とりとらハロウィン~仮面朗読会~ 『洞窟姫』について、キャストの演技を含めた感想。

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無理だと思ってた。キャリルに会えるなんて思わなかった。だけど会えた。だから、今は無理じゃないかもしれないって思うんだ。

このブログはあなたがこの作品を視聴済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

 バーチャルYouTuberプロダクションどっとライブの単独公演『とりとらハロウィン~仮面朗読会~』では3篇の短編作品が朗読され、さらに2曲の歌唱が初披露されました。アーカイブの視聴期限は11月13日までです。

 この記事ではそこで演じられたうちの1篇、『洞窟姫』について、5人のキャラクターを軸に語ります。
 本当はナレーションとしてもこ田めめめも参加しているのですが、私がナレーションの演技について上手に語れるだけの知識を持っていないので感想文の対象から外してあります。

基本情報

『洞窟姫』

脚本:進藤きい(シナリオ作家集団トキワ)

エマ(長女・15歳):神楽すず
キャリル(次女・15歳):ヤマトイオリ
アンナ(三女・15歳):カルロ・ピノ
ビー(洞窟の魔女):花京院ちえり
ナレーション:もこ田めめめ

 作者の進藤きい氏はプロットの仕事を多くこなしている脚本家だそうです。
 この作品も特に構成の美しさが秀逸でしたね。どこを着地点に設定して、そこに降りるためには過程で何を描くべきか。自分が描きたいものは何で、そのためにはどういった登場人物をどう配置するべきか。そういった各要素が全て論理的に組み立てられていたように思います。
 私みたいに自分では大したものが書けない人間にとってはすごく勉強になるというか、理詰め理詰めで書いてあるのもあって、普通にお手本にしたいタイプの作家さんですね。

あらすじ(いちおうネタバレ抜き)

 とある国の王族にはひとつの予言が言い伝えられていた。王統に三つ子の姉妹が生まれたなら、そのうちの末妹が姉2人の心臓を食らって超常的な力を得、真の女王として永遠に君臨するのだという。
 三つ子を宿したとある母親は予言の成就を拒み、2人を生んだのち洞窟に身を隠し、そこで3人目を生み落とした。上の姉妹も間もなく捨てられ、三姉妹は自らの素性もお互いの存在も知らないまま、悲惨な環境下でただ生きるためだけに生きていた。
 長女・エマは間もなく迎える16歳の誕生日に身請けされることが決まった。残りわずかしかない自由な時間、彼女は不意にその存在を知ることとなった、自分の姉妹を探すために使うのだった。

エマ

 娼婦。ヒーロー病。

 エマはこの物語を牽引していく主人公です。実のところ彼女以外のふたりはそこまで自分の姉妹に執着心が無いようで、おそらくはエマがエマでなければこの物語は生まれなかったでしょう。
 とはいえそのエマも、自分の姉妹に会って何がしたかったというわけでもありませんでした。いけ好かない年寄りに身請けされるまで残り2日。三姉妹のうち唯一明確なタイムリミットを突きつけられていたため、何でもいいから最後に自分の意志で何かを成し遂げたいという焦燥感があったのでしょう。

 そういう分析をするなら、まあ、案外自分勝手なキャラクター像だと思います。大した目的もないのにそこまでノリ気じゃなかったキャリルを説き伏せて、魔女に追われるリスク承知でアンナを洞窟から連れ出しました。その企てが全てうまくいったところで現実的に得られたものはエマ個人の自己満足だけだったでしょう。姉妹への愛情は深いかもしれませんが、思いやりには欠けていたといえます。
 テキストだけで評価するなら。

 なのに実際の舞台ではそういう不快味が感じられなかったのは、ひとえにエマを演じた神楽すずの人間性というか、脚本解釈によるものでしょう。
 この台本、やろうと思えばもっとドロドロした雰囲気で演じることができたはずです。エマの、主にキャリルに対する人物評にはちょくちょく辛辣なところがありました。スレた価値観が多く散見されました。もし、そういう部分に嫌味を含ませて演じたなら、この主人公がけっして清廉なだけではない生々しさを持つ人物として表現できたことでしょう。

 ラストの魔女の独白にあったように、本来この脚本は人の世が醜いものであることを前提に書かれています。
 そして登場人物は三姉妹と魔女のみ。魔女は人間ではないものとして扱われているので、人間の醜さを表現できる余地は三姉妹の言動にしかありません。むしろ主役である三姉妹ですらどこか穢れてしまっていることが浮き彫りになるからこそ、人の世で生きることから解き放たれたエピローグでは、真に幸せそうな3人の姿が描き出されるわけで。

 けれど神楽すずはそうしませんでした。自分の演じるエマがそういう汚い人物だとは考えていませんでした。エマの悪辣な心性が滲むくだりに観客の目を引くような重力を込めることなく、あくまで姉妹愛が感じられる部分にだけ深く深く情感を込めていました。魔女から逃げる途中で姉妹を抱きしめるシーンなんて、本当に心の底から幸せそうで、清らかで、満たされていて。
 人を殺す瞬間ですらそうでした。神楽すずが演じるエマは、けっして相手を憎むのではなく、身勝手な正義を行おうというのでもなく、ただただ、突然気が触れた愛しい人を止めるためにやむをえず斧を振り下ろしました。
 自らが命を落とそうという瞬間も。そこに諦めや嘆きはひとかけらもなく、むしろ愛する姉妹の血肉となれることを喜びながら、自分の手で運命を変えてみせることができた達成感を噛みしめながら死んできました。
 この舞台でのエマはひたすらに姉妹愛を大切にする、誰より心優しく自己犠牲すら厭わない、気高い長女として演じられていました。

 演技なんてのは必ずしも全てのセリフにたっぷり感情を込めて、リアリズムを追求すればいいというものではありません。物語を通じて自分は何を表現したいのか、どういう人物として見られるべきなのか、それを考えるのが演技です。正解も不正解もありません。
 あくまで神楽すずにとってのエマはそういう(ある種ヒーローめいた)好人物だったというだけです。

 そして実際、神楽すずの演技プランは、この台本のテーマをまっすぐストレートに伝えるために、最も適切な選択であったと思います。
 これは無力な只人が、無力なりに意志の力でもって己が運命を覆す物語。この手合いの物語の中心には、清く正しいヒーローがいてくれたほうが収まりがいいでしょう。

キャリル

 物乞い。空想世界の住人。

 キャリルの人となりにはおおよそ現実感がありません。当たり屋まがいのことをしておいて、相手を恐喝するわけでもなく、強い罪悪感を植えつけようとするでもなく、ただ同情を誘って小銭をせびるだけ。一歩間違えば足を折りかねないリスクを取っている割に、少しでもリターンを大きくしようという強かさが感じられません。自分の境遇を正しく理解しているようには到底思えません。
 5年前まではお爺さんと暮らしていたということなので、もしかしたら生活力皆無なまま突然浮世に放り出されたとか、そういう身の上なのかもしれませんね。実際、日雇いや性風俗、犯罪などに手を染めようにもまずやりかたを学ぶ機会がなくて、物乞いするしかなかった孤児というのはそれなりに多かったと聞きます。

 一事が万事その調子で、主人公のエマから見ても言動に一貫性が感じられないのがキャリルという少女でした。
 とはいえ、私たちと同じ世界に生きていないだけであって、案外彼女のなかでは一貫した行動原理があったんじゃないかと思える部分も端々に。
 たとえば彼女、妹のアンナに対面したとき唯一興味を抱いたのが母親のことだったんですよね。斧を握ったときも、洞窟育ちとか魔女に見張られているとかの不幸な身の上ガン無視で、母親に育てられたことへの嫉妬を露わにしていましたし。あれ、たぶん自分がお爺さんと暮らしているあいだそれなりに幸せだったからこそなんでしょうね・・・。売られ売られてあちこち渡り歩いたエマと違って、なまじ誰かに愛される幸せ(、そして愛されない辛さ)を知っているから、アンナに嫉妬するんです。現実の彼女がそこまで満たされている様子には見えないことには目をそらして。
 感受性が高く、その割に共感性は薄い。そのチグハグさがキャリルに目の前の現実を生きていない印象を与えます。

 ヤマトイオリのキャリルはなおさら、いよいよ浮世離れしていましたね。
 その暮らしの辛さを微塵も感じさせないのはもちろん、平気で虫を食べる異常性を“貧しいから”ではなく単純に“この子がおかしいから”だと納得させてしまう奇矯なキャラクター。過酷な現実に明らかに適応障害を起こしているにも関わらず、ぱっと見は妙に情緒が安定している。明日死んでいても不思議じゃない身の上なのに、この世の誰よりも幸せそう。一貫して朗らかな彼女の口調には、まるでほんの5分前にそういう存在として生まれたばかりのような、そういう異質さを感じます。
 物乞いである彼女に小銭を恵むことがあるとしたら、それはきっと彼女が哀れだからではなく、愛らしいからでしょう。
 彼女が川辺で眠るのは、そこにしか居場所がないからではなく、そこがオモチャ箱だからなのでしょう。

 ここまで狂気性が突き抜けていると、妹のアンナを殺そうとした理由が意外な角度から浮かび上がってくるから面白いですね。
 ヤマトイオリが演じたキャリルはきっと、妹が自分より幸福だったから殺すことにしたんだと思いますよ。 自分には得られることのなかった母の愛。それを妹だけが持っている。持てる者と持たざる者、ふたり並べたら片方はどれほどみじめなものか。だから、殺す。存在しなかったことにする。そうすれば、これまでどおり、彼女はまた世界で一番幸福な存在に戻れるはず。
 この舞台でキャリルがアンナに抱いた感情は、嫉妬ですらなかったように私には感じられました。

 ましてや、予言なんてものを真に受けて妹に恐怖したわけではないはずです。
 そんなものに命の危機を感じるほどこの子の生命は現実世界に根を下ろしていません。むしろ存在価値の危機さえ感じなければ、エマ同様、何のリスクも怖れることなく心から姉妹の絆を大切にしていたことでしょう。ヤマトイオリのキャリルは、おぞましいほどの不幸を受け流して真性に善良でしたから。

 もし他の誰かがキャリルを演じていたとしたら、絶対ここまで薄ら寒い印象は持たなかったと思います。
 今回の舞台に立っていたのは、紛れもなくヤマトイオリだけのキャリル。

アンナ

 忌み子。からっぽの器。

 アンナは何も知らない少女です。予言のことも、自分の体質のことも、上に姉が2人いることも知りませんでした。母親がどうして自分を虐待したのか、魔女がどうして自分を育ててくれるのか、その理由を知らないどころか疑問に感じることすらありませんでした。
 ただあるがままを受け入れ、ここに無いものは求めない。あまり多くのものを求めてみたところで魔女はけっしてそれを叶えてくれませんでしたから。

 自分に会いに来てくれた2人の姉に、お祭りを見てみたいというワガママを伝えていました。ここに彼女の人間性が表れています。
 彼女は無垢なんです。はじめて出会う相手であっても警戒するということをしません。ずっと魔女に守られていて、見ず知らずの他人は警戒すべきという教訓を得る機会がなかったのでしょう。たとえるならまるで深い山の奥でのびのび暮らす川魚のように。
 同時に、子どもらしい好奇心や強欲さは魔女のもとではけっして満たされることがありませんでしたから、その解消先を求めて“初対面の少女2人”に対して“親代わりにすら叶えてもらえないワガママ”を平気で口にするわけです。甘えているんですね。初対面からいきなり。彼女の薄い人生経験において触れあったことがある人物はいずれも、彼女にとって親でしたから。
 アンナにとって、誰かにワガママを聞いてもらえるかどうかは、自分がその相手から充分に愛されているかではなく、その相手にワガママを叶えられる能力があるかによってのみ判断されます。

 これまで魔女に育ててもらった恩を感じることなく、あっさり姉妹に付いていったのも同じ理由からでしょう。アンナには他人を警戒するという感覚が身についていなかったので、“その場では多少いい思いをさせてもらえたとしても後々の身の安全を考えるなら身内の傍にいたほうが賢明”という、普通の子どもにならできるはずの当たり前の判断ができなかったんですね。人間との接触を徹底排除してきた魔女の教育方針が裏目に出ました。
 このアンナという少女は、別に血のつながりがあるから姉妹愛に目覚めたわけではありません。単に誰にでも人懐こい性質だったのであって、たまたま彼女を初めて洞窟から連れ出そうとしたのが偶然肉親だったにすぎません。

 カルロ・ピノのアンナはそのあたり、対人関係の距離感を徹底していましたね。
 劇中で彼女が最も感情を露わにするのは、第一に魔女に対する恐怖。次いで自分自身が感じる興味や感動。それらに比べると2人の姉に向ける感情は限りなく稀薄で、この序列が上下することは一度たりともありませんでした。
 いつものカルロ・ピノだといったらそれはそう。けっして人間を侮っているクソガキなのではなく、アンナの場合は自分が何もしなくても無条件に周りから愛されるものだと思い込んでいただけですけどね。
 ちょうど神楽すずのエマや花京院ちえり演じるビーが無制限に彼女を愛してくれる人物だったので、その甘えっぷりがまたよく噛み合ってもいました。唯一ヤマトイオリのキャリルだけそうとも限らない人物だったというのも、ストーリー展開からするとまた良い。
 愚かな甘えんぼうだから描ける悲劇がそこに存在しました。キャリルが狂ったのもエマが斧を振るったのも、それから魔女が母親を殺したことまでも、全部自分に関係しているんだってこと絶対わかっていませんでしたからね。全ての出来事が、彼女視点ではことごとく理不尽でした。
 いや、脚本時点でだいぶ理不尽ではあるんですが、カルロ・ピノ演じるアンナの姉妹への関心の薄さがその悲劇性をさらに際立たせているというか。キャリルの狂気もエマの献身も完全にひとり相撲よね、あれ。

ビー

 人殺しの魔女。人間の奴隷。

 ビーは明らかに人間を嫌悪している一方、自らの寿命を削ってしまう魔法を人間のために行使しているという、二律背反を伴ったキャラクターです。細かい背景設定は明らかにされていませんが、呪いか何かで人間に尽くすことを強制されたとかそういうところでしょう。

 彼女のキャラクター性を考えるうえで最も重要なのは、「この人物はアンナをどの程度愛しているのか?」、そこに尽きると思います。
 そもそもいったいなぜ彼女はアンナを養子にしているのか。人間のために尽くすことが彼女の使命だから? 将来“女王”になることを見抜いていて人間への復讐に利用するつもりだったから? それとも純粋な親心、もしくは慈悲?
 いずれの解釈でもこの物語は成立し、しかもそれぞれの場合によって物語全体の印象も大きく変化することでしょう。たとえば終盤で彼女が身を挺した儀式を行った理由も、これが使命に縛られた機械的な判断であれば三姉妹が救済されたのは予言に定められた運命とは別の必然だった(=すなわち運命を脱したのは間違いなく三姉妹の行動による結果)というニュアンスが強調されますし、魔女に秘密の目的があったなら明らかにそれを逸脱した行い(=アンナを死なせたとき魔女も大きく心変わりした)ということになり、元々深い愛情を抱いていたなら(エマの主人やキャリルのお爺さんも併せ)この三姉妹も意外と周囲の愛情に守られていた(=魔女の言い分と裏腹に案外この世も捨てたものじゃない)という話になってきます。

 私は役者という仕事のことを、自分の受け持つ配役を徹底的に解釈し、その人間性や役割を演出家以上に深く掘り下げ、舞台を構成する最良のパーツとして演じあげる、きわめてクリエイティブなものだと考えています。
 その意味でこのビーというキャラクターは、役者としてとてもやりがいがある、この舞台において特に重要な役だと思いました。

 今回、花京院ちえりは自分の役柄を愛情深い母親として演じたようですね。魔女らしい恐ろしい話しかたを多用する一方、娘のアンナに対しては明らかにその身を心配するような、あるいは哀れむような質感が込められていました。
 後日の感想配信で「情緒不安定で苦労した」と語っていましたが、それもごもっとも。ビーのセリフは他のキャラクターと比べても解釈の自由度が高いものでしたし、魔女としての役目と本心が正反対という複雑な立ち位置もありました。どれが建前でどれが本音か、特別に重要な思いが込められているのはどのセリフか、丁寧に分析してやらなければなかなか演じにくい人物だったと思います。
 芝居の世界は「公式(※ この場合は脚本家)が勝手に言っているだけ」が割と普通にまかり通る世界なので、こんな感じで情緒不安定だと思ったなら、その感情の流れが主観として理解可能になるまで役者の独自解釈や勝手な裏設定をもりもり付け足していくのが正解です。(※ ただし他の役者や演出家のプランと衝突しないかぎりは / そもそも芝居論は人によって様々な意見があります)

 話がだいぶ脇に逸れましたが、結論からいえば花京院ちえりのビーの演技プランは今回の舞台によく噛み合っていたと思います。
 今回、三姉妹が3人とも善良でしたからね。神楽すずのエマは言うに及ばず、ヤマトイオリのキャリルもスイッチさえ入らなければむしろ極度のお人好しでしたし、カルロ・ピノのアンナも余計な事情さえ考えなければ人懐こく甘え上手な末っ子でした。もし人の世の悪意に揉まれていなければ、何の後ろ暗いところもない良い子に育っていたことが容易に想像できる子たちばかりでした。
 そこで3人が死んだあとのエピローグに大きな意味が生まれてきます。三姉妹が本質的に良い子であるのなら、人の世のしがらみから解放された彼女たちは完璧に幸福であらねばなりません。そしてそういうハッピーエンドをもたらす存在もまた、できることなら彼女たち同様に善良な人物であるべきでしょう。
 この役どころが何か含みを持つ人物だったら絶対スッキリしませんからね。観客からしたらなんか利用されてる感じというか、ごまかされてるというか、続編早よ!って気分になりますし。

 ビーは良い魔女でした。人間に憎しみを抱いていましたが、養女のアンナにはその感情をぶつけることなく、厳しくも愛情深く育てあげました。子に言いつけを破られてもその親心は失われることなく、最後まで彼女の幸せを第一に考えていました。
 少なくとも、花京院ちえりが演じたビーはそういう人物でした。

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