ふらいんぐうぃっち第6話 子どもの夢を慈しんでやれる大人になりたい

愛するもの全てを手に入れるがよい。ょぅι゛ょとは全てを望んで許される唯一の存在なのだ。(@別アニメ)

ふらいんぐうぃっち(2) (週刊少年マガジンコミックス)

とりとめのないこと

 ほうきにまたがる真琴。この微妙な表情がたまりませんね。羞恥という感情は人に見せるものではないのですよ。「見られて恥ずかしい」から見られてしまうことが多いだけで。けれど「見られていなくても恥ずかしい」って類の状況は絶対にあるわけで、しかしそれでいて状況が変われば羞恥の質も自ずと変わるものであり、具体的には「見られて恥ずかしい」ときには見られていることへの警戒感、見られまいとする我慢、それでも顔に出てしまう羞恥、そして羞恥していること自体を見られている羞恥の上塗り。素晴らしい。実に素晴らしい。総じて多重に塗り固めた羞恥の厚塗り感。見ていてワクワクする表情ですよね。対して「見られていなくても恥ずかしい」ときというのは、まず単純に羞恥、けれど隠さないでもいいという油断、それでいて開けっぴろげに羞恥の表情を出すにはセルフイメージ的に抵抗感があり、ではどういう顔をすべきか、っていうか誰に対して取り繕ってるのか自分自身でもわからなくなってくる、両辺にグラッグラ揺れまくる振り子のようなめまぐるしい感情の波が、それも誰にも見られていない平穏な背景世界の真ん中で孤独に荒れ狂う、まさに一人戦争状態ですよ。きっとそれだけで1編の物語を描くことができます。濃密な人間ドラマです。良いものですね。ステキですね。平和と戦争のコントラストは絵画的ですらあります。見ていてホッコリしますね。こういう状況、自分では絶対晒されたくありませんし、仮に現実に誰かがそうなっていたら助け船を出さないわけにはいきませんし、フィクションでしか堪能できないわけですが、その希少価値もまた良し。フィクションと現実の倫理的境界はこういうものを楽しむために存在していると言っても過言ではありません。なによりエロい。

 身体ごと浮かせる。そりゃあ竹の棒きれ程度の表面積で人間の全体重を支えたら痛いでしょうよ。「マリーとエリーのアトリエ」というマンガでもこの問題に触れたことがあります。あちらは竹細工でつくった鞍を乗せることによって解決。2本のほうきを組み合わせたり風防を取りつけたりして見た目もはやほうきではないものに魔改造しちゃっています。もともと道具の方に魔法の力を持たせる「錬金術」を扱ったマンガだけに、使い方ではなく道具の方を工夫するわけですね。
 フィクションでの魔法の扱いは大きく分けて2パターンがあるように思います。ふらいんぐうぃっちはなんのかの言いつつ最終的には使用者の精神的な問題に帰結させるタイプでしょうか。魔法つかいプリキュア!もおそらくこちらに着地するでしょう。
 反対にマリーとエリーのアトリエは科学技術をベースにした一定の論理に魔法の原理を求めるタイプ。中世風世界を舞台にした簡易SFって趣ですね。魔法少女リリカルなのはみたいなバトルものだとこっち寄りの作品が多いでしょうか。
 最近は3つめのタイプとして、ゲームの世界をそのまま再現したような、数値とパターンの世界としての魔法の描き方もありますが、あれは創作作品って雰囲気がなくて個人的にはあまり好きではありません。

 「すげえ会話」 こういう描写があると忘れがちになりますが、ふらいんぐうぃっちにおいて魔法は非日常の存在です。けれど例えばプログラミングの話をしているような、土木技術の話のような、門外漢からすると日常からほんの半歩はみ出た程度の逸脱にしか感じられなくなるのが不思議。
 案外日常の中には私たちの知らないものがたくさんあって、日常の中にもごく当たり前に非日常がまぎれ込んでいるものです。だからこそ人がいるところはどこだってドラマの舞台になるわけで。それなら魔法くらい実在したっていいと思いますよ。魔法があった程度では私たちの日常は揺らぎません。ふらいんぐうぃっちの物語がそうであるように。だって魔法以外にも非日常は山と実在するのですから。

 豚で空を飛ぶ。魔女は不浄のものとされていたので、同じ不浄の存在である豚とセットになった逸話があってもおかしくありませんね。ググってもジブリ関係だらけでうまく探せませんが。ちなみに魔女ではありませんが、北欧神話の勝利の神フレイは黄金の豚グリンブルステイに乗って空を駆けていたそうです。

 「んだ?」 あまりにもさりげなく出てきますが、「花の高校生が休日に畑仕事とは、圭も相当変わっているね」 の返事として圭が津軽弁を使っています。この人訛りが全くない割にたまに津軽弁が出ますね。訛りがないのは声優の都合ですが。
 ちなみに「んだ」は「そう」でだいたい変換できます。通常は肯定、語尾を上げると疑問のニュアンスに変わるのも同じ。

 千夏のスキンシップ。この子はつくづく甘え上手ですね。スキンシップが過剰なのも年上の視点からすると大変好ましいです。エロ抜きで。

 「やったー!魔女なれるー!」 コロンビア。

 「ちょっと浮けるようになったんですよ」 マイペースな人にはありがちなことですが、この人は集中すると周りが見えなくなるきらいがありますね。千夏たちはずっと目の前にいたんだから「見ていてください」もなにもないでしょうに。(実際見ていなかったのですが)

 コンビニ。赤いですが明らかにローソンですね。駐車場はこれでも比較的狭い方、風除室は雪国の標準装備。灯油用の赤いポリタンクが売ってあるのも雪国ならではですが、さすがに中身までは売っていません。コンビニ経営するにあたって危険物取扱者免許を取る人なんてそうそういないでしょうしね。

 映画。カーチェイスのCGの解像度がやたら鮮明なのはどこかで使ったものの流用なのでしょうか。
 それにしても本に映画に畑仕事、圭の趣味は徹底して田舎暮らしに最適化されていますね。都会の人は田舎は自然遊びがし放題だというイメージを持っていることがありますが、自然遊びなんてそれこそ都会の人がイメージしているとおりいちいち大げさな準備が必要なので、普通の人はそうそうしょっちょうやってられません。・・・となるとどうしても娯楽が少ないので、インドア系か土いじりか、パチンコやバイクに偏ってしまうんですよね。

 ジェミニ。ジェミニ計画。アメリカが実施した有人宇宙飛行計画のひとつで、アポロ計画の前身です。2話のトラキアヨーグルトもそうですが、このアニメのスタッフは一瞬しか写らないような妙なところで妙な小ネタを挟んできますね。

 おかしなおかし。元ネタは風水でしょうか。北は水の気、悪くすると不安感を呼び起こすことがあるそうです。だから泣くのでしょうね。南は火の気、情熱を活性化させるらしいです。テンション上がれば笑いますとも。これに限らずふらいんぐうぃっちの魔法描写はそれなりに取材したものがベースにあるように思いますね。作者がこういうの好きなんでしょうか。

 ろうそく。炎の明かりは光をつくるのではなく、炎の周りに闇を生み出すんだと語る方がいました。だから電球やLEDが発明されても魔法や宗教儀式の光源は炎から置き換わることがなかったんだとか。あの方は今でも弘前で演劇を続けていらっしゃるんでしょうか。さてこの説を信じるかどうかは見る人次第。

 茜のスキンシップ。彼女の他人との距離感の詰め方は自信に裏打ちされたもののように感じます。身も蓋もない言い方をするなら、たとえ圭がセクハラを犯そうとしても自力で対処できる自信があるからこその剛毅な姿勢というか。千夏の相手の善性に身を委ねるような人なつっこさとは対照的な、大人ならではの余裕ある態度ですね。

 にらめっこ対決。このお母さん本当に順応性高いですね。無反応なだけなら順応性がなくても関心を切るだけでできますが、こうやって楽しむのは本当に順応性が高い人しかできないと思います。あるものをあるがままに楽しむのは理想の大人像のひとつですね。

 タマネギの切り方。普通、野菜は繊維に沿って切るものです。野菜の繊維は人の顎でも断ち切れるので、その方が食感良く仕上がるためです。反対に肉や魚は繊維が固いので垂直に切りますね。ただし煮込み料理の場合は野菜でも繊維に垂直に切った方が早く柔らかくなるので、場合によってはこの切り方を推奨するレシピ本もあります。

魔女見習い

 千夏は良い大人たちに恵まれました。彼女の周りの大人たちはみんな愛情深く、そして真摯ですね。

 初めは渋い顔をした茜。魔女の現実を知っているというならむべなるかな。きっとアイドルや小説家のような、つぶしのきかない職業に近いのでしょう。まして他人の子の人生に深く関わるような話、とても当事者だけでは責任を負いきれるものではありません。子どもの将来の幸福を一番大切に考えているのは、きっと親でしょうから。ひょっとしたら子ども本人以上に。
 「魔女って普通の子がなれるものなの?」 と助け船を出した圭。男性らしい感性ですね。答えを出すのが難しい問題なら、まず論理的に可能不可能の線を潰していく考え方。千夏の意に最大限沿うように、茜が決断するための助けとなるように、彼にはこうして誰かを支えていくあり方がよく似合います。
 「なっちゃえまっちゃえ」と背中を押す両親。茜が「そこらへん、奈々さんも知っていると思うんだよね」 と言うなら、彼らは親の責任について自覚的に決断を下したと思っていいのでしょう。子どもの将来の幸福を一番に考えているのはきっと親です。だからこそ、子どもの決断を全面的に支持して背中を押してやるのは大変に勇気の要ることでしょうし、今背中を押していい子どもかどうか知っているのも、きっと親だけです。
 それからもう一度茜。魔女見習の話のような、時間のかかる提案は大抵子どもがいつか忘れることを期待してのはぐらかしなのですが、たぶん彼女は本気で言葉どおりのことを提案しているのだと思います。千夏はもう「いつか忘れる」年齢ではありませんし、茜も嘘は交えず自分の責任で実現可能な範囲の提案をしているようですから。とても真摯な態度です。こんなお姉さんが親類にいたら、私もべったり懐いていたでしょうね。ここまで真摯な言葉を引き出せるほど私は情熱的ではないかもしれませんが。
 やや蚊帳の外ぎみな真琴。けれど彼女も立派に大人としての役割を果たしていますね。かぼちゃの馬車に、動くおもちゃに、お菓子の家。たとえ童話そのものの荒唐無稽なものであっても、子どもの夢を全肯定してあげることはステキなことです。子どもの将来に責任を取れるのが親だけならば、それ以外の大人にできるのは道を整えてやることと、夢をより熱量高く育んであげることだけ。真琴は後者の役目を立派に果たしています。

 実際のところ、千夏の訴えは熱量の割にふんわりおぼろげです。「魔女ってすごく可愛くてカッコイイって。私も魔女になって魔法を使ったりほうきで飛んでみたりしたいって思ったの」 見事に真琴たちのやって見せたことの上っ面をなでているだけ。どうして自分が魔女にならなければいけないのか、確たる動機が自分自身にも見えていません。テレビの中のヒーローへの憧れを真琴たちに置き換えただけです。
 けれど、それでいいと思えるのもきっと周りの大人としての愛情です。やりたいことができるのは絶対的に良いことです。社会通念的にも私個人の考え方としても、それは肯定されるべきことだと思います。そのうえで、挑戦してみて、もし失敗したら。そのリスクを考えるのが大人の役目、さらに実際そうなったときに助けてやるのが親の責任です。・・・まあ、理想状態としては。
 だからたとえあやふやな夢であっても背中を押してくれる大人がいるというなら、それはそれだけ彼らが子どもを信頼している証拠で、愛情の在処です。
 いいなあ、うらやましいなあと思います。私は千夏ほど夢に情熱を持ちませんでしたから。千夏ほど力強く大人たちからの祝福を得られる機会はありませんでした。「もしあのとき夢を追いかけようとしていたなら」 たぶん大抵の大人はそういうことを夢に見ているのではないでしょうか。

 人のいるところならどこにでも必ずドラマがあります。ドラマは出来事ではなく、人の心の動きですから。
 どれだけのんびりした物語でも、泣いたり笑ったりしなくても、平凡な日常の中にだってドラマはあるのです。戦いの中で人が死ぬこと、日常の中で子どもが夢を語ること、例えばそのふたつのドラマの価値なんて、誰にも比較できるものではないでしょう。

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