ヒーリングっどプリキュア 第37話感想 たとえば、徒歩で2時間かかる友達の家に子どもが遊びに行くことはできるでしょうか?

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だって、お手当てが終わったらボクたち人間界にいる必要がなくなるペエ。

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(主観的)あらすじ

 アスミがすこやかまんじゅうのお店でアルバイトを始めました。そういえば今は行楽シーズン。ラビリンたちもラテを連れてお出かけしてみることにしました。スポーツの秋、芸術の秋、実りの秋です!

 すこやか市にはたくさんの働く大人たちがいました。
 スポーツしに行った公園には市のゴミ拾いボランティア。デッサンしに行ったお花畑にも植栽保護チーム。栗拾いしに行った果樹園では優しい農家さんが野生動物と共存しながらクリやカキの木をお世話していました。この町には地球に優しい人たちがいっぱいです。

 ひとしきり秋を満喫したところで、ふと、ラビリンたちは来年のことに思いを巡らします。
 来年の今ごろはどうなっているでしょうか? 地球のお手当てが終わったらラビリンたちは地球にいる理由がなくなってしまいます。ヒーリングガーデンに帰ることになるのでしょうか。のどかたちとお別れすることになるのでしょうか。・・・不安に気持ちが沈みます。
 そこにダルイゼンがやって来て、「だったらお手当てしなければいい」と言います。そうすればいつまでも変わらず今のままでいられるから。

 だけど、ラビリンたちはお手当てを続ける気持ちを曲げませんでした。
 のどかたちをお別れしたくはないけれど、地球や、優しい人たちを守りたいと思うのもラビリンたちの本心だから。それに、のどかたちと会いたいならヒーリングガーデンに帰ってからでも自分で会いに来ればいいだけだから。
 大切なことに気がついて、ラビリンたちはきっと楽しいであろう来年を心待ちに思うようになるのでした。

 正直にいうと、最初ラビリンたちがどうしてこんなに悲しんでいるのかよくわかりませんでした。お別れがイヤなら来年もまた会いに来たらいいじゃんって。去年までのプリキュアや妖精たちと違って、ラビリンたちには気軽に会いに来られない事情がないんですから。
 そもそも今話のストーリー自体が何を描こうとしているのかピンと来ませんでした。日常パートでは働く人たちの姿をじっくり描いていく一方で、クライマックスになると毎年恒例のお別れのお話。まるで噛み合いません。そのテーマに繋げるならどうしてアスミにアルバイトをさせたの? 何のために市のボランティアを登場させたの?

 ちょっと考えて、2回目を観て、やっぱり「使命とか関係なく遊びに来ればいいじゃん」って思って、そこではっとしました。ようやく腑に落ちました。
 私、大人になってたんだなあって。

 プリキュアの感想文を書くときは努めて大人視点から語っているものの、実のところ私は自分がそんな偉そうなことを言えるほど大人になりきれてはいないと思っています。独身で子育て経験もありませんし、仕事でもまだまだペーペーですしね。気楽さでいったら未だに学生時代と大差ないかもしれません。
 ・・それでも、やっぱり子どものころとは物事の感じかたが確かに変わってきているんだなあって。

前置き:なんだかんだで恵まれた子どもだったなあっていう自分語り

 (書いてみて思いのほか長くなってしまったので一旦章を区切りました)

 今話は自分で出来ることがほとんどなかった子どもたちが、自分にも出来るようになる方法に気がつく物語です。

 また私の話になりますが、私、高校、大学と、ずっと進学先は自宅から通えるかどうかで選んできました。幸か不幸かその範囲でも自分の成績に充分見合う学校がありましたし、だからなのか両親も当たり前のように家から通う前提で進路の話をしていましたね。それが当たり前だと思って、一人暮らしが必要になる遠くの学校のことなんて調べもしませんでした。
 別に奨学金を借りたくなかったわけでも、自分でバイトする気がなかったわけでもなかったんですけどね。本当にただなんとなく、社会に出るまでは両親が面倒を見てくれるんだから、自宅から通うのがその両親に一番負担をかけずに済む選択なんだから、そうするのが一番いいんだと思っていたんですよね。
 演劇も好きでしたが、あの世界に進むなら十中八九家に迷惑をかけてしまうだろうことがわかっていたので、ハナからプロを目指す気がありませんでした。
 知らず知らず、自分で選べる選択肢を制限していました。

 きっと私が本気で調べて、本気で行きたいと訴えたなら、誰もそれを止める人なんていなかったでしょうに。

 そんな私が、「使命とか関係なく遊びに来ればいいじゃん」ですって!
 何事も自分を援助してくれる存在ありきで考えて、いつもそっちの都合第一で身の振りかたを決めてきた私が!

 違う!

 子どもっていうのはそこまで自由にワガママ言える立場じゃない!
 だって、いつも誰かに守られているのが子どもなんだから。家族や周囲の大人たちの善意と好意によって自由に“させてもらえている”のが子どもなんだから。
 ・・・いい子であればあるほど、保護者に示された身の振りかたに逆らおうだなんて思うわけがありません。
 子どもの生活が大人の責任において守られている以上、子どもはそこから逸脱することに責任を持つことができません。そのことを自覚できている子なら、なおさら。

 ラビリンたちはテアティーヌ様から地球をお手当てするという使命を授かって地球にやって来ました。その使命があったからこそ、のどかたち、かけがえのないパートナーと出会うことができました。
 出会いは、“使命”によって与えられたものです。
 きっと“使命”がなければラビリンたちはのどかたちと出会うことができませんでした。

 そうとも。だからこそ、なんです。
 ラビリンたちが涙を浮かべるくらい切実に使命が終わってしまうことを恐れていたのは。

 「使命とか関係なく遊びに来ればいいじゃん」なんて、自分の生活を全部自分の責任だけで営んでいる大人だからできる発想です。全部自分の責任だけで完結できるなら誰にも迷惑はかかりませんから。
 だけど子どもはそうじゃない。遠くの友達に会いに行く、そんな簡単なことですら自分ひとりじゃできません。きっと自分を守ってくれている優しい人たちはそんなこと気にしないだろうけれど、それでもきっと、どこかで迷惑をかけてしまう。

 “使命”抜きでのどかたちと会うなんてこと、そんな無責任なこと、ラビリンたちが自分で勝手に決めていいものなんでしょうか?

働く人への憧れ

 「アルバイト?」
 「何のお仕事ラビ?」
 「おまんじゅう屋さんの販売員です」

 きっと誰しも子どものころはアルバイトというものに憧れたことがあるはずです。

 きっと、それは必ずしもお小遣いが足りないからではなく。
 ほら、お小遣いでオモチャとかマンガとかばっかり買っていると、お父さんお母さん、あんまりいい顔しませんでしたし。別にそれで本気で怒られるわけじゃありませんでしたけれども。(※ 私の場合は)
 仮に充分なお小遣いをもらっていたとしても、それとは別に、何に使っても絶対に小言を言われないお金、欲しいと思ったことはありませんでしたか?

 「いやあ、本当に助かるよ。アスミちゃんのおかげで売れ行きも好調だ。どう? 疲れてない?」
 「いえ。とても楽しいです」

 「アスミちゃん、アルバイト楽しんでるかな」
 「あとで覗きに行ってみよ。すこやかまんじゅうも食べたいし」

 そしてきっと、それは必ずしもお小遣いのためばかりではなく。

 アスミは働く人になりました。
 アスミにとってはそれ自体が楽しいことでした。のどかも働くことは楽しいだろうと当然に想像します。

 「このへんはピクニックで訪れる観光客さんが多くて、ゴミを置いて帰ってしまう人がいるんです。でも、町の職員さんがああやって毎日ゴミ拾いに来てくれていますので」
 「ラビリンたちもこっそりお手伝いするラビ!」

 「もう少しお待ちください。手間暇かけてくれるからこそきれいなお花が咲くのです。この美しい景色を保てるのはあの人たちがいるおかげです」
 「それなら邪魔しちゃ悪いラビ。次の秋に移動するラビ!」

 アスミのアルバイトの話ではありませんが、ラビリンたちも働く人のことは尊敬して、できることなら自分たちも手伝ったり協力したいと考えます。
 働くという行為は子どもの目にやけに魅力的に映るものです。
 どうしてでしょうか?

 「おっ。あっちにも秋のフルーツがいっぱいあるぜ!」
 「あれも採っていいラビ?」
 「ごめんなさい。あちらは農家さんが管理している農園なので」
 「そっか。だったら勝手に採っちゃダメだな」
 「でも手前のこの森なら野生動物に解放されているのでご安心ください」

 農園の隣の敷地で野生動物に解放されているクリ林って何だよ。・・・というツッコミはさておき。

 子どもが働くことに憧れを抱くのは、きっと、できることが増えるからです。
 働いていない子どもが収穫を楽しむことができるのは、それを許された場所だけ。農家として働いている人なら、もっと実り豊かで、もっと採りがいのある農地に入ることも自由です。
 子どもにとって働くことは権利です。家のなかのことですら、子どもはお父さんお母さんの許可を受けなければ自由にお手伝いすることができません。包丁を触ってみたい。コンロに火をつけてみたい。そんな身近な好奇心でさえ、大人から“お手伝い”という免状を受けるまで、子どもは自由にすることができません。
 だから、何でもかんでも「お手伝いしたい!」って言うんですね。
 子どもの世界ではありとあらゆることに大人の許可が要るから。

 「見つかったら大変ペエ」
 「大丈夫。こっそりやればバレないって」
 「あっ。ダメラビ! ――うわあああ! ラビ!」

 もちろん、そうやって何かと不自由を強いられている理由も子どもながらに理解はしているんですけどね。
 子どもには本当にできることが少ないから。危ないから。
 大人たちは、なにもイジワルしているのではなく、優しいから子どもの権利を取り上げているんです。そのくらいは子どもにもわかります。

 だからこそ、そういった諸々を乗り越えて働くことができる大人の姿に憧れるんですね。
 大人はたくさんのことを許されているし、それだけたくさんのことができる。まだ子どもの自分たちと違って。

 ところで、だとしたら、子どもと大人とを分ける境界って?

 「ボクたち、少しは成長したペエ?」
 「してるしてる。ビョーゲンズにだって負けてねえし」
 「ラビ。のどかたちのおかげラビ」

 子どもにだって、少しくらいはできることがあります。
 毎日少しずつ成長して、毎日少しずつできることが増えています。
 それこそお手伝いやアルバイトができるようになるのが何よりの証明です。大人の許可さえ受けられたら子どもも働くことができるようになります。

 許可さえ受けられたら。

 そう。そこが子どもと大人の違うところ。(※ 実際には大人も採用面接受けなきゃ働けませんけどね!)
 子どもは大人の許可を受けないと、自分でできることを広げることができません。たとえ実力的にはもうできるだけの力が備わっていたとしても。

子どもの限界

 「来年もみんなと一緒にいられるとは限らないペエ」
 「なんでだよ?」
 「だって、お手当てが終わったらボクたち人間界にいる必要なくなるペエ」
 「あっ・・・」

 「人間界にいる必要なくなる」から「みんなと一緒にいられるとは限らない」という理屈になるのがポイント。ペギタンも、ラビリンやニャトランも、“必要がなければ自由にやることができない”という不思議な世界観を当たり前のように共有しています。
 完全に子どものお手伝いと同じ感覚ですね。
 子どもにとって、お手伝いは賦役ではなく権利の拡張です。頼まれたから店番をしてもいい。頼まれたから包丁を握っていい。頼まれたから火をつけていい。使命を与えられるからこそ権利も拡張します。

 だから、それと同じように、“頼まれたから地球にいてもいい”という理屈になる。
 ラビリンたちはまだ子どもだから。大人に許されないとやりたいことひとつできない身だから。

 「名前など知る必要はありません。今、この場で浄化しますので」(第20話)

 「それでは、私はヒーリングガーデンへ参ります。大切なラテ様を安全な場所にお連れしなくては」(第20話)

 なるほど。
 こうなると、最初のころのアスミの言動がまた違ったふうに見えてきますね。
 右も左もわからず、ただ使命ひとつだけ与えられて世界に放りだされた幼子。彼女はそう、だからこそ自分の使命を遵守することにこだわりました。だからこそ使命以外のことに興味を示しませんでした。

 彼女に許されていたことは、ただ、使命を遵守すること一点だけだったから。

 「疲れているのに色々お世話をしてくれたり、私のためにケガまでして、それでも笑顔で説明してくれたり。のどかはそういうふうに生まれてきたのですか? 私がラテをお守りするために生まれたように」(第21話)

 のどかたちの当たり前の言動を不思議そうに見つめていたわけですね。
 彼女は、普通の子どもなら成長の過程で当たり前に許可されてきた権利の拡張を何ひとつ経験してこなかったんですから。
 どんなに優れた実力があっても、許可を与えられなければ何ひとつできない。
 それが、子どもの限界。

 「あれ? プリキュアと別れたくないんだろ。だったらお手当てを辞めればお前たちの望みが叶うんじゃない?」

 理屈ですね。
 ピーター・パンあたりが言っていそうなご立派な屁理屈。

 子どもが大人にお手伝いしたいと訴えるのは、自分でできることを増やすためです。
 与えられた使命をありがたがるのは、それが権利の拡張とイコールで結ばれるからです。

 がんばった結果、逆にやらせてもらえることの範囲が少なくなってしまうんじゃ意味がない。

大人へのスタート

 「お願いラテ! 地球さんからもらったパワー、ラテを守るためより、お手当に使ってほしいラテ!!」(第20話)

 かつて、生まれ持った使命に拘泥していたアスミを変えたのはラテの願いでした。
 けれどそのラテはけっして大人ではなく、アスミの保護者でもなく、そもそもアスミにお手伝いの“許可”を与えたわけですらありませんでした。
 だというのに、当時使命以外の何もできなかったアスミを、それ以外のこともできる子に変えてしまいました。

 「あ・・・。これは何でしょう。心が、私のなかの地球のパワーが、高まり、渦巻き――。いいえ。苦しいのではありません。よくわかりませんが――。それでもあなたの手を取りたいと、どうしようもなく思ったのです」(第20話)

 あのときアスミの胸に渦巻いた、切ないほどの感情のうねりは結局何だったんでしょう。

 「ラテ様。あなたをお守りするためのこの力、あなたの願いのために使わせていただけますか?」(第20話)

 子どもが憧れ、許可を求める対象。

 「それは――、それは違うラビ!」
 「みんなで過ごす時間は失いたくない。けどな、守りたいのはそれだけじゃない!」
 「最初は少し恐かったけど、みんなで過ごす人間界には優しい人がたくさんいて、今はちゆたちだけじゃなく、みんな大事ペエ!」

 大人はどうして誰の許可もなく自分のやることを自分で決められるんだろう?

 それは、全部自分で決めているからです。
 子どもと違って誰かの庇護下にあるわけでなく、誰かに責任を肩代わりしてもらうわけでなく、自分の責任において、自分のやりたいことを、自分の意志で決定する。
 大人と子どもの最大の違いは責任を持っているかどうか。
 自分のことに自分で責任を持つからいちいち他人の許可を取る必要がなくなり、能力が及ぶかぎりあらゆることを自由に為すことができるんです。(※ 逆に、大人でも自分で責任を負えないことに関しては大したことができないわけですが)

 「ラテはここにいたいラテ。ヒーリングガーデンには帰りたくないラテ」
 「地球さんが泣いてるの、ラテだけがわかるラテ。それしかできないけど、がんばりたいラテ」
(第20話)

 使命に縛られていたころのアスミがラテの言葉に心揺さぶられたのは、彼女が自由だったからです。誰かに命令された赤らではなく、誰かに頼まれたからでもなく、生まれついての使命でもなく、ラテが自分の意志で自分のやるべきことを決定してみせたからです。

 「私ね、いろんな人にたくさん助けてもらって、今、こうやって元気でいられるの。それで、私もいろんな人を助けたいって思うようになったのね。だから、そういうふうに生まれたんじゃなくて――、経験して、変わったんだと思う」(第21話)

 ラテはまだ子どもです。それからのどかも子どもです。
 けれど、アスミから見たら子どもではない部分もありました。子どもなのに、誰に許可を求めるでもなく自分だけの意志で、責任で、自分のやるべきことをやろうとがんばっていました。
 まるで大人のように。

 「大好きなみんなを守るためにラビリンたちはここにいるラビ! だから何を言われようと、絶対にお手当てはやめないラビ!」

 子どもが不自由から解き放たれる瞬間。
 子どもが大人になる瞬間。

 「ボクたち、少しは成長したペエ?」

 成長しましたとも!

 繰り返しになりますが、ラテはまだ子どもです。のどかも子どもです。アスミや、ちゆやひなた、ラビリンたちだってやっぱり子どもです。
 それでも、子どものままではできないはずのことが少しずつできるようになってきています。
 思うに、子どもの実力が日々少しずつ増えていくのと同じように、自分で責任を持てる範囲もまた、少しずつ増えていくものなのでしょう。それがきっと、「成長した」ということ。

 「絶対に負けないラビ!」
 「オレたちの底力を見せてやろうぜ!」
 「ビョーゲンズの思いどおりにはさせないペエ!」

 恐ろしい戦い。後には引けない戦い。誰も助けてくれない戦い。
 それでも、自分で立ち向かうと決めた戦いだから逃げない!

 「お願い、ラビリン。私は運動得意じゃないけど、お手当てだけは、プリキュアだけは、何があってもがんばるから! 苦しむ地球をラビリンと一緒に助けたい! これが今、私の一番やりたいことなの!」(第2話)

 かつてラビリンのパートナーも同じ決意のもとプリキュアを志しました。
 ある意味で今話は『ヒーリングっどプリキュア』前日譚。
 未熟ゆえに何もできない子どもたちが成長して夢を叶えるための、実力を磨くばかりではないもうひとつの必須条件を描いた物語。彼女たちの目指している理想像の正体が、とどのつまり“大人になること”であることを示唆する物語。

 「私も動けるくらいには回復してきました。これもラビリンたちががんばってくれているおかげです」
 「そうですね。しかし、あの子たちはまだ見習いですし、油断は禁物です」
 「あいつら調子に乗りやすいからな」

 私が完成した大人になりきれていないのと同じように、子どもというのもまた、ただ子どもであるばかりの存在ではないのかもしれません。まるでグラデーションのように、スペクトルのように、子どもと大人の間には明確な境界線がないまま、ゆっくりと成長して変わっていくものなのでしょう。

 それでも、いつかのどかたちとラビリンたちが、誰かに認められるくらい立派に成長できますように。

コメント

  1. 東堂伊豆守 より:

    ヒーリングガーデンやヒーリングアニマルの事は秘密にしておかなければならない。ーーーーーーということは、アニマルが人間界に出陣してお手当てを遂行している事を人間達に感づかれないように、お手当ては人間の手を借りずに手早く片付けて、終わったら早々に撤収しなければならない筈、なんですよね。
    故に本来は、独力でお手当てが出来る正規アニマルだけが人間界に出陣出来て、見習いアニマルは人間界に足を踏み入れることすら許されていないんだと思います。ペギタン達が人間界にやって来れたのは「正規アニマル全員戦闘不能」という非常事態のもと、あくまで“特例”として許可されたからに過ぎないんだと。
    さて……テアティーヌのパートナー・フウと、ラビリンのパートナー・花寺のどか/キュアグレースの間にプリキュアは存在していなかったーーーーーーということは、今回登場したレイオン、トライン等テアティーヌ以外の正規アニマル達は、見習い時代に人間界に出陣してお手当てに従事した経験が無く、正規アニマルとなってからも人間界へは「お手当て完了即撤収」という形で往復していただけなんだと思われます。「心の肉球がキュンときた」人間と出逢って固い友情を結ぶ……なんてことは勿論無く。
    そんな連中が人間界にしゃしゃり出て来て、「人間を親友とし、寝食・苦楽を共にしてきた」「人間の生活様式や慣習・価値観に直に触れ、人間の醜さも素晴らしさも目の当たりにしてきた」ラビリン達「まだ見習い」「調子にのりやすい」アニマルと合流する……。
    うーん、「実はてめえらの方が人間界の事をロクに判っていないくせに、デカイ面して見習い達に命令する」先輩共と「若いながらも人間界で揉まれてきた」ラビリン達が衝突する未来が目に浮かぶようなんですが……。果たしてレイオン先輩やトライン先輩は、私の予感を良い意味で裏切ってくれるのか、否か。

    • 疲ぃ より:

       テアティーヌ様が女王をやっているのも経験値によるものかもしれませんね。唯一のプリキュア経験者なので、非常時(※ ヒーリングアニマルだけでは手に負えない状況)の司令塔として頼りになるという意味で。
       「心の肉球にキュンと来る人を探せ」以外大した指示出ししていないのはご愛嬌。

       高圧的な態度で来るかはさておき、たぶんおっしゃるとおりの認識の相違は起きるんじゃないでしょうか。ラビリンたちが人間界で経験してきたことの一番大切な部分ってやっぱりそこですし。ラビリンたちの「経験して、変わった」を描かなかったら物語としてウソですよ。
       未知なる価値観との衝突も大事な要素ですしね。戸惑う彼らの姿と対比して、ラビリンたちやのどかたちの変化を今一度掘り下げるんじゃないかと思います。
       男子三日会わざれば刮目して見よ、ですね。

  2. 匿名 より:

    物語として「子どもが大人に至る経過の物語」というのも当然あるんですが、ほとんどのプリキュアは非常事態に現れる伝説の存在なんですよね(トランプ王国のように平時から存在している国もありますが)。

    責任を持てない子どもが責任を負う大人を目指しているのに、その「大人は既に理不尽に打ちのめされて敗北しているところから始まる」のがプリキュアの一筋縄ではいかないところ

    責任を負えない子どもから出発し憧れていた大人を超えその向こう側の強さを求めるプリキュアという作品は厳しい。

    • 疲ぃ より:

       基本は理想論ですからね、子ども向けアニメ全般。
       現実の子どもは大人に庇護されているので、子どもにヒーローやらせるには大人に頼れない構図をつくらなければなりません。なので必然として子どもが大人より強くなっていく構図になるわけですが、だからこそ、大人にとっても尊い物語になるんだと思います。

       もし子どもたちがヒーローのように健やかに育ってくれたなら、きっと未来は私たちの生きた今より少し良くなる、と。
       そのためならなおさら、現実の厳しさも自身が経験した挫折も全部飲み込んで、ヒーローにはいつも強く優しく美しくあってほしいと願わずにいられません。

       当の子どもたちにとっては迷惑な話かもしれません。これは大人(負け犬)からの理想の押しつけです。
       それでも、どうか憧れてほしい。大人が描いた理想のヒーローの姿を、彼女たちも理想としてほしい。
       そういう意味で理想論。

       たぶんですね、現実の子どもってのどかたちほど素直に大人に憧れてはくれないものだと思います。それこそ漫画やアニメのヒーローってそこらの大人よりも何倍もカッコイイし。

       それでものどかたちを大人に憧れさせ、そのうえでさらに自分なりの責任感を持つことを期待するというのはなんともまあ・・・。
       地獄に落ちても知らんぞ私と藤堂いづみ。

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