だって「まだまだ」ということは、「まだまだ」もっと楽しめるということだもの。
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(主観的)あらすじ
自分の好きなものが見つからず、いつもアンニュイなゆかり。いちかなら自分の退屈な日々を面白くしてくれるかもしれないと考え、彼女はみんなをお茶会に招待します。
いつものメンバーに加えて、今日はリオくんも一緒。お茶会の座から離れたゆかりは彼に悩みを打ち明けます。年の離れた姉が家を継いでくれるから自分は自由にできているけれど、だからこそ誰も自分に干渉してくれず寂しいと。
一方いちかは期待通り、作法破りをたくさんやらかしつつも場を明るくにぎやかにしてくれました。彼女はゆかりのおもてなしの精神に感動します。だからいつもスイーツを扱う手つきが優しいんだ、と。そして彼女はもっとゆかりらしさが生きるお茶会を提案します。
楽しいお茶会のあとはジュリオとの戦い。彼はゆかりの心の弱さを暴き、容赦なくつけ込んできます。けれど彼は勘違いしていました。例えばゆかりに姉はいません。彼女の日々がアンニュイなのは誰のせいでもなく自分の問題。それを自覚するゆかりはジュリオが思うほど弱くはなかったのです。
あらゆる言動はその人の心のありかたを映す鏡。茶道が舞台になるという時点で絶対にやらかすと思っていましたよゆかりさん。なるべく優しい視点で感想文を書こうと思っていてもついつい地が出てしまう、私にとっても身につまされる物語でした。(ほらもう地が出てる)
人は物事を客観視することができません。絶対にできません。もしもあなたが客観的にものを考えられていると思っているなら、それは確実に思い込みです。だって、人は自分の目や耳を通してしか世界を観測できないんですから。あなたの知る世界のかたちはすべて主観です。私とあなたの見ている世界はそれぞれ違います。
リオくんはそれに気づいていませんでした。ひまりの、あおいの、あきらの、そしてゆかりの心理分析をしているつもりで、結局自己紹介でしかなかったんです。
もちろん、このブログで私が書いているものもすべてそういう類のものです。いちおう自覚しているつもりではあったんですが、今回の物語が心に刺さったということは・・・んー、どうなんでしょうね?
好き
ゆかりは頑張っている人が好きです。好奇心の赴くまま何にでも挑戦してみることがモットーのいちか。人助けのためなら膝に土をつけてでも一生懸命やり通すあきら。姉の笑顔のために身の丈に合わないことでも一生懸命お手伝いしようとするみくちゃん。もちろんあおいやひまりのことも。
だって、万能の才媛たる自分にはそういうことができないから。
「キラパティのみんなには自分だけの大好きな特技、あるもんね」
リオくんの指摘は7割くらい合っています。ゆかりはそれぞれひとつ打ち込めるものを持っているみんながうらやましい。
「いつもわからなくなるの。“好き”ってどういうものかしら」
例えばステキなお茶菓子が6つ並んでいたとして、その中から自分がどれが一番好きなのか決めるときって、はて、どういう基準で判断したらいいんでしょうね。
みんなどうやって決めているものなんでしょう。“好き”って何なんでしょう。ヒントがほしくて周りを見渡してみます。
「あきらさんは接客。いちかはお菓子づくり。ひまりは仕入れ。あおいは力仕事」
リオくんの観察眼はちょっとアレなのでもう少し補足するなら、あきらは人助けが好きだから接客。いちかは新しいことに挑戦することが好きだからお菓子づくり。ひまりは知識を集めたり使ったりすることが好きなので仕入れ。あおいは・・・誰にも束縛されず自由にやりたいことを選びたいから、お屋敷の生活とは真逆の力仕事って発想なんでしょうか?
自分の打ち込んでいるものに挑むとき、みんな楽しそうな笑顔をしています。これが“好き”ってことなんでしょうか。そういう自分の特性や経験を踏まえて、自分が何を“好き”なのかを判断するものなんでしょうか。
いちかたちなら6つのお茶菓子の中から迷わず自分の一番を選び取れるのでしょうか。
わかりません。だって、ゆかりには打ち込んでいるものが無いんですから。彼女はどんなことでもちょっと試してみるだけで何でも器用にこなせちゃいます。打ち込むまでもありません。打ち込む暇がありません。だから自分の好きなものがわかりません。
ゆかりとリオくんはよく似ています。器用なところが。
何でも器用にこなせるからか、彼女たちは普段自分の手を動かしません。キラキラパティスリーでみんなが忙しそうにしているのを尻目に、ゆかりはしばしばひとりで座っています。リオくんはへらへらとアドバイスを語ってみせるだけで、直接協力しようとはしません。
けれどひとたび行動する機会を与えられると、彼女たちは完璧に仕事を達成します。
「茶道ではひとつひとつの動作に意味がある。決められた型を繰り返すことで洗練された作法になる」
彼女たちにとっては繰り返すまでもありません。決められた型を真似ることくらい、彼女たちなら一回で覚えられます。
「何でもできる。でもこれといった特技はない。だって自分から本当に何かをしたいと思う気持ちがないから、好きにしろと言われても困ってしまう」
ゆかりは自分の生き方に退屈しています。好きなものが見つからないから。
「家のことは姉が継ぐから私は勝手気ままに過ごせてる。けど、それが余計に苦しくて。両親や祖母は姉にかかりきりで、それも・・・」
いっそ誰かがどれかひとつを決めて、なんでもいいから押しつけてくれたらいいのに。そうすれば私もみんなみたいにひとつだけに打ち込むことができて、それを“好き”ってことにしてしまえるのに。
どうして私には“好き”なものがないんだろう。どうして私は退屈しているんだろう。
そんなのわかりきっています。それは私自身が何にも打ち込むことのできない、つまらない人間だからです。
あなたじゃない誰かが見つけるあなた
私とあなたが見ている世界はそれぞれ違います。
すでに第3話でも一度語られたことですね。憧れの人が審査するコンテストに挑むにあたって、今までの自分では勝てないと歌詞づくりに苦心するあおい。けれどいちかからすると全然そんなことなくて、彼女は今のままでも誰よりカッコイイあおいをモチーフに、爽やかならいおんアイスをつくりました。あおいが自己評価するあおいらしさと、いちかが憧れるあおいらしさは全然違っているのでした。
それはゆかりだってそうです。誰にどう褒めそやされても大概のものは「よく言われるわ」とあしらう彼女にも、未だ彼女の知らない彼女らしさはあるものです。
「私、ゆかりさんがお菓子を扱っているときの手が好きなんです。すごくきれいで優しいから」
いちかにこう褒めそやされて、ゆかりの口からはいつもの「よく言われるわ」が出てきません。それは思ってもみなかった、自分の知らないゆかりらしさでした。
「それって、お茶とお菓子は仲よしコンビだからなんですね」
いちかが褒めてくれる手つき、そのルーツまではゆかりも知っています。
「お菓子だけじゃなく、お軸やお花、着物の柄まで、お客様に楽しんでいただくための小さなこだわりが、おもてなしの心になる」
それは幼い頃から身近に接していた茶道の作法。それはところ変わってキラキラパティスリーでもちゃんと生きていて、それをいちかは好きだと言ってくれたのでした。
けれど誰よりも器用なゆかりにすら気づくことのできなかったゆかりらしさを、いちかは当たり前のように見つけてしまいます。
だって、いちかとゆかりの見ている世界は根本的に違うんです。
「おばあさまの受け売りだけど」
ゆかりにとって茶道は、一度型を覚えてしまえばそれで完成というつまらないものです。だから彼女には気づけませんでした。自分ではただ型に沿って手を動かしているだけのつもりでした。茶道の精神が自分の中に息づいているとは思っていませんでした。
まさかそれが、誰かに憧れてもらえるようなステキな私を構成する、大切な一要素になっていたなんて。
ゆかりの中には、まだまだゆかりの知らないゆかりらしさが隠れていたのでした。
ありのままの私を
なんだ、意外と面白いじゃないか、私。まだまだ知らないことだらけじゃないか、私。
人が自分を好きになるきっかけって、だいたいこういうときだと思うんですよね。自分の観測する世界のありかただけが世界の見かたのすべてだと思い込んでしまうと、そりゃつまらないですよ。私の物語の主人公たる「私」に一切の謎がないんですから。そんなの主人公として魅力カラッポです。
だから大人は一番最初に子どもに無理難題を押しつけるんです。「一年生になったら友達100人できるかな」 他人の視点を知ることで、今まで気づくことのできなかった世界の面白さにどんどん気づいていけるから。それができたらその先の人生、きっとステキなことがいっぱいだから。
ちなみに私の通った小学校は1学年40人ちょっとしかいませんでした。現在はさらに減って20人を割り込んでいるらしいです。無理難題。
「確かに両親も祖母も私に好きに生きろと言ってる。それが苦しいときもある。けどね、どんなに苦しくても私は闇に逃げたりしないわ」
ゆかりは自分の生き方に退屈していました。それは自分が“好き”なものひとつ見つけられない、つまらない存在だからでした。
「私の性格は誰のせいでもない、私が自分で選んでこうなったの。寂しさも憤りも、誰のせいにするつもりもないわ」
自分がつまらないことまでひっくるめて、頭のいいゆかりは初めから全部理解していました。だからどんなに退屈でも他人に当たり散らすことなく、自分ひとりで退屈な日々を受け入れてきました。
けれど、本当はそのさらに先があったんです。いちかが見つけてくれました。つまらないだけだと思っていた茶道が、思いもよらない自分のステキに結びついていたことを。思っていたほど自分がつまらない存在ではなかったことを。
ゆかりの中にはゆかりの知らないステキがまだまだたくさん眠っています。それらは「寂しさ」、「憤り」、きっとそういったつまらないものの仮面を被って隠れています。
だったら、ステキな自分もつまらない自分も全部まるごとひっくるめて、自分の全部を好きになるしかないじゃないですか。そうしないとどこから新しいステキが見つかるかわかったもんじゃない。そうしないとどこで面白いものを取りこぼすかわかったものじゃない。
「まだまだやな」
ほら、さっそくひとつ。型は完璧に覚えたはずなのに、お婆さんは「まだまだ」だって言ってくる。不思議。
茶道の型はおもてなしの心の表れ。見た目だけきれいに整えても心が伴っていなければ、未熟も未熟。ゆかりが最初につくったマカロンとそっくりですね。
「だって『まだまだ』ということは、『まだまだ』もっと楽しめるということだもの」
万能の才媛でありながら、ゆかりはまだまだ未熟です。まだまだ新しいことに挑戦できて、まだまだいろんなことに打ち込めて、まだまだたくさんのものを好きになれる余地があります。
そんな“ゆかりらしさ”を、とりあえず彼女は“好き”になりました。これからもっと“好き”なものを見つけるために。
「看脚下」 アシモトヲミヨ、と読みます。己のルーツを見失うな、という訓示です。
「自琢」 ミヅカラヲミガケ、と読みます。他人がどうこうではなく自分を磨くことだ、という訓示です。
「楽」 タノシメ。生きることを楽しむことこそ、人生のステキですよね。
今の時点でこういうことを言うのはヤボかもしれませんが・・・。
6つのお茶菓子の中から自分の“好き”を選ぶことができなかったゆかり。でもそれって、あなたの中に“好き”があるかどうかとは関係ありませんよ。
だってあなた、言っていたじゃないですか。「わあ、きれい!」って。それってつまり、あなたがあのお茶菓子を“好き”だったってことですよね。
やりたいことがたくさんあるなら全部やる。それがプリキュアです。歴代のプリキュアはそうやって妥協せずに自分の幸せを追い求めることでハッピーエンドにたどり着いてきました。
どのお茶菓子もきれいだと思ったなら、迷わず全部もらっちゃえばよかったんです。それがあなたの“好き”のかたちです。「きれいなものは嫌いじゃないわ」って言ってましたよね。
なまじお利口さんだったばかりに、幼いゆかりはそんな簡単なことにさえ気づくことができなかったんですね。
ちなみにいちかもああ見えて案外“好き”にゆらぎがある子なんですよ。今日のお茶会、彼女が選んだお茶菓子は紫色でした。真ん中に自分のパーソナルカラーたるピンクがあったにも関わらず、選んだのはそちらではなく、一番選びにくそうな位置にあったゆかりのパーソナルカラー。
なにかに打ち込むとか特性とか経験とか、ぶっちゃけ“好き”とは関係ない。
器用に見えて変なところでぶきっちょさん。
友達との交流を通して、あなたがとってもステキなあなたを見つけられる日が、いつか訪れますように。
鏡
リオくん正体バレと同時に思想背景までバレちゃいましたね。
「ゆかりさんの気持ち、俺わかるよ」
そんな前置きしながら見当外れなことを言っちゃいました。
「何でもできる。でもこれといった特技はない。だって自分から本当に何かをしたいと思う気持ちがないから、好きにしろと言われても困ってしまう」
ここまでは概ね合っています。ただし、気にしているのは特技がないことではなく、打ち込めるものがないことですが。
ゆかりは今のところ誰かの得意分野で競ったり、力不足を突きつけられたりしたことがありません。
「その苦しさを紛らわすために、つい人の心を試してしまう」
こっちはもうね、完全な見当外れですよね。そりゃゆかりさんも逆に罠を張ってやろうと企んじゃいますよ。
ゆかりは他人を試したことがありません。頭がいいからか自分の問題は自己完結しちゃうんです。
いちかと一緒に遊び回ったことがありました。けれどあれは自分の苦しみをいちかにぶつけるためのものではありません。いちかが面白い子だったから、この子と一緒なら自分も面白いことができるかもしれないと期待したんでした。
なにせそもそもいちかの心情に干渉していません。「そう」「なんでも、ね」とつれない言葉は口にしましたが、そこに込められているのは純粋な落胆でした。つまらないことをいちかのせいにせず、自己完結していました。そのうえで彼女はお互いギクシャクと傷つく前に解散を提案していました。
リオくんはゆかりの心の弱さを指摘するつもりで、無自覚に自分と彼女を重ね合わせてしまったんでしょうね。
「人の心を試してしまう」のは「実験」と称して悪趣味な暗躍を繰り返す彼自身です。となれば、「苦しみを紛らわ」そうとしているのも彼自身でしょう。そしてこれらが引き出されるということは、「何でもできる」「これといった特技はない」「自分から本当に何かをしたいと思う気持ちがない」「好きにしろと言われても困ってしまう」 このあたりもそっくりそのまま全部彼自身の写し身。
「いつも気まぐれで好き勝手なことをしてる君を、みんなが心配なんてするもんか」
「構ってほしいくせに強がるなよ」
ほんと、そうだよねえ。素直に言ってくれたらみんなでスイーツ食べて解決なのに。
第12話以降の物語は双方向性をテーマに語られてきました。つくる人と食べる人、あるいはもっと他のあらゆる関係性の中で、いずれの関係においても幸せな気持ちは一方通行なんかではなく、お互いに与えあい高めあえるものだと語られてきました。
その文脈の中で独りよがりに塞ぎ込んでいたら、そりゃ摩耗しますよ。
リオくんがゆかりと会話した池のほとりに咲いている花はワスレナグサといいます。花を摘もうとして足を滑らせ川に沈んでいった男性が、「自分を忘れないでほしい」と愛する女性に残したという悲しい逸話が伝わる花です。花言葉はもちろん「私を忘れないで」。
寂しいと、誰かとの繋がりがほしいと、そう思っているのはおそらくリオくんもゆかりも同じです。
ですがゆかりの手には別の花があります。ハナショウブという花です。花言葉は茶道の家元にふさわしく「優美」、それから「優しい心」「嬉しい知らせ」。彼女はリオくんと違ってそういう希望といえるものを手に持っています。
ゆかりが闇に落ちず、リオくんは闇に落ちてしまった、ふたりの違いはたったそれだけ。ゆかりは自己完結しつつも、ひとりぼっちではありませんでした。他人との関係性を維持していました。たったそれだけのことです。
ここまで見えたのならリオくんを救うのは簡単。摩耗した彼の心に愛を与えることです。彼の愛を受け取ることです。双方向の関係性を繋ぎ、キラキラルを循環させることです。
要は一緒にスイーツをつくったり食べたりすることです。
キラキラプリキュアアラモードの物語は、いつだってその真ん中にスイーツがあります。
今週のアニマルスイーツ
シロイルカいちごだいふく。難易度星1つ。
1から求肥をつくる難易度の低さもさることながら、スーパーで100円大福を買ってきてイチゴを挟むだけでも出来映えに大差ないというお手軽さが何よりステキ。
クニャクニャの切り口がかえって口っぽさに見えるというアイディアですが、元がクニャクニャであるがために、ともすると不格好にも見えてしまいがちです。不格好に見えるかイルカの顔っぽく見えるかはおそらく表情のつけ方次第。センスが問われますね。
意外と知らない人も多いですが、雪見だいふくなどに使われている「求肥」はお餅に砂糖をぶっ込むだけでつくれます。たったそれだけであのノビのよさ、あのもちもち感、常温で固くならない性質が生まれるんです。
白玉粉を使うのもお手軽ですが、お正月に余ったお餅を消費するアイディアのひとつとしてもどうぞ。カロリー? 手元にお餅が大量にある時点で手遅れだ。気にすんな。
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