いじめを題材にした物語がいじめられっ子にウケない理由

 ふと思い出して懐かしいものを発掘してきました。
 むかーし2chのvip板でやっていた、『声劇つくっちゃおうぜ!』というスレッドに投稿した台本(というかポエム)です。wikiが完全に死んでて掘り出すのに苦労しました。

声劇つくっちゃおうぜ > 『クライクライクライ』

 拙いのう。拙いのう。でも割と今と共通する書き癖みたいなのも見えるのう。私、割と黒歴史ノートおっ広げるの平気なタイプです。
 たしかこれを最初に投稿したのは大学生の頃でしたか。とても大学生の文章力には思えませんね。
 ・・・で、これにはさらに未公開のプロトタイプがあって、それを書いたのが高校2年生だったかな。当時いじめられてたり担任に嫌われてたりしたのもあってクラスで孤立してたんですよね。根っから協調性のない子だったんで、それも8割くらい自分のせいだったんですが。

 いじめられると、まず自分が嫌いになります。自己評価が大きく下がります。他の誰よりも自分はダメなヤツなんだと卑下します。そうやって、自分の心を守ります。
 だってそうでもしないと世の理不尽に納得できないじゃないですか。他人をいじめて喜ぶクズ野郎に勝てない自分は何なんだろうって思っちゃうじゃないですか。自分はあいつよりはマシ、あいつよりは正しいって思いたいけれど、現実は負けています。
 だから事実に即して自己評価を改めるわけですよ。自分「も」クズなんだって。(それでもいじめっ子を見下すのをやめないこの性格の悪さよ)
 それができない子は、まあ、学校に来なくなりますね。人づきあい狭かったので小中高大16年間で3人だかしかそういう子知りませんが。なんにせよ理不尽とはテキトーに折り合いをつけた方が楽です。

 で、そうやって自己評価を下げると、やたら耳に障るようになるんですよね、笑い声。
 どいつもこいつも自分を指差して笑ってるように聞こえるんです。なにせ自分は最底辺のクズですから。笑われて当然。
 実際はほとんどの人がそもそもこっちに興味持ってないんですけどね。わかっていても、そう思いたくなるんです。
 なにせ自己評価を下げたこと自体、とてつもない自己愛なんですから。自覚があるかどうかはともかく(私はなかった)、そんな身勝手な評価を自分の心に認めさせられる時点でいじめられっ子はたいがい自己中です。自分のことしか考えられなくて、世界の何もかもが自分に関わっていると錯覚してしまいます。
 なんでもない平和な談笑を、勝手に自分に向けた針山に変えて、自分には関係ないってフリをしながら、勝手にひとりで傷ついているわけです。

 「いじめられる方が悪い」というのは半ば事実です。そもそもの原因がこちらにあるとは微塵も思ってはいませんが、いじめ問題がそうそう解消しないのは、いじめられた側に問題があるからです。
 いじめられ、自己評価を下げた人は自分にしか興味を持ちません。少なくとも私はそうでした。誰かと仲よくすることを自ら拒絶します。だから一度起こってしまったいじめ問題はそうそう回復しません。当事者がそういうことをする気のない人間になってしまったんですから。
 いじめられっ子に「心を開け」だなんて、ふざけんなって感じです。何のために心を閉ざしていると思っているんですか。これ以上傷つけられないためですよ。自分以外は全部敵。醜いところを見せたらたちまちつけ込まれてしまう。もう二度と他人に「自分」を見せてたまるものか。
 ましていじめっ子と和解しろだなんて。一番弱みを見せたくない相手に無防備な心のうちを晒せるわけがないでしょうが。それは相手に対する真摯さではなくて、単なる自殺です。そんな明らかにいじめられるより苦しいこと、どうしてやってあげなければならないのか。もし万一いじめっ子が心を入れ替えたとして、そんなこと知ったこっちゃありません。だってこちらは自分にしか興味がないんですから、今の彼らがどう変わったかなんて知りませんし、どうでもいい。
 いじめ問題にはドラマチックな解決は訪れません。そもそも当事者たるいじめられっ子に歩み寄る気がないんですから。第三者からの説得も、いじめっ子からの歩み寄りも、全く興味が湧かないので関係は硬直するしかありません。
 いじめられっ子側に問題解消のためのとっかかりが全然ないんですよ。

 だからいじめ問題を解決するのは時間だけです。いじめられっ子が自分自身を変えたくなるのを待つしかありません。死にさえしなければそのうち自分から変わっていくものです。たぶん。
 強いていうならカウンセラーのアプローチならわずかに意味があるでしょうか。あれは時間いっぱいひたすら自分自身で内省することを促すものですから。自分にしか興味がない子には都合がよろしい。

 物語の場合、ただ時間が過ぎるのを待つだけだなんて退屈な展開にはできません。人と人との関わり合いが一切ないので何のドラマも生まれません。だから善意の第三者が働きかけたり、いじめっ子なりいじめられっ子なりが勇気を出して強引に歩み寄る展開になります。実は寂しかった、変わりたかっただなんてもっともらしい理由をつけて。
 しかしそれがそもそも現実のいじめ問題ではありえないのです。ここまでで語ったように、いじめはそういうポジティブな気持ちを真っ先に殺します。他人と関わりたいという思いを喪失させます。いじめられっ子には誰の言葉も届きませんし、耳を塞ぐのをやめさせること自体できません。

 そういう事情を無視してしか描きようがないから、いじめられっ子にとっていじめを描いた物語は「いじめっ子に都合がいい」と映るわけです。こちらにとっての最大の問題が無視されるわけですから。
 どう工夫を凝らしたところで、物語が人の心の動きを切り取って描くものである以上、こればかりはどうにもならないでしょうね。物語そのものの構造的な都合です。

 ちなみにここまでさんざん露悪的な思いをひけらかしてきましたが、今の私は人間が大好きですよ。
 人の創作物が大好きですし、人の話を聞くのが大好きですし、人の愛しあう姿が大好きですし、なにより自分が大好き。人間性も立場もちっとも大した人間じゃないのですが、そういうのは関係なく直観的に自分が好きです。わざわざ自分に気を向けなくたって自分がステキなのは自明なので、安心して他人に目を向けられます。たぶんそれが普通なんでしょうが、ちょっと遅れて私もそれができるようになりました。
 でもまあ、かつて私をいじめた人たちと仲よくなることだけはありえないでしょうね。なまじ他にステキな方々がたくさんいる分、わざわざ彼らに興味を向けたいとはカケラも思いません。

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