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魔法つかいプリキュア!第15話感想 ほら、あなたの知らない世界がすぐそばに。

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はーちゃんは不思議な子だけど、私たちと同じなんだよね。

(主観的)あらすじ

 毎日忙しいみらいたちに構ってもらえず、はーちゃんはひとりでどこかへ飛んで行ってしまいます。リンクルストーンの不思議なパワーをその身に宿したまま。
 はーちゃんが遊びに来た、みらいたちの学校はハチャメチャ大混乱。かみなり様になって雨を降らせたり、宇宙人になってボールを操ったり、人魚になって空を飛び回ったり。騒ぎを静めようとみらいたちははーちゃんを追いかけますが、逃げられてしまいます。
 みらいは気付きます。はーちゃんは不思議な子だけれど自分たちと同じ。彼女にもさみしいと思う気持ち、悲しいと思う気持ちがあることを。だからスパルダに捕まっていたはーちゃんを助け、ようやく合流できたとき、みらいたちは謝ります。はーちゃんのお話を聞いてあげられなかったことを。はーちゃんも謝ります。ひとりで出ていったことを。みんなお互いのことが大好きなのですから。

 誰かを理解するという作品全体に関わるテーマ、はーちゃんの秘密という新展開に繋げるための伏線、古式ゆかしいエブリデイマジック。物語上重要な数々の要素を内包していながら、総合すると販促回。子どもたちが喜ぶのだからおもちゃを売ることは善いことです。
 大切な話はしかめっ面ではなくワイワイ賑やかに語りましょう。プリキュアは子どもたちのための物語なのですから。はーちゃんかわいい。

子どもの世界

 前話がみらいの主観を押さえなければ理解できない、少しだけ高度な物語だったのとは打って変わって、今話は視点を子どもたちの目線までぐっと降ろしました。
 順序が逆だろうと思わなくはないですが、みらいとリコの出会いから始まった魔法つかいプリキュア!の物語が、少しずつふたりだけの関係から飛び出しつつある表れです。

 みらいたちにも自分たちの生活がある。はーちゃんにも自分だけの気持ちがある。だから自然になにもかもが思い通りにいくことなんてない。頑張ってお互いにお互いを思いやらなければいけない。それは大人なら当然に理解しているはずの常識です。
 けれどプリキュアの主な視聴層である子どもたちにとっては必ずしもそうとは限りません。おもちゃは、友達は、あるいはお母さんは、自分に幸せを与えてくれるもの。発達途中の子どもたちはしばしば一方通行で主観的な世界観を持っているものです。

 そんな子どもたちもなにかの拍子に気付くのです。
 例えばお母さんが、本当は一生懸命頑張ってご飯をつくってくれたり一緒に遊んでくれたりしていること。友達やおもちゃが遊んでくれるのは、ただ彼らがそういう存在だからではなくて、彼らがが自分のことを好きでいてくれるから。(おもちゃに感情がある、ないという科学的な視点とはまた別の話です)
 そういう客観性の萌芽は子どもたちに新しい感情をもたらします。お母さんに対する尊敬。友達やおもちゃに対する思いやり。そして自分もまたお母さんや友達やおもちゃが大好きなんだという、愛情の自覚。

 本当の意味で手と手を繋ぐためには、お互い双方向に愛を与えあっているという認識が不可欠です。繋いだ手のひらにはふたり分の体温が感じられるのですから。そうして子どもたちは主観的な世界観を卒業して、社会性を育み、やがて人の輪に加わっていくのです。

自分以外も傷つく現実

 前置きが長くなりましたが、みらいの「はーちゃんは不思議な子だけど、私たちと同じなんだよね」 というセリフはそういうことです。彼女の世界観は主観的です。前話で初めてリコの能力が努力に支えられたものだと理解したように、彼女はまだ自分と相手が関わるところにしか他人を理解する手がかりを得られません。
 まるで幼い子どもそのものですね。リコと出会った今になって、彼女はようやく少しずつ客観性を身につけつつあります。

 みらいにとってはーちゃんは友達です。あるいはみらいと視点を共にする視聴者にとってはおもちゃ(税込10584円)かもしれません。いずれにしても、彼女はいつも元気で明るくて、私たちに幸せな気持ちを与えてくれる存在です。
 リコと喧嘩したとき、モフルンが学校に忍び込んだとき、はーちゃんはみらいと彼女たちの間を取り持ってくれました。リンクルストーンを追いかけて心配させることもありますが、それにしたってはーちゃんの行動自体は正しいことであり、その勇敢な姿は好ましいものでした。
 けれどそんないつも幸せな気持ちを与えてくれるはーちゃんも、ときにはみらいにとって理由のわからない行動を取ることがあります。そのときみらいが、あるいは子どもたちが、なにに気付くかが試されます。

 はーちゃんがただ幸せな気持ちを与えてくれるだけの装置であったなら、それはとても理不尽な話です。リンクルストーンを追いかけるような正しさすらない、自分勝手な行動。そんなのみらいに幸せな気持ちを与えてくれません。役割を果たしていません。みらいの知っているはーちゃんとは違います。
 どうしてそんなことをするんだろう。さて、考えてみましょう。もしはーちゃんがただの装置じゃないならば。

 「でも、寂しいっていう気持ち、悲しいって気持ちだってちゃんとある」 そう、はーちゃんはただ幸せな気持ちをくれるだけの存在ではなくて、みらいと同じ、心を持つ人なのでした。
 そうであると気付いたなら想像してみてください。もし自分がはーちゃんだったなら。きっとお話を聞いてもらえなかったら寂しいし、悲しいでしょう。心が傷つくでしょう。
 「きっとわたしのせいだ」 反省するのは、他人の気持ちになって自分を見つめ直すことができたからです。みらいは自分の世界観の外に別の世界があることに気付いたのでした。
 なにも魔法界だけが別世界ではありません。誰もがひとりひとり、それぞれの世界観を持っています。好きなものや嫌いなもの、気付くことや気付かないこと、それぞれみんな違う視点で世界を観測しています。それが世界観という言葉。みらいにはみらいの、はーちゃんにははーちゃんの、それぞれ別の世界があなたのすぐそばにあるのです。

 さっきから恐ろしく当たり前のことしか書いていませんが、それだけこれが私にとって今回鮮烈に気付かされたことだということなんです。どうしてプリキュアはこんな当たり前のことを語るんだろう。それはきっと、子どもにとっては当たり前のことではないから。私も昔は子どもだったのにね。

外に別の世界があったなら

 はーちゃんにははーちゃんの気持ちがあるならば、そしてみらいたちがはーちゃんを好きならば、みらいたちははーちゃんを思いやらなければいけません。
 なぜって、「はーちゃん、危ない目に遭ってないかしら」 そう聞いて不安になるくらいに、本当は元よりはーちゃんが傷つくことはあなた自身が傷つくことと同義なのですから。

 今までは自分の生活のために全ての努力を注いでいたとしても、近くに傷つけたくない誰かがいたなら、その人のためになる努力も必要になります。
 子どもにとって、そういう他人のための努力を見せてくれる手本は、例えばお母さんになります。ごはんをつくってくれること、一緒に遊んでくれること、そういう大きな愛情を無条件に注いでくれる、子どもにとって一番身近な存在。「はーちゃんにとっては私たちがお母さん代わりなんだもの」 こういう言葉を引き出せるリコはみらいよりも客観的ですね。「はーちゃんにはお母さんが3人いるモフ?」 さらっとユニークな表現ができるモフルンに至っては何この子すっごい大人な感じ。

 他人の気持ちに気付けば、他人を思いやれば、それだけ自分のために使っていた努力を他人のためにも割かなければいけなくなります。気付くまでは一方的に幸せな気持ちを甘受していたのですから、一面的には損です。
 けれど、あなたが気付いたからこそ新しく受け取れるものだってちゃんとあるんです。
 勇気を振り絞って、まっすぐこちらを向いてはーちゃんが言う「ごめんなさい」には、みらいたちの愛情が正しくはーちゃんに伝わったことへの感謝が込められています。相手が装置ではなく心を持った人であるならば、ただ一方的に幸せな気持ちを与えてくれるだけではなくて、あなたの思いやりと同じだけ幸せな気持ちを共有することができます。
 なにより心を持つ人同士の思いやりは双方向です。ならば当然、相手だって思いやりや愛情をあなたに注いでくれていることに、あなたはきっと気付くことができるでしょう。「みんなだーい好き!」 の言葉があなたにくれる幸せな気持ちは、きっと前よりもずっと暖かく感じられるはずです。

 「人はね、みんな違う。愛し方や痛みも違う。その違いがステキだって今なら言える」 自分と他人とが違う世界観を持っているからこそ、思いやりも愛情もそれぞれ少しずつ違ったものを与えあうことができます。
 ただあなたが別の世界の存在に気付くだけで、一方的に幸せな気持ちをくれていただけの何かは、たくさんの幸せな気持ちを贈りあえる大切な人へと変わるのです。

 「みんなだーい好き!」 テレビの向こう側からはーちゃんがあなたのところに飛び込んできます。みらいやリコ、モフルンだけではなく、例えばリンクルスマホン(税込10584円)を持っているあなたに対しても、はーちゃんは「だーい好き」と言ってくれるのです。
 さあ、みんなも諭吉を握りしめてトイザらスへ走りましょう。(ひどい締めだ)

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