あなたがいない世界は、私には怖くてたまらない。

やっぱ映画を1回観ただけで感想文書いちゃダメだね!
他はどうか知らないけど私はそう。絶対拾い漏らしがある。というか、1回目観たときより2回目以降のほうが確実に愛が重くなってるから自分で書いた文章に自分で納得いかなくなる。もっと余計なところまでズブズブ語りたいのよ。
というわけで、一度世に出したものをそうそう簡単に引っ込めるわけにはいかないけどそれはそれとしてしれっと書き直ししちゃいましょう。せっかくだから前回とちょっと違う切り口から。
共感できない主人公
この映画を観てまず最初に違和感を覚えるのが冒頭、鈴芽の登校シーン。
遠くに見える美しい海原を眺めつつ、主人公の鈴芽がひとりウキウキと坂道を自転車で駆け下りていきます。
・・・・いやいやいや。
フツー、毎日見ている通学路の景色なんぞでそこまで気持ちよくならないでしょ。
映像美としてはホントステキなシーンなんですが、ここでいきなり鈴芽のキャラクターがわからなくなります。立ち位置的にはどこにでもいる普通の女子高校生っぽい感じなのに、のっけのこのシーンでもう共感不能。私、16年間学校に通って自分の通学路にここまで感動した記憶ないわ。
ここ、小説版では鈴芽が何を考えていたのかはっきり説明されています。
朝日に輝く古い港町を背景に、手前の坂道にはペダルを漕ぐ制服姿。そんな写真を思い浮かべる。潮風になびく高めのポニーテイルと、ピンク色の自転車と、青を背景にした少女の華奢な(たぶん)シルエット。まいったなこりゃ、だいぶいいね! がついちゃうな。
『小説 すずめの戸締まり』
ひたってやがった! こいつ、朝から妄想にひたってやがった!
鈴芽はそういう子です。こう見えて案外夢見がちな子。
この映画において一番の変人は誰かと問われれば、私は断然この鈴芽を推します。
普通の高校生が言語化できない直感だけでいきなり学校をサボれるか!
足首くらい水深あるところにローファー履いたまま入るわけあるか!
あげくズブ濡れなの履いたままで登校するやつがいるか!
宗教的な意味合いがありそうな彫り物を持ち上げる気になるか!
初対面の男性を自室に通す女子がいるか! 手当てするにしても玄関かせめてリビングでやるわ!
なんぼなんでも勢いだけで県外行きの夜行フェリーに乗るわけないだろ!
私は少し斜に構えたところがあるので、最初は怒濤の超展開に内心ツッコミを入れまくっていました。なんだこの映画。脚本家はアホなのか?(※ たいへん失礼)
けれどそれにも次第に疲れ、というか圧巻の映像美と冒険ロマン、走る椅子や仔猫のかわいさなどに惹かれてフツーに物語世界に入り込み、1人と1脚と1匹の旅を楽しみ、気がつけば「細かいこと考えなきゃこれはこれで真っ当に主人公やってるな・・・」とか絆されるようになっていき。1時間も経つころには草太を踏んづける鈴芽かわいいなあ、と。なるよね?
併せてストーリー進行の都度都度、彼女が自分の命を軽く見ているところとか、閉じ師の仕事に強い憧れを抱いているところとかが段階的に見えてきます。バックグラウンドらしきものが透けてくると主人公が多少(いやかなり)変人でも納得しやすくなるものですね。
ただし、変人と見なしているぶん感情移入はしにくくなるもの。東京に到着したあたりで主人公たる鈴芽と視点を共有することが難しくなり、感覚としては第三者視点で物語を追いかけている気分になっていくんですよね。
そしてちょうど、そのあたりで物語が大きな転換点を迎えることになるわけです。
救われてほしい
東京の上空で鈴芽は大きな選択を迫られることになります。
観客である私が彼女と一緒に悩むことはありません。
もはや鈴芽は主人公であったとしても、感情移入先ではありません。 彼女の悩む姿、苦しむ姿を見て私が感じるのは「辛い」ではなく「かわいそう」です。ちょうど映画館のスクリーン1枚隔てる程度の距離感で彼女を見守っている感覚というか。
「生きるか死ぬかなんてただの運なんだって、私、小さいころからずっと思ってきました」
そういう、このタイミングです。
ボロボロに傷ついて。自分の選択に後悔して。自分の愚かさを嘆いて。悲壮な決意を固めて。そんな鈴芽が話す、これまで彼女が何度も口にしていたはずの言葉。
ここで改めて彼女の自暴自棄な思いを突きつけられて、「ああ、これはなんとかしてやらなきゃいけないやつだ」と、今さら気づかされるんです。
ここで私にとっての鈴芽はいよいよ主人公ではなく、ヒロインへと変質します。
自分とは明らかに違う存在。
絶対に視点を共有できない相手。
けれど愛おしい、どうしても幸せになってほしい人。
以後、観客として自分の視点を預けられる登場人物は現れません。三人称視点映画。
となると、(もともと映画というものは観客が介入できないものですが)私がどんなに鈴芽のことを助けてあげたいと思っていても、何ひとつしてあげられることがないんです。私の代わりに言葉をかけてあげられる人すらいない。それがすごくもどかしい。
映画のなかでは環おばさんがすっかり塞ぎこんでいる鈴芽に手を焼いています。がんばれ。負けるな。お願いだから。
祈るように人間模様を見守りながら、ふと、私はここからどうなれば鈴芽が救われるのか、思いを馳せるんです。
生きるべき理由
死ぬことなんて恐くない、と彼女は言います。
だからどれだけ止められても食い下がり、死ぬかもしれないリスク承知で閉じ師の仕事を手伝おうとします。
自分ひとりの命なんかより、たくさんの人を救える仕事のほうがよほど尊い。なんだったら自分以外の誰かたったひとりの命ですら、自分の命より重いかもしれない。
正直、その点は同感です。
私も自分の命にはそれほど大きな価値を感じていません。何か特別なトラウマがあるわけではなく、あえていうならただの厨二病。もちろん積極的に死にたいとは思いませんが、なにがなんでも生きたいかというと別にそうでもない、いつか劇的に死ねる機会があればさらっと自分の身を差し出せるかもなあ、みたいな妄想しがちなほんとソレなアレ。
鈴芽もそのくらいの感覚であるように私には見えます。被災経験を経てつくられた価値観なのは間違いありませんが、別にトラウマというほど深く傷ついているわけではなく、物語開始時点ですでに母親の死やら諸々しっかり乗り越えています。将来の夢も物語を通して変わったりしていませんでしたしね。
ただただ、なんとなく自分の命が軽いだけ。精神ダメージという点なら被災経験より草太が要石になったことのほうがはるかに大きいものでした。
自分の命を軽んじる感覚には共感できるはずなんです。
なのに、私は鈴芽が自分を犠牲にして草太を助けようとすることには不思議と強い忌避感を抱くんです。
この子には死んでほしくない、と。
それはいったいどうしてなんだろうなあ、とずっと考えていたんですけど、こうして気持ちを文章として出力しているうち、ようやくその答えがわかりました。
単純な話。
きわめて単純な話、私が鈴芽を他人と見なしていたからなんですね。
私は自分の命より他人の命のほうが重いと感じている。だから、私にとって鈴芽の命は重い。
それだけのことです。
厨二病極まる、いい歳してすっごいしょうもない話ではあるんですけど、それが答えです。
私が鈴芽に生きてほしい理由は。
そして、私と同じく自分の命を軽んじている鈴芽が、それでも生きるべき理由は。
あの子、たくさんの人の愛されているんですよね。
環おばさんに。ダイジンに。亡くなった母親に。今回の旅で出会った多くの人たちに。あるいは観客である私に。それからもちろん、草太に。
だから生きるべきなんです。単純な話。
きっとみんな、大なり小なり鈴芽や私と似たような思いを抱いているからこそ。
自分の命よりも他人の命のほうが重い気がする感覚はきっと誰しもなんとなく持っていて、だからこそ、自分の命が重くなるんです。
鈴芽が自分より大切だと思っている誰かにとって、鈴芽はもっと大切な存在だから。
だから、生きてほしい。
奇しくも私が鈴芽を主人公と見なせなかったからこそ、こういう私にも鈴芽がどんなにかけがえのない存在なのかがわかったわけですね。恥ずかしながら。
この物語において鈴芽を救うことができるのはきわめて単純な方法。
彼女に、自分がいかに愛されているのかを思い知らせてやればいい。
自分を犠牲に草太を救おうとしていた鈴芽は、彼の自分を恋しく思ってくれる気持ちに触れて、「生きたい」と思い直すことになります。
改めて、良き因果。良き運命の出会いの物語でした。
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