LiLYPSE『ロベリアに口吻を』『ロベリアに吐瀉を』の歌詞を比較しながら語るやつ。

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なんて汚らしい 綺麗になあれ
Hallelujah

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このブログはあなたがこの作品を視聴済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

なんか前書きみたいなやつ

 LiLYPSE第3のオリジナル曲『ロベリアに口吻を』、そして第8のオリジナル曲『ロベリアに吐瀉を』

 この2曲は表題からもわかるとおり双子曲です。『吐瀉』の伴奏がずいぶんと狂気的・破滅的になってはいますが、2曲はおおむね同じメロディで進行します。もともと『口吻』も美しいながら退廃的な曲でしたから、滅びに向かうというテーマは共通していますね。
 パート分けや振りつけも暁みかどと暁おぼろの担当が入れ替わっているほか、一部横並びのフォーメーションだった部分が縦になっているところもあれど、意外におおむね同じ。

 この記事では2曲の歌詞を比較しながら、両曲を聴いて思ったこと、感じたことを心の赴くままに書いていきたいと思います。

本題

綺麗になあれ 綺麗になあれ
Hallelujah(主を賛美せよ)

Unquestionable love(疑う余地のない愛)
The world is right(この世は正しい)

なんて汚らしい なんて穢らわしい
Reprove(非難する)

Doubtful love(疑いだらけの愛)
The world is wrong(この世は間違っている)

 英詞の和訳は私がテキトーにつけた意訳です。ちなみに私の高校時代の英語の成績は5段階評価の2だったので真に受けないよう。
 なお、「Hallelujah」は原義からすると「-jah」部分がYHWHから来ているらしいので、この1語だけで動詞と目的語の両方を兼ねることになります。
 対の歌詞の「Reprove」に目的語はついていませんが、直後の歌詞で愛を疑い、世界を非難していることから、こちらも唯一神に向けた言葉であることがわかります。

 私達の知る宗教は大きく分けて2種類あります。中学校くらいの授業で習いますね。多神教と一神教です。
 言葉のうえでは一見して神様がたくさんいるか、一柱だけかの違いなだけのように見えますが、両者にはそれだけに留まらない本質的な違いがあります。

 多神教の神様は自然神です。かまどの神様や詩歌の神様のように人工物につく神様もいますが、いずれにしろこれらの神様は特定の事物や現象に根づく存在となります。洪水や地震、火事など、理不尽な災害をもたらす一方で、ときおり豊作や国富をもたらすこともある、気まぐれな神様です。
 従って、人々が彼らを信仰する目的は現世利益。災害を減らし、豊穣を増やしてもらうために神様のご機嫌取りをするんです。

 一方で一神教の神様は特定の何かに根ざしません。あえていうなら世界そのものが神様。このため、一神教の神様は災害にも豊穣にもほとんど関わることがありません。かのYHWHも元はシナイ山の土地神だったのですが、キリスト教の神様となってからは特定の土地との縁を持たなくなりました。
 人間世界に何もせず、何の関わりも持たず、ただ存在しているだけの存在。それが一神教における神様の基本的なありかたです。

 では、人はなぜそのような存在を信仰するのか。これら唯一神は災害にも豊穣にも無関係なため、現世利益が期待できません。なのになぜ?

 だから、なんです。だからこそ。
 唯一神が信仰の対価として人間に提供するのは、愛。人間に何の利害ももたらさない神様、つまり利害関係一切抜きの相手に、人間はただただ純粋な愛を注ぐことができる。嫉妬や愛憎、誰かを愛することで発生しうる負の側面を一切心配することなく、いくらでも情熱的に特定の存在を愛することができるんです。
 また、唯一神は人間に対してものを言いません。態度でも何も表しません。だから人間は無条件に、自分たちが彼を愛しているのと同様に、彼もまた自分たちを愛してくれているのだと信じていられます。
 無限に愛することができ、無限に愛してもらえる存在。それが唯一神です。

 話が盛大に脇道にズレているような気もしていましたが、そろそろ歌の話に戻りましょう。
 『ロベリア』の2曲は世界の正しさと誰かを愛することをシームレスに結びつけています。まるで世界は愛でできていると言わんばかりに。
 愛を信じる『口吻』は世界をも信じることができ、愛を疑う『吐瀉』は世界のことも同様に疑います。こういうところが実に一神教的だと、私は思うんですよね。

 愛こそが至上。愛こそが究極。愛は何物にも換えられない。愛はいかなる利益とも交換できない絶対的な価値だからこそ、愛の有無が直ちに世界のありかたを確定させてしまうんです。

世界は祝福で溢れている
誰も彼も許してる
雨の日の情景が美しいように私達は生きる

世界は呪詛(まじない)に塗れている
誰もが罰せられている
雨の泥臭さのような生命こそが私達なのだ

 このあたりの下りもそう。
 人の心に愛があると信じられるかどうかが、世界が美しく見えるかどうかの感性に直接的に結びついています。

 特に”雨”というモチーフは連想できるイメージが多様です。たとえば先ほどの多神教的世界観に基づくと、雨は田畑に恵みをもたらす祝福の象徴と捉えることができますし、その一方で川の氾濫や土砂崩れなど人命を奪う恐ろしい災害という正反対のイメージにも結びつきます。
 今回の2曲ではいずれも”雨”に物質的な利害を連想せず、ただ美しさ(醜さ)だけを見出していますね。このあたりの無欲さも2曲に共通している要素です。

I pray for you(あなたのために祈りましょう)
こんなにも唯純粋に咲いているロベリアに最愛の口吻を

Loving kiss(愛しき口吻)
耳鳴りみたいに聖歌を
Mercy and kiss(憐れみと接触)
咎人に天国を

I look down on you(貴様を見下しているんだ)
こんなにも欺きながら咲いているロベリアに非(あら)ぬ量の吐瀉を

I vomit(反吐が出る)
耳鳴りのような酷い歌だ
Pity and nausea(哀れみと嫌悪)
聖人に腐った泥を

 ロベリアは草丈20cmほどの茎に花径2cmほどの青色の花弁をいくつもつける、愛らしい花です。
 ただし、ロベリンというアルカロイド系の毒物を生成し、しかも草体すべてが有毒であるという恐ろしい側面も持ちます。
 花言葉は「悪意」。由来は言わずもがなですね。割と身近に見かける園芸植物ではあるんですが、安易にキスしていいものではありません。

 「Mercy」と「Pity」はどちらも“あわれみ”と訳される言葉ですが、「Mercy」は恵まれない人を救おうとする慈悲のニュアンスが含まれる一方、「Pity」は単純に同情するだけに留まります。別の言葉に言い換えるなら「助けてあげたい」と「気の毒にな・・・」くらいの違いですね。

約束に満ちている
正しく並んでいる
一秒も狂わない素晴らしい時計のよう

火炎が金属を溶かすように混ざり合って許し合う
私達はその炎の美しさを今日も讃えた

あなたが美しさを誇らしげに諭せば
どれだけの戸惑いの先でも きっと笑ってられた

I need you(あなたにいてほしい)
I need you(あなたにいてほしい)
I love you(愛しているの)

裏切りを隠してる
嘘を受け入れている
一秒も狂わない滑稽な時計のよう

灼熱に晒される金属のように誰もかも溶着する
私達はその熱さに圧倒され今日も怯えた

貴様がその醜さを美しさで隠せば
これほどに惨めな虚像になる 豚を笑えるものか

 このあたりは『吐瀉』が発表される前から『口吻』の歌詞に引っかかりを覚えていた人も少なからずいたんじゃないでしょうか。何でもかんでも手放しに褒めすぎていて、ちょっぴりディストピアな印象を覚えます。
 正確な時計は道具としては便利なものではありますが、その正確さを哲学的に讃えるのはちょっと息苦しい。自分が時計のような人間になりたいかというと、ねえ。
 合金をつくる炉に至っては、普通は美しさを見出す前に死の恐怖を感じるものじゃないでしょうか。まかり間違って炉の中に突き飛ばされでもしたらと思うと。

 とはいえ、その少々行きすぎた感性の理由はちゃんと詞のなかで説明されています。
 「あなたが美しさを誇らしげに諭せば、どれだけの戸惑いの先でもきっと笑ってられた」――。やはり戸惑いはあるんです。本当に心から手放しで何でもかんでも褒め称えていたわけじゃありません。
 ただ、大好きな人が「これは美しいんだ」と熱心に語り聞かせてくれたものだから、自分も同じようにそれが美しいことを信じてみようと思うだけであって。

 そういえばこの2曲はそれぞれそういった特色もありますよね。
 『口吻』がどこか目の前にある事物そのものではなく理想化された概念を歌っている一方で、『吐瀉』のほうは徹底して現実主義。自分の目で見て、自分の肌で感じたこと以外信じる気はないという強い意志を感じます。

 ただ、「貴様がその醜さを美しさで隠せばこれほどに惨めな虚像になる。豚を笑えるものか」――。これはどうでしょう?
 おそらく『口吻』が語り手の熱に乗ってあげたのと対照的に、『吐瀉』は鼻白んでいるのだと思われます。『吐瀉』はもともと愛というものを信じないスタンスなので、様々な事物への愛を熱心に語られれば語られるほど心が冷めていくというか。
 終いには語り手が愚かな豚にすら見えてしまうといいます。なんて滑稽な姿。
 なのに彼は笑いません。笑えません。・・・それはきっと、『口吻』同様、語り手のことを憎からず思っているからなんでしょうね。好きな人の滑稽な姿を見て喜ぶ人はまずいないでしょうから。

 「I love you」を高らかに歌いあげるのは『口吻』だけ。
 ですが、『吐瀉』が本当に愛を知らないのかといえば――。

I pray for you(あなたのために祈りましょう)
こんなにも唯純粋に咲いているロベリアに最愛の口吻を

Loving kiss(愛しき口吻)
誰もが誓いを疑わない

I pray for you(あなたのために祈りましょう)
こんなにも危なげで だけど美しいロベリアに至上の口吻を

Loving kiss(愛しき口吻)
支配者を救う聖歌を
Mercy and kiss(憐れみと接触)
私達に天国を

Ridiculous(滑稽なことだ)
これほどに偽りながら咲いているクソ花に腐るほどの吐瀉を

I vomit(反吐が出る)
気色悪い誓いごと腸(はらわた)をぶちまけ

I look down on you(貴様を見下しているんだ)
毒を潜ませて美しい振りをするゲロ花に身の毛のよだつ吐瀉を

I vomit(反吐が出る)
罪人を呼ぶ聖歌を
Pity and nausea(哀れみと嫌悪)
この地獄に天国を

 『反躬治星 AUTONOMY』の観劇者コメントではこのあたりで「綺麗になあれ」という発言がいくつか見られましたね。きっと『口吻』の歌詞にある「支配者を救う聖歌を」という一文を思いだしたんだと思います。
 今の、世界征服を目指すLiLYPSEは明らかに辛そうでしたから。
 どうか救われますように。

 さて、その「支配者を救う聖歌を」への当てつけとして『吐瀉』では「罪人を呼ぶ聖歌を」と歌われます。
 これさ。実際何の露悪にもなってないよねっていう。

 信仰とはすなわち愛です。人間同士の愛のやりとりではなかなか満たされない愛欲があるからこそ、人々はそれを神様への愛で代償するんです。
 ならば。より信仰による救いが必要となるのは、恵まれない人たちということになります。周りに愛すべき誰かがいない人たち。巡りあわせ悪く誰にも愛してもらえない人たち。
 すなわち、この恵まれない人たちのなかには罪人も含まれます。元々が罪人こそ信仰によって救われるべきなんです。彼らはきっと、人間の世界ではちょっとだけ、愛に触れられる機会が少ないでしょうから。
 聖歌がそんな彼らを呼び集めてくれるなら、それはむしろ良いことです。救われる話です。

綺麗になあれ 綺麗になあれ
Hallelujah(主を賛美せよ)

なんて汚らしい 綺麗になあれ
Hallelujah(主を賛美せよ)

 最終段。これまで散々露悪的な暴言を繰り返してきた『吐瀉』が、最後にぽつりと一言だけ神様に祈ります。
 結局のところ彼の本心は『口吻』と同じところにあったのでしょう。

 “愛”を信じられないから、彼は徹底してこの世の全てを自分から遠ざけようとしました。全てを疑い、全てを嫌い、全てを侮辱しつづけました。
 きっとそれは、自らの愛が裏切られてしまうのが怖いから。
 もし誰も愛さなければ、誰にも愛されることがなければ、“愛”が彼を傷つけることはないでしょう。

 けれど、そんな彼ですらも結局は誰かを愛さずにはいられない。
 本当は彼も愛することのできる誰かを求めていたというわけです。

 そんな彼が最後に頼ったのは、だから、唯一神。
 人が愛欲を満たすためだけに虚無から生み落とした偉大な存在。人類史最初の哲学的発明品。
 この世で唯一、無限に愛することができ、無限に愛されることができる。そういう拠り所。

 前段で『吐瀉』は「気色悪い誓いごと腸(はらわた)をぶちまけ」と言いました。『口吻』のようにキレイゴトばかり言う信仰者が本音では何を隠しているのやらと疑った言葉でしょう。

 違うと思います。

 だって、『口吻』も本当に一切を疑っていないわけじゃない。
 ときに疑いながら、ときに夢想的であることを自覚しながら、ときに毒花であることを承知で愛しながら。
 それでも「綺麗になあれ、綺麗になあれ」と、いつかこの世界が本当の意味で綺麗な場所になることを祈りつづけている。そういうふうに、私には見えるんです。

 もし『口吻』の腸をぶちまけたら、そこには案の定醜い部分もたくさん見つかるのでしょう。『吐瀉』の臓腑と同じように。
 そして同時に、真性に綺麗な部分もたくさん見つかることでしょう。これも、『吐瀉』と同じように。

 ふたつの歌は根本が同じ愛への渇望から生まれ出でたものであり、それを満たす方法がそれぞれ鏡映しに異なっていた。それだけのことなのだと、私は思います。
 きっと彼らを救える者は、どちらも同じく“愛”であろうことも。

よいんよいん

 LiLYPSEは双子の神子であり、双子であることに意味があるのだと、冥府の王を名乗る求道者は語ります。

 暁みかどがやかましく騒ぎ立てる隣ではいつも、暁おぼろが冷静にツッコミを入れていました。
 暁みかどが愚民どもの王を志してウキウキしていた隣では、暁おぼろがその王を征服してやろうと湿度を増していました。
 暁みかどが世界征服に自らの救いを見出そうとしている今、暁おぼろは割とこのままでもなんだか幸せそうで。

 双子はいつも、それぞれ違う態度を見せてきました。
 どこかで交わりそうに見えて、絶対に同じにはならないふたりでした。
 いつもそれぞれ違うものを見ていて、そしてきっと、ふたりはいつも同じものを求めていたんだと思います。
 『ロベリア』のように。
 『口吻』と『吐瀉』のように、ふたり重ね合わせて初めて見えてくるものがきっとあることでしょう。

 だからきっと、暁みかどの隣に暁おぼろがいてくれることは幸いで、
 暁おぼろの隣に暁みかどがいてくれることは幸いです。

 私はそれだけで彼女たちの行く先の未来を信じることができます。
 次の太陽と月が交わる刻も、そのまた次も、ずっとずっと先までも。

 綺麗になあれ、綺麗になあれ。

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