プリキュアはなぜ変身するのか? 結論2:変身への憧れは私たちに何をもたらすか。

なんでもできる! なんでもなれる! 輝く未来を抱きしめて!!

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※ このブログは基本的にネタバレに配慮しません。

大人 ~怪物を倒す力と夢を叶える力~

 つくづく私はこういうひねくれた話運びが好きなんだなあと我ながらあきれているところではありますが・・・。
 もう一度だけひっくり返します。

 前回、プリキュアに変身するという行為には、できないことをできるようにする意義があると書きました。
 ですが、実際のプリキュアって案外そんなことはありません。負けそうになることだってしばしばですし、傷ついたり、悩んだり、へこたれたり、あるいは変身できなくなってしまうことすらもあります。
 変身して強くなったからって、決して何でもできるようになるわけではありません。

 プリキュアよりもよっぽど何でもできる人たちがいます。底知れない無敵の心の強さを秘め隠す人たちがいます。
 古くは雪城さなえ。最新作だと異様にガタイのいい野乃森太郎とか無限の懐の深さを持つ野乃すみれとか。
 つまりは大人です。
 プリキュアシリーズにおいて、大人ほど強い存在はいません。
 プリキュアシリーズの主役はあくまで子どもたちなので、大人たちに怪物をやっつける力が与えられることは滅多にありませんが・・・。(いや、けっこう多いか?)
 日常のドラマにおいて、彼らはまず過ちを犯しません。いつも子どもたちのことを考えて、いつも子どもたちが幸せに暮らせるよう守ってくれます。子どもたちには絶対に乗り越えられない困難をあっさり乗り越え、子どもたちには絶対に気づけない視点を優しく教えてくれます。

 たとえば私にとって特に印象深い人をひとり挙げるなら・・・『ハピネスチャージプリキュア!』の愛乃めぐみの母親・愛乃かおりでしょうか。

 「どうだい、身体の調子は」
 「そうね。良くもなってないけど、悪くもなってない」
 「――大丈夫だよ! お母さんの病気は私が必ず治してあげるから!」
 「ありがとう。でもね、お母さんは大丈夫よ」
 「え・・・?」
(『ハピネスチャージプリキュア!』第36話)

 彼女は難病に冒されていました。元来人助けしたがりな気質のめぐみは、プリキュア活動のご褒美として与えられる願いごとの権利を、そんな母親の病気を治すために使おうと考えていました。
 けれど、彼女は必要ないと言うのです。たしかに病気を治すことは難しいけれど、薬を飲んで上手につきあっていくこともできるからと。
 めぐみが思っていたよりも重い病気ではなかったという意味でもあります。けれどこのエピソードはそれ以上に、彼女が娘の助けを必要としていない、本当の意味で強い人物であることを描いていました。我が身の不幸をことさらに嘆かず、むしろそれを飲み下したうえで身の回りの幸せを積極的に探していく。
 彼女はプリキュアの力に頼ることなく自分の願いを叶えていました。

 「それで・・・お母さんは大丈夫なの?」
 「ありがとう。お母さんは幸せよ。ステキな旦那様がいて、かわいい娘がいる。お母さんのことを思ってくれる、めぐみのその気持ちだけで充分よ」
(『ハピネスチャージプリキュア!』第36話)

 この出来事をきっかけに、めぐみの価値観は大きく変わっていくことになります。

 多くのプリキュアたちは夢や憧れを胸に抱いて変身します。そして、変身することで実際に大きなことを為せる力を授かります。たとえば大人たちにすらできない、強大な怪物をやっつけるなんてことを。
 けれど、それでもプリキュアは大人たちに敵いません。プリキュアの力は意外と夢や憧れを叶える役には立ちません。それっぽい衣装を着たり、限定的にそれっぽい能力を体験できたり、邪魔する悪者をやっつけたりできるだけです。夢を叶える力を持っているのはむしろ大人たちです。日常のなかでは大人たちの方がずっといろんなことができますし、尊敬できるような深い考えも持っています。ときにはプリキュアの独壇場であるはずのバトルですら、身を挺して子どもたちを庇ってくれることもあります。

 案外、子どもたちはプリキュアに変身しても無力な子どものままだったりします。

プリキュアが正体をバラすとき ~日常と非日常~

 さて、それを踏まえたうえで。

 プリキュアが大々的に自ら正体を明かしたエピソードが3つあります。

 ひとつは『フレッシュプリキュア!』が最終決戦に臨もうとしたとき。
 大切な友達をさらわれ、同時に敵の世界侵略が本格化し、桃園ラブたちプリキュアはいよいよ敵の本拠地に乗り込まなければならなくなりました。危険なのはわかりきっています。無事に帰ってこられるかわかりません。だから、彼女たちは家族や街のみんなにその決意を知ってもらいたいと考えました。

 「ごめんなさい。でも行かなくちゃ。世界の危機が迫ってるんだよ!」
 「必ず戻ってくるから心配しないで」
 「それじゃ、行ってきます」
 「――ダメよ! 行っちゃダメ!」
 「行かないで、美希!」
 「そんな危険なことさせられないわ!」
 「諦めるまでこの手を放さないから!」
(『フレッシュプリキュア!』第45話)

 当然、大人たちからは反対されました。
 ラブたちもこうなることは薄々わかっていたはずです。けれど、黙って行くことはできませんでした。
 彼女たちは家族や街のみんなのおかげで幸せな日々を享受してきました。プリキュアとして街の平和を守っていると同時に、自分たちの幸せも周りの人々に守られていることを自覚していました。守ってくれるみんなを愛していました。黙って姿を消したらそんなみんなを心配させてしまいます。不幸な気持ちにさせてしまいます。それだけはできませんでした。

 「うーん・・・。どうだろう。ここはひとつ、子どもたちの意思を尊重してみては」
 「子どもたちの、意志?」
 「そうです。見守ってやることも親の役目じゃないかって思ったんですよ」
 「それはわかりますけど。でもこれは」
 「――そうね。もし今引き留めてしまえば、あの子たちきっと後悔する。後悔だけはさせたくないわね」
(『フレッシュプリキュア!』第45話)

 この状況を解決したのはプリキュアではなく、大人たちでした。
 子どもたちの幸せを願うからこそ、子どもたちが危険な目に遭うことを受け入れなければならない。そういう矛盾した判断を下すのは大人たちでなければできないことでした。子どもたちでは自由意志を優先することまではできても、それに対する責任を負いきれなかったからです。だからこそラブたちはプリキュアであることを明かして、大人たちの理解を得る必要があったんです。
 このエピソードにおいてプリキュアは大人たちの庇護下にある子どもとして描かれ、ここに描かれた問題を解決するためにプリキュアの大いなる力はまったくの無力でした。むしろ足枷ですらありました。

 このエピソードを観るとプリキュアが正体を隠したがる理由がよくわかります。
 プリキュアは自分たちの日常を守るヒーローです。そしてその目的は“日常にはありえない”怪物との戦いによって達成されます。日常を守るためにあえて非日常に身を置く――そもそもが矛盾した存在なんです。
 だから、彼女たちは普段の“日常”と変身中の“非日常”を完全に切り離さなければなりません。
 正体を隠すことが自分たちの日常を守ることにつながるんです。

 さて、次に紹介するエピソードは『ドキドキ!プリキュア』の最終決戦中の出来事です。
 ラブたちが重い決意のうえで打ち明けていたのとは打って変わって、こちらでの正体バレは非常にバカバカしい流れによって行われます。

 「私を誰だと思ってるの? 大貝第一中学生徒会長、相田マナよ!!」(『ドキドキ!プリキュア』第48話)

 自己申告です。
 しかも、ここであえて正体を明かす必然性は一切ありませんでした。これは自分と仲間を鼓舞するために言い放った言葉です。それが街中の人々が見守る中継放送に拾われてしまっただけです。持ち前の声の大きさと細かいことを気にしない生来の気質が招いた、単なる放送事故でした。

 「がんばれマナ! 俺がついてるぞ!」
 「俺も応援するっス!」「僕も!」「私も!」「会長! がんばってー!」
 「・・・これはもはや四葉財閥の力をもってしても隠し通すことは不可能」
 「隠す必要などない。プリキュアはこの世界を守るために必死に戦っているのだ。応援しよう、みんなで。――がんばれ! プリキュア!!」
(『ドキドキ!プリキュア』第48話)

 ただし、それが招いた結果も『フレッシュプリキュア!』のときとは正反対。正体が知られたことはプリキュアたちにとってかえってポジティブな効果を招きます。
 マナたちの行動原理は普段も変身中も一貫していて、常に周りのみんなを助けるために努力しつづけてきました。そのため、驚かれさえすれど、同時にあっさり納得してももらえたわけです。生徒会長としての相田マナとプリキュアとしてのキュアハートの人物像がぴったり重なって、むしろ2倍応援してもらえる結果につながりました。

 そう。『ドキドキ!プリキュア』においては“日常”と“非日常”を切り離す必然性がまったく無かったんです。
 そもそも彼女たちは変身する資格を得ることに何の夢も何の願いも求めなかった希有なプリキュアです。単に怪物のいる場で普段自分がやっていたことをやろうとして力不足を痛感したため、プリキュアの超常的な力だけを求めて変身したのでした。活躍できる場を非日常にまで拡張しただけであって、本質的には普段の日常と大きく変わらなかったのが彼女たちです。
 だから何の気負いもなくポロッと正体を明かしてしまいます。彼女たちにとって“日常”と“非日常”の境界など有って無いようなものでしたから。
 ちなみに、正体が知られたあとの彼女たちは人々の求めに応じて堂々とプリキュア活動を続けていくことになります。以後の彼女たちにとってプリキュアは完全に日常と化したわけです。
 プリキュアに“変身”することを特別なことと認識しない場合に限っては、その正体を明かすことは自分たちの日常を脅かすリスクになりえないということですね。

 最後のエピソードは『Go!プリンセスプリキュア』。こちらもやはり最終決戦時の出来事です。
 最後の敵が現れました。しかし周りにはたくさんの人たちがいます。変身したら正体がバレてしまいます。敵の魔の手が着々と迫っています。逡巡します。そして、春野はるかたちプリキュアはその場で変身することに決めます。

 「七瀬――。もしかしてお前、知ってたのか?」
 「本当に?」「いったいどういうことなんだい?」「お願い。何が起きているのか教えてちょうだい」
 「・・・はるかちゃんたちは、ずっと私たちの夢を守ってくれていたの」
(『Go!プリンセスプリキュア』第48話)

 このエピソードにおいてプリキュアが正体を明らかにしたのはやむにやまれぬ事情によるものです。
 彼女たちの場合も『フレッシュプリキュア!』のときと同様、“日常”と“非日常”は本来切り離されるべきものでした。本作のプリキュアは個人主義志向が強いキャラクターなので他人の判断に頼らず自分で決断しますが、プリキュア自身に係る違いはその程度のものです。はるかたちにとってもプリキュアの正体が知られたくないものであることは変わりません。
 このエピソードにおいて重要なのはプリキュアの動向ではなく、周りの人々です。

 「そうだよ。私、もうこんなところに閉じ込められている場合じゃない。自分の夢だもん。叶えたいなら戦わなきゃ。助けてもらってばかりじゃダメだ! 戦うんだ! 私も、はるかちゃんたちと一緒に!」
 「みんな! こんなところで絶望しちゃダメだよ! プリキュアが、はるかちゃんたちが守ってくれた夢を思いだして! 大丈夫。きっと絶望だって乗り越えられるよ。ここはノーブル学園。夢を叶えるための場所だもの!」
 「思いだしてよ、自分の夢! あるはずだよ。何度消されても忘れられない夢が! 一緒に戦おう。最後に夢を叶えるのは――自分だよ」
(『Go!プリンセスプリキュア』第48話)

 無力な普通の人々は敵に捕らえられ、敵の力の源である絶望を育てる苗床にされてしまいました。しかし、彼女たちは自分の力で虜囚の境遇から抜け出します。そしてさらに、彼女たちの夢が今度はプリキュアをグランプリンセスという新たなステージへと押し上げることになります。

 プリキュアは自分たちの日常を守るヒーローです。その目的はプリキュア自身が怪物と戦うという“非日常”に身を置くことよって達成されます。
 ところが、その構図がこのエピソードでは逆転します。日常の存在である普通の人々が、日常の存在のままで、非日常の怪物の力をはねのけるんです。どうしてそういうことができるのかといえば、それはプリキュアが夢を守り、その大切さを教え、みんなを希望へ導いてくれたから、というかたちで説明されます。
 『ドキドキ!プリキュア』ともまた違い、“日常”と“非日常”を切り離したうえで、それらが相互に影響を及ぼしあう関係を描いているわけです。

改めて、“変身”とは何か? ~空想を変えることと現実を変えること~
 想定よりもめっちゃ長くなったので一旦まとめましょう。

 そもそも変身ヒーローとしてのプリキュアは、子どもたちに憧れてもらえる強い存在として描かれます。
 どうして強ければ憧れてもらえるのかといえば、強くなればできないことができるようになるからです。
 だからプリキュアは無力な子どもの姿から→怪物と戦う強いヒーローの姿へと“変身”します。

 ところが、プリキュアになってもまだできないことがあります。
 プリキュアの力は怪物を倒すことができます。→つまり“非日常”に影響を及ぼす力ということになります。
 しかし自分の夢を直接的に叶える力はありません。→それを持っているのはプリキュアではなく、“日常”のなかで大きな力を振るうことができる大人たちです。

 この“日常”と“非日常”の関係について、3つの描かれかたがなされました。
 『フレッシュプリキュア!』において両者は不可侵でした。みんなの幸せを守りたいと願うプリキュアは、プリキュアという“非日常”の力ではそれを達成できず、代わりに“日常”側である大人たちがそれを叶えてくれました。
 『ドキドキ!プリキュア』において両者は同一存在でした。“日常”“非日常”双方でみんなを助けるために奔走していたプリキュアは何の気負いもなく自らの正体を明かし、ひとりの人間として“日常”と“非日常”を統合しました。
 『Go!プリンセスプリキュア』において両者は互いに干渉可能な概念でした。プリキュアという“非日常”の力が“日常”に生きる人々の夢を守り、それに感化された“日常”側の力が今度は“非日常”たるプリキュアの助けにもなりました。

 さて。以上を踏まえたうえで、いいかげんそろそろプリキュアが正体を隠したがる理由を考えてみましょう。

 なぜならそれは“憧れ”だからです。

 きっと子どもたちはプリキュアの強さに憧れることでしょう。
 けれど、憧れただけじゃ強くなれないんですよ。現実として。子どもたちは。絶対に。
 友達と手をつないだだけでは力は湧きあがりませんし、ロッドを振るっただけでは光線は出てくれません。
 まして、現実に体験する様々な無力感に対して、プリキュアごっこは何の力にもなってくれません。

 この子どもたちの現実をプリキュアというキャラクターの境遇に置き換えてみればこうなります。
 夢を叶えたくてプリキュアになったのに、怪物を倒す力を得ただけで、夢を叶える役にはちっとも役に立たない。

 だからプリキュアは正体を隠すんです。
 自分がプリキュアだと明かしたところで、日常には何の影響も及ぼせないから。ひょっとすると何か不利益すらもたらしかねないから。
 無力な自分は変身してからも相変わらず無力なままだから。そんなの恥ずかしいから。

 ただし、それは最初だけの話です。
 『ドキドキ!プリキュア』のように日常と非日常を一致させたり、『Go!プリンセスプリキュア』のように日常と非日常で互いに影響しあう関係をつくりだすことができれば、プリキュアとして得た力を日常にも及ぼせるようになります。
 プリキュアという物語のエピローグはだいたい2パターンに分けられます。ひとつはこれからも当然のようにプリキュアとしてがんばっていくパターン。もうひとつはプリキュアに変身する資格を返上してひとりの女の子として生きていくパターン。そのどちらにしても、プリキュアになった少女たちは物語開始時点より大きく成長して、自分が本当に叶えたかった願いを叶えて終わります。
 プリキュアは最後にはちゃんと日常のなかでも強くなるんです。

 この物語を今度は子どもたちの身に置き換えてみましょう。
 プリキュアに憧れる子どもたちは、強くなりたいという夢を抱きます。あるいはまあ、もっとかわいくなりたいとか、他の夢を叶えたいとか、ひとりひとり違う願望をプリキュアに重ねるかもしれませんが――いずれにせよ、“プリキュアになれたら今の自分を変えられるかもしれない”という夢を抱くことになるでしょう。
 そんなのただの夢です。空想です。強くなれるかもと思っただけで現実に強くなれるわけではありません。
 ですが、それは夢です。がんばってみようと思うためのきっかけです。本当に強くなろうと努力をはじめるきっかけになるかもしれません。夢を叶えるために何をするべきか本格的に調べるきっかけにもなるかもしれません。
 プリキュアに憧れた子どもは、きっと憧れていなかったときよりもずっと、プリキュアみたいなステキなお姉さんになれる可能性を大きく高めていくことでしょう。

 憧れは現実において無力です。憧れで現実は変えられません。
 けれど、それでも現実を変えることができるのは憧れだけなんです。

 “変身”とは憧れです。
 ヒーローとは憧れです。
 プリキュアとは憧れです。
 強くなりたい。かわいくなりたい。何でもできるようになりたい。
 そんな、今の自分の現実にはおよそありえない“非日常”的な空想をするための依り代が、プリキュアという偶像です。

 だから、プリキュアはどんなにテキトーな理由づけをしてでも、絶対に正体を隠したがります。
 強く“変身”できたように見えて、私たちは本当はちっとも変われていないから。

 そのうえでプリキュアは変身しつづけます。
 この“変身”が、いつか本当の意味で私たちを変えてくれることを信じているから。

 プリキュアは諦めません。プリキュアは負けません。
 空想(=非日常)にも、現実(=日常)にも。
 子どもたちに憧れてもらえるヒーローでありつづけるために。

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