感動ポルノとヒーロー 人生を見世物にされる残酷さについて。

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 流行ってから1ヶ月以上経って今さら感動ポルノ。
 ちなみにこの記事は最終的に「2次元っていいよね!」という結論に着地します。

 爆発的に流行って、あっという間に聞かなくなりましたね。
 人口比率にして5%強、普通に生活していれば障害者とすれ違わない日はないくらい身近な存在なのですが、何かきっかけがないとなかなか話題にされませんね。障害者に限らずいろんなものの見方をみつめ直せそうな、いい流行語だと思ったのですが。

感想ポルノの定義

 「感動ポルノ」という言葉、インターネット上の言論をあちこちで覗いていると、どうも人によって解釈がバラバラなようです。提唱者ステラ・ヤングさんがスピーチ中で定義を明確にしなかったことも手伝って、その鮮烈な語感だけが一人歩きしている状況です。
 この話題を扱うにあたって、とりあえず「私なりの」解釈を決めておきましょう。この状況だとおそらくそれがはっきりしなければ、私も読んでくださっているあなたも混乱するだけです。

 「これらの写真は、ある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしている」
 「障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしている」
 「お見せした写真の目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すこと」
 「お見せしたような画像は、健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています」

 ヤングさんが「感動ポルノ」について直接的に言及しているのはこのあたりでしょうか。
 彼女は感動ポルノの一例として、「ネガティブな態度こそが、この世で唯一の障害だ」「言い訳は通用しない」などというフレーズを添えた、いかにも強く生きていそうなカッコイイ障害者の姿を写した画像群を提示しています。

 「ポルノ」という派手な単語が目を引きますが、ヤングさんが普通のポルノをどういうものだと思っているかは語られていないので、単純に「感動ポルノ」と「普通のポルノ」を比較しての検討はやめておきましょう。その視点はヤングさんのスピーチから離れすぎて語り手個人の世界観でしか語れません。
 さらに、そもそも彼女がスピーチで問題としているのは「私たちの身体と病名よりも、私たちの生きる社会のほうがより強く『障害』になっていると感じている」ことであり、それに対する主張を「私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます」と表現しています。

 さて、感動ポルノがつくられる目的は「ほかのグループの人々の利益のため」「非障害者の利益のため」「人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すこと」「健常者が良い気分になれるように」と語られます。
 その手段は「ある特定のグループに属する人々を~モノ扱いしている」「障害者を~消費の対象にしている」「障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています」と表現されます。
 また、「ある特定のグループに属する人々」「障害者」「ほかのグループの人々」「非障害者」「健常者」という分かたれたふたつのグループがあるとしていることが特徴的です。

 これにスピーチ全体の意図を合わせると、感動ポルノとは「一部の人々にポジティブな情動を与えるために、別の人々をネガティブな存在に貶め、消費財として扱うもの」ということになるでしょうか。
 あえて「健常者」「障害者」というワードははずしました。これが国語のテストなら減点対象でしょうが、これらの言葉を使うとあたかも「健常者」「障害者」という集団が初めから存在していたような印象になってしまうためです。それだけ私たちの常識において「障害者」という言葉の異物感は根強いものです。それではヤングさんのスピーチの意図にそぐいません。
 また、この定義には「誰が」それをつくったのかという視点がありません。ヤングさん自身が健常者が悪いわけでも障害者が悪いわけでもないと語っているためです。あえていうならその犯人は「社会」ということになるでしょうか。

区別されること、消費されること。「障害」の正体。

 再掲。感動ポルノとは「一部の人々にポジティブな情動を与えるために、別の人々をネガティブな存在に貶め、消費財として扱うもの」
 この私なりの定義において「別の人々(=障害者)」は、「ネガティブな存在に貶め」「消費財として扱う」二段階の悲劇に見舞われています。これが二重構造になってしまっているからこそ、障害者は器官的障害とは別の理不尽な「障害」に晒されているのです。

 ひとつめの「ネガティブな存在に貶め」ることは理解しやすいですね。ノーマライゼーションという言葉があります。点字ブロックやスロープ、特別支援学校での生活訓練、就職における差別の排除など、障害者が健常者と同じ社会で、しかも自立して生活できるための環境整備のことです。
 一昔前に比べたら障害者を取り巻く環境はずいぶん改善しつつあります。以前は見世物小屋で見た目の奇異さを晒して金を稼ぎ、しかも介助してくれるパートナーがいてようやく生計を立てられるくらいでした。それができないなら一生親兄弟に依存するほかありませんでした。未だ充分に整備されたとはいいがたいものの、自立できる障害者はずいぶん増えました。
 ヤングさんもそのひとりですね。彼女は教職を経験し、その後コメディアン兼ジャーナリストとして活躍したそうです。
 今や彼女たちにとって障害は社会参加できないほど深刻な「障害」ではありません。まだ他の人よりは幾分苦労を経験しますが、すでに彼女たちは普通に自立した生活を営むことができています。
 だから「障害はマイナスである。そして、障害と共に生きることは素晴らしいことである」なんてことはありません。マイナスではなくゼロです。そして健常者と同じゼロ地点からスタートできているのですから、そこには人を感動させるような想像を絶する努力なんてありません。

 感動ポルノはその事実を歪曲して、障害をきわめて深刻な苦境、それと向き合う障害者を人並み外れた生の輝きを放つ奇跡の体現者として演出します。障害者がただ普通に歩いて、ものを言っただけのことを、あたかも赤ん坊が初めてあんよをして、初めてパパママを呼んだかのように大げさに祝福します。
 しかし実際の彼女たちは毎日そうしているように普通に歩き、普通に話をしているだけなのです。感動ポルノはそうしたささやかな「普通」を奪い去り、身勝手にも「特別」というレッテルを貼り付けて、障害者を普通の社会から切り離します。

 そのうえふたつめ。感動ポルノはそうして「特別」に仕立て上げた障害者を「消費財として扱う」のです。
 望まない「特別」をお仕着せられた障害者たちは「一部の人々(=健常者)にポジティブな情動を与える」ために一過的に持ち上げられ、やがて飽きた人々によってうち捨てられます。あとに残るのは普通の社会から切り離された「特別」という烙印だけ。
 その「特別」がいかに辛いものであるか、消費する側である健常者は気付きません。「特別」な人を自分たちの社会から切り離しているので声が届かないのです。次から次へ使い捨てていくので、彼女たちの事情に深く想像を巡らすことすらありません。
 ヤングさんは件のスピーチをこう締めくくっています。「障害そのものは、何も特別なことではありません。でもあなたの障害に対する意識について考えることは、あなたを特別な存在にします」 これはスピーチを聞いてくれた人々への素朴な祝福の言葉ですが、その背景には現状に対する痛切な嘆きを感じ取れます。
 健常者が障害は特別なことではないと理解することは、「特別」なのです。今の社会においては。誰もがそれを知らない現状、障害者は特別なんだと当たり前に認知されてしまった社会の常識において、障害者が普通の人であるという事実はそれほどに認知されがたい「特別」なことになってしまいました。
 感動ポルノを使い捨てていたために、その被写体が普通の社会から切り離されてしまっていることに誰も気付けなかったから。

 ノーマライゼーションという言葉にはもうひとつ別の意味があります。かつて日本でも『五体不満足』の乙武洋匡さんが広めようとしていた概念です。
 障害者と健常者が区別されることなく、区別する必要がなく、ひとつの社会の中で、それぞれの能力に応じた活躍ができる社会。社会制度上の自立困難を取り払うだけではなく、人の心の中にある断絶を取り去り、「障害者」とか「健常者」とか関係なく個人と個人として手を繋ぎあえる社会。
 難しいことなんかじゃありません。かつて「邦人」と「外国人」が断絶していた日本も、最近は国内のそこら中で肌の色が違う人たちを見かけるようになりました。(どこまで宥和を許せるかはノーマライゼーションとはまた違う問題も孕んでいますけどね) もっと卑近な例では「右利き」と「左利き」の断絶もほとんどなくなってきましたね。左利きが右利きに矯正されることはなくなり、左利きがカッコワルイと笑われることもなくなりました。「男性」と「女性」のジェンダー論や性的マイノリティーを巡る問題なんかもこの類です。

 感動ポルノや障害者を取り巻く問題は、そういうもっと身近な話題と同じに考えていい問題です。むしろ私やあなたがもっと気軽に受け止めなければ決して解決されません。
 ヤングさんや乙武さん、バリバラという番組の取り組み・・・近年になって幾人かの障害者がコメディアンとして立ち上がったのはそのための取り組みです。感動ポルノとしての障害者イメージの裏でタブー視されていた「障害者を笑う」という行為が、本当はタブーなんかじゃなかったんだと、彼女たちはことあるごとに口にします。私たちはバカなことも下品なことも言う、ただの人間なんだと彼女たちは主張します。

 障害者がもっと身近に、卑近に、どこにでもいる普通の個人として傍にいる。そんな当たり前の事実。今回の「感動ポルノ」流行や24時間テレビバッシングのようなきっかけなんてなくても、もっと当たり前に障害者のことを話題にできる社会が、いつか築きあげられますように。
 私が大学で取得したきり持ち腐れている某資格も日の目を見られるかもしれないしね!

 「私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。部屋で『吸血ハンター 聖少女バフィー』を見ている15歳の女の子が、ただ座っているだけで何かを達成したと思われることのない世界に生きたいです。朝起きて名前を覚えているだけで喜ばれるような、程度の低い期待をされることのない世界。そしてメルボルン高校の11年生が、新しい先生が車椅子に乗っていてもまったく驚かない世界で生きていきたいのです」

それからヒーロー幻想

 アクティヴレイドの感想でも少し触れたことなのですが、私は生身の人間をヒーロー扱いするのが嫌いです。アイドルやスポーツ選手、起業家、声優、漫画家・・・そういった人々を業績や作品で語らず、その人の生き方そのものを信奉するスタンスが嫌いです。
 だって私たちはその人の人となりをよく知らないじゃないですか。せいぜいいくつかのインタビュー、いくつかのゴシップで断片的に彼らを知っているだけです。そんな不十分な知識で彼らの彼ら「らしさ」を知った気になってしまうなんて。

 テレビや雑誌で見る彼らはカッコイイです。キラキラしていてヒーローのようです。私たちにはできないなにもかもを成し遂げて、私たちには届かない遙か高みで戦っています。
 ・・・けれど、それは断片的な情報です。カメラの回っていないところで彼らが何をしているか、私たちは知りません。知らないまま、なんとなくそれでもキラキラしているだろうと夢想します。あるいは裏では真逆の顔を見せているだろうと勘ぐります。ただ彼らにそうあってほしいから。無邪気な願いで、彼らの私生活を規定します。
 彼らもまた、そうして期待された人となりをカメラの前で演じます。そうすることを期待されているから。そうした方がより多くのお金を稼げるから。そうした方がより一層自分の夢に近づけるから。

 この構造、障害者にとっての感動ポルノに似ていませんか?
 ヤングさんの主張によると、彼女たちは自ら望んでカメラの前で感動ポルノ的なふるまいをしているわけではありません。しかし彼女たちは感動ポルノを望む社会の要請に圧されて、己が人生のうちの輝かしい、カッコイイ断片をカメラの前に晒し、健常者を感動させています。
 その結果、健常者は障害者を自分たちとは違う、儚くて尊い遠い遠い存在として認識してしまいます。そして消費していつか忘れてしまいます。
 感動ポルノもヒーローも、カメラに映る誰かの人生の断片でしかないカッコよさで他の誰かを魅了し、あたかもそのカッコよさがその人の人生の全てであると「嘘」をつきます。その嘘によって人々を断絶させます。

 今年もたくさん有名人の不道徳が報道されました。不倫や脱税、モラルに欠けるあれやこれや。
 もちろんそれは批判されるべき悪です。けれど、それが有名人によって行われた場合に限り、理不尽なことにその社会的断罪は普通の人の場合よりもはるかに重くなってしまいます。
 乙武さんの名声もすっかり地に落ちてしまいました。彼の私生活や人格関係なしに、彼がカメラの前で語った理想はとてもステキなものだったのですが。
 ただの人が悪を働いたなら、その人は悪人です。ではヒーローが悪を働いた場合は? それはもはやヒーローではありません。ヒーローなのだからただの悪人ですらありません。
 その裏切り、その虚像が人の怒りを駆り立てます。だって彼らはヒーローだったはずで、私たちとは違う「特別」のはずで、私たちを「感動」させる義務があった。

 人の生き様にヒーロー性(≒感動ポルノ)を求めるなんてろくなものじゃありませんよ。だって彼らは特別な存在なんかじゃなくて、私たちと同じただの人なんですから。
 私たちと同じで、カッコイイところもあれば逆にカッコワルイところもあって、善性も悪性も併せ持っています。誰もが。相手がただの人だと思っていればそのくらい容易に想定できるのに、特別な人にはそういう考えが及ばなくなる不思議。

 その点二次元はいいですよ、二次元は。
 なにしろ彼らにはカメラに映っている瞬間しか人生が存在しません。カメラの前でカッコイイなら、彼らの人生はそれはもう根こそぎ全てカッコイイ。カメラに映った彼らを知るだけで私たちは彼らのなにもかもを知ることができます。人の創作物だからこそ、彼らは私たちを裏切りません。私たちが無自覚に彼らを傷つけることもありません。だってそこには「嘘」がないから。
 この世にヒーローがいるとしたら、私たちに感動だけを与えてくれる誰かがいるとしたら、それは物語の中にだけいます。・・・こう書くと恐ろしく不健全な主張に聞こえますが、私は本気で言っています。
 空想を信奉したっていいじゃないですか。「感動」には私たちを「勇気づけ、やる気を引き出す」パワーがあるんです。たとえヒーローが二次元の絵空事でも、彼らに勇気をもらって現実と戦っていく私たちのパワーは本物です。
 ファイト。

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