君の名は。 会うことの叶わない男女がどうして互いに惹かれあうのでしょうか。

 ちょっと思うところがあったので、先週書いた感想よりもう少しツッコんだことを書いてみようかなと。
→先週書いた方 君の名は。感想 まるで文通のような出会いでした。

 なお、こちらもあちらもネタバレには一切配慮していませんし、たぶん映画を観ていないと何のこっちゃか伝わらないと思います。

追記:飽きもせずまた書きました。 君の名は。について語りたりないこと。 夢は現実を変えられない、という事実について。

小説 君の名は。 (角川文庫)

副題:恋する少年タキはどうして糸守町民500名を救わなければならなかったのか。

 そりゃ思い人のところに隕石が降ってきたからだよ、なんてのは言いっこなし。フィクションにおける事件というのは必然性があって起きるものです。そこに物語上の意味がなければ、制作者は事件を配しません。
 では君の名は。における隕石落下事件は物語においてどんな意味を担っているのでしょうか。ネット上では東日本大震災の比喩だ、この映画は震災後映画だ、なんて評論があがっていますね。・・・まったく気付きませんでした! 言われてみればいくつもの符合が散りばめられていますね。制作意図のひとつとして、それは確かにこの映画に内在するものなのでしょう。
 けれど、それだけだったら嫌だなあと、私なんかは思います。だってタキとミツハの恋物語に件の震災の記憶はちっとも関係ありませんから。エンターテイメントとして、観客への慰撫として、メタ的にそういう要素が求められていたとしても、彼らの物語にはちっとも関係ありません。
 単にタキがミツハの命を救ってハッピーエンドって筋書きだけが必要なら、ミツハの死因は交通事故か何かでいいじゃありませんか。あるいは隕石の落ちるあの日、タキはミツハの身体で単身東京行きの新幹線に乗れば済むことじゃありませんか。

 私はこの映画の震災後映画としての要素にまったく気付きませんでした。だってそういう符合よりもタキとミツハの恋物語の方にこそに熱中していましたから。
 前置きがエラく長くなりましたが、この記事は君の名は。を震災後映画として観る気がない私から見た、この映画における隕石落下事件の存在意義について書くものです。

彼らの恋

 タキとミツハは直接会うことがありません。距離という断絶、時間という断絶、夢と現実の断絶、彼と彼女の間にはいくつもの断絶があるからです。コミュニケーションの手段は日記だけ。それでも彼らはごく自然に、当たり前に恋をします。
 彼らは日記によって恋をしたのでしょうか? いいえ、そんなことはないでしょう。彼らの書く文面からは気安くなっていく様子は読み取れても、心を通じ合わせたいという欲求は滲んでいません。だって、そもそも彼らが恋心を自覚したのは入れ替わりが起こらなくなったあとなんですから。

 タキが自分の気持ちの一端に気付いたのは奥寺先輩とのデートがきっかけでした。降って湧いた憧れの人との初デートに、彼自身が憧れの先輩と何かをしたい気持ちはひとかけらも表出しません。一生懸命紳士を気取り、慌てふためき、奥寺先輩と自分を比べて劣等感を積もり重ねるばかり。・・・いえまあ、気持ちの優しい人の初デートってだいたいそんなものな気がしますが、それにしたって相手に気を向けなさすぎです。顔すらろくに見ようとしていません。見れないのではなくて、見ようとしていません。
 代わりに意識しているのはミツハのことばかり。まだ恋心という自覚はありません。彼女の残したメッセージに恨み節を吐いたり、彼女のいる町に似た景色を懐かしく思ったり。ちっとも恋心らしくはありませんが、けれどその思いは一緒に歩いている奥寺先輩のことすらも意識の外に追いやるほど、胸一杯に広がっていました。
 そりゃあ見破られますよね。自覚するよりも早く。デートを中断されて奥寺先輩という余計な重りがなくなると、いよいよ意識はミツハの方を向いてしまいます。無性に彼女と結びたくなって電話をかけます。
 彼が明確に恋心を自覚するのはこのあと喪失感を覚えてからでしょうが、観客として彼に恋心らしい恋心を感じ取るのはこの瞬間が最初です。

 ミツハの恋心はもう少し明確で劇的です。たぶんこの子本気で奥寺先輩が大好きだったんでしょうね、恋愛対象ではなくカッコイイ都会の女性への憧れとして。デートが気になって居ても立ってもいられず出向いた東京で、彼女が出会ったのはミツハを知らないタキでした。「私たちは、会えば絶対、すぐにわかる」 その無垢な確信を裏切られます。
 「覚えて、ない?」 彼女は目の前にいる少年が自分の知っているタキではないと気付きません。会えばわかる、その確信が真実であればあるほど、タキの無感動が、気持ちのすれ違いが、彼女の胸に刺さります。
 気がつけばミツハが東京で探していたのはタキのことばかりでした。当初の目的はデート、タキと同じくらい奥寺先輩のことも気になっていたつもりでしょうに。どうしようもないすれ違いを突きつけられて、彼女の恋心は失恋から始まりました。失恋を覚えて初めて、彼女は胸のうちがタキのことでいっぱいだったことを自覚します。
 未練は手元に残さず、タキの元へ。こういうの女々しいなあとも思いますが、そういえばミツハは女の子でしたね。

 そんなわけで、日記どころかそもそも入れ替わっている間じゅう彼らは恋をしていません。ただひたすらお互いの存在をそれぞれ大きくしていっただけです。ハタから見ているとそれもう恋まで秒読み段階じゃん、甘酸っぱいなあもう! と悶えること必至ですが、彼らにとっては恋ではありません。
 彼らは心を通じ合わせるようないかにも恋心らしい欲求を持つ機会なく、お互いのことを知っていきます。おっぱい姿かたち、部屋のセンス、趣味嗜好、生活環境、風景、それから大切な家族や友達。彼/彼女本人を知らないまま、彼らはお互いの周辺のことばかりを知っていきます。まるで文通のように。
 例えばお婆ちゃんと妹との生活。例えば憧れの東京の街並み。例えば何もない田舎での遊び。例えば美味しいカフェごはん。例えば町長の娘としての複雑な立場。例えば厄介なクレーム対応。例えばテッシーとサヤちんという無二の親友。例えば奥寺先輩というカッコよくて可愛い憧れの人。
 彼/彼女の目を通して見る、身体を通して体験する、彼/彼女を形づくった、お互いのかけがえのないものにふたりはそれぞれ惹かれていきます。その中心にいる彼/彼女を知ることなく。

だから守らなくてはならないもの

 少々蛇足な部分にまで筆が走りすぎましたが、そういうわけでタキがミツハだけでなく糸守町民500人を救わなければならない理由はなんとなくわかるでしょうか。
 彼が、あるいは彼女が互いを知りあい、お互いの存在を己の半身と思うほどに心の中で大きくしていったのは、それぞれ本人ではなく、それぞれの生きる環境を知ることが起点でした。
 人はひとりで生きているわけではありません。あなたという人格は、あなたがただ存在するから自動的に形成されるものではありません。周囲の人や出来事、知識、トラウマ、思い出・・・あなたを巡る周囲の何もかもが、あなたという人格を形づくる一部です。
 ミツハという少女は糸守町という環境によって形成されました。お婆ちゃんや妹、テッシー、サヤちん、学校の級友やすれ違う町の人々、確執のある父親。そういった人々と過ごす日々がミツハをつくったのだと、タキは入れ替わりによって体験します。むしろミツハを知りません。町の人々が語る彼女の人となりや日記によって、彼女がどういう人物なのか推察するのみです。

 けれど入れ替わりという体験はひとりの人間を知るにはあまりにも濃厚で、ミツハを形成した環境での生活は彼女の手触りを体温ごと伝えてくれました。「私たちは、会えば絶対、すぐにわかる」 ミツハの確信はここに根ざしています。彼らはお互いが人格を形成した過程をそっくりそのまま追体験し、その人格をお互いの心の中に築き上げたのです。いわばお互いがお互いの半身。だからこそタキは夢から醒めてミツハの記憶が失われゆくとき猛烈な喪失感に襲われ、ミツハの半身である口噛み酒を取り込むことによって己の半身を回復するわけですね。これまた本題に対して半ば蛇足ですが。

 従って、もしタキがミツハを救おうとするならば、彼は彼女を形づくった環境すべてを守らなければなりません。彼にとっては彼女にまつわる環境すべてが彼女そのものです。環境を通して彼女を知ったのですから。
 もちろんただの少年に隕石を食い止めるなんて大それたことはできず、家や町並みまではどうすることもできませんが、せめて人だけでも助けなくてはなりません。彼らがミツハをつくったのですから。町だけでなく糸守町民500人までも損なうことは、タキの知るミツハを損なうことと同義です。彼女たったひとりを救ったところで、それは彼の知るミツハではなくなってしまいます。恋する少年は思い人にまつわるすべてを救わなければなりません。だってそのすべてが彼女なのですから。
 環境から間接的に思い人を知っていく、文通のような恋だからこそ、そのクライマックスが思い人ひとりを救う物語となるのは似合いません。ヒロインを取り巻くすべてをまるごと愛したならば、ヒーローはそのすべてを救うべきでしょう。大舞台のモチーフとして震災の匂いを纏わせたのはエンターテイメントとして巧みですが、しかしそれは本題ではありません。

 君の名は。は、あくまで恋物語です。

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