ファーストデイに観た映画の感想を2日もまたいで書きはじめるアホウ。おかげで映画の記憶も昨日見た夢のように霞みがかり、書くに困って急遽小説版を買ってくるハメになりましたが、まあ後悔はありません。それだけ胸を打つ映画でした。小説も色鮮やかな筆運びで面白かったです。
映画の記憶がぼやけているくせに何言ってんだって感じですが。けれど幸いなことにこの映画は夢ではなくて現実に存在します。昨日の夢は二度と見られませんが、映画なら映画館に足を運べばまた観ることができます。感想書いたらもっかい見に行こう。
実は新海監督の映画は初めて観たのですが(またか)、聞きしに勝る映像の美しさでしたね。見ているだけでうんざりする田舎の風景。きらびやかな東京のビル群と人の群れ。それから彗星。何も知らないタキやミツハの瞳を通して見るその幻想的な美しさ。けれど私たちは知っているその絶望のニオイ。教えてあげたい、助けてあげたいけれど、しょせんこれはフィクション、観客たる私たちの声は彼らに届きません。そのもどかしさ、焦り、悲しみ。それだけのネガティブな感情を抱いてなお美しいと思ってしまう圧倒的な存在感。それからそれとは別に、タキとミツハがそれぞれ遠い空の下で同じものを眺めているんだなあという素朴なロマンス。ただの天体ショーにこれだけ複雑な思いが募るのも、この映像美があってこそでした。
それから音楽。RADWIMPSって主題歌だけじゃなくて劇伴全般を手がけていたんですね。素晴らしい楽曲群でした。ボーカル曲はともかくとして、劇伴についてはただの一曲も記憶に残っていません。いったいどこで鳴っていたんでしょうね? 芝居において音楽は添え物、登場人物たちの心の動きや関係性の移ろいに観客の共感を導くための装置です。ドラマを邪魔せずムードだけを盛り上げられたならば、それこそが劇伴の本懐。彼らは完璧な仕事をしました。
恋心
そろそろ物語についての話。
私、入れ替わりものって好きなんですよ。だって恥ずかしいじゃないですか、誰もが持っている一番大切なものに一番近いところを、ある日突然他人の目に晒すことになる理不尽って。(羞恥フェチ) 胸とか股間とか日記とか人間関係とか、ありとあらゆる恥ずかしいものを自分の手の及ばないところで他人に知られてしまうなんて、死んじゃいたいくらい恥ずかしい。
タキとミツハの物語はそういう降って湧いた理不尽から始まります。これに際して彼らが真っ先に定めたルールは身体を見るな、触るな、お風呂に入るな、人間関係を変えるな、などなど。けれどいくら言ったところでお互い手の届かないわけで、二人の好奇心は止められず、タキはミツハの胸を揉むし、ミツハはタキ憧れの奥寺先輩と仲を深めちゃいます。
恋心っていうのは、その一側面として互いのことをもっと知りたいという欲求が含まれているものだと思います。恋をしたことなんて数えるほどしかないので偉そうなことは言えませんが。そして知れば知るほど一層相手のことを知りたくなるもの。だって、知ることってそれ自体嬉しいことじゃないですか。それを許してくれる相手がいることのステキ。それを求めてくれる相手がいることのステキ。
彼女はこんな身体をしている。彼はこんなマンションに住んでいる。彼女にはこんな友達がいる。彼はこんな趣味を持っている。彼女にはこんな負い目がある。彼はこんな片思いをしている。恋愛の最も輝かしい要素のひとつを、タキとミツハは期せず恋を知る前から体験してしまうのです。お互いに顔を合わせることすらなく。文通みたいですね。
いつしか彼らはこの奇妙な文通もどきを心から楽しむようになります。糸守町にカフェ(ただし飲食メニューは自販機)を設えようとするタキの姿は特にステキですね。自分の趣味を楽しみながら、同時にミツハの憧れを叶えようとする甘酸っぱさがあります。
出会いは理不尽なものですが、それ以外に特に大きな事件もなく、彼らはごく自然に惹かれあっていきます。直接会ったこともないのに、彼を/彼女を構成するものを知っていくうちに、ごく自然に。あまりに自然だったので彼らは自分の恋心を自覚しません。・・・甘酸っぱいなあもう!
タキがそのことを自覚したのは奥寺先輩とのデートの日でした。憧れの先輩、憧れの初デートだったにも関わらず、彼は先輩よりも飛騨の風景写真に強く心を揺り動かされます。そこはミツハの匂いのする風景でした。「君は昔、私のことがちょっと好きだったでしょう。そして今は、他に好きな子がいるでしょう」 奥寺先輩にも、むしろ誰にでもわかる、彼の興味の行方。気付いていなかったのは彼だけでした。
ミツハが同じことを自覚したのも、同じ日でした。(厳密には色々ややこしいですが) タキの初デートが気になって仕方がない彼女は居ても立ってもいられず東京に向かいます。「私たちは、会えば絶対、すぐにわかる」 その確信が何に支えられたものか、気付かないままに。ところが彼女が見つけたタキはそうではありませんでした。タキはミツハに気付きませんでした。そのすれ違いに、ようやく彼女は自分の片思いを自覚します。
夢現
彼らの身に降りかかった理不尽はそうして唐突に終わりを迎えます。だって、彼らの体験したものはただの夢だったのですから。距離も時間も超えた出会いなんて、そんな理不尽が現実であるわけがありません。まして夢が現実の恋心を育むだなんて、そんなことあるはずがありません。
現実にはありえないことを、私たちは往々にしてこう解釈します。「夢でも見ていたんじゃないか」 と。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを
夢は醒めたら急速に薄れゆくものです。あれほど楽しかった初恋も、夢が終わったなら消失してしまいます。日記も、思い出も、名前も。だって、それは現実ではなかったのですから。
どうしようもない現実が、この出会いが夢だったことを裏付けます。ミツハは現実には存在しません。
・・・いいえ。タキはすべてが夢だったというその解釈を拒絶します。だって、恋に焦がれる気持ちが今もここに残っているのですから。夢から醒めても消失しないものがあるというなら、それはきっと現実です。
ミツハが現実に存在しないなら、ミツハを現実に存在させてしまえばいい。タキは現実に対する横暴、過去改変を開始します。どこにでもいる少年がこれほどの理不尽を引き起こす、その力の原資、動機付けは・・・いやはや、恋って本当にステキなものですね。
「手と手合わせてたら血もつながって、一生離れなくなったりして。こんな夢をいつまでも見よう。醒めなければいいってことにしとこう」(RADWIMPS – 『ふたりごと』) 比翼の烏、連理の枝。深く結ばれた愛情はどうしようもなく分かちがたい絆となります。彼は彼女の半身で、彼女は彼の半身です。現実をひっくり返すなんて理不尽、半身を引き裂かれる理不尽に比べたらどれほどのものだというものか。
「君と僕が出会えたことを、人は『奇跡』と呼んでみたいだけ。『奇跡』が生んだこの星で起こるすべて『奇跡』以外ありえないだろう」(同上) タキは現実によって夢とされたあの出会いを、現実に対して認めさせなければいけません。この恋心は夢ではなかった。引き裂かれた半身は確かに存在していた。タキはミツハの半身、口噛み酒を口に含み、再びその魂をミツハと結ぶのでした。
彼は誰? ・・・あなたのカタワレです。
途方もない理不尽の数々を乗り越えたとはいえ、二人の恋心を育んだものはあくまでも楽しかった日々でした。時間という大きな障害があったから恋が燃え上がったのではありません。はじめに恋があったから、時間という障害を乗り越えることができたのです。陳腐な表現をするなら、要するにふたりは運命で結ばれていたわけです。
思い返せばミツハが東京に出てきたとき、まだ彼女と知り合っていないはずのタキもなんだかわからない衝動に突き動かされて「あのさ! 君の名前は・・・」 と彼女に声を投げていましたね。「形に刻まれた意味はいつか必ずまた蘇る」 育まれた恋心は時間の流れをも超えて、彼と彼女の過去・現在・未来、全生涯に渡ってふたりを強く結びつけます。・・・その意味では糸守町救済より先の物語は冗長だったかもしれませんね。見届けるまでもなく、私たちはふたりが再会できることを固く信じられたでしょうから。
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