LiLYPSE 1st ONLINE LIVE『双星歌劇 反実仮想 ARCHETYPE』 感想 誰のエゴに拠って在るべきか。

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 「・・・そうだな。エゴ。そうだ、エゴを足そう。あの子たちはまだ自分にフィルターをかけている! 欲望にフタをしている! ダメだなあ、エゴこそが人間らしさだというのに! 仕方ないなあ、私が解放させてあげよう。魂の赴くままに、心の叫びを実現する手立てを、手取り足取り、ね」

 LiLYPSE第一幕『反実仮想 ARCHETYPE』から第二幕『反彩星層 EGOIDEAL』へと渡す、何者かの意味深な言葉。

 ぶっちゃけ、まっすぐな心根の少年少女にエゴを植えつけようという意味深展開は割とよくあるものだとは思うのですが、せっかくなので改めて考えてみます。どうしてエゴが必要なのか。どうしてエゴが必要だとされるのか。

とりあえず公演タイトルについて

 今回の舞台の表題のうち、「反実仮想」とは文法用語で「もし~だったら・・・だろうに」のような言いまわしのことを指します。高校の古典の授業で出てきますね。現実には起こらなかった出来事を想像して思いをはせる言葉。
 「ARCHETYPE」は心理学用語で、「原形」と訳されます。人間が生まれながらに持つ、あるいは集団としてなんとなく共有している、イメージのようなものでしょうか。たとえば「少女」という言葉を聞いたとき、多くの人は単なる“未成年の女性”というだけでなく、“純粋さ”“若々しさ”“未成熟ゆえの魅力”など定型的なイメージを連想するものでしょう。それは人が無意識のうちにそういうイメージの元となる原形を持っているからだとされるわけです。

 ちなみに、次回の「反彩星層」は・・・、“星”の字がネガポジ反転していることから、おそらくは「反彩層」を元にした造語だと思われます。天文学用語で、かつて太陽に存在すると考えられていた、相対的に低温な大気の層のことです。太陽光線のスペクトラム観測データからそういったものがあると予想されていたわけですが、研究が進んだ現代の天文学ではその存在を否定されています。
 「EGOIDEAL」はこれも心理学用語で、「自我理想」と訳されます。美しいもの、善いもの、正しいものに憧れる思いのことであり、自分もそういった存在でありたいと願い自身を律する衝動のこと。一言でいうなら“良心”ですね。

 「ここにいる私たちは、意識や魂だけの、いわば思念体なのかも」
 「シネンタイ?」
 「仮に私たちが寝ている状態だとして、もしこの夢から醒める方法があるとしたら――」
 「そうか、そういうことね!」
 「そう。私たちが今すべきことは」
 「バーチャルアーティスト・LiLYPSEとしての活動?」
 「うん。他者と繋がることで私たちは確かな存在となる。だから、できるだけ多くの人の記憶に残って、多くの人に私たちを想ってもらう。そうすることで、少しずつ私たちは“本物”になっていく」

 暁みかどと暁おぼろは自身を、現実に肉体を持たない、多くの人に存在することを望まれて初めて実在性を獲得する、バーチャルな存在であると推論しました。
 「反実仮想」的な、初めから存在しないことがわかったうえでなお実在を望まれる、虚構。
 集合的無意識に「ARCHETYPE」として刻まれることによってその実在を立証される、現象。
 そういったおぼろげな存在であると。

 「・・・でも、こうやってあんたたちに伝えることができて、自己満足かもしれないけど、私はよかったなって思ってる」
 「私たち、ね」
 「あはっ。そうだね」
 「確かなことは、私がいて、みかどがいて、そして今私たちを見てくれているあなたたちがいること。これだけは変えようのない事実。もしこれが夢だとしても私に後悔はない。だって、幸せだもの」

 仮に彼女たちの推論が的を射ているならなおさら、そこにエゴが必要だとされる意味がわからなくなります。
 彼女たちは私たちに望まれて存在します。ならば、そこに彼女たちのエゴなど不要ということになるじゃないですか。むしろ必要なのは私たちのエゴです。私たちの欲望です。ふたりが私たちにとって都合のいい存在であればあるほど、私たちの理想に近づけば近づくほど、彼女たちの存在意義は増していくはずです。
 彼女たち自身の自意識など邪魔なだけです。彼女たち自身の欲望などノイズでしかありません。ただ、私たちが期待するLiLYPSEをそっくり鏡映しに、操り人形のごとく忠実に演じてくれればそれが一番いいはず。

 それなのに彼女たち自身のエゴが必要だということは。

かなりや

 開演直後、「唄を忘れたかなりやは 後ろの山に捨てましょか」という出だしにギョッとした人はおそらく少なくないでしょう。ですがこの『かなりや』という童謡は不吉な歌ではありません。むしろ才能が潰えてしまったアーティストを再起させる物語となっています。

唄を忘れたかなりやは
象牙の船に銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄をおもいだす

 作詞の西條八十は中学生くらいのころから作家を夢見て、学生時代には同人活動などにも打ち込んでいた文学青年でした。ところが家の事業が破綻して生活苦となり、家族を養うため仕事に明け暮れる日々、成人して以降は久しく創作活動から離れていました。
 『かなりや』は、そんな彼が幸福な出会いに恵まれて久方ぶりに書いた作品です。そのまま彼をもう一度文学の世界へ引き戻し、やがて文学史に名を刻む作家として大成させたきっかけでもあります。

 様々な事情により歌を歌えなくなってしまったカナリヤ。
 そんなカナリヤを山に捨てるのでも土に埋めるのでもなく、鞭で打って無理に歌わせるのでもなく、ただ芸術を愛する心を思いださせ、蘇らせる。

 この作品は、当時の八十が置かれていた不遇を重ね写し、それでも燻りつづけた文学への憧憬と祈りを込めて、未来ある子どもたちへ語り託すために書き下ろされました。実際には子どもたちだけでなく八十自身の潰えかけていた夢まで叶えてみせたわけですけれど。

 LiLYPSE 1st ONLINE LIVE『双星歌劇 反実仮想 ARCHETYPEは、そういう歌のもとで幕を開けました。

 だから。

 「なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!? こんなわけわかんないとこで、わけわかんないまま! 奪われて! 捨てられて! ずっとこのままだなんて許せない!! こんなの許せない!!」

 いうほど、ふたりをこの境遇に置いた何者かは性格の悪い人間じゃないと思うんですよね。
 ふたりが自然と歌いだすように、歌いたくなるように、彼女たちの周りの世界を構築した何者か。

 彼女たちの歌は自然に紡がれました。歩きたくて『さんぽ』。訴えたくて『ボッカデラベリタ』。生活環境をリフォームしたくて何故か『ベノム』。生きていることを実感するための『琥珀の身体』――。

 重要なのは、この場所がふたりの他に誰もいない、霧に包まれた真闇であることです。
 先ほど、彼女たちは私たちに望まれて存在すると書きました。だとするならばこの環境はおかしい。ここには私たちの声が、願いが、欲望が届かない。暁みかどと暁おぼろは、私たちのエゴをシャットアウトした環境で、誰にも邪魔されず自らの心の赴くまま、自由に、好きな歌を好きなように歌っている。そうなるように仕向けられている。

 つまり、彼女たちに真に必要とされているのは、私たちのエゴではないということですね。

EGOIDEAL

 「私のただひとりの妹――。お姉ちゃんだから、あいつのことを幸せにしてやりたい。王だから、愚民全員幸せにしてやりたい。それってイコールなのかな? それとも・・・。わからない! だから私は私の道を行く!」

 「何をしたら生きているって言えるのかな? 私たちは生きてるのかな? ――なんて。私はそんなことどうでもいいんだ。生きていようといまいと、誰かに踊らされていようと、嘘で塗り固められていても、たとえそれがいつか壊れるものだとしても。私は今を、愛してる」

 「あの子たちはまだ自分にフィルターをかけている」と指摘されていたのはこのあたりの話でしょうか。
 両立したいことがあるなら、がんばって両立してやればいいだけなのに。
 今が幸せだと信じるなら、余計な警戒心なんて思慮に加えなくていいのに。
 自分自身、本当はどうすればいいのかわかっているくせに、方法論をちゃんと持っているくせに、なんとなく自分の本望にまっすぐ向きあいきれていない、まだ迷いが残ってしまっているのが今のふたりです。

 「私たちの過去を知ったら、せっかくこうやって来てくれた愚民たちがもしかしたらいなくなっちゃうかもしれない。嫌われちゃうかもしれないって。・・・でも、それでも、それでも知ってほしい! 暁みかどを。暁おぼろを。LiLYPSEを。そうしなきゃ何も始まらない。何者でもないなら何かになりたい。だから! 私たちの物語を始めるために! 私と、おぼろと、あんたたちの物語を、ここから始めたい!」
 「そうだね。みなさん。私たちはあなたたちがいることで初めて自分たちが存在しているということを実感できます。あなたがいなければ私たちは存在できない。私たちは私たちでありたい。LiLYPSEでありたい。――一緒に、いてくれますか?」

 アーティストにファンのエゴが要らないとまではいいません。ファンが望むからこそアーティストは活動できているというのも一面の事実です。
 けれど“一面の”事実でしかありません。アーティストにはやはり、アーティスト自身のエゴも必要でしょう。

 だって、ほら、私たちって自力では彼女たちのような活動ができるほどの熱量がないからこそ、こうして応援することに力を注いでいる部分があるわけで。

 私たちはLiLYPSEを好きになりました。LiLYPSEに憧れ、LiLYPSEを尊敬し、できることならLiLYPSEの支えになりたいと願い、そしてLiLYPSEを応援しています。
 そこにはまず、最初に、LiLYPSEが在りました。
 私たちが最初にいたのではありません。最初に在ったのはLiLYPSEです。私たちが望むまでもなく。逆に、LiLYPSEが在るところに私たちが集まってきたんです。そもそも君らのデビューってサプライズだったろ。

 暁みかどと暁おぼろには、私たちを凌駕する力があります。
 自分たちだけで立ち上がれる強い心のエネルギー。多くの人を惹きつけてやまない引力。そのパワーはいったいどこから湧いてくるのか?
 その正体が、エゴなんだと思います。

 「自我理想」。美しいもの、善いもの、正しいものに憧れる思い。
 私たちはそれをLiLYPSEに見出したわけですが、ではLiLYPSE自身は――、私たちと違って自分自身の内側、歌わずにはいられない、燃えたぎる何らかの熱量、衝動に突き動かされているはずです。
 魂の赴くままに、心の叫びを実現する手立て。
 暗躍する何者かは、彼女たちがその初期衝動に自覚的になることを望んでいるのでしょう。そうすることで彼女たちの次のステップに繋がるだろうと。

 とまあ、そんな感じで、LiLYPSE 2nd ONLINE LIVE『反彩星層 EGOIDEAL』は2022年8月28日に公演される予定です。

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