昭和元禄落語心中 1話感想、それから過剰に自分語り

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 本当はドキドキ!プリキュアとゆゆ式の記事がある程度まとまるまで、というか筆がこなれるまで他のものには手を出さないつもりだったのですが、撮り溜めしたアニメの中にすんごいのが混じっていたのでたまらず勢いのまま書いてしまいます。

 落語ってそういえば今まで見たことがありません。興味はあったんですけどなんとなく敷居が高い気がして、あるいは機会がなくて手を出さずにきました。学生の頃は演劇や舞台芸術全般が心底好きなつもりだったんですが、我ながら自分の好きなものに不誠実ですね。とんでもない怠け者です。
 まあそんなわけで、落語を題材に扱っているというこのアニメ、全く期待せずに見はじめました。1週間近く経って今さら見はじめたくらいですしね。
 実際脚本や画面だけなら心に刺さる部分はほとんどありませんでした。正直なところありがちな物語のうえにありがちな物語が淡々と積み重なっていくだけって印象でした。ところどころで語られる芝居論、そこ込められた熱量にチクリと来たくらいです。
 ええい、ネガティブな前置きが長い。早いとこ楽しかったところを語りたい。

 このアニメのキモは俳優の演技力です。

 物語中盤、与太郎の寄席。なんだこれ、とんでもない。先にも書いたとおり落語の演じ方なんて私は分かりませんが、それでもやっぱりこれすごい。
 初心者っぽさ丸出しの拙い語り口、彼のキャラクターらしい人なつっこさと情熱。無茶苦茶な空回りを熱量だけでぶん回していくガムシャラさ。安易に声優がキャラの声真似しながら一席ぶってるわけではありません。与太郎が、生身の人物として、彼の肉体と経験、思うことのなにもかも、与太郎の持つもの全てを絞り出して舞台に座っています。これが劇中劇ってやつですか。

 私が高校の部活で初めて演劇に触れたとき、「劇中劇だけは手を出すな」と言われました。自分の演じるキャラクターが演じるキャラクター、入れ子様の芝居なんて高校生には無理だと。理屈として納得のいく話です。理屈として整っているだけに、気持ちでは納得しきれませんでした。だってどんなシチュエーションであれ、台本に書いてあることをその場その場で正しく出力するだけじゃないか、と。
 そんなの演技でもなんでもないんですけどね。

 与太郎の寄席は空回りから始まります。毎日良いものを見ているだけに体裁だけは整っていますが演技が手続き的です。台本を読んでいます。挨拶のときに小技で客席を軽く暖められたことだけが救いです。
 最初の転機は新米こそ泥が親分に縋るシーン。甘ったるい声色で仔犬のように親分を頼る様はなんとも愛嬌があり、ここで初めて客席から笑いをもらいます。弟子入り前にちんけなヤクザ稼業をしていた経験がここに結実しました。愛着のあるシチュエーション、実経験を伴うキャラクターが堂に入った演技をもたらしたのです。元アニキも思わず吹き出します。
 客席が暖まりはじめました。ポツポツと笑いが生まれます。暖まった場の空気を浴びて与太郎の演技も熱量を増していきます。役の切り替わりに切れ味が加わり、言葉ひとつひとつの表情が増し、座りっぱなしだった声色が踊りはじめ、それにつられて身ぶり手ぶりが大きく高くなっていきます。自分の熱だけで回していた歯車が客席と噛み合い、客席の熱も加わってさらに勢いよく、さらに熱を振りまいていきます。「まんまあいつじゃねーか」気がつけばすっかり役が与太郎に降りています。

 初心者の演技なんてのは身ぶり手ぶり挟みながら丸暗記した台本を諳んじるだけのおままごとでしかありません。初心者に劇中劇が難しいってのはそこが理由で、どんな台詞を読んだところで舞台に立っているのは役者本人にしかならないんです。偉そうなこと言ってますが、私は結局最後に立った舞台でもそのレベルに留まっていたんじゃないかな。けれどたまーに実感したことがあるんですよ、役が降りてくるって感覚。
 俳優さんがそんなこと言うのをちょくちょく聞いたことがあるかと思いますが、あれはオカルトでも妄想でもありません。演技というのは役者が自分の世界観と演じるキャラクターの世界観をすりあわせる作業です。キャラクターになりきるんじゃありません。自分が喋るのでもありません。台本を鍵にキャラクターがどんな人間か理解し、人生経験を鍵に自分がどんな人間か探り、その共通項、自分の世界観で観測できる限りのキャラクター像を深く彫り出すのが俳優という仕事です。そうして掘り出したキャラクター像が血肉を感じられるほどのディテールを得たとき、役者は役が自分に降りてきたという実感を得るのです。自分の手足のように役が自在に動く感覚、役が先に動いて自分があとからそれを観測している感覚。
 ・・・エラい感覚的で他人に伝える気のない書き方になってしまってスミマセン。
 けれど与太郎もこの場面ではそんな体験をしてるんじゃないかなーと。初めは自分の人生経験的に共感できる部分の多い役から。そしてその演技が客席から承認される感覚。これとっても気持ちいいんですよね。ほら、友達だったり恋人だったり、誰かを理解していくのってすっごい嬉しいことじゃないですか。やればやるほど情熱マシマシ、動機づけ無限大、永久機関です。そんな演技というものそのものを表現してしまう俳優の力って、やっぱりとんでもない。

 一度役が降りてきたらもう止まりません。こそ泥役が一旦舞台からハケても、与太郎の情熱的な演技は止まりません。場の空気に熱せられつづけて回る回る。落語の物語展開上笑いこそなかなか生まれませんが、お客さんはすっかり舞台に引き込まれています。私もワクワクニコニコしながら画面を見ていました。いつの間にか口角あげまくってて、声出して笑ったわけでもないのにほっぺたが痛い。
 小夏に至っては台詞を口ずさんでいますね。良いアニメを見たら感想書いたりや二次創作つくったりせずにいられないように、良い芝居を見たら自分も演技したくなるのも仕方なし。
 与太郎の熱量はさらに上がります。汗だくになって一心不乱に演技。キレるキレる。リアルタイムに場の空気をつくり替えていき、与太郎も客席も声量が上がっていき、お互い身を乗り出し、遂にはなんでもない台詞でまで笑いを取ってしまいます。落語を馬鹿にしていた元アニキも笑い転げています。ええい、カメラ動かすな、音楽鳴らすな。舞台鑑賞は生、あるいはせめて定点カメラに限る。
 やがて場の熱量が最高潮に高まったところで〆。加熱しきった温度を漏らすような吐息がまた熱い。

 拙い空回りの芝居からはじまり、場の空気を暖め、その熱を浴びてさらに加熱、そのサイクルを繰り返してついに爆発。
 劇中劇で一連の物語を表現しきるってのは、何度でも言いますがホントにとんでもない。落語をやりながら、落語を通して、しかし表現しているのは与太郎の心情なんですから。うまくいかない与太郎も、場を打開する与太郎も、自分のつくった空気に当てられる与太郎も、全力を出し尽くす与太郎も、全部連続したものとして演じきったのですから。
 関智一さんってこんなにすごい俳優だったんですね。子どもの頃『刻の大地』のドラマCDで名前を覚えた俳優さんですが、当時は喜怒哀楽がはっきりしててシャウトがきれいな人って印象でした。あの人のこんな細やかな演技を見る機会に恵まれるとはなんたる幸せでしょうか。

 対役の石田彰さんも素晴らしかった。なにせ初見で気づけなくてスタッフロール見てびっくりしたくらいですから。こちらも子どもの頃からのファンなのに。さすがフィッシュ・アイ。
 関智一さんの10分足らずの一席だけで延々語りつくしたせいで彼の演技について語りたいところもだいぶ重複してしまったのですが、こちらの演技も非常に深い。八雲というキャラクターの暖かさやひねくれたところ、なにか傷を抱えている様子、大人になりきれていない部分、すみずみまで丁寧に血肉を張りめぐらせています。まあ私は原作読んでないのでどこまで合っているのかわからない勝手な想像ですが、そういう想像を巡らせるだけの奥行きがある演技だということです。
 もちろん落語も。怜悧で明晰で切れ味鋭い、けれどやはり八雲としての息づかいの見える、八雲の世界観に引き込まれるような一席でした。キャラクター性の差があるので当然といえば当然なのですが、私はこちらの方が好みです。次回から彼が主役の過去編が始まるようなので楽しみですね。

 ・・・いかん、眠い。記事の体裁を整えるのもそこそこに今回はこのくらいで。予定通り語りつくしてすっきり。けど自分語りの割合ホントにひどいな。あとお芝居やりたい。

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