真・女神転生5 プレイ日記 その8 エンディングまで

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紫繕セイカよ。秩序と混沌の狭間を戦いぬいた者よ。汝の意志はどこにある? 汝の真に欲する道を、真なる意思を指せ。

このブログはあなたがプレイ済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

現況

 とりあえず安易な考えで物理無効をつけてみました。プレスターンバトルは結局いかに行動回数で優位に立てるかに尽きると思うので、飛んでくる可能性が高い属性に対抗できればできるだけ都合がよろしい。まあ、ここまでくると万能属性だの属性貫通だの当たり前に使われるので、こだわる意味もあまりなかったぽいですが。
 微妙なエンディングを選んだのでラスボスが大して強くなかったという事情もあります。氷結使われたって関係ねえ!

 ちなみにラストダンジョンではほぼザコ戦をしていません。(※ あんなダンジョン構成でまともに戦闘する気になるか!) ここまでの旅路で福音書が20個ほど溜まっていたので、どうせ最後ですしと恥も外聞もなくお手軽レベリングさせてもらいました。DLCを買っていなくても意外に集まるものですね。魔導書に至っては99個溜まっているんですが、今さらあえて使う必要性も感じなかったのでダダ余りのまま放置。

最後の回答

 「神の王座なぞ、この手で破壊してやる。人の世は人の手のみで在るべきなのだ」

 ショウヘイの目的が神の御座の破壊とかいう思いのほか過激なものだったことにまず驚きましたが、そのうえで条件を満たすと派生する別ルートの展開にもまた驚かされました。

 旧神たちを消滅させて人間だけの世界を創る。

 却下です。
 私は本来民主主義と多様性の支持者です。越水長官の目指す世界が民主主義というよりは貴族主義(※ 結局統治者と民衆に分けられる / 義務を担う者と利益を得る者が乖離する)に感じられたのでこちらのルートを選びましたが、別にショウヘイの考えかたに丸ごと賛成したわけではありません。特に根幹部分の思想は今も気に入らないまま。

 ショウヘイの目指す世界は強者を排除した世界です。
 全ての人間が自由意志のもと強く生きられるようにするために、弱者を屈服させ意志を曲げさせようとする、悪意や暴力を世界から消し去ることを理想としています。理不尽の無い平等な世界を彼は求めています。
 従って、彼の創る世界において悪魔(旧神)は人類の明確な敵ということになります。彼らの持つ力は発生した瞬間からほとんどの人間を大きく上回っているからです。さらに彼らがナホビノに戻り、至高天へ至れば、主神として世界の理そのものを改変することさえできてしまいます。理不尽このうえない存在です。

 神の御座を破壊すれば、少なくとも理不尽な強制力による世界の理の改変だけは避けることができます。

 ただ、これだけでは依然人間と悪魔との間にとてつもない力の差が残されてしまうのですが・・・。
 ショウヘイにできることはここまでが限界でした。彼の理想を考えるなら、むしろ神の御座を使って悪魔の存在そのものを消し去ったほうが手っ取り早かったはずなのですが、残念ながら彼はナホビノではありませんでしたから。
 人間の強さを信じる彼の矜持として、自分がナホビノ(悪魔 / 旧神)の力を利用することに抵抗もあったのでしょう。ここで人間が強くなれる権利さえ守りきれば、いつか悪魔にも打ち勝てるという信頼もあったのでしょう。なるほど、彼は本当に人間を愛していたんですね。

 申し訳ないのですが、私は彼ほど純真な思いで人間を信頼することはできません。

 「たとえどれほどの実力差があろうとも戦う。その意志のない者には生きている意味がない。ならばいつ死のうが同じこと。また、悪魔にそそのかされ他人を裏切るような愚か者も死ぬべきだ」

 「騙されるお人好しも世の害になるだろうが、騙す者がいなければ害にはならんもの。悪意を持つ者の存在が世を曲げるのだ」

 他者にそそのかされ自分本来の意志を曲げる愚か者が存在するのは、彼らが弱いからではないと思います。
 暴力に対抗できる力があろうとなかろうと、イチロウやサホリのように他人に決定権を委ねようとする惰弱な人間はいるものでしょう。反対に、今まさに蹂躙されようとするなかですら自分の意志を貫けるタオやミヤズのような人間も。
 彼らの違いはきっと、ショウヘイが考えるような「強さ」ではなく、自分の生きかたに対する「責任感」。

 人間は変わることができるでしょう。
 悪魔に対抗できる強さを得ることもできるでしょう。

 それでも依然愚か者は残ります。いつの世も生まれつづけます。たとえ人間がいくら強くなろうとも。
 「悪魔を消滅させて人間だけの世界を創る」 そんなシンプルな理では結局彼らの存在を排除することができないと、私はそういうふうに考えます。――ショウヘイのように「騙す者がいなければ彼らも健全に強さを目指せる」と信じられるならまた違っていたのでしょうけれど。

 「ついに至高天への道が開いた。そこは始原にして終焉を表す地。世界を改変する創世の光の源だ。到達したナホビノは望むとおりに世界をつくり変えることができる。資格ある者よ。至高天を進み、王座を目指すがいい」

 だから、私は人間だけの世界を否定します。

 悪魔に対抗できるだけの力を得て、そのくせ性根は醜悪なままの人間。そんなものは悪魔と何も変わらないから。
 悪魔だけを排除したところでどうせ世界は何も変わらないから。
 そのくらいなら、悪魔であっても隣人としてその存在を認め、こちらを害そうとする個体とは争い、協調できる個体とは宥和する。打算があってもいい。裏の狙いがあってもいい。最低限お互いに手を取りあえる関係でいられるかぎりは。
 そういう当たり前の、人間同士の場合と何も変わらない関係性を、悪魔とも築いていきたい。種族ではなく、個々の価値観によって、共存できるかどうかを区別したい。
 そして、悪魔のなかにも人間のなかにもどうしても生まれ出でてしまう邪悪に対し、手を取りあえる全ての味方とともに抵抗していきたい。

 あえて人間と悪魔を区別する意味はありません。人間が悪魔に対抗できるくらい強くなれるというのならなおさらです。

 これが、この物語における私の回答です。
 私と私の主人公は神の御座を破壊しました。
 立ち会った全ての登場人物から呆れられ、ろくでもないエンディング描写も見せられましたが、もっと上等とされるエンディングがあることも明らかでしたが、後悔はありません。私の理想にとってはこの選択こそが最善でした。

 私が守りたいものも、拒絶したい対象も、悪魔と人間、両方のなかに存在します。
 全ての線引きは私が決めます。

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    コメント

    1. ヤタガラス より:

      先程、このゲーム、天津神側の価値観でクリアーしました。
      八百万の神々と人間による自由と相互尊重を目指す世界と言えるかもしれません。
      まさか、古来からの神道の価値観がもっとも民主的とは思いませんでしたが、確かにそうかもしれませんね。聖徳太子も「和をもって尊しとなす」と言っています。
      エンディングを見ると神々による人間の統治とも言えないようです。
      人々が自由に尊重するカミを選び、人が去るのも自由。神が去るのも自由。自由に仲良くやっていきましょうと言う世界観であり、割りと良いエンディングかなと思いました。

    2. ヤタガラス より:

      エンディング見終わって、シヴァ戦を残していましたがシヴァの言う「我欲我心で世界を創造しても駄目だ」と「世界の方から創造が行われなくてはならない」って、「全くその通り」このゲームの主題に対する違和感をこのゲームのキャラが表明すると言う深い構造になっていると思いました。
      ゲームをしている我々も、「一人一人が自己の人生を自由に創造しよう」と言う時代状況に生きているのですが、果たしてそれで良いのかと言う疑問を突きつけられる瞬間があります。「我欲で作った宇宙はいずれ崩壊するのではないか?」と言う不安です。
      我々の人生も、世界の側から創造されるべきではないのか?と
      何故なら、世界を創造している主体と創造される客体は、本来一体(真我)だからです。
      このシヴァすらも倒してしまったとき、このゲームはどのような終局を迎えるのか楽しみです。

      • 疲ぃ より:

         あ、そんな感じになるんですね。
         八百万の神々って一神教世界観と違って神様の存在意義を必ずしも人間の信仰に依存しないからこそ、ある意味ドライな関係を築くことができるんでしょうか。
         私は神様と人間のパワーバランスが不均衡だから2種族(?)が混在する世界に民主主義は成立しないと考えましたが、そういえば神の御座へ至るカギとして峻厳、均衡、慈悲という3つのキーワードがありましたっけ。“慈悲”なんてものは上位者にしてみれば一方的に負担を負わされるだけの概念でしかないと思っていましたが、人間と神様の間にあるのがドライな関係なら余計な不満は感じにくく、もし我慢できなくなってもコミュニティを抜ければいいだけ。案外“慈悲”があるからこそ、上位者にとっても安寧が得られるのかもしれません。
         暴力以外の手段で不均衡を飲み下すことができるのは隣人同士とても幸せなことだと思います。

         割と現代の価値観に染まっている私としては、我欲に立脚することの価値をあんまり否定したくないんですが、その一方でいきすぎた個人主義がそこかしこで摩擦を起こしていることも事実。んー・・・、シヴァ神の問いかけに対する答えを私は今持っていないかもしれません。
         私も時間を見つけてシヴァ撃破を目指してみたほうがいいかもしれないなあ。

    3. ヤタガラス より:

      コメントありがとうございます。
      天津神エンディングの世界では、人や神々を自由にすると、結局は党派が出来てしまい、これが紛争に発展し、まさにカオスな世界になってしまうという現実があるようなんですね。
      これを「自由と尊敬の原理」で、理想的な社会に昇華できるかが、この世界観の肝なようです。
      今のウクライナ戦争などを見てもかなり困難なテーゼではありますね。
      主人公のナホビノ新王は、プーチンのようなものが出てきた場合、話し合いで調停するのか、或いは武力によって征伐するのか
      武力の裏付けがないと、応仁の乱とか戦国時代の朝廷のようになってしまいますし、ゴリゴリの統治に傾き過ぎると江戸時代のような自由度が少ない社会になってしまいそうです。為政者はまさに慈悲と均衡と峻厳を持って政治にあたらなくてはならないのでしょう。

    4. ヤタガラス より:

      もう一回エンディングを見直したら、ナレーターは「自由と尊敬の原理」なんてことは一切言ってなかったですね。ただ、王であるナホビノ神は「天上から悲しい顔で混乱の世を見ていた」と言うようなことを言っているので、自由の追求と平和が矛盾しないことを願っては居るのでしょうね。
      しかし、神々は知恵を奪われて悪魔になっているのだから、合理的判断などは無理な期待であり、自由にしたら殺し合いを始める確率が高そうです。
      解決策としてはすべての神がナホビノになって、知恵を取り戻さないとこの世界はいずれ崩壊していくようにも思いますが、主人公も前神のようにナホビノ利権を守りたいのでしょうか、だとすると、シヴァ様の言うように「このような世界は壊さなくてはならない」と言うことになるのでしょうか、神の世界設定に元々無理があるのだから。そうして、そう言う世界設定にしてしまうのは、神にも我心があるからだと言う。

      • 疲ぃ より:

         ああ、そういえばこれメガテンでした。私の選んだエンディングが露骨に最悪な選択っぽい位置づけだったので忘れてましたが、基本、ニュートラルミナゴロシルート以外はどうあってもバッドエンド風味になるんでしたね。
         でもまあ、ヤタガラス様の主観から見たエンディングの姿はヤタガラス様の信念に基づいた認識だと思うので、そこは大切にしていただきたいと私は思います。

         私が高校生くらいのころによく考えていたことなんですが(=厨二病の類い)、もし仮に世界中全ての人間が完璧に賢明で、最適手しか選ばなかったとしても、結局戦争は起こるんじゃないかと思うんです。
         どうやったって地域ごとに得られる資源(パワーバランスと言い換えてもいい)に偏りがある以上、関係する全員が得をする利益配分なんて絶対に不可能ですから。むしろお互い賢く、最終的な最大利益を追求するならばこそ、戦争で浪費されるコストを飲みこんででも誰かから強奪する選択は捨てられないだろうと。
         私は合理的思考が人間同士のいがみあいを取り除けるとは考えていません。

         だから私はむしろ“慈悲”、利害関係以前のところにあるもっと素朴な、お互いへの敬意というものに期待しているのかもしれません。

    5. ヤタガラス より:

      「合理的思考」を追求していくと、「自己の生存基盤すら揺るがす強奪」に関しても慎重になる可能性があると思いますが、復讐される可能性ゼロの圧倒的な強者からすると、簡単に虐殺を遂行する要因になってしまうかもしれませんね。
      その場合は、個体の優劣や種族の強弱を越えた「同じ在るもの」としての慈悲の精神のようなものがこの宇宙の安定に寄与しているのかもしれません。

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