあうにはまず定義の擦り合わせからはじめなければいけない。すっごいメンドクサイ。
ちなみにこのブログでは「世界設定」という意味で「世界観」という言葉を使わないようにしています。
私は「言葉は生き物」「言葉は日々変わっていくもの」という言説の支持者なので、本当であればこのくらい普及した言葉なら取り入れていくべきなんでしょうけれどね。
ただこのブログ(というか私のものの考え方では)、哲学用語での「世界観」が割と重要になっているので、使いたくても使えないんですよね。
私は主観というものを尊重します。アニメの登場人物を考えるとき、その子の主観で世界がどう見えているかを想像します。アニメの背景世界を考えるとき、その世界が誰の視点を通して描かれているかを前提とします。
そもそもアニメの感想文自体が私の主観で、他の人の感想とは当然違ってくるだろうし、むしろ制作者の意図とすら食いちがうこともあるだろうと割り切って書いています。私には私の主観からしかものごとを観測することができないからです。(上の段落はより正確には「私が観測した登場人物の人となり」「私が観測した世界の観測者」の話ということになりますね。ヤヤコシイ)
そういう前提で文章を書いていると、「世界設定」を「世界観」と言い換えるのって、なんともヤヤコシイんですよね。なにせものの見方を語った直後にで設定面を語ることもしばしばなものですから。
私のスタンスだとヘタに「世界観」という言葉を使っちゃうのはものすごくメンドクサイ!
このあたりのどーでもいいコダワリをどこかで書いておきたくてこんな記事を書いてみました。改めて読み返すと大したこと書いていませんね。ゴメンナサイ。
ちなみに元の記事においてメインで語られている「ゲーム生成ルール」等のロジカルな物語づくりについても、ちょっと思うところがあるのでいずれまた記事にするかもしれません。AIに物語を書かせるのはさすがに時代を先取りしすぎている感がありますが、そのベースになっている考え方は「なろう小説」や「オープンワールドゲーム」の流行というかたちで、ちょうど今文化の先端に立っている気がするんですよね。
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