少女終末旅行 第3話感想 あなたの終末を見届けましょう。あなたが生きた証とするために。

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こいつを無くしたら、僕はきっと死んでしまうよ。

―― 存在証明

 あなたの生きがいは何ですか?

 子育て。ボランティア。恋人との語らい。――誰かとつながること。
 イラスト。小説。ガーデニング。――何かをつくること。
 写真。ブログ。陸上競技。――記録を残すこと。

 だいたいこのへんのどれかには当てはまると思うんですが、どうでしょう。
 昔は非生産的趣味の権化のような言われようだったコンピュータゲームですら、最近ではオンラインプレイだとかサンドボックスだとかトロフィーだとか、この手の「生きがい」めいた要素が増えてきました。いえまあ実際は昔からスコアアタックとか最強データづくりとか色々やり込んでいたわけですが。・・・ゲームの話は今どうでもいい。

 私たちは幸せです。いつでも隣に誰かがいて、目の前に紙とペンがあって、記録を語り継ぐべき明日があるんですから。
 この世界は私たちの生きる理由をゆだねられるものであふれています。

 けれど、どうしてでしょうね。
 その一方で、終わってしまった世界の誰もいない廃墟が、こんなにも美しく感じられてしまうのは。

遭遇

 「ふゅぎぅぉぉぉ、こぅぉぉぉぉ、ぉ、ぉぉぉ、ぉ、ぐっほ、げほ、げええぇ。あ、あー、あ、ごほん、ん。――ごめん。久しぶりすぎてうまくしゃべれなくて」
 最近の石田彰さん、乙女系以外だとこの手のやたらテクニカルな芝居ばかりやってるなあ。今やってるチワワとか。ちょっと前の落語とか。

 さて、この終わってしまった世界では人間に出会うことが非常に珍しいことのようです。
 だからちーちゃんは非武装だし、夜はのんきにふたり揃って寝ます。だって夜番するための体力と燃料のほうがもったいない。カナザワの方もタバコなど痕跡を隠そうとしません。
 この人はいったいどのくらいのあいだ人と会わずにいたんでしょうね。
 ちなみに私の経験では2週間くらいは何もしなくても発声器官を維持できました。それ以上は知らない。

 ちーちゃんとユーも珍しくピリピリしていましたね。
 「タバコだ。まだ火がついている。・・・あっ。誰かいる!」
 とはいえやっぱり珍しい出来事だからか、ちーちゃんの態度はずいぶん間の抜けたものですが。
 「下ろしていい?」
 「いいよ」

 ユーの方はちーちゃんよりマトモに警戒しています。銃口を下ろしていいか聞いておきながら、結局自己判断で構えを緩めませんし、目も逸らしません。・・・まあ、埃をはたくときは彼女も明後日の方向を向いちゃっているわけですが。
 少女たちなりのゆるゆるっとした警戒は結局、ビルを渡るためにカナザワと協力しあうまで続きます。

 このあたり、実は原作のやたらドライな描写からだいぶおもむきを変えてあるわけですが・・・おかげでユーのキャラクター性がほどよく強調されていてグッドですね。
 この子ってば「生きがい」といわれて食べ物しか出てこないくらいモノに執着がないこともあって、なかなか何を考えているのか見えにくいんですよね。どうして自分が旅をしているのかすらちょいちょい忘れるし。
 ちーちゃんに言われるがまま銃を構えたり下ろしたりするのではなく、そこにちらりと自己判断を噛ませるところに彼女のナマっぽさが垣間見えます。
 なるほど。こういう子だからこの子はこんな世界でも銃を手放さないんですね。基本刹那主義な彼女にもひとつくらいはかけがえのないものがあるから。
 「ユーは自分の食料は死んでも放さないだろ」
 「そんなことはない。・・・ことはない。――ないって」

生きがい

 「ねえ、ユー。人はなぜ生きるんだろうね」
 何気ない哲学的問答。や、ユーが取りあってくれないので単に問いかけですね。
 少女たちの旅は破壊の道行きです。
 誰も住んでいない廃墟をぶち壊し、わずかに残った資源を食い荒らし、古き想い出を踏み砕いて生を繋ぎます。あとに残すのは終末だけ。
 「そうやって行き着く先に何があるんだろうって」
 彼女たちはそれを知りません。旅立つときに教えてもらわなかったし、旅に出てからの日々でもそれを考える必要はありませんでした。そしてこれからも考える必要がありません。何を考えたところで食料が増えるわけでもなければ目的地が変わるわけでもないんですから。

 「やー。――頭がおかしくなったと思って」
 「なってねえよ」

 その哲学は必要ありません。
 必要はないけれど、まあ、ヒマなら考えてみてもいいんじゃないかな。
 必要はなくても、もしかしたら意味くらいはあるかもしれませんし。

 「ちーちゃんがさっき『生きてるかどうかわからない』とか言うからさあ」
 ユーはたいがい人の話を聞かない子だけれど、同時に1mmくらいは直観的に右脳に放り込んでおいてくれる子です。ちーちゃんの哲学の本質だけはなんとなく見抜いています。付きあってはくれないけれど。

 さて。昼寝と哲学、あなたならどっちが好きですか?

 というわけで、わかりやすくその哲学の答えを持っている人が現れます。
 「僕はカナザワ。地図をつくりながら旅をしてる」
 地図のことを語るときだけ異様に声が弾む、変な大人。
 「生きがいだよ。めったに人に会うこともない世界じゃ他にすべきこともない。こいつを無くしたら、僕はきっと死んでしまうよ」
 カナザワはなぜ生きるのか。
 それは地図をつくるため。単純明快。しかも地図づくり自体には何の目的もなく、つくったからといってどうするわけでもなく、真の意味でそれはただの「生きがい」となっています。
 カナザワはどうやって自分が生きているかどうかを確かめるのか。
 そのときは目の前にある地図を見ればいい。この地図は彼がいなければ存在しませんでした。ならばこの地図は彼の生きた証。存在証明です。

 たとえいつかどこかで彼が死んだとしても、この地図がある限り、カナザワという人間が存在していた事実はこの世界に残りつづけるでしょう。
 ある意味カナザワ自身よりもよっぽどカナザワしてる。
 生きがいってのは、まあ、たぶんそんなものです。
 人間の主観というのは不便なもので、自分じゃ自分が生きているか死んでいるかを観測できないんです。なにせ死は一度しか経験できませんからね。
 だから自分の存在証明を自分以外の何かにゆだねて、ときどき確かめるんですよ。
 「オレ、alive なう!」って。

 「私たちはさ、こうやって食料を探してさまよっているでしょ。見つけて、補給して、また移動して。そうやって行き着く先に何があるんだろうって」
 ちーちゃんが漠然とした疑問を抱くのは、彼女たちが破壊の旅路を進んでいるからです。壊してばかりで何かをつくってはいないからです。なんとなく日記はつけていますが、今のところ彼女はそこに「生きがい」と呼べるほどの価値を見出しているわけでもありません。
 もっとも、この世界ではそれが当たり前なんですけどね。

 この世界はすでに終わっています。
 残念なことにこの世界にはもう明日がなく、従って人が何かをつくったり残したりするのを許してくれません。

存在証明

 「よし、燃やそう! ――無くしたらホントに死ぬのかなと思って」
 私なら、まあ、死にはしないかな。生きているかどうかはわからなくなるかもしれないけど。
 あー、でもそうなったらなんとなく気分がノったとき死んでみちゃう気もする。いや、やっぱり死なないか。私はそこまでアグレッシブな性格じゃない・・・はず。
 うん。どっちに転ぶかそのときになるまでわからんね。だって私まだ死んだことないし。

 ちーちゃんとユー、そしてカナザワの生きるこの世界には明日がありません。
 だから、地図のように未来に残る創作物の存在は認められません。それがたとえ誰かにとってどんなに大切なものであったとしても。
 「地図が!!」
 この物語世界の根底にはそういう厳格なルールが存在します。

 「どうせみんな死ぬんだ。生きる意味もない」
 生きがいがなければ、人は自分が生きていることを確かめることができません。自分の生と死を区分けすることができません。
 「ねえ、ユー。人はなぜ生きるんだろうね」
 「ちーちゃんがさっき『生きてるかどうかわからない』とか言うからさあ」

 冒頭のちーちゃんの問いかけに対する明確な答えを持っていたはずのカナザワは、階層型都市の空に舞っていなくなりました。

 この終わってしまった世界では、人は自分が生きていることを証明することができないのでしょうか。
 ・・・いいえ。

 私の知る限り、「生きがい」には3つの種類があります。
 ひとつは、何かをつくること。
 ひとつは、記録を残すこと。
 そしてもうひとつ。誰かとつながること。

 「カナザワ。これあげる。フルーツ味」
 それはユーが特別に思っていること。
 基本ちゃらんぽらんでやけっぱちなこの子が、使う機会の少ない銃を担いでまで、唯一守りたいと思っているもの。
 何もつくれなくたって、何も残せなくたって、人は自分の存在証明を持つことができます。
 「意味なんてなくてもさ、たまにはいいことあるよ」
 あなたを見てくれる人さえいれば。

 ユーはモノに執着しません。おおよそ生きがいらしいものへの執着を見せない刹那主義者ですが、そのくせ誰よりも精神が安定している子です。
 それは、だって、隣にいるちーちゃんがいつでも自分の存在を証明してくれますから。

 「だってこんなに景色がきれいだし」
 終わってしまった世界の誰もいない廃墟が、どうして私たちにはこんなにも美しく感じられてしまうのでしょう。
 それはたぶん、この景色が、かつてこの都市に生きていた人々の存在証明だから。
 幸運なことに、彼らはモノとして自分の存在証明をこの世界に残すことができました。カナザワと違って。
 うらやましいことです。ステキなことです。この色あせた景色には人の営みのうちの一番輝かしいものだけが純化されて残っています。
 今となっては彼らのその存在証明を見届けてくれる人自体がほとんどいませんが、今日こうしてふたりの少女がそれらを最後に観測してまわってくれています。この物語は『少女終末旅行』。ちーちゃんとユーが終わってしまった世界に終末をもたらす物語。

 だから。
 それと同じで、たとえ地図がなくともカナザワの存在証明はここに成されます。
 ちーちゃんとユーがカナザワを記憶してくれます。
 まあユーはちょいちょいいろんなことを忘れるちゃらんぽらんですけどね。そこらへんはちーちゃんを信じろ。

 「――写真機だよ。まあ好きに使ってくれ」
 だから、カナザワはふたりにカメラを託します。しょせんはモノなのでいつか失われるかもしれませんが・・・それでも大切な記憶の足しにしてもらえるかもしれないから。
 カナザワの存在証明は成されました。これでいつかどこかで自分が死ぬときまで、彼は最後の最後まで生きていられます。

 カナザワの終末は見届けられました。

 あなたは自分がなぜ生きているか、答えられますか?
 自分が今この瞬間、生きていると確信できますか?
 もし生きていることに少しでも疑問を抱くことがあるならば、今しばし、少女たちと一緒に世界の終末を見てまわりましょう。

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