
君への“ダイスキ”が鳴り止まない!

無邪気な狂人たち
なかなか珍しい展開のお話でした。
前日譚たる第37話の物語が優れたライバルたちと切磋琢磨するか、自分には無いものを持つ友達と一緒に研鑚するかの2択だった時点で、孤高を貫くジャン=ピエールのやり方が否定されるところまでは予想していました。
ですが、まさかシエルがぎりぎりまでジャン=ピエールの人となりを誤解したまま進行するなんて!
「スイーツの中ではジャンも必死に戦ってるはず!」みたいなことを言っていましたが、明らかにあの人そういうご大層な正義観は持ちあわせていませんでしたからね。決して悪人ではありませんが、悪事を目の前にしてそこまで積極的に抵抗したがるタイプにも見えませんでした。実際スイーツに取り込まれて呑気に喜んでいましたし。
シエルはジャン=ピエールの卓越した技術と来る者拒まずの精神を尊敬するあまり、神格化してしまっていたんですよね。あの人の性格ならこう考えるはず、ではなくて、あんなに立派な人ならこう考えるはず、と視野狭窄ですらない盲目に陥っていたというか。
子ども向けのヒーローがクライマックスギリギリまでああいう勘違いをしていたのは、なんというか、すっごいユニークでした。
バカなんですよね。ジャン=ピエールも、シエルも。あとクックも。いちかたちだって言わずもがな。
とことんスイーツのことしか見えていないスイーツバカ。何でもスイーツ基準でものを考えちゃう。気がついたらどんなことよりもスイーツを優先しちゃう。スイーツのことになるとそこらの子どもよりも純粋になれちゃう。
今回の映画はそういうスイーツバカたちの狂想曲でした。
・・・でも一番アタマオカシイのは、そういう狂人たちの共演のなかですら「悪意との戦い」とか「バラバラの個性」とか「大好きを伝えること」とか、キラキラプリキュアアラモードらしいテーマをきっちり入れ込んでくる土田監督だと思うの。
悪意
今回の敵は一流のパティシエたちを妬む悪霊・クック。
何やらトラウマめいたバックグラウンドがあるようですが、そこらへん最近のプリキュアはガン無視する傾向にあるので諦めてください。ちょっぴりかわいそうですがなんだかんだで転生したっぽい描写はあるので許せ。
というわけで、彼女は救済されるべき哀れな存在ではなく、やっつけるべき悪意の存在として描かれます。
クックは孤高の求道者(と書いてヘンタイと読む)ジャン=ピエールを利用します。
クックにとって彼は自分とよく似た境遇にいたのでつけ込みやすかったんですね。
それに加えて、ジャン=ピエールはなんといっても孤独だったことが災いしました。キラキラプリキュアアラモード流の悪意への対抗法はバラバラの個性を繋ぎあわせることです。ひとりぼっちでは悪意とは戦えません。ヤツらときたら人の弱さを暴くことに関してはホントめざといんですから。
悪意に冒されてしまった人はなかなか他人とつながりあうことができなくなってしまいます。
テレビシリーズでもジュリオやビブリーを通して描かれたことですね。特に破邪の力・キラキラルクリーマーがなかったジュリオのときはいちかたちも本当に苦労していました。
ジャン=ピエールはクックとよく似た境遇にいましたが、シエルが言うには、彼はそれでもクックと違って周りの人を恨んではいなかったそうです。好んで自ら孤独を選んではいたものの、それでも来る者拒まず去る者追わずのスタンスで、確かに他人を拒絶してはいませんでしたね。
「大好き」の思いは本来誰にでも伝えられるものです。それがスイーツに込めて届けられるものならば、なおさら。
なのにシエルがつくったミルフィーユは当初、ジャン=ピエールに食べてはもらえませんでした。シエルの「大好き」は届きませんでした。
でも、それを過剰なほどに拒絶していたのは彼自身ではなく、クック。
「大好き」を巡る物語において「悪意」の存在は必ず取り除かれなりません。
バックグラウンドはどうあれ、こういうわけでクックはノワールやディアブルと同じ、プリキュアの敵として描かれることになります。
個性
プリキュアのアニマルパワーを脅威に感じたクックは、いちかたちをいつもとは違う動物に変えてしまいます。
いちかはカメに。ひまりはペンギンに。あおいはナマケモノに。ゆかりはパンダに。あきらはザリガニに。
こんな状態ではまともに敵と戦えません。いちかたちはたちまち大ピンチに!
・・・と思ったのもつかの間。
いちかはカメの硬い甲羅を利用して敵の攻撃を防ぎます。ひまりはペンギンの泳ぎが得意なことを利用して水中から戦います。あおいは空を飛び回る敵に乗って、ナマケモノらしく怠けながら戦います。ゆかりはちったァ働け。あきらは後ずさりしかできないザリガニの特性を利用しておしりパンチで戦います。
結局どんな個性にだって用いどころはあるものです。
すっごいバッカみたいなコメディシーンでしたが、改めてそういうことを思い知らされました。
バラバラの個性は強い力になります。どんな人にもときには誰かの悪意に付け込まれてしまうような弱さがあり、そして同時に、ときには誰かを悪意から守ることができる強さがあるものです。
クックの怪しげな計画に利用されちゃうジャン=ピエールにも、キラリンとピカリオを受け入れてくれた朴訥な親切心があったように。
ジャン=ピエールの性格をろくに理解しておらずブン投げられてしまったシエルにも、それでも彼の心に響くスイーツをつくる一途さがあったように。
強さと弱さは表裏一体。強いだけの人もいなければ弱いだけの人もいません。
だからこそバラバラの個性でつながりあうキラキラプリキュアアラモードはステキなんです。
だから、ね。ゆかりもちったァ働こうぜ。あなたクマ科なんだからマジメに戦ったら最大戦力だったでしょうに。
確かに余裕かまして遊んでいるゆかりは最高に魅力的ですけど!
大好き
「大好き」の思いには素晴らしいパワーがあります。
それは単純にキラキラルとして誰かの元気の源になることもあるでしょうし、いちかたちがしてみせるようにみんなをつないで悪意から身を守る防壁になることもあるでしょう。シエルがそうだったように誰かの人生を変えるきっかけになることすらあるかもしれません。なんにせよステキなことです。
ジャン=ピエールの心にもすさまじい「大好き」が滾っていました。彼のつくるスイーツには桁外れの量のキラキラルが満ち満ちていました。さすがは度を越えたスイーツバカなだけありますね。
たまに忘れがちになるんですが、「大好き」って、必ずしも誰かに向けるためのものじゃなくてもいいんですよね。もちろんいちかが普段からやっているように、誰かに向けたものの方がより良く伝わりはするんですけれど。
たとえばいちかが贈る相手不在でもショートケーキをつくること自体に意味を見出したこともそうでしたし、ひまりのオタクトークだって内容はよくわからなくても情熱的でステキだなと受け取ってくれる人はいました。
シエルだって、いちかに出会うまで誰かのためにスイーツをつくるという発想がなかったのに一流のおいしいスイーツをつくれていたわけで。
スイーツバカとはすなわち「大好き」をつくりだす天才のことなのかもしれません。
ただ、ちょっともったいなくはありますよね。やっぱり。
私、シエルのお店のオーナーさんみたいな考え方に多少の感傷があるので、なおさらそういうふうに思っちゃいます。
ジャン=ピエールはせっかくスイーツをつくっても誰かに食べさせようとは考えなかったようですから。ひとたび誰かに食べてもらえたなら、それはもう食べた人に多大な影響力を与えるステキなスイーツなのにも関わらず。・・・造形以外は。
まあ本人の主義志向の方が大切なので、あんまり言っても仕方ないんですけどね。
今回の映画ではその素晴らしさを彼に代わってシエルが証明しました。
彼の薫陶を受けたシエルが、他でもない彼に対して。
メモワールミルフィーユ・・・「想い出のミルフィーユ」と名付けられたスイーツが、彼の耳を閉ざすクックの悪意を貫通し、バカでかいスイーツの怪物をも貫通し、糖分に酔っ払った彼の頭になけなしの正気を取り戻させます。
ジャン=ピエールがつくったスイーツは、回りまわって彼自身を悪意から解放し、シエルやいちかたちと同じ「大好き」の輪に接続させたんです。
事件が終わったあともジャン・ピエールは相変わらず奇人のままです。悪意から解放されたところで孤独を好む気質は元々彼のものなので、そこはどうしたって変わりません。
ですが、今彼の隣にはひとりの女の子がいます。彼の手は想い出のミルフィーユをつくっています。彼は元々来る者拒まず去る者追わず。悪意の妨害さえなければ、彼のような奇人だってどこかで誰かとつながっていられるんです。
そしてそのつながりを彼が疎ましく思わない限り、今度こそ彼は悪意の魔の手から守られることでしょう。
あなたの「大好き」の思いはスイーツ(あるいはその他の表現媒体)を通じて、いつかたくさんの人に伝わるでしょう。
そのときあなたはみんなとつながっています。だって「大好き」の思いは一過性のものではありませんから。人と人との間を循環し、再生産され、あなたを含むみんなで共有する元気の源になるんですから。
ときに悪意の闇がそのつながりを分断しようと企むこともあるかもしれませんが、なあに、心配することはありません。「大好き」の輪のなかの誰かがきっと守ってくれるでしょう。みんなバラバラの個性の持ち主ですから、あなたにできないことも誰かはきっとできるはずです。
「大好き」が個性をつなぎ、個性が悪意から「大好き」を守ります。
私たちはみんな「大好き」が循環する輪の中に生きています。
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