日記も書き連ねていけば本のようなもの。
―― 足跡
生きているのと死んでいるのって、何が違うんでしょうか。
もしも死後の世界があるとしたら、私たちは自分が今生きているのか死んでいるのか、見分けられるんでしょうか。
どうかな。
私は死んだことがないのでよくわかりません。
お葬式に出たことならあるので、他人が生きているか死んでいるかくらいは見分けられるんだけれど。
動く、動く
「記憶なんて生きる邪魔だぜ」
ふたりの少女の旅は破壊の道行きです。
もはや誰も住んでいない廃墟をぶち壊し、わずかに残った資源を食い荒らし、古き想い出を踏み砕いて生を繋ぎます。
すでに終わってしまった世界はそうせずにいられないくらい過酷。ちーちゃんとユーはそういう生き方が当たり前の世界に生を受けました。
もっとも、人類が衰退しきった今となっては先人の遺物を残すこと自体に価値が無くなってしまったのだけれど。
「第七十二地上発電所」
「・・・読めないな」
かつて多くの人々に莫大な利益をもたらした基盤施設も今は昔。漢字すら失伝してしまったこの時代においては、たとえ稼働していようが、存在意義など誰も見出しません。そもそも利益を享受するべき人間がもういません。
今回ユーが撃ち抜いた温水パイプは廃熱設備でしょうか。これを破壊されたならば、遠くない未来、この発電所は稼働を停止してしまうことでしょう。けれどそのことを悲しむ人間なんてもう世界のどこにもいません。
ふたりの少女は生存するために遺物を破壊します。
もはや存在意義を喪失した遺物に、最後の最後で少女たちの生命を繋ぐという新たな価値を与えられたのですから、案外こんなのでも今どきの終末としては上等かもしれませんね。
ふたりの少女の旅は破壊の道行きです。
もはや誰も住んでいない廃墟をぶち壊し、わずかに残った資源を食い荒らし、古き想い出を踏み砕いて――そして彼らの終末にささやかな意義を与えます。
けれど・・・ちーちゃんとユーが生存することに、そもそもどんな意義があるんでしょうか。
終わってしまった世界。
誰もいない世界。
過酷な世界。
ときどき生きているんだか死んでいるんだかわからなくなっちゃうような世界で、それでも本当に生存する価値なんてあるんでしょうか。
彼女たちの生を繋ぐため、たくさんの遺物たちが終末を迎えたことに、はたして本当に意義はあったんでしょうか。
青空
破壊の旅路を行く少女たちにも大切なもののひとつやふたつはあります。
たとえば、本。
「本ってのはすごいんだよ。何千年も前に古代人が発明して以来、ずっと人類は本に記録してきたんだ」
「世界中探してももうどれだけ残ってるか」
いろんなものを壊してまわっているくせに大した感傷だなと皮肉を感じないでもありませんが、ものの価値は人それぞれ。ちーちゃんが本に存在意義を見出すというなら、本はまだ終末を迎えるべきではないんでしょう。
「あ」
もっとも、ユーにとってはそれほどでもないのでうっかりヤっちゃうこともあるんですけどね。
「本が大事ってこと話したよな、さっき!」
「ごめん。それはあんまり聞いてなかった」
「聞けよ!」
ふたりの少女の旅は破壊の道行きです。
どんなに大切にしているものだって、結局のところ例外ではありません。
かたちあるものはいつか壊れる。破壊される。終末を迎える。
ちーちゃんとユーだってそれほど遠くない未来に生を終えるでしょう。
この世界はすでに終わっています。あらゆる存在にとって終末は既定事項です。
だとしても、だ。大切なものを燃やされたらやっぱり腹が立つ。
どうしてかな。
「ちーちゃんまだ怒ってる?」
けれど、この世界においてはあらゆる存在にとって終末が既定事項です。
かたちあるものも、そして、かたちのないものも。
青空。
「おお、晴れた」
「積もったな」
ただ青空を見ただけで、ちーちゃんのムカっ腹はどっかに消えていきます。不思議と。
どうしてかな。誰もが終末を待つこの世界は、それでもどうしようもなく美しいんです。
きっと、だからこそ美しいのかも。
澄んだ空気。
差込む朝日。
抜ける青空。
静謐な時間。
灰色の遺物たち。
終わってしまった世界。
「ねえ、まだ怒ってる?」
「――別に」
More One Night
かたちのない怒りすらも終末を迎えるこの世界で、それでもなおちーちゃんとユーが生を繋ぐ価値が、いったいどこにあるんでしょう。
そんな小難しい哲学、ただの少女であるふたりが答えを探す理由もありません。
あえていうならそいつは彼女たちを見守る私たちが見出すべきものです。
過去を破壊し、未来を喪失した少女たちは、けれどそんなこと一切お構いなしに現在を生きます。
お風呂が気持ちよかった。
朝の空気がすがすがしかった。
水面が青かった。
久しぶりに洗濯できた。
魚がおいしかった。
見上げる空が、やっぱり青かった。
だから今日を生きます。だから、明日も生きます。
彼女たちにとってはとりあえずそれだけで充分。
誰が何と言おうが知ったこっちゃありません。そもそも口を挟んでくる他人なんていやしません。
その生に意義ある限り、彼女たちはいましばらく終末から逃れて旅を続けます。
過去の遺物たちはそのためにこそ終末を迎えました。
その終末には確かな意義がありました。
もしそれで納得がいかないというなら、もうひとつ理屈を提示してみましょう。
ちょっと先走りすぎかもしれませんけどね。
「それ何書いてんだっけ」
「出発してからの日記というか、日誌というか」「記憶は薄れるから記録しておくんだよ」
日記。
万物を破壊する旅路にありながら、ちーちゃんは自らの足跡を保存します。
道すがら出会ったもの、壊したもの、食べたもの、見つけた景色、何気ないおしゃべり・・・そういったとりとめのない記憶を大切に保存します。
かたちあるものもかたちのないものもいつか終末を迎えます。
けれどさ。
生きているのと死んでいるのって、何が違うんでしょうか。
どうやって見分けたらいいんでしょうか。
だって、他人の死ならともかく、自分の死なんて自分では観測できないんですよ?
「記憶なんて生きる邪魔だぜ」
確かに生きるためには必ずしも記憶を残す必要はないかもしれませんが、一方で死ぬためには必ず誰かの記憶に残る必要があるんです。
――そう。だからちーちゃんとユーがいるんですよ。
終わってしまった世界に終末を与えるために。
あらゆる終末を見届けるために。
あなたの終末を記録に残すために。
彼女たちの日記がやがて本になったとき、はたして本当に読んでくれる誰かがいるかは・・・今はまだわからないけれど。
けれど私たちは知っています。
この物語の表題は、『少女終末旅行』。
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