スタートゥインクルプリキュア 第12話感想 思いを現実にするために。

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「さようなら」なんて絶対イヤだよ!

(主観的)あらすじ

 まどかのお父さんにララたちのことがバレそうになって絶体絶命大ピンチ! ところがそこになぜか有名ハリウッド監督であるP・P・アブラハムが現れ、助け船を出してくれました。彼の正体はなんと宇宙人! 宇宙星空連合から派遣されてきた太陽系の監視員なのだそうです。
 まどかのお父さんにバレる危機は免れましたが、今度はアブラハムが宇宙法違反のララたちを強制送還しようとします。ひかるはそれを止めたくて彼にひとつ提案することにしました。映画に出演するから、うまくできたら考えなおしてほしい。

 ところがひかるたちの演技は自分で思っていた以上にへっぽこでした。もう失敗できない・・・。ひかるの胸に焦りの気持ちが生まれます。
 初めは台本に忠実に演技しようと思っていました。しかしララ扮する天女とのお別れのシーン、ララの気持ちのこもった演技に感極まったひかるは、本来「さようなら」と言うべきシーンで「さようならなんて言わない!」と言ってしまうのでした。
 けれどこの言葉こそがアブラハム監督の心を揺さぶります。ノットレイダーの襲撃もあって映画は台無しになってしまいましたが、彼はララたちが地球に滞在することを許してくれました。いつかもう一度、この映画の続きを撮影するために。

 ララは羽衣ララと名乗ることになり、これからもひかるたちといっしょに地球で暮らします。

 ツッコミどころだらけの息抜き回。よく考えると(よく考えなくても)アブラハム監督にはひかるたちを俳優として起用しなければならない理由なんてないはずですが、基本プリキュアに出てくる大人たちってみんな優しいですよね。娘の大失態をスルーするまどかのお父さんも。あの人やっぱり言いかたが厳しいだけだコレ。相変わらずの萌えキャラっぷりでなによりです。

 前話ではイマジネーションとは“進む力”なんだと、ちょっと捻った意味合いに定義していたわけですが、今話はもうちょっと素直な意味でのイマジネーションのありかたを描き出します。とはいえ一般的にはこれでもまだだいぶ捻りがきいている気もするのですが、まあさすがにこのあたりの感覚くらいは認知してもらえないとイマジネーション=進む力ってことになる意味が通じないと思うのでしゃーない。
 最近のプリキュアシリーズは『HUGっと!プリキュア』の若宮アンリだったり、『キラキラプリキュアアラモード』のキラ星シエルやマダム・ソレーヌだったり、『Go!プリンセスプリキュア』の天ノ川きららだったりと、芸事に対する価値観が容赦なく高度に描写される傾向にあります。

ゼロからはじめるお芝居入門

 芝居の基本は人生経験だとよくいわれます。業界の第一線で活躍するプロたちに「どうしたら俳優になれるの?」と聞くと、よほど光る才能を持っている人以外に対しては「まずは普通に高校と大学を卒業しろ。専門学校には期待するな」と返されるものです。発声・滑舌・身体能力など技能の習得にももちろんある程度時間はかかるものですが、彼らはそれら以上に途方もなく時間を必要とする、大切な素養があることを知っています。
 逆に、地域の市民演劇を観に行くと毎回ひとりかふたりくらい、異様に芝居が上手い人を見つけることができます。たいてい中高年の、普通にそこらの住宅地でブラブラしていそうな地味なオッサンオバサン。一目見るだけでも舞台経験が無いことは明らか。テレビやプロの舞台演劇ともまた違う芝居っ気のない自然体で舞台に立っているのですが、これがまた不思議と見ている人の心を打つんですよね。

 「月ノ姫様を守るため、今日も修行に励むぞー。えい! えい!」
 「そ、それは天の羽衣。どうかお返しください」
 「シーン7! 駆けつける星影と羽衣天女! 星影『助けに参りました』! 羽衣天女『私たちが相手です』!」

 
残念ながらひかるたちには芝居の才能はなかったようです。えれなだけはもしかしたらイケてるかもしれませんけどね。
 普通はそんなものです。だって、忍者だの天女だの、普通の生活をしていて実際に見かける機会なんてないじゃないですか。知らないものはわかりません。忍者や天女が本来どんな話しかたをし、どんな身のこなしかたをするのかだなんて。どうすればそれっぽく見える演技になるのかだなんて。
 なんなら普通の中学生役ですら素人には難しいものです。中学生なら私たちにも経験があるはずですが、“中学生の○○さん”というキャラクターとして生活した経験は誰にもありません。脚本家の頭の中にしかいない人物のことなんて知らないし、わからない。結果、素人には暗記したセリフの上っ面をなでる棒読みだけで精一杯。

 俗にいう“大根演技”とは発声・滑舌・身体能力などの技術面の不足によって引き起こされるものではありません。声の大きな応援団員やよく鍛えられたスポーツ選手だって大抵は芝居が下手くそなものです。
 芝居の上手・下手を分けるものは読解力に想像力。本来他人でしかないはずのキャラクターたちを、まるでその置かれた立場や境遇が元々自分のものであったかのように理解する、そんな思考術こそが芝居の基本です。役はなりきるのではなく、降ろすんです。
 一度舞台に立ってみると痛感させられます。普段なら他人のことをわかったつもりで知ったようなご高説を垂れる私のような人も、自分が他人を演じる段になると「あれ? こういう職業でこういう年齢の人はこんなときどういう調子で話すんだろう?」「この人が悲しんでいるのはわかる。悲しんでいる理由も。でも私じゃない人がこういうときどんな風に悲しむのかわからない」・・・たくさん、困ってしまうことばかりです。自分が本当は他人のことを何も理解できていなかったんだということを思い知らされます。

 芝居の基本が人生経験だというのはそういうこと。人は自分が経験したこと以外を正しく理解することが難しい。
 まあ、それにしたって脚本上にしか存在しないフィクションのキャラクターの人生をそのまま経験できるわけじゃないんですけどね。あくまで芝居するうえでの基本の話です。

 ひかるたちの芝居はヘタクソです。
 だって、彼女たちは「星影」や「羽衣天女」、「月ノ姫」という人物をまだよく知らないんですから。会ったことすらまだないんですから。知らない相手のことなんて、本当ならなりきることすら難しい。

 「考えたこともなかろう。宇宙の最果て、暗く凍える場所に追いやられ、闇に潜んで生きてきた我々を!」
 「あんたは宇宙のこと、何にもわかってない!」
 「ホント勢いだけだっつーの! 実は想像力ないっつーの!」
(第11話)
 他人を理解するのって、本当はすっごい難しいことなんです。

“想像する”ということ

 「スターは遠く離れた宇宙からフワを呼んだルン。イマジネーションの力で。すごい想像力ルン。スターの想像力のおかげで、私、プリキュアになれたルン!」
 「スターが、ひかるがいなければ、私はみなさんと楽しくお話しすることもありませんでした!」
 「ひかるのイマジネーションはね、みんなを思って、結びつけてくれるんだ。みんなを新しい世界に連れて行ってくれるんだよ!」
(第11話)
 けれど、そんな芝居ヘタクソな、つまり他人を理解する力が未熟なはずのひかるの想像力を、みんなが褒めてくれます。ひかるのおかげで自分は変われたんだと。ひかるのおかげでみんなが繋がれたんだと。
 さて。ひかるは彼女たちと友達になったとき、彼女たちに対してどんなことをしていたでしょうか? 彼女たちはひかるのどんなところをもって、ひかるの想像力はすごいんだと言ってくれたのでしょうか?

 「私の故郷はあの天ノ川。遠い遠い空の向こうへ帰らねばなりません」
 「待ってよ、天女さん! ウソだって言ってよ!」
 「ここでお別れだなんてあんまりだ!」
 「決まりとはいえ、そんなの残酷すぎます!」

 
ガタガタだった午前に比べるとだいぶマシになったクライマックスの芝居。けれど一目で演技だということがわかる、一本調子なセリフ読みはそうそう簡単に変わりません。

 それが、ある瞬間から変わります。
 「でも、それが私の運命。もう変えることはできない。どんなに抗っても。短い間だけど楽しかった。・・・ずっと忘れない」
 
ララの芝居にはじめて感情の色が宿ります。 しょせん他人の言葉でしかないはずの台本ひとつひとつの言葉に、ララ自身の気持ちが重なっていきます。
 その、他人を演じているのではない、ララ本人の剥き出しの感情が、ひかるたちみんなの心を揺さぶっていきます。

 ひかるがララたちと友達になったとき、どんなことがあったでしょうか?
 「ねえ。ララちゃんもプリキュアになりたいの? ――なれるよ! なりたいならさ、なればいいんだよ。プリキュアに!」(第2話)
 ララと友達になったときは彼女の可能性を信じました。ひかるから見て、ララが本当はプリキュアになりたがっているように思えたからです。ひかるは彼女の気持ちを直観的に酌み取って、彼女のために背中を押してあげました。
 「先輩が“太陽”って言われてるの、わかった気がする。だって先輩の周りはいつも笑顔でいっぱいだから!」(第4話)
 えれなと友達になったときは彼女の本質を見極めました。ひかるから見て、えれなは周りのみんなを笑顔にするために笑ってくれるステキな人でした。ひかるは彼女の気持ちを直観的に酌み取って、彼女のしていることを応援してあげました。
 「お父さんのことはわかったけど、先輩はどう思ってるんですか? フワが悪い宇宙人だと思う?」(第5話)
 まどかと友達になったときは彼女に迷いを与えました。ひかるから見て、まどかは彼女自身の言動ほど冷たい人ではないと思えたからです。ひかるは彼女の気持ちを直観的に酌み取って、彼女が自分をみつめ直すきっかけをつくってあげました。

 ひかるは芝居がヘタクソですが、けっして想像力のない子ではありません。 ララやえれな、まどか。自分と生い立ちも考えかたも全然違うはずの他人の気持ちを、断片的にでも理解してあげられる子です。
 自分を正しく理解してくれて、自分が前へ進むために必要なことをしてくれたからこそ、ララたちはひかるの想像力をすごいと言っているんです。

 「今までありがとう。・・・さ――ううん。『さようなら』なんて言わない。『さようなら』なんて絶対イヤだよ!」
 
そう。ひかるは他人を演じる芝居についてはヘタクソですが、ありのまま自分のままで芝居をするのならけっしてヘタクソではありません。
 ひかるは星影や羽衣天女というキャラクターの人物像をよく知らず、従って彼女たちがお別れするときの気持ちをうまく想像することができません。
 けれど、ひかるとララがお別れするときの気持ちであれば、胸が締めつけられるくらいにうまく想像できます。ララがララとして「ずっと忘れない」と言ってくれるのなら、ひかるはひかるとして、誰もの胸を打つセリフを語ることができるんです。
 「さようなら」と言う星影としてではなく、「『さようなら』なんて絶対イヤだよ!」と言うひかるとしてなら。

 地域の市民演劇を観に行くと毎回ひとりかふたりくらい、異様に芝居が上手い人を見つけることができます。たいてい中高年の、普通にそこらの住宅地でブラブラしていそうな地味なオッサンオバサン。
 彼らはいわゆる“ハマり役”というやつです。必ずしも俳優としての才能があるわけではなく、与えられた役柄がたまたま彼ら自身のありのままの姿にすごく似ているときに、見ている人の胸を打つ素晴らしい芝居ができることがあるんです。年齢を重ねた世代にこういう人が多くなるのは、単純に人生経験が豊かだから役柄と重なる部分も多くなりやすいということですね。

 人は自分が経験したこと以外を正しく理解することが難しく、逆に自分が経験したことであれば正しく理解することができます。
 一般的な感覚として、そういうのは芝居とか演技とかいわないだろうと思うかたも多いでしょう。ですがそもそも人が何かを表現するときのベースにあるものは人生経験であり、それを基にして思考を巡らす読解力や想像力です。
 「私だったらこういうとき、どんなことを、どんな気持ちで思うだろう? どんな調子で、どんな語彙を選んで、誰に、どんな思いを伝えるために言葉を紡ぐだろう?」
他人を理解することはすっごい難しいことですが、あくまで自分を起点として想像してみるのであれば、それはけっして不可能な思考ではありません。

 ひかるは、ひかるとしての視点からであればララやえれな、まどかという他人の気持ちですら想像してあげられる子です。
 そしてそれはララも。えれなもまどかも。本当は誰だって、他人を理解することなんて不可能ではありません。私だったらこのときどう思うだろう? そういう視点を忘れないかぎり。

 (余談ですが、このときの「私だったら」をキャラクターの立場や境遇、思考パターンなどを加味しつつ想像し表現することができれば、それが“俳優として”演技をするという行為につながります)

“進む力”

 「昔、人々は南の空に輝くサザンクロスを目印にして旅をしていた、そう教えたけどね。ただの目印じゃないんだよ。旅人はね、サザンクロスを見ながら遠くで待つ大切な人や、新たな大陸を思い描いたんだ。サザンクロスは人々に進む力を――イマジネーションをくれる星座なんだよ」(第11話)
 遼じいはイマジネーションを“進む力”と定義しました。
 「私、想像してたんだ。宇宙を。ずっと。ずっと。ずうっと。想像してたんだ。だから大好きなんだ。宇宙のこと、わかってないかもしれない。けど私、大、大、大好きなんだ!」
 「どんな理由があっても、大好きな宇宙を、星座を、星を、地球を奪うなんて、私、イヤだ!」
(第11話)
 その定義に基づき、ひかるは自分が前に進もうとしている思いのなかに自分らしいイマジネーションを見出しました。

 この考えかたをイマジネーションだと言い張るのはなかなかの暴論のようにも思えますが、実はこの考えかたを補強する思想が、今話で描かれたひかるたちの芝居風景にあります。

 「『さようなら』なんて言わない。『さようなら』なんて絶対イヤだよ! 私はララと、ララとずっといっしょにいたい! もっとおしゃべりしたい。またいっしょにスタードーナツを食べたい。もっといろんな星を冒険したい。ララ。・・・行かないでよ」
 
最初は与えられた配役を演じていたはずのひかるたちが、星影らの別れを自分たちに迫りつつある不安と重ね合わせて想像した思い。
 喉を突き上げてくる切ない思いがひかるたちの芝居を真に迫らせ、見る者の胸にも熱いものをこみ上げさせる爆発的な表現力となりました。 思いが、力になったんです。

 「君たちは異星人なのに地球人にその存在を知られてしまった。宇宙法違反だ。罰として故郷の星に帰ってもらう!」
 
現実というのは往々にしてままならないもの。多くの場合、何かを思うだけでは何も変わってくれません。
 けれど、その現実を変えてしまえる力があるのも思いだけ。プリキュアシリーズはいつもそれを体現してきました。
 「映画なんてつくりもの。何の価値もないっつーの!」
 
とはいえ現実というのはやはり冷たく固く、いかに思いの力で変えられるといっても、けっして並大抵の思いで変えられるというわけではありません。今作『スタートゥインクルプリキュア』が奨励する“想像力”であってもそこは変わりません。
 だから、思いの力を行使したいのであれば、いかにその思いを強固なものにするかが課題になります。
 そのために必要だったことが今話でひかるたちのしてみせたことです。
 想像力を行使するなら、まずは自分の視点から思考を巡らせてみること。

 「構わんさ。このような過酷な環境の星に価値はない。消えたところで痛くも痒くもない」
 「ぬくぬくとした環境で生きるお前が知ったようなことを!」
(第10話)
 惑星クマリンで他人事としてのスタンスから反論しようとしたときはカッパードに言い負かされてしまいました。このときのひかるの思いには目の前の現実を変えるほどの力が宿りませんでした。
 「私、想像してたんだ。宇宙を。ずっと。ずっと。ずうっと。想像してたんだ。だから大好きなんだ。宇宙のこと、わかってないかもしれない。けど私、大、大、大好きなんだ!」
 「どんな理由があっても、大好きな宇宙を、星座を、星を、地球を奪うなんて、私、イヤだ!」
(第11話)
 ひかるの反論にちゃんとした力が宿ったのは、多少身勝手な言い分であれ彼女が自分のこととしてこれからのことを想像したときでした。

 そもそもあなたは何のために想像をするのか、って話ですよ。
 「こんなロケット乗りたいなあって思いながら描いたんだ」(第7話)
 目の前の現実だけじゃ面白くないからでしょう? 悲しいからでしょう? もっと幸せなことが起こってほしいからでしょう?
 現実を変えたいからでしょう?
 ――だったら、想像するからにはあなたの想像力に力を宿らせなければなりません。

 だからこそイマジネーションとは“進む力”でなければならず、そしてイマジネーションを進む力として正しく機能させるためには、たとえば今話のように“自分のこととして”想像する必要があるわけです。
 ララたちが故郷の星へ帰されてしまう。そんな悲しい現実は絶対に変えなければなりません。
 だから変えました。お別れするのはイヤだと悲しむひかるたちの思いの力によって。
 「君たちの星を越えた友情、私の心のフィルムにしっかりと焼き付けた。最高の感動をありがとう」
 
私たちは日々、目の前にある現実とは異なるものをいろいろと想像します。
 こういうものが現実にあったらいいなと想像します。
 だったら、実現しちゃいましょう。思いにはそれを可能とする力が宿りえます。
 イマジネーションとは人が前へ進もうとする力そのものです。

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    コメント

    1. 匿名 より:

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      作品テーマである『想像力』を「現実に存在しないものを思い描くこと」だと解釈してました。
      1クール終わった今改めて考えるとどうやら違うみたいですね。
      「目の前のことを知るための指針」という認識で合ってるんでしょうか?

      個人的に「台本通り」というフレーズが引っかかりました。
      そこはせめて「役になりきって」とかじゃないのかと。
      いくら即席とはいえ、その台本が殆ど『セリフだけで進行するタイプの下手な携帯小説』みたいな印象でしたし。
      ……監督、生意気は承知ですが心のどこかで創作物を舐めてません?

    2. 東堂伊豆守 より:

      SECRET: 0
      PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
      ……どうもこのプルンスの台詞は不用意だった感じがするなぁ……。「映画には(イマジネーションの結晶として)価値が有る」という方向の話にするべきだったのでは?
      一方、根がB級映画のオーソリティーであるらしいアブラハム監督の脚本は結構ポイントを押さえていて、どうせド素人どもに"役作り"なんぞ出来まいと踏んで「宇宙に帰ることを余儀なくされた宇宙人と見送る3人の地球人」という"当て書き"脚本を用意し、本人達と役柄がシンクロするように仕向けているんですね。おかげで天女を見送る忍者とシンクロしたひかるから全米を泣かせる(かもしれない)アドリブを引き出せたわけで。
      あと、天宮えれなが演じた"太陽の王子"って、忍者が活躍した安土桃山時代には多数のポルトガル人やスペイン人が日本にやって来ていた(南蛮貿易やイエズス会宣教師)ことを踏まえた、何気に考証をちゃんとしている設定だったりする。……やるじゃんPP。
      ところで、「天宮えれなは何気に演技が出来る」という今回唐突にお出しされた設定が、今後のエピソードで拾われたら面白いんだけどなぁ、と思いました。「家の手伝いに専念するために部活からのスカウトを断り続けているえれなにハリウッドデビューのスカウトがきた」みたいなエピソードをやらんかなぁ、と。
      えれなが"対外的な栄誉"に背を向け、家族や知人など身近な人々の笑顔にこだわり続ける理由は何なのか?そんな彼女に"大きな世界からの招待状"が届いたとき、果たして彼女はどんな将来を選ぶのか?ーーーーーー結構見応えのある物語になりそうですけどね。なにせ前年度作品では「女優の娘が女優の途を捨てて医者になる」お話をやったことでもありますし。

    3. 疲ぃ より:

      SECRET: 0
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       今のところ“知りえないことを自分視点で解釈しようとする思い”くらいの意味合いで扱われている感じですね。目の前のことを知ろうとするにしても主観的というか、自分にとってどういう価値を持つのかが重視されているというか。

       「台本どおり」は芝居論としては私もノーです。監督は作品全体としての表現を統括する立場ですが、各登場人物のキャラクター表現を考えるのは俳優の仕事だと思っているので。とはいえ細かいところまで指示出しする監督もいますし、監督にそういう役割を期待する視聴者もたくさんいるようですし、実際のところこの手の価値観は人それぞれです。そこらへんはアブラハム監督の考えかたを尊重してもいいかなーと。
       そもそも物語としてはひかるたちの想像力を阻害する敵役としての発言なので、引っかかりを覚えて当然なんでしょうけどね。

    4. 疲ぃ より:

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       今話はぶっちゃけアブラハム監督もイマジネーションの敵側の立場として描かれていたので、表現作品としての映画に擁護が少ないのもやむなしかな、と。今話の主題はあくまで“ひかるの”イマジネーションでしたし。一応次の登場以降でフォローされる機会はまだ残っています。

       えれなのはどうなんでしょうね? 正直それこそハマり役だからうまく演技できたって感じにも見えましたが。
       でもたしかに“みんなの笑顔”と対比するかたちで彼女に対外評価という価値をぶつける展開は面白そうですね。たぶん彼女が大切に思っている家族や友人たちも祝福するでしょうし、そうなるとみんなの笑顔にこだわること自体が彼女個人のエゴイズムということになって、いい感じのコンフリクトを起こしそうです。観ている側はまた胃が痛くなるでしょうけど。

    5. 疲ぃ より:

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       ちなみに今週(来週)日曜日はどうしても遠出しなきゃいけない用事があるので、次話の感想文はおそらく月曜日にアップすることになると思います。
       というか言ってしまうと現在転職&引っ越し作業の真っ最中です。なかなかブログをいじる時間が確保できなくてごめんなさい。

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