亜人ちゃんは語りたい 第1話感想 ノーマライゼーション。

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語りたいよ。日々のステキ、オリジナル。

 これ実はかなりマジメな社会派アニメなんですね。いえ、日常アニメだし萌えアニメなんですが。それらが両立しないなんてことはないわけですよ。人の喜びや悲しみを描くことと大きな事件のない日常を描くことが何か矛盾するでしょうか。シリアスなテーマを掲げることと女の子がカワイイことが何か矛盾するでしょうか。
 ・・・と、こんな書き方をすると違和感を感じる方もいるかと思います。「そうは言ってもやっぱり食い合わせ悪いだろ」と。たぶん、そういう問題です。ノーマライゼーションを阻むものは。

ノーマライゼーション(千差万別)

 ノーマライゼーション。点字ブロックや訓練学校を整備するとかして、障害者が不自由なく健常者と同等の生活を営める社会にすること。
 あるいは、障害者と健常者を区別する必要がなく、ひとつの同じ社会の中で、それぞれの能力に応じた活躍ができる社会にすること。
 はたまたあるいは、人の心からあらゆる断絶を取り去り、「障害者」とか「健常者」とか一切関係なく、個人がただ個人同士として関係しあえる社会にすること。
 とりあえず障害者の生活環境を改善する取り組みのことだと思っていれば間違いないですが、それにしたって、ひとつの言葉にずいぶんいろんな解釈があるものです。
 それもそのはず。だって、一言に「障害者」と括ってみたところで、彼らはみんなそれぞれ違う人間なんですから。一言に「健常者」と括ってみたところで、私とあなたが違うものの考え方をしているように。

 「そんなに珍しいですか。私気付いてました。先生が、その、ずっと遠くから私を見てたこと。興味本位に近づかれると困るんです」 佐藤先生は亜人に興味がある鉄男を拒絶します。
 「とりあえず私に会えて嬉しいってことでしょ? すごく嬉しい? ・・・エッヘヘヘヘー」 ひかりは反対に亜人が好きだという鉄男に好感を持ちます。
 第一印象の差もあったでしょうが、それでも鉄男の2人に対するスタンスはそれほど大きく違っていません。佐藤先生相手にあれだけ痛恨の失敗をしておきながら、首のない京子を見たとき、ひかりが亜人と知ったときにも特に気を遣おうとしているようには見えません。この人バカですね。そういったものに心を砕くより優先したい好奇心がある、学者バカです。
 そんなデリカシーに欠けるバカに対して、2人の亜人は対照的な反応を示しました。

 もうひとつ見てみましょう。
 「ほら、私こういう体質だから」「・・・あ! 町さんって動画とか見るの?」「・・・うん。ときどき」 友達が亜人の体質の話題を避けたとき、町は傷ついた表情をしました。
 「大丈夫だから。冷やせば大丈夫だから。大丈夫。雪女だから。私、雪女だから・・・」 担架で運ばれる雪のうわごとは、亜人の体質から来る不調を特別扱いしてほしくないと主張しているようでした。
 彼女たちの周りの人々は(鉄男と違って)それぞれ親切に接していますが、それでもやっぱり2人の反応は対照的です。

 亜人のいない現実社会においても、手足が動かない人、手足がない人、自力呼吸ができない人、目が見えない人、耳が聞こえない人、皮膚が極端に弱い人、知的発達に問題を抱える人、計画を乱されるとパニックに陥る人、明確な言葉以外のコミュニケーションが困難な人、じっとしていることに耐えがたい苦痛を感じる人、目は見えるのに文字を認識できない人・・・様々な性質を持つ人たちがいます。左利き、なんてのも定義次第では彼らと同質のものとされることがありますね。一言に「障害者」といってもその内訳は多様です。
 けれど、このアニメで語られるのはそういった多様なマイノリティの存在ではありません。例えば同じ「手足が動かない人」であっても、その中には田中さんや鈴木さん、加藤さんに鈴木さん、三浦さん・・・それぞれ別の個性を持つ個人がいます。このアニメが注目しているのは、おそらくこちらの方ですね。

 サキュバスである佐藤先生が異性の好奇の目を嫌う理由はなんとなく察することができます。そういった性質が(比較的)弱いヴァンパイアのひかりとは、どうしてもものの見方が違ってくることでしょう。他人と違う特異な性質があるなら、そのことが個性に与える影響を無視することはできません。
 けれど、それでもやっぱり生まれ持った性質に依らない個性というものはあるんです。町と雪の亜人観が真逆であることに、デュラハンと雪女という体質の差異が及ぼした影響はあまり大きくないでしょう。

 かつて『五体不満足』の乙武洋匡がテレビで活躍していた頃、彼の語る「ノーマライゼーション」の理想には賛否両論が上がりました。健常者だけではありませんよ。彼と同じ「障害者」の方々も、必ずしも彼と理想を同じくするわけではありませんでした。たしか健常者と同じくらいに賛否がバラけたはずです。
 一言に「障害者」と括っても、その中には田中さんとか鈴木さんとか、いろんな人がいます。だからこそ冒頭で挙げたように「ノーマライゼーション」の語義がたくさんあるんです。

 ひかりたちを語るうえで、サキュバスとかヴァンパイアとかデュラハンとか雪女とかいう「体質」だけを見るのでは足りません。
 それでいて、それらの「体質」を無視して、佐藤先生とかひかりとか町とか雪とかという個性だけで彼女たちを判断するのも、やっぱり足りない気がします。
 彼女たちは、サキュバスの佐藤先生で、ヴァンパイアのひかりで、デュラハンの町で、雪女の雪なんです。どちらを見る視点を欠いても理解が阻害されます。
 健常者同士なら「健常者」という「体質」は無視しても何とかなるんですけどね。自明だから。だからこそ、それに慣れてしまうと、どうしても彼女たちのような人が異質に見えちゃいます。いけないいけない。

ハンディキャップ(非力と甘えの境界)

 ついでにもうひとつ難しい問題。
 「遅れたならわかるけど、混んでたって理由になるのか?」 生まれ持った性質が違うと、当然普通の人より弱い部分が出てきます。特に一般的な人間社会は健常者の性質に最適化されているため、佐藤先生のようなマイノリティは健常者より多くの不利益を被る場面が多くなります。
 だから、ノーマライゼーションを推進するにあたってはマイノリティに対して特別な配慮を働かせることがあります。例えばサキュバスのように人混みに対して健常者より不利な人たちがいるなら、本当なら人混みをなくすことが一番です。ですが実際のところなかなかそうはいかないので、その代替案として特別な配慮を働かせるわけですね。

 ところが皆さんご存じのとおり、この「特別な配慮」は摩擦を生みます。何の努力もせず特権にあずかっているわけですから周りの人からすると面白くありませんし、配慮される側としても自分の体質には過剰な配慮だと感じることがあります。
 まあそもそもが理想的なノーマライゼーションの代替案みたいなものなので仕方ないんですが。

 「大丈夫だから。冷やせば大丈夫だから。大丈夫。雪女だから。私、雪女だから・・・」 雪女だから熱中症にかかりやすいというのは納得できる話ですが、雪はそういう扱いを受けることを嫌がっていますね。実際どの程度深刻な話なのかは本人にわかりませんが、ハタから見ている分には電車が混んでいるから遅刻した佐藤先生と対照的です。

 障害の度合いは人それぞれです。健常者と障害者の性質はスペクトル状に連続していて、同じ名前の障害でも個人によってそれぞれ性質が違います。健常者と見なすべきか障害者と見なすべきか微妙な性質の人もいます。
 つまりなにがいいたいかというと、「絶対に配慮されなければできないこと」と「本当は頑張ればできること」の境界もまた存在しないんです。
 電車では優先席に座らないと辛いけれど必要なら立ったままでも我慢できなくはない人もいれば、普段は立って電車に乗るけれどできることなら優先席に座りたいという人もいます。健常者と障害者の間に明確な境界がないんですから当然ですね。
 そんなわけで、障害の診断基準には大抵「社会生活に不都合を感じているかどうか」という曖昧な項目が含まれています。本人が無理と言えば障害者、平気と言えば健常者になる場合も多々あります。

 そもそも障害者という概念自体がハンディキャップを社会に認めてもらうためのラベリングなんですよ。
 社会が彼らにとって生きにくいものだから障害者というラベルをもらっているに過ぎません。だから右利き優遇の社会において左利きは障害者だと主張する人もいますし、その主張はある程度道理に適っていると考えられるわけです。
 ノーマライゼーションが進めば世界から障害者がいなくなるともいわれますね。そりゃそうです。手足がなくても、字を読めなくても、問題なく普通に生活を営める社会になるなら、彼らの人生に「障害」はありません。

亜人(デミ)ちゃんは語りたい

 かようにノーマライゼーションというのはきわめて難しい概念です。なにしろ語る人によって理想像がそれぞれまるで違う。ここまでダラダラと綴ってきた私の文章も、おそらく同意する人とそうではない人がいるでしょう。何事もきれいにスパッと解決できる、絶対の答えなんてありません。ありえません。
 そんな中で、それでも比較的多くの人たちが同意できるひとつのノーマライゼーションのかたちとして、このアニメはひとつの例を提示してくれています。

 ノーマライゼーションの理想がそれぞれ違っているとしても、それでも多くの人がノーマライゼーションを望んでいるのだとしたら、その背景にあるのは自分をノーマルとして扱ってくれない社会の生きづらさでしょう。
 だから、せめて「語りたい」

 「まっちーって大変だよね。だってさ、いつでもどこでも頭持ってあちこち行かなきゃいけないでしょ」
 そんな無遠慮な言葉が、呼び水が、救いになることがあります。
 「ううん。私慣れてるから」 たったそれだけのささやかな言葉を口にできることが、救いになることがあります。
 「特別な体質」として見なされると、「特別な配慮」を受けていると、そんな当たり前のことすら自由にできなくなることがあります。理不尽な話ですよ。それは彼女たちが特別な生まれだから受ける不利益ではありません。社会が、周りにいる私たちが、彼女たちに「特別」を強いて初めて発生する不利益です。
 「感動ポルノ」という言葉を覚えていますか? あの言葉の提唱者ステラ・ヤング氏がスピーチで訴えていたことはまさにこのことでしたね。

 このアニメはそんな重たいテーマをきわめて軽く、可愛らしい女の子たちの平穏な日常を通して描いています。とてもステキな描き方ですね。
 だって、語ろうとすると妙に小難しい話ではあるものの、現実としてこの問題は私たちの身近にこそ存在するものなんですから。普通の日常を通してこそ、理想も現実もありのままに描けるってものです。

 「そしてその血に頼らず生きているヴァンパイアもいる、と。そういう人たちのことをどう思う?」「どうって・・・すげーなーって」
 「ベジタリアンっているじゃない。肉食べないで生きてるんだって。どう思う?」「どうって・・・すげーなーって」

 人類史上数千年単位で障害者を「特別」にしてきた重っ苦しい例え話を、このアニメではきわめて軽い日常会話としてさらっと流します。彼女たちから「特別」を取り去ってくれます。どこにでもいる、ちょっぴり恋なんかにも興味を持っちゃったりする普通の女子高生として扱ってくれます。
 その、ありえない「当たり前の日常」。

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