ふらいんぐうぃっち第8話 おとぎの国へようこそ!

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日常に溶け込まない魔法、魔法に溶け込まない日常。

 アニメオリジナル要素たっぷり、喫茶コンクルシオに訪れる3組の奇妙なお客さんと、それを観察する普通の真琴たちのお話。お客さんたちが人間の言葉を話さないのがいいですね。
 このアニメの登場人物たちは相変わらず善意に満ちていて、けれど「あっちがわ」と「こっちがわ」それぞれ違う世界に生きているならば、どうしてもどこか断絶してしまうもの。誰だっていきなりわかり合うことなんてできません。たとえ相手が悪いやつでなくても、こちらに害意がなくても。そもそも私とあなたは別の人間なのですから。

真琴の世界

 「なんかこう、出てますもん。オーラが」
 つくづく読みを外す子だなあと思っていましたが、なるほど、今回でなんとなく納得しました。真琴が世界を観測する尺度は、あくまで自分の見知った日常の範囲にあるのですね。

 いろいろと不思議な知識を持っていて、ときどき魔法も使ってみせますが、それでも真琴の言動はこのうえなく日常に溶け込んでいます。彼女がどうしようもなく頑固だから。彼女にとって魔法はすでに知識として頭の中にあるもの。あるいはこれから知るだろう誰かの何か。
 なんといいますか、彼女の頭の中に神秘は存在しません。魔法はちょっとした技術。自動ドアや電子レンジのようなもの。あっち側の世界はお隣さん。海の向こうに肌の色が違う人々が暮らしているようなものです。日常を脅かす神秘は彼女の世界に存在しません。

 真琴は幽霊を見ても驚きません。幽霊を見たことはなくとも、そういうものがいることは知っているからです。ひなという名の幽霊がどんな人物かは知らなくても、幽霊に姿を現す魔法が効くことは知っているので、とりあえず知っていることを試してみます。
 喫茶店でデートする珍妙なテントウムシがいたとしても、真琴にとって彼らはあくまでテントウムシです。言葉を交わすことができる友人ではありません。あくまで指先にとまれば幸せが訪れるおまじないであり、畑を虫害から守る益虫です。
 喫茶店で日曜のランチを楽しむキツネも、真琴にとっては人に馴れた野良がエサをもらいに来た程度の認識でしかありません。

 我々の目にはどれほど神秘的で奇異な存在であっても、真琴にとっては日常の一部です。ちょっと変わった店員さん、ちょっと変わったテントウムシ、ちょっと変わったキツネ。
 例えばテントウムシが椎名店長と意思疎通できるように、彼らにはまだまだ真琴の知らない側面もあるはずですが、真琴はそういったものに興味を示しません。そういったものを不思議だと思いません。そういったものはただ自分の手の届かないところにある日常風景の一部でしかなくて、真琴にとってはどこまでも店員さん、テントウムシ、キツネ。
 アニメの物語として観察している私たち視聴者とは見ているものが決定的に違ってるんですよね。私たちはふらいんぐうぃっちの物語をフィクションとして、不思議なものがいっぱい出てきてもおかしくないものとして見ているのですから。

 真琴は自分の世界観についてとても頑固で、安定して揺らぎません。自分の理解の及ぶ範囲で世界の何もかもを切り取ってしまうから。言ってしまえば感性が枯れているのですよ、圭みたいに。
 だから彼女が取り乱すのは、観測対象が自分の知識から逸脱したとき。つまりはタカをくくって頭でっかちに予想して、思いっきり盛大に勘違いしたときだけです。かわいい。
 真琴はまだ高校生です。知識も経験も隙だらけ。いくら自分の理解の及ぶ世界だけを見ようとしていても、世界があっさりその斜め上を飛び越えていきます。彼女がのんびりぼんやりした生き方を望むとしても、今はまだまだ世界の方がそれを許しません。彼女の知識と経験がひととおり盤石になるまで、世界はキラキラと無数の表情で彼女を驚かせつづけるでしょう。
 キツネは「コンコン」 ではなく「ワン」 と鳴くのです。

千夏の世界

 「なに読んでるんですか?」
 一方で、千夏にとってこの空間はなにもかもが知らないことだらけ。なにもかもが非日常。けれど好奇心の塊である彼女は自分がなにも知らないことを大前提として非日常へと体当たりします。千夏は世界を観測するときに自分の尺度を使いません。真琴がほうきで空を飛んでみせたとき、千夏は自分の尺度で測れないものがあることを知りましたから。

 千夏の知る世界に幽霊はいませんでした。だからこそ目の前に幽霊がいたなら大喜びで何もかもを知ろうとします。きっとほんのささやかななにもかもですら、彼女の世界観の枠外にあるでしょうから。時代がかった着物を着ている人なんて千夏の周りにはいません。明治生まれのお姉さんなんて千夏の周りにはいません。
 千夏の知る世界に喫茶店でデートするテントウムシなんていませんでした。だからこそテントウムシたちの語らいに興味津々です。たとえ言葉がわからなくても、たくさん想像力を働かせて、自分なりに彼らを解釈しようとします。彼らが幸せが訪れるおまじないを纏っていると知ったなら、彼らに直接触れあえる絶好の機会だと好奇心をフル回転させます。
 夜の帳やキツネに対しても同じ。千夏は非日常をあるがままの非日常として、日常に生きる自分とは異質なものとして、せいいっぱいに手を伸ばします。真琴とは真逆の感性ですが、そのくせやっていることは真琴と同じというのがまた面白いところですね。

 千夏はまだ小学生です。彼女にとって世界はとても観測しきれないほどに広いもの。知らないものだらけの世界はきっと、なにもかもがキラキラして見えることでしょう。
 キツネは「コンコン」 ではなく「ワン」 と鳴きます。その事実は千夏が自分の目と耳で発見した、彼女だけの世界の秘密です。

茜の世界

 「そういえば青じゃなくてもいいなあ」
 茜もまた、千夏とは別のかたちで真琴と正反対な人物です。彼女にとっては非日常こそが日常。良識や道徳心は日常から逸脱していませんが、「なんで海の色は青いんだろう?」 と聞かれて海の色を変える魔法薬をつくろうと思う程度に感性がどっぷり非日常に浸かっています。

 彼女は非日常の側から日常と接します。魔法を使わないときですら彼女は非日常の権化。ろくに言葉も通じないくせに、身ぶり手ぶりと勢いだけで舟守とのコミュニケーションをこなす姿はいっそカッコイイです。
 それにしてもまあ、つくづく付き合わされる側にもパッションが要るタイプの人間です。日常に生きる我々とは根本的に世界を観測する尺度が噛み合わないので当たり前ですね。

 彼女の目から見た世界はさぞキラキラ輝いているんだろうなあ、と思わせる魅力が茜にはあります。そこに敬意を持ったとしても自分とは別の世界観だと、混じり合わずに共存しようとするのが真琴の考え方。そこに憧れを抱いて別の世界観だと認識したまま触れあおうとするのが千夏の考え方。
 ふらいんぐうぃっちは日常を描く物語です。ふと目を向けると非日常がそこかしこに転がってはいますが、それらとどうつきあっていくのかは各自の世界観次第。あなたが望むなら、非日常は日常を決して侵しはしません。だから安心して、ときにはひとときの非日常を楽しんでみましょう。きっと楽しいですよ。

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