だから、戻らないと!
みんなで一緒に! はーちゃんも一緒に!
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(主観的)あらすじ
開かずの扉はみらいたちの頭の中に思い浮かべた場所に連れて行ってくれました。校長先生を探して扉をくぐると、そこでは校長先生がドクロクシーたちと対峙していました。校長先生はドクロクシーの正体を見破ります。かつて校長先生とともに「いずれ訪れるという大きな災い」 に対抗しようとしていた魔法つかい、クシィ。闇の魔法を研究していた彼はやがて人としての魂を失い、強い力を求める欲望の残滓だけがその身を動かしていたのでした。ドクロクシーと化した彼はリンクルスマホンと、その中で眠るはーちゃんを奪います。
校長先生はこれまで蓄えてきた魔法の力全てを費やし、生命をかけてでもドクロクシーを倒そうとしますが、プリキュアはそれを止めます。魔法学校のみんなが校長先生を待っているからです。校長先生だけではなく、はーちゃんや今まで出会ってきたたくさんの人々、全ての生命を慈しむプリキュアの心に応え、ついに生命のリンクルストーン・エメラルドがその姿を現します。
エメラルドの輝きは闇の力を退けますが、ドクロクシーはリンクルスマホンを媒介に闇の魔法を使うことでその強大な力を取り込み、ついに本懐を遂げてしまいます。
新しいプリキュアの登場時期から考えて全3回に及ぶであろう大ボス戦の前編。全部自分ひとりの力で片付けようとする大人たちの戦いは、言ってしまえばプリキュアにとってハタ迷惑なお話でしかありません。プリキュアは日常の守り手です。自分勝手な欲望も、自分勝手な自己犠牲も、そんなのまったくもって平和な日常にはそぐいません。力がほしいのならみんなで手をつなぎましょう。勝手なことスンナ!
ところで、さりげなくエメラルドが現れるとともに集めたリンクルストーンが四散しました。前回リコが放り投げた杖のようにいつの間にか回収されるのかもしれませんが、ひょっとしたらもう一度集め直す展開になるのかもしれませんね。ふたりの絆を中心に描いてきたこれまでと、新しいプリキュアを迎えてまた違う物語を描くであろうこれからでは、きっとパワーストーンに託された願いの描かれ方も違ってくるでしょう。
ひとりぼっちの魔法つかい
「いずれ訪れるという大きな災い」 に対抗するためひとり闇の魔法の研究に打ち込んだクシィ。独善的な欲望に支配された現在の姿とは裏腹に、彼の出自は崇高な理念から出発していました。
しかし、少なくともこの物語においては、彼の行動は根本的に否定されるべきものです。
闇の魔法に手を出したのが悪い、という話ではありません。プリキュアは光と闇の相克を描く物語ではないのですから。
彼が実は元々邪悪な思想の持ち主だった、という描かれ方もしていません。プリキュアは安易な勧善懲悪の物語ではないのですから。
身の丈に合わない理想を抱いてしまった、というわけでもありません。プリキュアは世界を救うこと自体を尊ぶ物語ではないのですから。
そうではなくて、魔法つかいプリキュア! は「手をつなぐ」物語なのです。だから彼の過ちは一点、校長先生との協力関係を打ち切り、ひとりで問題を解決しようとしたことにあります。
ガメッツ戦でプリキュアが否定してみせたことですね。どれほど強い力を持っていたとしても、たくさんの人々と絆を結び、たくさんの人の手を借りることのできるプリキュアには劣ります。
彼が優秀な魔法つかいであればあるほどに、彼はひとりぼっちで研究するのではなく、校長先生やたくさんの人々の手を借りて問題解決に努めるべきでした。
みんなと手をつないだところで彼の優秀さが損なわれるわけではないのですから。むしろ闇の魔法の事故を起こした結果、この世界でみんなが手をつなぎうる輪から、ひとりの優秀な魔法つかいが欠けてしまう結果となってしまいました。
近い将来に「いずれ訪れるという大きな災い」 に人々が立ち向かうためにはあまりに大きな損失です。
ひとりぼっちの英雄
「いずれ訪れるという大きな災い」 に備えてひとり魔法の力を蓄え、ドクロクシーの正体を看破してはひとりでその野望を挫こうとする校長先生の行動は英雄的です。彼のような人物は物語によっては主人公として描かれることもあるでしょう。
しかし、この物語はプリキュアです。なんでもかんでも自分ひとりで解決しようとする、彼の大いなる優しさは否定されなければいけません。愛すべき日常の住人たちは一方的に保護されるべき存在ではありません。
だって単純な話、彼のようなヒーローが守りたいと願う日常は、もともと彼らみんなのものなのですから。
どうして誰かひとりが全てを押しつけられなければならないのか。どうして誰かひとりに全てを握られなければならないのか。仮にひとりを代表に立てるとしても、その行動は全体意志に承認されなければいけません。シビリアンコントロールです。彼のようにひとりで勝手に思い詰めて、ひとりで勝手に大ボスのところへ突っ込むなんて論外です。
だいたいが、そんなの悲しいじゃないですか。彼は校長先生です。たくさんの人々の中心に立ち、たくさんの敬愛を集める立場です。そんな人がある日突然いなくなったらたくさんの人が心配します。
プリキュアが守るのは日常です。世界ではありません。日常です。
プリキュアと校長先生で決定的に異なるのはこの部分です。スパルダ戦で描かれたのがまさにそういうお話でした。世界が闇に覆われるのを阻止したいと思うのはどうしてだったでしょうか。それは大切な世界が損なわれるから、だなんて大層な理由ではなく、またみんなと楽しく遊びたいから、そんな素朴な願いからでした。
命をかけてでも使命を果たす、そんな英雄的な自己犠牲の精神で日常は守れません。
だって、そうして守られた世界にはあなたがいないではありませんか。あなたがいて当たり前だった日常が、あなたのせいで損なわれるではありませんか。だから、それだけは断固として否定しなければいけません。
これは「手をつなぐ」物語です。誰かがいなくなってしまったら、みんなでつないでいた輪が途切れてしまいます。どれだけ崇高な理念を抱いていても、どれだけ英雄的な意義があるとしても、誰もを欠くことなくみんなで手をつなぐこと、それ以上に尊いことなんてありません。
もしなにか日常を脅かす問題があるならみんなで取り組みましょう。それはみんなの問題で、誰も欠けることなくみんなで乗り越えるべきものなのですから。
日常を愛する子どもたち
劇中で「絶大なる力」 と称されていたリンクルストーン・エメラルド。エメラルドという石は愛のパワーを大きく増幅するとされます。親が子を思う気持ち、夫婦が互いを思いやる気持ち、そういった思いをパワーに変えて、あなたが愛する人みんなを幸福にしてくれます。持ち主が大切な誰かの幸せを強く願えば願うほどに、たくさんの人の幸せを願えば願うほどに、エメラルドは世界を幸福で満たしていきます。
持ち主以上にその周囲の人々に対してパワーを発揮するというのは、無数にあるパワーストーンの中でも珍しいかもしれません。もし持ち主が「あまねく生命に祝福を」 贈るのならば、きっとこの石以上に「絶大なる力」 を発揮するものはないでしょう。
プリキュアシリーズの中でもひときわ精神的に幼いみらいとリコは、これまで本当にたくさんのことを学びました。
家族の愛に守られてきたみらいは、世界中に散らばるステキなものを見つけられる好奇心いっぱいの子に育ちました。姉や魔法商店街の人々に将来を祝福されたリコは、たとえうまくいかなくても努力をやめない芯の強い子に育ちました。
補習では魔法つかいにとって大切な心構えをたくさん学びました。行動することや諦めないこと。魔法をうまく扱うことができず自信を失いかけていた子どもたちのために、教師たちはじっくり時間をかけて自分を好きになれる方法を教えてくれました。
ナシマホウ界ではたくさんの人に出会いました。みんなそれぞれに違う考え方があって、違う視点があって、その中で「見方を変える」ことの大切さに気付くことができました。何気ない日常の中にたくさんの学ぶべきことがあると知りました。
たくさんの人が彼女たちに優しく、暖かく接したおかげです。たくさんの人が子どもたちを愛してくれるから、子どもたちは自分の世界をステキなものだと歓迎することができます。たくさんの人が子どもたちにものを教えてくれるから、子どもたちもまた世界のステキさを誰かに伝えたくなります。
今、世界はキラキラと輝いています。みらいとリコの世界が愛で満ちているから。大人は欲望だの使命だのややこしいことに振り回されて大切なことを見失っちゃうこともありますが、子どもたちは子どもたちだからこそ一番大切なものを示すことができます。「戻らないと!」 と。「みんなで一緒に!」 と。
子どもたちに日常のステキさを教えてあげたのは大人たちです。だから、子どもたちの日常をキラキラ輝かせつづけるには大人たちの存在が不可欠です。大人たちが子どもたちを祝福するように、子どもたちだって大人たちを祝福するのです。与えた愛は返ってきます。
だって愛し愛されるもの全てが揃ってこその、日常なのですから。
手と手をつなぎあうこと、それこそが奇跡の魔法。それこそが日常を守るただひとつの手段。
世界を闇で覆い尽くす力が「究極の魔法」であるものか。「究極の魔法」は先生の愛情に気付き、受け継いだ愛を世界に向けて高らかに歌い上げた、白い魔女の子守唄だったはずです。
今週の魔法文字
校長先生の魔法陣:「KISEKI」「MAHO」「SYUKUFUKU」
奇跡。魔法。祝福。珍しいこともあるもので、なんと魔法文字によるネタバレです。それ自体は公式サイトで明かしてある内容ではあるのですが、いよいよキュアフェリーチェが登場するんだなあとワクワクしますね。
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