終末トレインどこへいく? 第10話感想 答えはいつも自分のすぐ傍にあって。

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お父さんなら大丈夫。バカだけど。

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「これこそ反抗と退廃の証」

大きな出来事

メインキャラクター:静留たち

目標

 池袋への道を切りひらく。

課題

 スワン仙人から世界終焉の危機を知らされ、善治郎から世界を元に戻せる可能性を教わり、ついでに2年ぶりに再会したお父さんから共闘を持ちかけられ、静留たちの旅はいよいよ核心へ。
 池袋行き最後の障害としてトキワマンたちが立ち塞がる。

解決

 静留たちの旅の目的はあくまで葉香と会うことにある。世界がどうとかは、あわよくばついでにどうにかなればいい程度の話だ。
 トキワマンたちはなんかテキトーに倒せた。

地域の特徴:椎名町◇

 東京都豊島区。スワン仙人の地図にはベレー帽が描かれている。
 文化施設の多い上野へのアクセスがよく、なおかつ家賃相場が比較的安いため、昔からマンガ家に限らず様々な分野の芸術家の卵がよく集まる土地柄だった。駅北側にある椎名町サンロード近辺には、そういうお金のない若者向けにアトリエ付き賃貸住宅が数多く並んでいる。芸術の都・パリにある同様の地区になぞらえ、池袋モンパルナスと呼ぶ者もいる。
 なお、肝心のトキワ荘があった場所自体は駅南側であり、椎名町サンロードからは若干距離がある。

 劇中では無人の街になっており、池袋への侵入者を阻むため4人のトキワマンが立ち塞がっていた。

設定考察

サブスク

 ネリアリランドで渾沌がUFOを呼んだとき「トキワマン! サブスク追加!」(第8話)と叫んでいた。
 あれ、ちゃんと回収するつもりの伏線だったのか・・・。

 トキワマンたちによると、どうやら高い料金を支払って池袋の魔女王から提供を受けた超常的な力のことをサブスクと呼んでいるらしい。トキワマンたちはこの力でネリアリランドの設定を改変し、アリス一行を粛清した。なお、サブスクは時と場所を選ばずいつでも解約できるようだ。
 また、渾沌が魔女王ではなくトキワマンにサブスクを発注していたあたり、サブスクは二次提供することも可能らしい。・・・どんなマルチ商法だよ!?

ピックアップ

絵コンテ:ワタナベシンイチ

 私のなかでは『へっぽこ実験アニメーション エクセル・サーガ』の監督の人。私が「アニメのオリジナル展開っていいな・・・!」と心底感銘を受けた作品のひとつ。(他に水島努監督の『ジャングルはいつもハレのちグゥ』とか、水島精二監督の『鋼の錬金術師』1期とか)
 原作の設定もストーリーも雰囲気もゴリゴリに改変するうえ、メタフィクションやパロディ、(ギャグとしての)本人出演も積極的に取り入れることから、原作に忠実にアニメ化してほしい人からは蛇蝎のごとく嫌われる。一方で逆に独特のカオスな味わいを好むファンも多い。
 近年はそこまで独自カラーを出さずに仕事していることが多いが、ときどき請われてこういうナベシンワールド全開のエピソードを手がけることもある。

華麗なる晶

 お前、むしろひとりだけ運動ができない設定だったはずだろ!(ナベシンにはよくあること)

「葉香髪の毛自分で切れるし! すごく上手だし!」

 椎名町で見かけた葉香の髪が地面につくほど長かった、とのお父さんの証言に対する静留の反論。
 3人のそういう問題じゃねえだろ・・・、みたいな視線が痛い。

トキワマン

 元ネタはかの有名な漫画家の聖地・トキワ荘だと思われる。スタッフロールでの表記が「トキワマンA」「トキワマンF」「トキワウーマン」となっていることから、それぞれ『笑ゥせぇるすまん』の藤子不二雄A『ドラえもん』の藤子・F・不二雄『ファイヤー!』の水野英子がモデルだろう。静留のお父さんに倒されたというT氏は回想シーンでの髪型からして、トキワ荘のリーダーだった寺田ヒロオか。
 なお、モデルの4人とビームを受けたときの画風に特に関係はない。

Hi-C

 国内では1970年代から販売されていたコカ・コーラ社の果汁入り清涼飲料水ブランド。90年代に誕生したQooブランドと入れ替わるようにして終売した。劇中に登場した切り離し式のプルタブ缶(現在のフタを開けたあとも切り離されないタイプはステイオンタブ缶という)が販売されていたのは1970年~1990年のこと。
 要するに「昭和後期の雰囲気ですよー」と演出するための1コマ。

 今話冒頭で無意味にカメラが揺れていたり色合いがくすんでいたりコウモリが4コマアニメしていたりしたのも、同じく昭和レトロ風演出の一環だと思われる。
 静留たちが漫画ビームを食らう前から妙に芝居がかった動きやセリフ回しを多用していたのもたぶんそれ。あれはナベシンの手癖ともまた違う。

 感想を書くのがめっちゃ遅くなっていますが、現在リアル生活のほうで引き継ぎも無しに蒸発した先輩社員×2の業務が丸ごと私1人にのしかかっている状況でして、そろそろ弱音ゲロゲロです。このブログとは全然関係ない話で申し訳ないのですが、ご容赦いただければ。

始まってもいなかった物語

 「物語は王道であるべき。人はベタでこそ感動する
 「それを編集者のやつらめ! 『古くさい』の一言で――」

 『練馬の国のアリス』のストーリーをバッドエンドに改竄してスプラッタフェスティバルやらせてた人たちの言うセリフかなそれ!?

 トキワマンたちは7G事件前、売れないマンガ家でした。
 4人中2人が貸本時代の子ども向けな画風で残り2人が劇画調とか、そもそもお前らの言う「王道」って誰目線の王道だよとツッコみたくなりますが、とにかくルサンチマンを拗らせたよくあるワナビたちでした。晩年の寺田ヒロオを思うと色々アレな構図・・・。

 王道というと聞こえはいいですが、要するに彼らは自らの信じる“正しい”手法に固執し、時代の変化とともに現れた新しい価値観に寄り添おうとしなかった人たちです。
 そりゃ芯を持つことは大事だけど、どうしてまだ何の成功体験も積んでいないワナビが自分たちに何の利益ももたらしていない旧い考えにこだわっちゃうかな。元ネタの巨匠たちみたいに一時代を築きあげた人がその思考パターンにハマるならわかるけども。

 7G事件のあと、幸運にも彼らは池袋の魔女王に謁見する機会に恵まれ、しかもサブスクを下賜されるという幸運を得ました。これにより彼らは並の人間とは一線を画す、特権的な地位を得ることになります。
 肝心のマンガで成功を収められたというわけじゃないっぽいですけどね。社会インフラが全滅しているこの世界でマンガがまともに流通するとも思えませんし、どうも椎名町に彼ら以外の住民はいなさそうですし。
 7Gが彼らに幸福をもたらしたかというとなかなか微妙なところ。世界の終末により彼らはマンガで成功を収める夢を半永久的に失いました。代わりに、サブスクを得られた幸運を新たな誇りに変えて、マンガのない世界を案外生き生きと生き抜いてきました。

 「ええい! マンガ家である俺たちにお前たちの貧相な想像力が敵うわけない!」

 彼らにとって、そんじょそこらの人にはふるうこともできないサブスクの力は自尊心そのものでした。サブスクの力=マンガ家としての実力と曲解してしまう程度には、彼らのプライドを強固に支えてくれていました。

 ところが。

 「どんなキャラにされるの!? どうせなら浮世絵・・・もいいけど、なんかアバンギャルドな? たとえば未来派?」

 「――フォービズム! キュビズム! ドイツ表現主義!!」

 7G後の世界に適応していた彼らに現実が襲いかかります。

 トキワマンたちが並の人間より優越できていたのは、あくまで彼らだけがサブスクの力を得ていたからにすぎません。
 なんとなくマンガ家としての想像力がサブスクをさらに強力にしているはずだと盲信していましたが、別に能力バトルもののごとく普段からサブスク持ち同士で対等に戦ってきたわけではなく、すなわち彼らのマンガ家としての実力が卓越しているだとか、そもそもサブスクと想像力の強さが何か関係あるのかとか確認できていたわけでもないのが実情でした。

 晶のなんだかよくわからないサブカル魂が彼らに牙を剥きます。
 実際のところ、本当に晶の想像力がマンガ家ワナビたちのそれを上回っていたのかはわかりません。つーか静留たちの明らかに世代じゃない画風ビームですら普通に通用しているあたり、想像力の強さはあんまり関係ないんじゃなかろうか。
 ただ、いずれにせよ彼らのプライドはズタボロに傷つけられました。実際には関係ないかもしれないサブスクの力とマンガ家としての実力をわざわざ結びつけて考えていたのは、他でもない彼ら自身だったから。
 マンガ家として成功を収めることのできなかった彼らにとって、サブスクの力で勝つことこそが唯一残された自尊心の寄る辺だったから。

 「それでもいけちゃうなんやかんや!」
 「ヅガ~~~~~ン!!」
 「表現は、無限!」
 「なっ・・・!?」

 うなだれます。

 目の前のちんちくりんなサブカル女に想像力勝負で負けたからではありません。
 もっと根本的な話。自分たちの価値観がいかに狭いところに収まっていたのか気付かされたから。

 「時代の変化によってあらゆるものが制限されようとも!」
 「新たなマンガの表現を生み出せる!」
 「見切りをつけていたのはむしろ私たち自身!」

 王道を貫くことこそがマンガ家として成功する必勝法だと信じていました。
 だから、王道を進んで成功できなかったのは社会の変化のせいだと他責していました。
 だけど実際には多様な価値観があるだけ。日々新たな表現技法が生み出されているだけ。
 王道なんてなかった。
 成功するために本当に必要だったのは、ひとつの考えかたに固執せず次々と新しいことに挑戦してみるチャレンジスピリット。

 今でこそ古いマンガの代名詞みたいに扱われる劇画ですが、世に出た当初はマンガの歴史を大きく塗り替えるエポックメイキングとして迎え入れられたものでした。
 それまでマンガというものはそもそも子どもの読み物。いい歳した大人が読むには恥ずかしい、幼稚で低俗な娯楽という扱いでした。
 対して劇画がターゲットに定めたのは大人世代。人の表情や体の動きを細やかに表現するために線を増やし、等身を引き上げ、陰鬱な雰囲気にもよく馴染む。大人好みの重厚なヒューマンドラマを描こうとする運動が、劇画と呼ばれる画期的な作風を生みだしたのです。

 ちなみに、従来の子ども向けマンガを描いていたベテランマンガ家たちのなかには劇画の一大ブームを真剣に危惧する者も少なからずいました。
 マンガは本来子どもたちのもの。世に大人向けの劇画ばかりがあふれてしまったら、子どもたちの楽しみを奪ってしまう。そう考え、出版社にかけあって劇画作品の連載を全て終了させようとした過激派まで存在していました。

 その後のマンガ業界がどうなったかは私たちもよく知るとおり。劇画ブームは終息しつつも今なお描かれ、かといって旧来の子ども向け作品ばかりに回帰することもなく、様々なターゲッティングの、多様な作風が、世に数多創出されつづけています。
 王道とは何ぞや。いったい誰目線の王道か。

 なんかいい感じに話を締めようとしているトキワマンたち。

 しかし忘れてはいけません。
 晶を相手に想像力の優劣を競おうとした彼らが、負けを悟るや否や論点を多様性云々にすり替えにかかったことを。
 そして、彼らのエピソードが実のところ『終末トレインどこへいく?』の本流たる静留の物語とは1ミリも関係しないのだということを。

 「なんか悟りやがったね」
 「なんでもいいから早く元に戻ってほしいですわ」

 ナベシンはこういうことする。

交わした言葉より確かに響く

 「俺も行く!」
 「来なくていい!」
 「こんな大事なこと娘らだけに任せられるか!」
 「私は葉香迎えに行くだけだし!」
 「世界が元に戻るかもしれねえんだぞ?」
 「そんなのどうだっていいよ! ・・・よくないけど、どうだっていい!」

 池袋に行けば7G前の世界に戻す方法が見つかるかもしれないそうです。

 それを聞いて、静留のお父さんは娘の旅路に同行することを申し出ました。
 これでも吾野流柔術を修めた身。クズリの姿になってしまったとはいえ、腕には多少の覚えがあります。実際、トキワマンを1人倒してもいます。少なくとも足手まといになることはないでしょう。
 なにより、こんな重要なこと、成人もしていない子どもたちに責任を負わせるわけにいきません。

 けれど静留は断固として拒否。
 戦力としてどうこうって話ではありません。いい歳した高校生が友達に会いに行くだけのことに親同伴って、なんだその羞恥プレイってなものです。
 そもそも静留は別に世界を元に戻したくて池袋に行くわけじゃないんですから。

 これは静留の旅です。
 世界がどうとか壮大な話も出てきましたが、基本はあくまでそれ。
 静留が葉香の気持ちを聞きに行くだけの旅。
 静留に葉香と仲直りしてほしい撫子たちの思いですら、本来の旅の目的からは若干ズレているくらいです。
 不器用な静留が2つ3つと旅の目的を増やしたところで、二兎追うものは一兎も得ずってなもの。それくらいなら葉香への思いひとつに純粋であったほうがいい。

 「大丈夫です、おじさん。静留ちゃんすごく強いから」

 「私も弓使えるし、晶ちゃんも頭切れるし、玲実ちゃんも――キレるし」

 「ホントのクズリだったときより力なさそうだしなによりおじさん、ケガしてません?」

 撫子がピントの合ったいい感じの建前を並べてくれました。

 お父さんの本音としては静留が心配だから一緒にいたいだけであって、それを正当化するために戦力になるアピールだとか、世界のための戦いだとかいう、それらしい建前を持ち出しているだけ。
 だから、静留たちに戦力は足りているし、お父さんもケガで万全の状態じゃないということで、自分が言いだした建前を崩されてしまうとお父さんはそれ以上なにも言えなくなってしまいます。

 お父さんも、それから静留も、お互い胸のうちの本音は全然別のところにあるわけだけど。

 「うっし。行ってこい、静留! 父の仇を討て!」

 テキトーにもほどがある雑な建前に包まれたお父さんの本音は、それでも確かに静留に伝わりました。

 「いやー。静留ちゃんのおじさん、前のまんまだったね」  
「相変わらずバカ」
 「私めっちゃ面白かった」

 「あ。東吾野の先、線路大丈夫かな? 通れなくなっちゃったとこ」
 「もう水引いてるよ。無理だったら何か考えるでしょ。お父さんなら大丈夫。バカだけど」
 「そうだね。・・・あ。『バカ』のとこじゃなくて」

 敵わないな、と思います。
 自分がどれだけ大切に思われているのかイヤというほど思い知らされました。

 「でもさあ、リアルに考えてどうなんだろうね。そういうの。だって、私ら普通の人間でしょ。そういうのってなんかもっと特別な人がやることじゃないのかなって。――ああ、葉香のこと別にバカにしてるんじゃないよ? でも、なんかものすごい遠いこと話されてる気がして」(第6話)

 あのとき葉香に伝えたかった本音、ホントは全然そういうのじゃなかった。
 葉香の夢を否定したかったわけじゃなかった。
 本当に伝えたかったのは、もっと単純で、子どもじみた気持ち。言っても仕方のないワガママ。だけどどうしてもわかってほしかった大切な思い。
 そんなのストレートに言っても恥ずかしいだけだから、ヘタクソな建前で飾りたてて、ごまかして。
 それでも葉香ならわかってくれると思ってた。

 だって、・・・葉香は優しいから。

 傷つけてしまいました。
 包み隠された本音に気づいてもらえず、むしろ建前のほうを本音と受け取られてしまいました。
 そんな建前を使うこと自体、本当は間違っていたのでしょう。失敗でした。
 葉香の優しさに甘えて、本来自分こそ優しくするべきところをないがしろにしてしまっていました。

 対して、お父さんの使った建前はどれも優しい言葉。
 なにがなんでも娘を守りたくて、だからどうでもいい話までいちいち振りかざして、そこにもまた娘の盾になろうという意志を滲ませていて。
 仮に建前だけ切り取ったとしてもなお、優しくて。うれしくて。

 優しい人のなりかたを誰か教えてほしかった。
 頼れる人のなりかたを誰か教えてほしかった。

 バカだからはっきりとは教えてくれなかったけど、お手本になる人は静留の一番身近なところに、昔からずっといてくれたのでした。

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