力を合わせて、奇跡を起こすプリキュア!
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(主観的)あらすじ
えみるとルールーはふたり一緒にプリキュアになりたいと望みました。けれど、肝心のプリハートが残りひとつしかありません。奇跡でも起きなければふたりでプリキュアになることはできません。
はなはプリハートを増やせないものかとあれこれやってみます。流れ星にお願いしようとして風邪をひいてしまうほど一生懸命に。さあやとほまれも何もしてやれないことを悔しく思いながら、それでもえみるとルールーが諦めてしまわないように応援を続けます。
それから、プリキュアのことではないのですが、えみるのお兄さんがえみるのギターを認めてくれました。諦めないでよかった。えみるとルールーは心からそう思います。
オシマイダーが現れて、忙しいさあやとほまれのためにはながひとりで戦って、えみるとルールーがそんなはなを応援したいと思ったとき、さて、ふたりの心からミライクリスタルが現れました。けれどプリハートはひとつのまま。ルールーはえみるがプリキュアになれと言います。えみるもルールーがプリキュアになってと。でも、それではふたりの本当の望みは叶いません。だからふたりは今一度奇跡を願います。ふたりでプリキュアになりたい!
斯くして奇跡は起こりました。
「輝く未来を抱きしめて! みんな大好き! 愛のプリキュア! キュアマシェリ! キュアアムール!」「ふたりはプリキュア!!」
前話感想で私が書いたほど比重はルールー側に偏りませんでしたね。といっても大切なふたりの初変身回なんですから当たり前か。今話で描かれたものはふたりの譲りあい・・・ではなくて、ふたりがいかにたくさんの応援を受けているかの物語でした。
「なんでもできる、なんでもなれる」というのは今のことではありません。初めは誰もが無力です。でも、それでも、どうしても今すぐなりたいものがあるのなら。ひとりの力では届かない夢をどうしても叶える必要があるのなら。さて。
起きないから、奇跡って言うんですよ。
あるいは「起きるから、陳腐って言うんですよ」。(@とある同人ゲーム)
・・・いくらなんでもコレ引用するのは今話のストーリーにケンカ売りすぎですね。忘れましょう。
「ああー・・・。なんとか! ふたつに! なんないのー!?」
なりません。プリハートを物理的にふたつに割ることで問題が解決したら斬新かもしれませんが、しかしそんなことで解決してしまっては東堂いづみがあえて1個しか残さなかったイジワルの意味がありません。
えみるとルールーはふたりでプリキュアになりたい。でもプリハートがひとつしかない。
これはあくまでえみるとルールーに課せられた問題です。悩むべきはえみるとルールーです。この問題をはなが解決してしまっては意味がありません。
「奇跡でも起きんかぎり無理や」
プリキュアは子ども向けのヒーローアニメで、つまり最終的にはハッピーエンドに向かう物語です。なので、どうせ最後には奇跡が起こることなんてわかりきっています。奇跡だろうが陳腐だろうが、物語というのはそういうものです。
夢のないメタメタな見かたかもしれませんが、だからこそ、“誰が奇跡を起こすか”こそが重要なんです。
「えみるとルールーに何もできないのが悔しい」
奇跡を起こすのはほまれじゃない。
「・・・プリハートはつくれなかったけど」
奇跡を起こすのはさあやじゃない。
「流れ星にお願いしようと待ってたら、いつの間にか寝ちゃって」
・・・だから、奇跡を起こすのははなじゃないってば。
「めんたいポテトトースト! 昨日残っちゃったポテトサラダが大・変・身!」
「すごーい! 奇跡が起きた!」
「お手軽な奇跡だねー」
ましてこの問題に無関係なこの人たちのわけもない。
「えみる。早くプリキュアに!」
この奇跡を起こしていいのは、問題の当事者として強い望みを持っているえみるだけです。
「さあ、ルールー。プリキュアになるのです!」
そして、同じく当事者として全く同じ思いを抱いているルールーだけです。
うん。で・・・、どっち?
魔法が使えたらって、思ったことないかなぁ?
「キュアップ・ラパパ! 大好きなみらいとリコとモフルンと、ずーっと一緒にいられますように!」
「キュアップ・ラパパ! みんなとずーっと仲よしでいたい!」(魔法つかいプリキュア! 第23話)
「キュアップ・ラパパ! 私たちは、必ず、絶対、また会える!」(同 第49話)
たったひとつの願いを叶えるために1年間の物語を描ききったプリキュアがいました。
『魔法つかいプリキュア!』。彼女たちが1年間戦いつづけてきた敵は、世界を闇に染めようとする悪い魔法つかいではなく、世界を混沌に変えようと襲いかかるムホーですらなく、3人のごく個人的な問題、いつか必ず訪れる“悲しいお別れ”でした。ムホーとの最終決戦なんて最終話1つ前の、しかもAパートだけでサクッと終わらせちゃいました。
もちろん彼女たちは最終的に“悲しいお別れ”をやっつけて自分たちの願いを叶えましたよ。奇跡の魔法を行使して。
「奇跡よー、カモン! カモン! カモーン!」
「えみるとルールーに何もできないのが悔しい」
「できるよ。ふたりの心を元気づけることはできる」
奇跡を起こしていいのは、はなでもほまれでもさあやでもありません。
でも、だからといって諦めません。自分たちにできることなら何でもやります。だって、みんなえみるとルールーのことが好きなんですから。
えみるとルールーをプリキュアにする奇跡は彼女たち自身が起こさなければなりません。
けれど。
ところで、それ以外の奇跡ならほかの誰かにでも起こせるものがあります。
「えみる。もうギターを隠さないんだね」
「はい。私は、私は! ――これは。ライブのチケット!?」
「ルールーと一緒に行っておいで」
あんなに頑なだったえみるのお兄さんが、えみるのギターを応援してくれました。
「渡せた? チケット。ならよかった」
アンリが彼に働きかけてくれたからです。
「うん。・・・若宮くん。あの、これまでのこと、ごめん。僕は・・・」
そして彼自身も本当はずっとこうしたいと思ってくれていたからです。
前話において、アンリはえみるのお兄さんに理解してもらうことを諦めないことにしました。
だから、えみるのお兄さんも大好きな妹に笑顔を見せてもらうことを諦めないようになりました。
自分を愛し、他の誰かをも愛する気持ちが、そしてそうできることを諦めない気持ちが、ずっと変わらなかった現在の有り様を変える奇跡を起こしました。
誰かに起こせる奇跡があります。
「私、一度スケート諦めたんだ。けど、はなとさあやに出会えたから氷の上に戻れたんだ。ふたりと出会えたことが私の奇跡」
ほまれは奇跡を体験しました。応援しないでほしいと言ったのに、諦めず応援しつづけてくれたはなとさあやのおかげで。
はなとさあやが、もう二度と跳べないと思っていたほまれに、もう一度跳ばせるという奇跡を起こしました。
「負けたくない。諦めたくない。――当たり前だよ。そんなに簡単に諦められないよ。夢なんだもん。その気持ちは抑えられない」
さあやは奇跡を体験しました。自分には何もないと言ったのに、勇気があると見つけてくれたはなのおかげで。負けず嫌いが恥ずかしいと言ったのに、いいじゃんと褒めてくれたほまれのおかげで。
はなとほまれが、自分がわからずにいたさあやに、自分を好きにならせるという奇跡を起こしました。
「いいでしょ。奇跡はいつでもすぐそばにあるのよ」
奇跡なんて陳腐なものです。
自分では絶対にできないと思うことなんてこの世界にはいくらでもあります。なのに、あるときふっと解決してしまうことって、意外とよくあるものです。自分にはできないとしても、他の誰かががんばってくれたらできてしまうこと、意外とよくありますから。まるで魔法みたいに。
だから、あなたが他のたくさんの人たちと一緒に生きているかぎり。
奇跡なんて陳腐なものです。
この街と、住民に幸あれ。
「ルールー! 見てください、ルールー! これ、ライブのチケットなのです! お兄様がくれたのです! これからは、おうちでギターを弾いてもいいって、お兄様が」
涙が出るほど嬉しいことって、あります。
自分では絶対に変わらないと思っていた現在の有り様。それを誰かが横からふっと変えてみせてくれた奇跡。
私たちの生きるこの世界には、そんな、とびきり嬉しい優しさがあふれています。
「諦めなくてよかった。ずっとギターを、音楽を好きでいてよかった・・・!」
もっとも、その奇跡も相手があなただからこそ起こしてあげられたものなんですけどね。
あなたががんばっていたから。がんばる姿を応援したいと思ったから。あなたのために私もがんばってみたいと思えたから。
「キュアップ・ラパパ! リコに、みんなに、・・・会いたい」(魔法つかいプリキュア! 第49話)
『魔法つかいプリキュア!』は、“悲しいお別れ”から逃れられない無力な子どもたちが世界中の祝福に慈しまれる物語でした。
子どもたちは何度も別れの危機を経験しました。留学が終わって帰らなければならなくなったとき。ドクロクシーを救うためはーちゃんが遠くに行かなければならなかったとき。リンクルストーン・エメラルドが見つかって一緒にいつづける理由がなくなってしまったとき。ふたつの世界が離ればなれになってしまったとき。
けれどそのたびに周りの大人たちが、あるいは運命と呼ばれる不思議なものが、彼女たちの絆を守ってくれました。彼女たちがいつも、心から、一途に、一番に、ずっと一緒にいたいと願いつづけていてくれたから。
朝日奈みらいの行使した奇跡の魔法は、3人と、みんなと、世界とつないだ手と手のあいだから生まれたものでした。
「ルールーと友達になって、私はちょっとだけ自分を好きになりました」
「私もえみるといると制御不能。でも、それが暖かい」
えみるとルールーはお互いのことが大好きです。お互いを好きになれたおかげで自分のことまで好きになれたからです。
「私はえみるを応援する。えみるにプリキュアになってほしいから」(第19話)
「ルールーの笑顔は私が守るのです!」
お互いのためにプリキュアになりたいと望みます。プリキュアになればみんなを守ることができるでしょう。えみるを含めたみんなを。ルールーを含めたみんなを。
だからこそ、プリキュアになれるのがひとりだけだと困ってしまいます。
「えみる。早くプリキュアに!」
「さあ、ルールー。プリキュアになるのです!」
その願いはそもそもお互いのためなんですから。大好きな人を守るために大好きな人の夢を奪ってしまうなんて、そんなの本末転倒。自分ひとりだけ変身したって意味がありません。
えみるはえみるひとりで変身するための理由を持ちません。
ルールーもルールーひとりで変身する理由を持ちません。
だからふたり一緒に変身する奇跡を必要とするのですが・・・だからこそ、それだけの理由では彼女たちに奇跡を行使する資格は与えられないんです。
このあたり、前話の感想を書いた時点では勘違いしていました。
私はルールーの問題が“自分のために変身する”理由を持たないことだと思っていました。
でも、変身するための理由が自分ひとりのためなら、自分ひとりだけで変身しちゃえばいいんですよね。えみるを守りたいにしても自分で変身してえみるを守っちゃえばいい。自分のために変身しようとすると、そういう論理がまかり通っちゃうんですよね。
同様に、相手のために変身するのでもダメです。それならえみるひとりに変身してもらえばいい。自分自身に変身する理由がないのなら、別に自分は必ずしも変身しなくていいじゃないですか。
自分のためでも、相手のためでも、ダメなんです。それじゃ自分か相手か、片方さえ変身できれば望みが叶っちゃうので。それでは奇跡なんか必要ありません。
「みんな大好き! 愛のプリキュア! キュアマシェリ! キュアアムール!」
彼女たちの口上が事前に紹介された時点でそのことに気づくべきでした。まだまだ読解力が足りませんね。
「えみるとルールーの心はアスパワワでいっぱいなんだよ。さあやとほまれも。だから私、みんなで、一緒に・・・」
「奇跡って目に見えないから。けど、だからこそ、信じるんだよ」
「全力でぶつかったライバルは、きっと親友にもなれる」
「ルールーと一緒に行っておいで」
「渡せた? チケット。ならよかった」
だから、今話はえみるとルールーを応援するたくさんの気持ちを描きました。
「がんばれ! がんばれ!」
「フレフレ! エール!」
だから、今話はえみるとルールーがお互い以外のために応援する姿を描きました。
えみるとルールーが変身したいのは、自分のためだけではなく、お互いのためだけではなく、そしてその両方だけでもなく。
えみるとルールーがたくさんの人から応援されて、えみるとルールーもまたみんなを応援したくて。
みんながふたりのことを大好きでいてくれて、ふたりもみんなのことを大好きになって。
「心が、あふれる!」
だからこそ、ふたりはあらゆる道理をひっくり返してでも奇跡を起こさなければなりませんでした。
ふたりでプリキュアになりたいと願ったえみるとルールーを、たくさんの人が応援してくれたのだから。
自分のためだけではなく、お互いのためだけではなく、応援してくれたたくさんの人たちのためにも、えみるとルールーはどうしても奇跡を起こさなければなりませんでした。
「私はえみると一緒にプリキュアになりたい!」
「私もルールーと一緒にプリキュアになりたい!」
「お願い!!」
だからこそ、私たちはふたりの起こす奇跡を祝福してあげなければなりませんでした。
どんなにありふれた奇跡であろうと、どんなに陳腐に見えようと、私たちの愛する彼女たちに望みを叶えてもらうためには、絶対に奇跡が必要なんですから。
「輝く未来を抱きしめて! みんな大好き! 愛のプリキュア! キュアマシェリ! キュアアムール!」
ふたりは、優しい奇跡に満ちあふれたこの世界が大好きです。
コメント
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毎回興味深く拝見致しております。
さて、早速本題に入らせて頂きますが、本作「HUGっと!プリキュア」と「魔法つかいプリキュア!」では"奇跡"の意味合いを変えているように思われます。「魔法つかい」の方だと「人知を越えた力(例えば魔法)により生じた事象」という扱いなのに対し「HUGっと」では「地道な努力(とそれを支える情熱と応援)を積み重ねて辿り着く成果」とされている感じがしますね。
ほまれが予選会を通過したのも、さあやがオーディションに合格したのも、「諦めようにも諦めきれなかった本人の情熱」を「友達の応援」が支えて「懸命の努力が積み重ねられた」結果であって、決して超常現象が起きたわけではない。えみるとルールーがプリキュアになれたことにしても、二人が"人生にとって大切なことは何か"を「懸命に悩み」「友から学び」「行動する」ことを通じて理解した結果、金色女神(仮称)から"プリキュア有資格者"の認定を得て合格通知(プリハート)を授与された、という展開で、予選会・オーディション通過と同じ経緯をたどっているんですね。
そこへ行くと「魔法つかい」49話の"再会"はいささか超常現象的な匂いがあって、悪く言うと"ご都合主義展開"ぽい印象が拭えなかったりする。そもそも同作において魔法の濫用を戒めるエピソードがやたら多かったのは「魔法という"ご都合主義アイテム"をシナリオで濫用しない」というスタッフ自身への戒めでもあったのかもしれず、でも結局クライマックスで"魔法"に頼ってしまっている。
今作「HUGっと!プリキュア」が「魔法つかいプリキュア!」の反省にたって作られた…かどうかは分かりませんが、ともかく「この世界に超常現象など存在しない。あるのは人知にしたがって懸命に努力を積み重ねた先にある成果だけだ」というメッセージを子供達に届ける為に、シナリオから"ご都合主義展開"を出来る限り排する方針が採られたのではないかと思います。
本作も残り半年あまりとなりましたが、果たして"人知の結晶"プリキュアは"定められた未来"を変えることが出来るのか、じっくりと視ていきたいですね。
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東堂伊豆守様、コメントありがとうございます。
『魔法つかいプリキュア!』と『HUGっと!プリキュア』と“奇跡”の描き方の違いについては、出発点の違いが大きいものと考えます。
『魔法つかいプリキュア!』は大前提として子どもが世界(周りの大人とかありふれた運命とか)から祝福されている現実があって、みらいたちに与えられた課題はその祝福をいかに発見し、未来の希望へと転換させていくかというものでした。
対して『HUGっと!プリキュア』は「フレフレみんな、フレフレ私」や「あなたを愛し、私を愛する」というセリフがあるように、まず自分が自他を等しく応援するという前提からスタートしていて、周りのみんなもそうしてくれているなら自分もたくさんの応援を受けているはずだという確信につなげています。
都合のいい手助けに頼らない、自助努力という観点からすると、たしかに『HUGっと!プリキュア』の方がストイックですね。
私は『魔法つかいプリキュア!』のように自分が祝福されていることを信じる考え方も同じくらい難しく、同じくらい大切だと考えていて、どちらも同じくらい好きですが。
キュアマシェリとキュアアムールの登場によって『HUGっと!プリキュア』もますます独自のカラーが強まり、ますます面白くなってきましたね。これからの物語も楽しみです。