
ねえ。サマーンではお父さんやお母さん、手つないだり踊ったりする?
(主観的)あらすじ
えれなのお父さんとお母さんは面白い人たちです。明るく楽しくよく歌いよく踊り、カラッとよい笑顔で笑います。子どもたちもそんなお父さんお母さんのことが大好きで、みんなやっぱり太陽みたいに笑います。 ひとりを除いては。
えれなの弟のとうまはムスッとしていました。最近ずっとひとりで過ごしていて、お父さんお母さんの言うことも聞かず、なんだかつまらなさそうな顔をしていました。みんなの笑顔が大好きなえれなはそんな弟の様子を心配していました。 とうまは普通の家の子になりたかったと言います。このあいだ友達にいつもの調子のお父さんお母さんを見られて、驚かれて、恥ずかしい思いをしたからです。うちの家族は変だから、普通じゃないから、大嫌い! とうまはひとり家を飛び出していきました。
そんなとうまですから、ララの「ルン」という口癖も気になります。 けれどララの方は自分の口癖をまったく気にしません。むしろ誇らしそうにします。だってサマーン星ではこれが普通だからです。それに、ララは知っています。宇宙にはいろんな星があって、いろんな人たちがいることを。だから周りの人が自分と違っていることをララは気にしません。
わだかまった気持ちが晴れないとうまはその心をつけ込まれてノットリガーにされてしまいます。あたり構わず暴れまわるとうま。 そんな彼にえれなが語りかけます。私も家族の少し変わっているところを気にしたことがあった。けれど、やっぱりいつも笑っている自分の家族が大好きだ! えれなの活躍で元の姿に戻ったとうまは無事に家に帰ります。結局のところ、とうまもえれなと同じで自分の家族が大好きなのでした。
花屋ソンリッサの店頭に並べられていた花は左からアジサイ、ヒマワリ、マーガレット。そろそろ夏が近づいてきましたね。
ちなみに花言葉はそれぞれ「移り気」、「愛慕」、「恋占い」です。迷う思い、悩む気持ちがいったいどこから生まれてくるのか、ときどき自分の心に問いかけてみるのもステキなことだと思いますよ。
アドレッセンテ
「お姉ちゃん。うちって普通じゃないのかな」
身も蓋もないいいかたをするなら、そういうことが気になって仕方ない時期というものがあります。だいたい小学校高学年から中学生くらいの時期です。思春期、あるいは反抗期だなんてよく表現されていますね。
「このあいだ友達といるときパパとママに会ってさ、『とうまン家のお父さんとお母さん、手つないで踊ってる。すごいな』って言われて・・・」
この時期、多くの子どもたちはそれまで当然のように慕っていた自分の家族や周囲の大人たちに、ふとキモチワルさを感じる瞬間が多くなります。ちょっとしたことに疑問を感じ、ちょっとしたことがどうしても許容しがたく感じられるようになります。みんながみんなそうなるわけでもないんですけどね。
どうしてそんなふうになってしまうのかといえば、それはこの時期に第二次性徴を迎え、自分の身体が急激に変わっていくことを実感して不安を覚えるからだといわれています。 不安なんです。自分が何者かわからなくなるから。
それまでは自分が明らかに子どもだって見てわかるから、大人の言うことを聞いていればまず間違いありませんでした。大人は子どもを守ってくれるものだし、子どもはひとりじゃできないことが多いから大人の手を借りるのが当たり前でした。
けれど、第二次性徴。生殖器が成熟し、声が低くなり、身長や体重も急激に増え、望むと望まぬとに関わらず自分の身体が勝手に大人へとつくり変えられていきます。周囲の大人たちからもこれまでと違って“責任”を求められることが多くなり、否応なくいつまでも子どものままじゃいられないんだという自覚が芽生えはじめます。
それでいて、まだ一人前の大人扱いはされません。発育のいい子なら小学生のうちに親の身長を追い抜くことすらありますが、たとえ身長差が逆転しても親は親として、子を子としたまま接してきます。自分でも、まだ仕事に就いていなかったり、社会のあれこれを全然知らなかったり、まだまだ大人になりきれていない実感があります。
じゃあ、私は何者だろう? 大人でも子どもでもない、しかもこれまでの自分とすら明らかに違う、今の私は結局のところどんな存在なんだろう?
自分を理解したくて、自分らしさを保障してくれる何かが欲しくて、彼らは自分が所属しているコミュニティがどんなものだったか改めて強い興味を覚えるようになるわけです。
「普通の家は踊ったりしないんだよね? ・・・うちは変なんだよ!」
もし自分の所属しているコミュニティに他と違う、何か変なところを見つけたら、そりゃあショックですよ。怖いですよ。なにせ他と違うということは、世間一般でよくいわれているいろんな常識が自分には通用しないかもしれないということなんですから。
普通の人は中学校、高校、大学を卒業して、どこかの会社に就職して、結婚して、子どもをつくって・・・となるのでしょう。けれど自分を育ててくれた家族がその平均的なありかたから少しでも外れているというなら、もしかしたら自分も普通の人生を歩めないのかもしれない。自分は例外なのかもしれない。常識が参考にならないかもしれない。自分の将来への見通しが立ちそうにない。
怖いですよ。ただでさえ今の自分というものがわからないのに、これから先もわからないままだなんて。
これまでは両親に手を引いてもらって温もりを感じながら歩んできたというのに、これからは真っ暗な闇のなかをひとり手探りで進んでいかなければならないというのでしょうか。
「僕は普通の家がよかった。こんな家大嫌い! パパもママも大嫌いだ!」
エクストラーニャ
「・・・とうまくんは何か心配事でもあるのでしょうか」
プリキュアだってまだ中学生。心のどこかでとうまに共感する思いは当然あるでしょう。おそらく彼は悪い子だからあんな態度をしているわけじゃないんだ、きっと何か自分でもどうしようもない理由があるはずなんだと、すぐにピンときます。
特にまどかは現在お父さんに反抗している真っ最中。自分がそれまでの自分と違ってきている自覚があります。今の自分が“普通”から外れてしまっていると感じています。それでいてお父さんの方も“普通”とは違うだろうという気持ちも。彼女の置かれている立場は何もかも不確かなものばかりです。
思春期の子どもたちはとりわけ“普通”かどうかを気にする傾向があります。先にも書いたように、自分が一般的なありかたから外れてしまうことに強い不安を覚えるからです。ちょっとでも普通じゃないところがあるのは変なことで、変なのはとても怖ろしいことなんです。
「『ルン』って何? さっきからずっと『なんとかルン』って言ってる」
だから、明らかに変なところがあるのに堂々としていられる人はすごく不思議。
「『ルン』は『ルン』ルン。私のほ――じゃなくて、国ではみんなこう言うルン」
この答えはとうまにとってちょっと期待外れ。とうまにとって「ルン」が普通じゃなかったとしても、とうまの知らない国では「ルン」が普通だというのなら、ララという存在はとうまの不安を解消するヒントになってくれません。
「ねえ。サマーンではお父さんやお母さん、手つないだり踊ったりする?」
ララの“変”がとうまの不安を解消してくれないのなら、それならせめて、とうまが感じている“変”を彼女が“普通”だと保障してくれないだろうか。
「手はつながないけど触角はつなぐルン」
残念ながらこちらも空振り。ララはとうまが想像していたよりもっと普通じゃないお姉さんでした。 けれど――。
「私には触角がない方が変ルン」
続けてララが言ったこの言葉は、とうまの心に響きました。
とうまがララに何を期待していたかわかるでしょうか?
初めは自分に“変”なところがあってもララみたいに堂々としていいんだという保障を。
それがダメなら、せめて自分は本当は“変”じゃないんだという保障を。
不確かな自分に不安を感じていた少年は、誰かに「君はこのままでも大丈夫だよ」って安心させてほしかったんです。「変でもいいんだ」、あるいは「変じゃないんだ」と言ってもらうことで。
けれど、ララはむしろ「君こそ私と違う」と言い切ったわけです。
「今までいろんなほ――じゃなくて、国を旅してきたルン。みんな違ったルン。でも、みんな変じゃないルン」
とうまが変というか、いろんな人みんなが違って当たり前なんだと。
そういうものですよね。世のなか頭のてっぺんから爪先まで全く同じ人間なんてひとりもいません。“世界には自分と全く同じ見た目の人間が3人はいる”なんてこの時分の子どもたちの間でよく語られる話題がありますが、それにしたって生い立ちや頭の中身までそっくりそのままなわけありませんし。
みんな違う。だからこそ、変な人なんてどこにもいない。そういうものです。
ララの言葉はとうまが期待していたようなものではありませんでしたが、それでも自分が“普通”じゃないことを怖れていた彼の気持ちを氷解させるには充分なものでした。
これでめでたくとうまは以前のような笑顔を取り戻すことが――なんて簡単にいかないのが、実は今話の核心。
だって考えてもみてくださいよ。とうまが自分の家が変かどうかを気にしていたのは、そもそも自分のありかたに不安を覚えていたからです。“変”か“普通”かの話はその気持ちを安心させるための手段でしかなかったはずです。
ララの言うようにみんなが違うのであれば、とうまは結局常識に頼って将来を楽観することができないままです。みんなと同じ人生像を思い描くことができないままです。だって、そもそもそんな都合のいい“普通”なんて元々存在しなかったわけですから。
とうまがひとりぼっちで暗中模索することになってしまうのは依然変わりありません。
だから、もう一手が必要です。
テ・クィエロ
とうまが不安を感じているのは自分の不確かさです。だから、みんなが違うというだけでは彼は安心することができません。
彼には何か、“自分はこういう人間だ”と確信できる揺らぎないもの、自分らしさが必要です。
「ちょっと! やりすぎ!」
ノットリガーにされてしまったとうまは金棒をガムシャラに振りまわします。なぎ倒す相手がプリキュアであってもノットレイたちであっても意に介しません。まるで目が見えていないかのように。
周りじゅう不確かなものだらけの彼にとって、確かに信じられるものって、何かなかったでしょうか?
「わかるよ、とうまの気持ち」
とうまではない人がその答えを知っています。
家族とはいえとうまとは違った考えを持つ人が、とうまと違って自分の家の変なところを好んでいるはずの人が、どうしてかとうまの気持ちがわかると言ってきます。
「私も小さいとき『うちの家族は普通と違うのかな』って思ったことあったから。でも、私は笑顔でいっぱいのうちの家族が大好き! パパやママやれいな、たくと、いくと、あんな、それからとうま! みんな大好きだよ!」
えれなはとうまじゃありませんが、とうまの気持ちがわかります。えれなの想像力はとうまの心の宇宙にまで届きます。なぜなら自分も似たような経験をしてきたから。えれなはとうまと同じではありませんが、とうまと似てはいます。足りない距離は想像力で補えばいい。
そんなえれなが、自分は家族が大好きだと言います。
――とうまはどうでしょうか?
えれなとよく似ている、えれなと心の距離が近いとうまは、自分の方はどういうところが姉と似ていると感じられるでしょうか。
想像してみましょう。
あのとき友達といっしょにいたとうまは、お父さんお母さんの踊りを見て笑顔になっていました。そんな陽気なふたりのことが大好きだったからです。
あのとき友達に驚かれてしまったとうまは、お父さんお母さんのことを我が事のように恥ずかしく感じました。まるでふたりを大好きな自分まで否定されてしまった気分になったからです。
お父さんお母さんに向かって「大嫌いだ!」と言ったとき、いっしょに涙まで出てきました。だって本当の気持ちは正反対、むしろ大好きだからです。
ノットリガーになってえれなに金棒をぶつけてしまったとき、とうまは立ちすくみました。傷つけたくない人だったからです。彼女と同じように、とうまも家族のことが大好きだったからです。
とうまはお父さんお母さんが、家族の笑顔が大好きです。えれなと同じように。
それこそが昔からずっと抱きつづけてきた揺らぎない思い。とうまの自分らしさ。自分の身体がどんなに変わってしまっても、子どもから完全に大人に変わってしまっても、この思いだけは絶対に変わらないと信じられる自分の核。じぶんがとうまである証。
少し考えてみれば、とうまの探していた答えは自分の心のなかに初めから存在していたのでした。
「お姉ちゃん。僕もうちの家族が大好きだ!」
人はみんな違います。
私とあなたはどこまでいっても違う人間です。
だから、自分にとっての確かなものなんて本当は何だっていいんです。全部あなただけのものです。あなたがあなたであるかぎり、あなたの持つありとあらゆるもの全部があなたらしさです。どれでも好きなものを選んで今の自分を好きになるといいでしょう。
それでいて。
みんな違っていることを前提にしたうえで、それでも違いを乗り越え私たちを理解してくれる誰かがいるというのがまた、私たちの生きるこの世界のステキなところですね。
コメント
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そういえば私は中学生くらいの時、漠然と「いつかアニメじゃなくて特に興味ない大河ドラマを観なくちゃいけないのか」と謎の不安を抱いた覚えはあります。
単に両親がドラマ好きってだけなのにw
社会人になり、さらに全年代向けのSNSがすっかり普及した今は「犯罪に走ったりあまり迷惑かけなきゃ好きに生きていいんだ」と理解してますけど。
厨二病といいますか、とうまくんと逆パターンで積極的に浮きまくる行動をとる子供もいますね。
こちらは「普通」を気にする反動とかなんでしょうか。
あるあるー。
それで、もっと歳を取ったら時代劇を見なきゃいけないのかー・・・とか。まさか自分が老人になる前に時代劇の方が廃れるとは思いませんでしたが。
とうまくんの逆パターンはあると思いますよ。私がそんな感じでしたし。どうにも普通になりきれる自信がなかったもので、変に拗ねていっそのこと・・・と。
今思い返せばけっこう平凡な子だったんですけどね。厨二病でしたけど大人の言うことはよく聞く良い子でしたし。
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とうま君が抱えていた悩みって「自分の家の流儀が普通と違うことを気に病んでいた」のと「自分の苦悩を家族が理解してくれない」ことに分解できるんですよね。
で、この弟の苦悩に対して姉貴のえれなは、前者については「自分が(おそらく)持ち前のタフメンタルを武器に一人で乗り切って来たので、弟にも同じことを求めてしまった」ため、後者については「家族なるがゆえに却って踏み込むことに臆病になってしまった」ために、適切な対処が出来なくなってしまったんだろうと思います。
そこで、まずまどかが口火を切って、えれなが弟の苦悩と真正面から向き合うきっかけを作り、そして前者の問題を「友達のサポートによって"人と違うことへの苦悩"を解消した」経験を持つララが引き受け、えれなが後者の"家族の"問題に専念して対処できる流れを作っていった。ーーーーーーまさにプリキュアチーム連係プレーの勝利と言えるのではないでしょうか。
第11話で、ノットレイダー達にキュアスターが罵倒された時、ララとまどかは「スター/ひかるのイマジネーションによって自分が救われた体験」を訴えたのに対して、えれなは「ララとまどかがひかるに救われた事実」を訴えただけで、むしろ「えれな自身はひかるに助けられた経験が無い」ことを明らかにしてしまったわけですが、今回の一件を通じて、えれなが「自己完結した外部協力者」から「相互補完・相互依存関係を持つ運命共同体の参加者」として、真の意味でチームの一員になれたんだと思います。うむ、めでたい。
ただーーーーーーえれなって他の三人と異なり、「個人的な課題とプリキュアチームの任務があまりリンクしていない」人間ではあり続けているんですよね。その点では今なお"特殊"な立ち位置のメンバーだったりする。
そして、従来のプリキュア作品においてはむしろえれなの方が"普通"で、ひかる達のように「個人的課題とプリキュアチームの任務が密接にリンクする」人間の方が"特殊"……。ーーーーーーやはり「スタートゥインクルプリキュア」はシリーズの歴史においてかなりの異色作、あるいは"16年目の方針転換"を明確に打ち出した作品となるのかもしれません。
同じプリキュアといえどもそれぞれ別の個人だからこそできた対応って感じですね。ごく身近な意味での“多様性”。
えれなは当初欠点らしい欠点が見えない子でしたねえ。今話でも彼女はとうまくんの“はしか”を完了済みでしたし。それっぽいつまづきはケンネル星のときくらいですか。
今のところ個人的な主観を問われる物語になっているから彼女は平気でいられるんですが、これが今後自分と他人のすり合わせをする段階にでもなったとしたら、そのときが彼女にとっての本番でしょうね。