
そっか。私――お母さんのいる向こう側に行ってみたくて、だから・・・!

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(主観的)あらすじ
CMオーディションに受かってからというもの、さあやはすっかりお茶の間の人気者です。夢への大きな一歩を踏みだした彼女をはなは羨みますが、実はさあや自身は少し迷っていました。娘がテレビに映るようになったことで、大女優であるお母さんに迷惑をかけてはいないだろうかと、不安に思うのです。
じゃあ本人に聞けばいいじゃん! ということで、今日はみんなでドラマの撮影所を訪問することにしました。そこには大女優の顔がありました。さあやのお母さんはテレビで見せるようなキリッとした顔ばかりしているわけではないけれど、でもそれは人一倍の努力家だからで、役を自分に降ろすために必要なことだからで、さあやは改めて女優・薬師寺れいらのすごさを実感するのでした。
さあやは勇気を出してお母さんに聞いてみます。自分はお母さんの迷惑になっていないか。けれどお母さんは逆に問いかけるのです。さあや自身はどうなのか。女優になるだけがあなたの道ではないんじゃないか、と。それを聞いて、さあやはますます自分がお母さんに迷惑をかけているのではないかという疑念を深めます。
ところで、撮影所のスタッフたちはみんなさあやのことをよく知っているようでした。さあやがまだ赤ん坊だったころ、お母さんがよくここに連れてきていたからです。お母さんは娘を育てながら女優を続けるために、撮影所のスタッフたちの助けを借りて、みんなで一緒に子育てをしていたのでした。
さあやは自分がどうして女優になろうとしたのかを思いだします。さあやは、そういうカッコいいお母さんに憧れたのでした。さあやの夢は自分ひとりだけで育んだものではなかったのでした。
だからさあやはお母さんに宣言します。いつかお母さんと共演したい。それが今の私の夢。・・・どうかな? 最後にお母さんの意見を求めると、お母さんは優しく笑って、その夢を応援してくれるのでした。
画面は地味ながら何気にムダなカットがなく、ドラマの濃さが際立つさあや当番回。タナカリオン演出は最近省エネ作劇のノウハウをモノにすべく試行錯誤を繰り返しているようですね。得意としている動画量でメリハリをつける手法をあえて控え、カットごとに色味を大きく変えることによって静と動を表現していたのが印象的でした。撮影効果をガシガシ使って変化をつけていくのも、撮影班の役割がアナログ時代から大きく変化したデジタル世代ならではですね。
さて。さあやです。そして芸能回です。どうしてこう、プリキュアに登場する芸能関係の人たちはみんなスタンスが明確でシビアなのか。(冷たいって意味じゃなくてね) たぶん製作スタッフが近くで仕事していてよく見知っている世界だからだとは思うのですが。それにしても迷うさあやに対して誰も直接の答えをくれないこの厳しさよ。
大女優
演技に対する哲学はいくつもあるでしょうが、たとえばひとつ、俳優とは役を自分の身に降ろす行為だという考えかたがあります。
ある種の降霊術ですね。といっても、芝居の役なんてフィクションの存在なので現実に霊がいるわけではないのですが。
最初から存在しない存在だからこそ、俳優はまず降ろすべき役を自分でつくりこみます。台本を徹底的に読み込んで、劇中に描かれる人となりを把握するのみならず、その人物が過去・現在・未来に至るまで、何を考えて何をしてきたのか、何のために生まれて何のために死ぬのか、ひとりの人間の人生を想像力で創りあげるんです。
そうして自分のなかにつくったもうひとりの人間にしばし自分の身体を預け、芝居とします。
俳優とは単に与えられた台詞を読み、指示された仕草を真似る操り人形ではありません。芝居において本来脚本家が担当するのは物語と登場人物の大まかな輪郭だけ。本来監督(演出家)がやるべきことは全体の調律だけ。それぞれの役を一個の人間として創造するのは、本来それぞれの俳優の仕事です。
古来シャーマニズムとして生まれた経緯からその本質は現代においても何も変わっておらず、きわめて創造的できわめて神秘的な行為を要求されます。私にゃ無理だ。
その役をつくるのは自分で、その役に身体を預けるのも自分です。
それはつまり、自分の人生観から想像が及ばない人物はまともに演じられないということです。さらにはその人物らしい身体操作ができる肉体を持っていなければ、それもやはりまともな芝居とは呼べないということになります。
自分がその役になりきって演技するわけではないのです。その役を自分のなかに降ろして、その人物にその人物らしい演技をさせるんです。だから、俳優は役を降ろすにふさわしい器もつくらなければなりません。知識面でも、身体面でも。それが“演技”という技術の基礎です。
少なくともカメラの前でなら、なんでもできる、なんでもなれる。
俳優というのはそうあるべき存在です。
「包丁は引いて切る。猫の手、猫の手――」
「あれ、何してるんですか?」
「包丁の練習だよ。れいらさん、昔から料理はちょっと苦手でね。役づくりのために休憩中はいつもああやって練習しているんだよ」
だから、カメラの前だけでもなんでもできるようにならなければ。
「ははは。いきなりネギをかじるとはすごいアドリブだな、れいら」
「料子なら素材は生で味見すると思って・・・」
だから、カメラの前だけでもなんでもなれるようにならなければ。
さあやのお母さんが就いている仕事はそういうもので、さあやが踏みだしつつある夢とはそういうものです。
だから問います。
「“あなた”はどうなの? たとえ実力でつかんだ仕事でも、『薬師寺れいらの娘だから』『親の七光りだから』そう言う人は必ずいるわ。この先もずっとね」
質問に質問で返すなとはよくいわれることですが、では、彼女があえて質問で返したさあやの疑問とはいったいどういうものだったでしょうか。
その疑問は、芝居という行為をするにあたってどんな意味を持つものだったでしょうか。
知恵で優しくする少女
「みんなを癒やす! 知恵のプリキュア! キュアアンジュ!」
薬師寺さあやは知恵のプリキュアです。
優しさのプリキュアではありません。けれど、彼女はどちらかというと知恵より優しさがクローズアップされているように思えます。なにせ口上からして知恵のくせに「みんなを癒やす」ですからね。
けれど、彼女の優しさはたしかに知恵でできています。
「色々考えすぎちゃうのかな。この人は私に何を求めているんだろう。何が正解なんだろうって」
「私は母のようになりたいのか、それとも・・・。だんだんいろんなことがわからなくなっていって、女優になりたいかどうか、自分の気持ちもわからなくなっちゃった」(第7話)
すごく周りに気を使う子なんですよね。
周りの人たちが自分に何を求めているのかを一生懸命理解しようとしてくれるんです。ただ周りに優しくしたいなら自分が正しいと信じることをすればいいだけなのに、彼女はそういうことはあまりしません。ひとりひとりが本当に期待していることを考えて、それに合わせたかたちでひとつひとつ柔軟に応えようとします。
頭のいい子にしかできないことです。
「かわいい!」
「写真撮っていいですか?」
「で、では、順番に――」
けれど、そんな優しいさあやの周りには本当にたくさんの人たちがいるんです。千差万別の期待が賢いさあやには全部見えてしまうんです。もし、その全てに答えようとするのなら・・・それができる人とは、いったいどんな人物なのでしょうか?
「お母さん、どう思うかなって。――もし困らせてたらイヤだなって」
まして自分の外側にまで気を配ろうとするのなら。自分の手の及ばないところにまで優しさを届かせようとするのなら。
仮にそこまでできる人が本当にいるとして、それっていったいどういう人物なのでしょうか。
会ったことありますか? そんな人。
「野乃さんは自由な発想があって、なりたい自分の未来があって、私よりずっとすごいよ。私には何もないから」
「それくらいしかできないの。野乃さんみたいな勇気がない」(第2話)
さあやの本当に“なりたい自分”というのは、つまるところそういう人物です。いくらなんでもありえない人物像です。
だから頭のいいさあやをもってしても“なりたい自分”をうまくイメージすることができず、女優という具体的な夢を持っていながら、それを目指すことで本当に“なりたい自分”になれるのか自信を持てずにいました。
「私だけ何も決まってない・・・。登山家。パティシエ。バスガイド。やりたいことはいっぱいあるけど・・・私まだまだただの野乃はな!」
はなが“なりたい自分”だけ定まっていて、そこに至る道を選べずにいるのとは対照的。
さあやは“なりたい自分”がイメージできないのに、とりあえず目の前に1つ道が見えている状態です。
「でも、私まだ女優になるって決めたわけじゃないよ」
お母さん、ひどい人ですね。
「けっして女優だけがあなたの道じゃないわ」
こんな状態のさあやから、唯一はっきりしている道すらも取りあげてしまうだなんて。
でも実際そうなんです。さあやは何か目的があって女優になろうとしているわけではないんです。女優であるお母さんにはそれがわかってしまいます。
だって、さあやが尋ねた疑問って、本当に芝居をしたいのなら絶対にありえないことだったんですから。
ありえない理想、ありえない輝き
「あの、お母さん。CM見た? 迷惑とかかかってない? ・・・その、お母さんの仕事の邪魔になってたり、してないかなって」
さあやがしたいことは芝居ではありません。みんなの期待に応えることです。
だからお母さんはその疑問の本質に対して、まっすぐ返答を返しました。
「“あなた”はどうなの? たとえ実力でつかんだ仕事でも、『薬師寺れいらの娘だから』『親の七光りだから』そう言う人は必ずいるわ。この先もずっとね」
そんなことは芝居をしたいという想いにはまったく関係ないはずだ。
「その覚悟はあるの? けっして女優だけがあなたの道じゃないわ」
女優になることはあなたの大切にしたい想いを損なうかもしれない。あなたは別の手段で“なりたい自分”を目指してもいい。
お母さんの言い方があまりに率直すぎて、さあやには女優を辞めろと言っているように聞こえてしまったようですけどね。
けれど彼女はさあやに女優を諦めるべきだとは一言も言っていません。
女優の仕事とさあやが大切にしている想いとは、その言い分では無関係だと指摘しているだけです。
もしさあやが女優になりたいのなら、その夢を“なりたい自分”に結びつけられる理由を見つけなければなりません。
というか、そもそも持っているはずです。夢見た以上は。人は意識下 / 無意識下かはともかく、動機なしで行動することはできません。あるんです。何かしらの理由が。だから、「“あなた”はどうなの?」と聞いているわけです。
さあやが女優を目指すことになった原体験は、お母さんへの憧れでした。
はなやほまれと同じように。だって、テレビのなかのお母さん、輝いていたんですもの。
普段はなかなか家にいてくれず、たまに遊んでくれると思ったら子どもより先に寝ちゃったり、積み木を崩しちゃったり――。そんな今ひとつカッコよくないお母さんでした。いつも一生懸命で、いっぱい大切にしてくれて、そういうところはもちろん大好きだったけれど、けっしてすごいお母さんではありませんでした。
けれど、テレビのなかのお母さんは普段と打って変わって、なんでもできていました。なんでもなれていました。
「だから私いつも、テレビに出ているお母さんを見ながら応援してたんだ。『すごい! がんばれ!』って」
だってあのお母さんですよ。なのにあのお母さんがですよ。そのギャップ、普段の彼女を知っていればこそきっと驚いたことでしょう。
だからだったんですね。さあやがみんなの期待に応えようとしすぎてしまうのって。ありえない理想を抱いてしまったのって。
だってさあやが憧れたのは大女優なんですもん。
役の数だけできることが無限に増えていく人だったんですもん。
テレビのなかにしか存在しえない虚構のスーパーヒーローに憧れたからこそ、さあやの“なりたい自分”は無限に大きくなっていきました。
「さあやのお母さんはカッコいいんだね」
ああ、そうだ。
「そっか。私――お母さんのいる向こう側に行ってみたくて、だから・・・!」
普段はカッコよくないお母さんをとびきりカッコよくしてくれた場所。
大好きなお母さんをもっと大好きにさせてくれた場所。
だから、現実にはありえない“なりたい自分”を目指すさあやは、どうしても女優になる必要がありました。
カメラは女優ひとりでまわらない
「私だけの光、それが私の強さ」(第7話)
現実のお母さんはなんでもできるわけではありませんし、なんでもなれるわけでもありません。大女優として輝いていられるのはカメラの前だけです。
その虚構を演じるために彼女は人一倍の努力をして、しかもそれでまだ足りませんでした。撮影所のスタッフに子育てを手伝ってもらう必要すらありました。
「あいつはすごくがんばったよ。女優の仕事も、お母さんも。もちろん修司も、そして俺たちも、みんなでがんばった。だからあいつは最大限輝けたし、君もこんなに大きくなった」
けれど、その努力を求められる環境が女優の世界にはありました。それに協力してくれる人たちが彼女の周りには集まっていました。
「そんなことが・・・。なんかすみません」
「だからいいんだってば。――俺たちは君たち親子を応援したいだけ。だってあいつは今でもがんばりつづけているからね」
さあやはそういう他人に迷惑をかけることを好まない子でしたね。逆にみんなの期待に応えたいと思っている子なので。
「・・・その、お母さんの仕事の邪魔になってたり、してないかなって」
今回、そこだけは考えかたを改める必要がありました。
なにせ私たちはひとりで生きているわけじゃありませんからね。特にさあやはみんなのために優しさを尽くしてまわる女の子です。だったらさあや自身だってみんなに頼っていい。
そもそも第2話ではながさあやを元気づけてくれたことから彼女の物語ははじまりました。元気な姿を見せてくれたダイガンに心を救われたこともありました。前話ではハリーもほまれに救われましたし、プリキュアの仲間には普段から助けあっているえみるとルールーみたいな関係もあります。そういうものです。
ちょっとくらい面倒なことがあったって、あなたのためなら受け止めてみせます。だって、みんなあなたのことが好きなんですから。
それは“邪魔”なんかじゃありません。“迷惑”でもありません。みんながあなたのために贈ってくれる“応援”です。
「あのね。私、本当に女優になりたいのかははっきりわからない。でも、ひとつ目標ができたの。いつかお母さんと共演したい。それが今の私の夢!」
お母さんが輝くためにがんばって、みんながお母さんを輝かせるために応援してくれて、そして本当にお母さんが輝く場所。それが今回さあやが訪れた女優の仕事の現場でした。
さあやもいつか同じ場所に立ちたいと思いました。だって、さあやの“なりたい自分”も、きっとこのくらいステキなところでなければ叶えられないものだと思うから。
テレビのなかのお母さんみたいに、なんでもできるようになりたい。なんでもなれるようになりたい。
「どうかな?」
改めて大女優に意見を求めます。
「私のいるこの高みまで登ってこられるかしら?」
大女優はまたしても質問を質問で返してきました。
けれど、今度のそれはさあやの女優になりたいという意思を認めたうえでの返答でした。
コメント
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そういえば前年度作品で「青きライオンを千尋の谷に突き落としたロックミュージシャン」のエピソードを書いた脚本家の方が今年度秋映画の脚本を担当なさるんだそうで。
ま、それはともかく、ミュージシャン岬アヤネにとって立神あおいはあくまでも"赤の他人"であったのに対して、薬師寺れいらはさあやが実の娘であるにもかかわらずあえて"先輩女優"というスタンスに徹しているんですよね。娘がCMキャラを務めている清涼飲料水を愛飲しているくせに、さあやに"母の顔"を見せることを意図的に避けている節がある。
もしかすると、このお母さん、女優業のために娘の面倒を自分自身では十分みてやれなかったことに相当な負い目を感じているのかもしれません。女優としての自分に絶大な自信を持っている(そうでなきゃ「私のいる高みにこられるかしら」などという高飛車な台詞は言えんわな)一方で、母親としての自分には自信が持てず、その結果、娘に対してあくまでも"先輩女優"として接しようとしてしまうのではないかと。
この「仕事のために娘の面倒をみてやれなかったことに負い目を感じている母親」という人物像は前年度作品の宇佐美さとみと共通するところではあります。が…薬師寺れいらが宇佐美さとみと決定的に異なる点は「十分かまってやれなかったことに関して決して娘に謝罪しない」というところなんですね。自分の生き方を自分で否定するようなマネ(謝罪する、というのは結局そういうこと)は絶対にしない。
この辺り、"多様性の尊重"をメインコンセプトの一つとして明確に打ち出している本作品らしさなんだと思います。作中において「番組が推奨する望ましい生き方」と「望ましくない生き方」が色分けされてしまうことを徹底的に回避し、「全ての生き方が尊重されることが多様性である」というメッセージを徹底して打ち出していくというスタッフの拘りなんだろうなと。
とにかく、本作品はあらゆる面でストイックかつスパルタンな制作姿勢が顕著で、そのことが作品のクオリティを大いに引き上げていることは紛れもない事実なんですが…、正直こういう姿勢をこのまま続けていたらいずれスタッフも視聴者も潰れてしまうんじゃないか、と不安になってしまうところもあるんですよね…。果たして来年度作品はどういう方針で臨むのか、大いに気になるところではありますね。
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今話に関してはまずさあやの問いかけ自体が“お母さん”へというより“女優・薬師寺れいら”へ向けられているので、女優のペルソナから回答するのは間違っていないんですけどね。自分の芸能活動が薬師寺れいらの“女優業の”妨げになっていないかという話なので。
宇佐美さん家のお母さんとの違いは自分の手のまわらなさの負担を子ども自身に負担させてしまったか、撮影所のスタッフに補ってもらえたかの違いが大きいかと思います。宇佐美さんトコも最初は娘の成長を素直に喜んでいたんですよね。途中から段々といちかの子どもらしからぬいびつさが見えてきて、そこで寂しい思いをさせてしまっていたことに気がつくんですが。
さあやのお母さんは母親としての自信はわかりませんが、少なくとも自分の子育てには自信があるんだと思うんです。夫や撮影所スタッフたちと協力して子育てしたさあやは立派に育って、自慢の娘として目の前に立っているわけですから。
まあ、現実にああいう恵まれた環境で子育てできる母親はそう多くないでしょうが(彼女自身、女優としての実力を認められていたからこそああいう環境に預かれていたわけで)、“母親としてはそこまで自信がなくとも子育ての自信ならある”って一風変わった母親像はあってもいいと思います。
来年? まあ・・・面白かったら素直にやったね!で、つまらなかったら私の楽しもうとする努力が足りなかったってだけの話ですよ。自分がつまらないと感じたことを他人(制作者含む)のせいにしたって非生産的なだけです。面白く思いたくない作品なら観なきゃいいだけですしね。(自分の逃げ道を塞いでいくスタイル)
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薬師寺親子の対話をよくよく見直してみると、れいらさんは"母親"としての自分と"女優"としての自分を明確に峻別した上で"女優"としてさあやに応対しているんですが、どうもさあやの方はごちゃ混ぜにしていてむしろ"母親"に答えを求めている雰囲気がありますね("女優"相手に「私の女優活動が営業妨害になってない?」なんて舐めた口きかんよなあ普通。そら女優・薬師寺れいらとしてはムカつきもするわ)。
さらに言うと、さあやが女優になりたかった根本の理由って「お母さんが傍に居てくれなくて淋しかった」ということだったのではないのか、と思えます。「お母さんが私の傍に居てくれないのなら、私がお母さんの傍に行けばいいんだ」という割と子供染みた動機だったのでは、と。
まあ、こういう"スタート時点の動機"って、やっていくうちに"プロとしてのあるべき意識"にスライドしていったりするものではありますし("プロ根性の塊"一条蘭世の果たす役割も大きなものになりそう)、……それと今回の話は結構謎かけっぽいところもあって、「お母さんと共演」って別に女優にならなくても出来るんですよね、"スタッフ"になればいい。むしろその方がさあやの適性に合っている感じもしますし。
この予想が当たっているかはともかく、プリキュア作品の最終回は「大人になった(元)プリキュア達の姿を描く」のが恒例となっていますが、今作はテーマの関係上これが単なる"後日談"ではなく"真のエンディング"となる筈なので、さあやの"選択"を大いに注目したいですね。
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子どもにとって親は“親”というロールありきの存在なんでしょうね。少なくとも私は高校くらいまで親を“親”としての側面から切り離したひとりの人間として見ることができませんでした。たしか。
誰だって“職業人”だったり“妻”だったり、あるいは“友人”だったり“子”だったりもするわけで、その時々、相手次第で様々なロールを演じ分けるわけですが、自分の子どもに対してはほとんど常に“親”の顔しか見せないのですから、子どもにとっては“親”でしかないのも当然のことではあります。
さあやの場合は家でのお母さんとテレビのなかのお母さんが別の顔をしていることに気付けた分だけむしろ早熟かもしれません。そこで演じ分けているお母さんを“親”のロールのまま素直にすごいと捉え、憧れていくところにさあやのユニークなところがあると考えます。