
どうぞ。どちらまで?

「どちらまで?」
気になったポイント
お母さんよりお父さんのほうが好き
視聴者側から見て、より非が大きいように思われるのはおそらく父親のほうだろう。だが、幼いころの小戸川はその父親に懐いた。父親こそが小戸川少年に現実的な救いをくれたからだ。被害者ヅラしたカワイソウな母親は小戸川少年に何もしてくれなかった。
父親に愛情があったかどうか、母親に愛情があったかどうかはこの際関係ない。大切なのは小戸川少年から見た主観。心に秘めた愛など自慰行為と何も変わらない。乾いていく我が子をオカズに一人でヨガるとは悪趣味な。愛はコミュニケーションだ。その意味で、小戸川少年にとって親の役割を果たしていたのは母親ではなく、父親だった。多少歪んではいても。
動物に、自動車。父親がくれたgiftは誰からも疎まれていた小戸川少年にとって唯一の居場所となり、やがて指針にもなって小戸川の半生を支えつづけた。ちょうど田中にとってのドードーのように。憧れは、正しく機能しさえすれば将来の夢へと、自分らしい生きかたへと繋がっていく。
和田垣にかけられた呪い
和田垣の母親は愛情深い人だった。その愛情は間違いなく和田垣に届いていた。ただ、無様な人だった。憧れたりえなかった。人生の指針ではなく、凡百の失敗事例のひとつでしかなかった。和田垣は、だから、夢だけを抱えて叶える手段を知らない少女に育ってしまった。
高次脳機能障害による視覚失認
高次脳機能障害とは、脳卒中や交通事故などによって物理的に脳の一部が損傷したことにより起きる様々な障害のこと。余談になるが、この手の“障害”という用語は、より具体的には「通常の日常生活や社会生活に支障をきたす状態」のことを指す。身体障害者は義手や車イス無しで通常の日常生活を営むことが困難だし、知的障害者は一般的な学校教育だけで通常の社会生活に必要な知識を習得することが困難。その意味では小戸川のケースが“障害”かというと多少議論の余地はあるが、まあ、医者の問診に「人間が動物の姿に見えるようになった」と話していたなら障害者認定されるのも当然ではある。
視覚失認とは、目の機能に問題はないはずなのにモノの形が認識できなくなる症状のこと。多くの場合、どんなモノでも似たり寄ったりのぼんやりした塊のように見える、もしくはいくつかのパーツの集合体として認識されるため全体像が把握できないらしい。症例では自分の視覚に頼らず手触りや音でモノを判別して生活しているケースが多い。小戸川の場合はむしろ人を見分けることが得意になっているため、異例中の異例を越えていっそファンタジー。
大門兄弟には就職前までしか資金援助していなかった黒田が、小戸川にだけ一生分の生活支援を行っていたのは、彼が障害者認定されていたことによるものかもしれない。まさか自力で就職口を見つけて生計を立てられるようになるとは思ってもいなかったんだろう。
カーチェイス大行進
きわめて無粋な話、ホンモノの警察車両が何台も駆けつけてきた時点で小戸川は車を駐めてよかった。さすがのヤノたちも警察の目の前で暴力を振るえるはずもなし。もちろん、当人にそんなことを考える余裕なんてなかっただろうが。
人間
小戸川は人間が恐かったのではない。恐い人たちが人間だったから、動物に憧れていただけ。周りで恐くない人間たちが支えてくれるのなら、もう人間を恐く感じることなんてなくなるだろう。
大山鳴動して猫一匹
「それと、小戸川。言いにくいんだけど確認しておかないといけない。お前の家には何がいるんだ?」
フタを開けてみればそれほどひねくれた設定ではありませんでした。
散々引っぱっていた小戸川の部屋の住人はただのノラネコ。
人間が動物の姿に見えていたのは小戸川の脳機能障害によるもの。
黒田は特に下心などもない慈善家。
幸せのボールペンはゴシップ好きが好奇心で世に出したもの。
ドブの樺沢への要求は何かの伏線ではなく上乗せでふっかけただけ。
三矢ユキ殺害の犯人は順当に和田垣。
その他諸々、多少不審に感じる描写があったとしても、それは元々「偶然」で説明がつく程度の話でした。
細かい部分にこだわりすぎず素直に考察すれば普通に全容を解き明かせる、良い物語構造でした。
私の展開予想はいつもどおり盛大にハズレました。残りの尺を無視して複雑に考えすぎるせいですね。だからといって改める気がないから毎回同じことを繰り返すんですが。描写された事実を押さえつつ、自分なりの想像力で受け取った物語に肉付けしていかなきゃ感想文なんて書けませんし。
というわけで、フタを開けてみればそれほどひねくれた設定ではありませんでした。
来るだろうと予想していた展開が来たり来なかったり、来ないだろうと思っていたものが意外と来たり順当に来なかったり、たまに全く予想もしていなかった急展開がいきなり殴りつけてきたり。まるでジェットコースターかおばけ屋敷のような先の読めなさを、私たち視聴者はすこぶる楽しみました。
最後の最後で押し入れからノラネコ→和田垣が小戸川に接触するという二段オチが用意されていたあたり、このあたりのつくりは狙って設計されたものだと思われます。細かいツッコミどころがあったところも含めて。
たくさんの登場人物が悩み、苦しみ、それぞれに行動しました。
それぞれの結末は別にどこか1点に収束するでもなく、ほんの一瞬みんなで奇妙な光景を眺めたくらいで、これからも別々の人生を続けていきます。
何かひとつの事件が大勢の運命を揺るがしたわけでもなく、隠されていたとてつもない真実が世界のありかたを大きく変えてしまうこともなく。
結局劇中で起こったことといえば、殺人事件に、拳銃乱射事件、監禁暴行、銀行強盗。そのくらい。その程度のことで現代社会は今さら揺らぎません。
奇妙といえば奇妙、オッドといえばオッドですが、それはそれとして社会は回るし、そういうのと無関係に笑う人も、泣く人もいる。結局ここに描かれたのはありふれた日常でした。
タクシーの車内は演劇において、登場人物の個人的な心情を自然に語らせやすい、優れた舞台装置のひとつです。
パブリック空間のような不特定多数の視線があるわけでなく、自宅の居間のように一切他人がいないわけでもない。ほどほどに社会との繋がりがあって、ほどほどに社会から断絶している、ちょうどいい“セミパブリック”空間です。
『オッドタクシー』は、まさにタクシーの車内のような物語でした。
たくさんの人々が、ときどき誰かの影響を受けたり、ときどき誰かと無関係に生きていたりする。
その不思議な距離感が、ドラマを描く。世界を揺るがす大事件なんて無くたって。
同床異夢
「うおおおお!? こ、これはバズる!」
札束を粉雪のように散らしながら、満月を背にタクシーが跳びます。
非現実的な光景。
誰もがあっけにとられて見つめます。
なかにはそれが小戸川のタクシーだと知っていた者もいましたが、大多数にとっては些末なこと。この光景にはそんなことはどうでもいいと思わせるだけの迫力がありました。
いいえ。そもそも現実に存在している光景以上の奇妙な存在感がありました。
めいめい自分の心にあるものを好き勝手にタクシーに重ねて見ていました。
小戸川自身は人生が一変した無理心中の記憶を。
ヤノたちは目の前を無慈悲に舞う一億円を。
樺沢は懲りない諦めきれないバズりチャンスを。
田中は幼少期のヒーローとともに失われたスマホを。
柿花は人生を賭けて叶わぬ夢を追いかけた儚い婚約指輪を。
和田垣は母親から愛されていたことの具象たる唐揚げを。
市川はお金持ちになりたいと思った初期衝動のお風呂を。
二階堂は後悔と自責と喪失感とがたっぷり詰まった亡骸を。
芝垣は今まさに我が手を離れようとしている相方のツッコミを。
そして、白川はただあるがままに小戸川という人間を。
彼らのほとんどが見ていたのは小戸川ではありませんでした。
きっと“何か”ですらありませんでした。小戸川じゃなくても、誰だって、何だってよかったことでしょう。
そこにあったのは、ただ、目を惹きつけられて、心を引き込まれる光景でしたから。
眼前に広がる、奇妙で、偉大な光景を鏡映しにして、人々は自分の心のなかにある、最も貴重で、最も原初の思いを見つめていました。
間もなくタクシーは海に落ちて沈みます。
心にしまっていたそれぞれの大切な宝物とともに。
それは、今ここにある現実とは到底思えない、奇妙な光景でした。
結局のところ、『オッドタクシー』とはそういう物語でした。
たくさんの人々が、ときどき誰かの影響を受けたり、ときどき誰かと無関係に生きていたりしました。
多くの人が同じ光景を見つめているようで、それぞれの瞳に違うものが映っていました。
小戸川の人生の一大事は、他の多くの人々にとって必ずしも小戸川であった必要などなく、しかし、誰もの心を揺さぶる結果となりました。
唯一、そこに小戸川その人を見ていた白川が救出に向かいますが、それはまた別のお話。
同じ光景を見届けた人々は再び歩みはじめます。それぞれの道を、それぞれの足で。
きれいさっぱり吹っ切れた者がいました。
新しい何かに取り組みはじめた者もいました。
もう一度同じことに挑む者もいました。
いつもと変わらない日常を営む者もいました。
それまでの全てを捨て去る者もいました。
なかには、たまたまうまくいったことに味を占めて、悪徳を繰り返そうとする者までいました。
そりゃあそうです。だって、あのとき誰もが目を奪われた奇妙な光景は、誰にとっても異なる意味として心に響いたんですから。
なにせタクシーですから。
目的地は、人それぞれ。
小戸川も新しく出発することになりました。
周りにいるのは人間ばかりだけれど、子どものころと違って、彼らは小戸川を笑ったりなんかしません。
子どものころと違って、今の小戸川は周りにいるのがそういう人間ばかりじゃないことを知っています。
酷い人も、恐ろしい人も、もちろんいるけれど。
そういう人ばかりじゃないし、そういう人にだって別の一面もありました。
今はもう、人間だからという理由で恐れる必要はありません。
「どちらまで?」
その人が恐ろしいのは、その人が人間だからではありませんでした。
コメント
アニメだけでなく、こちらの考察も毎週楽しみにしていました。観ていても考えが至らなかった部分をこちらで補完することで、ストーリーの解像度が増し、倍楽しむことが出来ました。
ありがとうございました。
割と的外れな予想が多かったですが、考察してみることそのものの楽しさを感じていただけたなら幸いです。
おっしゃるとおり、自分なりに深掘りして考えることで物語への理解というか愛着というかが一層濃くなるのがいいんですよね。