コンクリート・レボルティオ第24話感想 超人なんて幻想。では幻想に価値などないのか。

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おそろしく当たり前のことを、あきれるほど真摯に、心に深く刻み込ませるように語り聞かせてくれた物語でした。

 子どもの頃、ヒーロー番組が嫌いでした。
 ヒーローは好きでした。強くて優しくてカッコイイから。アンパンチだのライダーキックだのスペシウム光線だのと、よくごっこ遊びしていました。
 けれど彼らの活躍するヒーロー番組は意外と暗くて、意外と辛くて、戦闘シーンはともかくドラマパートはひどく退屈でした。番組後半まで絵本を読んだりゲームをしたりして時間を潰していました。

悪として

 人吉爾朗の最後の戦いは、彼の愛する超人たちを相手に繰り広げられました。世界が超人たちを人間に近しい者とそうでない者のふたつに分けて、片方を迫害しはじめたからです。超人に憧れ、超人を守るために戦い続けていた爾朗にとって、それは看過できる事態ではありませんでした。

 ただし、それは迫害された片方を守るための戦いではありません。
 「爾朗、私たちと逃げて」 鬼野笑美たち迫害された者の懇願を、しかし爾朗は拒否します。「逃げる必要などない。浮上しろ」 爾朗は彼女たちを逃がすために現れたのではありませんでした。
 「彼らは、人類と戦うことを選んだ」 笑美たちはそんなこと言っていません。「密かに各国政府と交渉している。私たちの独立を認めるように」 むしろひっそりと、人の目を逃れて生きることを選んでいました。「例えば友情。例えば家族。そう、例えば愛。そのために戦うとき、私たちは一番強くなれると思わない?」 かつて人間を守るために振るわれていた超人の力を、自分たちのほんのささやかな幸せのためだけに使うことを選んでいました。
 爾朗はそれを認めることができませんでした。看過することができませんでした。彼は戦います。迫害された者たちを巻きこんで。

 「しょせん、怪獣と人類は敵同士。それだけのことだ!」 ここに至って爾朗は怪獣になることを望みます。あれだけ忌み嫌っていた怪獣に。ただの人間には抗うことのできない怪獣に。超人たちの絶対的な敵である、怪獣に。
 テロリズムという絶対悪を行ってでも己の正義を求めようとした柴来人。そんな彼とシンクロした爾朗は、圧倒的な暴力を武器に暴れ回ります。己の写し身のようにひとつの正義を追い求めた少年を叩きつぶして。無理矢理に巻きこんだ者たちをも薙ぎ倒して。全ては己の望む未来を掴み取るために。
 「あいつ、仲間も見分けがついてないのか!?」 そんなことはありません。これこそが爾朗の望み。人間に近しい者、迫害された者、理不尽に分かたれた超人たちを全員一緒くたにまとめて相手取る、凶悪な怪獣になることこそが爾朗の望みです。

 なぜなら、悪のあるところには必ず正義の超人が現れるから。
 「これ以上は許しません!」
 そして爾朗は対となる正義に星野輝子を選びました。贖罪のために。その人選自体に大した意味はありません。この戦いに望んだ彼の、数少ない私的なわがままです。
 けれど実際彼女ほどこの戦いに相応しい人物もいません。だって彼女は「たくさんの人間を魅了し、知らず知らずのうちに契約を結ばせる。それが力となる」 超人なのですから。それのなにが悪いものか。言い換えるならそれは「人間に愛されるほど力を得る」 誰よりも優しい強さの持ち主だということです。

 全ての超人の敵たろうとする爾朗にこれほど相応しい相手は他にいません。
 「今、みんなが輝子さんを信じて、期待して、それが力になってる」 輝子がありとあらゆる超人たちの力を束ねたならば、それはすなわち爾朗が全ての超人たちと等しく敵対したことと同義。
 ・・・つまるところ、爾朗は超人たちに正義を取り戻そうとしたわけです。彼らが正義を失っているから。超人らしく生きる術を見失っていたから。自らが倒すべき巨悪となることで、彼らがもう一度正義の超人として認められる世界をつくろうとしたのです。
 正義を失った超人たちが社会悪となることを爾朗は良しとしません。正義を失った超人たちが「愛」だのとごく私的なことに力を振るうことを爾朗は良しとしません。そんなもの、幼い頃に彼が憧れた正義の超人ではありません。
 爾朗の憧れた天弓ナイトは超人的な力を持たないただの人間でした。超人が超人たる本質は、力ではなく心のあり方です。少なくとも爾朗の憧れた超人はそういう存在でした。
 さあ、今こそ超人を喪失させた灰色の世界に革命を起こしましょう。今一度無数の超人たちが百花繚乱の活躍を見せる、あの輝かしい世界を取り戻しましょう。

 結局のところ爾朗は第1話から、あるいは神化34年から何も変わっていません。
 たくさん傷つき、迷い、失いもしましたが、どこまで行っても人吉爾朗は超人に憧れる少年で、超人を守るために戦う超人課です。

愛として

 けれどそんな英雄的な死なんて認められるはずがありません。爾朗のようにたくさんの人に愛される人ならなおさら。
 自分の理想に酔っ払いすぎです。自殺したいなら一度自分の死を嘆く人が何人いるか数えてごらんなさい。彼らは幸せそうですか? あなたの葬式は本当に理想の世界ですか? その視野狭窄な頭、悪酔いする前に冷や水をぶっかけてやらなければいけません。

 爾朗の兄代わりだった芳村兵馬が、レッドジャガーを用いて、爾朗の英雄的な最後の舞台を木っ端微塵にぶち壊します。女の子によるお姫様だっこのおまけ付き。
 婚約者を自称する鬼野笑美は、爾朗の目的を知らないながらも彼のために献身的に立ち回り、「エネルギーのために超人と人類が争う愚かな世界」 からの脱出を呼びかけます。
 超人を守る爾朗に憧れた星野輝子に至っては、「だったら私はいつまでもただの無邪気な子どもで、爾朗さんに会ったときのまま、何も知らない子ならよかったんですか!?」 と、彼の身勝手な感傷をメタクソに全否定します。そんな子どもはここにいませんし、取り戻せるものでもありませんし、そもそも初めから存在しません。輝子は出会ったときから恋する少女でした。純粋な女の子なんて爾朗の頭の中にしかいません。

 爾朗が死んだら幸せになれない人がいます。たくさん。その点で爾朗の描いた理想は初めから破綻していました。
 「そう、例えば愛。そのために戦うとき、私たちは一番強くなれると思わない?」「その言葉はとても魅力的だ。だから恐いんだ」 爾朗だって認めていたではないですか。愛は強いと。その強い愛に囲まれていて、それらと敵対して、どうして勝てましょうか。

 正義の味方になれないからといって、その逆の悪を演じてみたところで正義なんて成せるわけがないわけで。「自分の命を差し出し、何かを成し遂げた気になる。自己犠牲ショーは終わりだ」 これに尽きます。
 だから、せいいっぱい大人ぶった男の子に贈るべき言葉は「バカね」

ヒーローとして

 「さあ行け。妖怪だの怪獣だのを引き連れて別の世界へ消えてくれ」
 さて、ここまでは里見義昭の台本どおり。彼の筆による無理のない筋書きは、誇り高い鬼野笑美すらも渋々ながら納得させます。
 けれどそこは悪だくみする者の常。勝ち誇って余計なことを口走ってしまった愛すべき愚か者は、自身を悪役とした新たな舞台を開演してしまいます。

 「この世界は超人を夢見る子どもから、大人にならなければいけないのではないか」 この発言を引きだした風郎太グッジョブ。
 人吉爾朗は何者だったでしょうか。彼は子どもの頃から超人に憧れ、そして今なお愛すべき超人たちを守るため戦ってきた男です。三十路にしてなお正義の超人が大好きな男の子です。
 「私を倒す、か。そんなことをしても何も変わらんよ」 そういう問題ではないのです。物質的にどうこうという観点では、世界の秩序を整え、エネルギー問題すら解決した里見の正しさは揺るぎません。けれどそういう問題ではないのです。世界には超人が必要なのです。

 「爾朗。正義の味方になりたかったのはお前だけじゃないんだぜ」 強い者、優しい者、正しい者に子どもたちは憧れるものです。
 「だから今の僕は、人吉爾朗の味方なんだ」 だからこそ、子どもたちは強い者、優しい者、正しい者になろうとするのです。
 「超人などいてもいなくても世界は何も変わらない」 そんなわけがないのです。
 「たったひとつの正しいことを求めても、自分の心すらままならない。それでも、探し続ける意味はある!」 強い者、優しい者、正しい者に憧れた子どもたちはいつか、強く、優しく、正しい大人に成長するのです。子どもたちが善く育つための糧を、善く育った大人たちの成果を、世界から奪っていいはずがありません。

 こうして里見義昭は人吉爾朗の対存在として舞台に上がりました。ヒーロー番組の常として、ヒーローの言説の正しさを立証するために。物質世界の損得論は道徳的な思想戦にすげ変わりました。あとは正しい方が勝つだけです。
 私は子どもの頃、ヒーロー番組が嫌いでした。強くて優しくてカッコイイヒーローが、現実には居もしない悪の秘密結社に傷つけられ、ときには現実にはあるはずのない戦闘力を理由に民衆からも迫害される、そんな理不尽で暗くて辛い物語が嫌いでした。どうして誰よりも立派な人が、誰よりも不幸な目に遭わなければならないのか。
 それは物語だからです。ヒーローたちは強いから戦うわけではありません。敵がいるから戦うわけでもありません。誰かに伝えたい思いがあるから戦うのです。誰かに憧れてほしいから強くて優しくてカッコイイのです。どんな苦難にも負けない大切な思いを立証しなければいけないから敵が立ち塞がるのです。
 コンクリート・レボルティオの超人たちがどうして正義を失ってしまうのかといえば、単純な話、無数の英雄譚が入り交じってしまった結果、彼らは本来戦うべき悪以外と戦うことになってしまったからです。彼らが謳うべき彼らの理想に真っ正面からぶつかってくれる敵を失ってしまったからです。こんなんじゃそれぞれの物語は成立しません。

 放送期間6ヶ月に及ぶ人吉爾朗の旅路は24篇もの英雄譚を紡ぎました。謳われる超人たちはみんな病んでいて、満身創痍で、歩むべき道を見誤っていましたが、それでも確かにヒーローでした。
 命を削って悪と戦う巨人。純真無垢な子どもの友達。正義と私心の間で苦しむ刑事。愛する人のため献身する半妖。大義のために利用された弟を解放した子ども。誰かの笑顔のために道化を貫くコミックバンド。約束を破ってでも正しいことを成した元悪者。揺らぐ正義の中で正しさを追いつづけた少年探偵。悠久の平穏を誰よりも尊ぶ家族。己の消滅を恐れず過去と戦った男。世に正しい道を示そうとした扇動者。理不尽に奪われようとしている正義を守るため立ち上がった学生たち。立場を越えてひとりの少年を救った超人たち。外宇宙の犯罪者から地球を守ろうとした戦士。愛しい人類のために使命を曲げた老人。ただの人の身でありながらその技を神饌へと昇華したスポーツマン。どれほどの悪意に晒されても愛することをやめなかった高位存在たち。我が子のために超人たろうとした父親。正義のために愛する人を喪失した少女。同胞の誇りを守るため汚れ役を務めた軍人。救いを求める声の行方を問い続ける機械人形。息子を守るためにあらゆる手を尽くした科学者。歌を通じて世の中を変えようとする広告屋。そして超人のいる世界を守ろうとするヒーロー。・・・ええと、24人出してもまだまだいますね。
 「たかが歌。たかが映画。たかが漫画。たかが超人」 その「たかが」。人吉爾朗の物語はその「たかが」を幾重にも世界に張りめぐらせていきました。子どもたちが憧れられる「たかが」を。大人たちが誇れる「たかが」を。

 人吉爾朗の戦いは「たかが」を笑う敵を殴り飛ばすための戦いです。
 「正義なんていくらでもある」 事実です。ヒーローの物語は無数にあります。「超人なんて子どもの夢」 事実です。しかしヒーローへの憧れは子どもたちを大きく育てます。「現実を変えることなんてできない」 見解の相違です。ヒーローへの憧れそのものに現実を変える力はありませんが、憧れは現実を変える力を持つ大人を生みます。
 「たかが」憧れの力は、「たかが」と笑えるものではありません。現実すらも変えてしまえる大きな力です。その証拠に、爾朗の拳は仲間たちの協力を経てついに「たかが」を笑う里見の横っ面へと届きます。

 結局のところ爾朗は第1話から、あるいは神化34年から何も変わっていません。
 子どもの頃に超人に憧れ、憧れの超人の助けになりたいと願い、そしていつか自分もまた子どもに憧れられるような超人になりたいと望む、どこにでもいるただの男の子です。
 「俺はあんたという悪を倒す、超人だ!」

憧れとして

 悪をやっつけたらヒーロー番組は終了です。里見を殴り飛ばした爾朗も例外ではなく、役割を終えた彼は姿を消してしまいます。
 しかし失われたわけではありません。彼の残した足跡は街中に息づいています。街には超人を題材にしたおもちゃや漫画、テレビ番組が溢れ、超人たちは人々の心の中に生き続けます。
 「あんたのようなやつに会うのはこれが初めてじゃない。たぶん最後でもない。俺がどうしてもあんたと戦わなければならなかった理由が・・・。超人には必ず対になる悪がいる。俺たちはあんたという悪を倒す、超人だ!」

 人吉爾朗は、超人は、けっして失われたわけではありません。彼らは世界に息づきました。子どもたちが憧れる物語として。現実を変える強い大人を生む仕組みとして。
 どんな敵が現れても恐れることはありません。この世界には無数の超人の物語があって、そのうちのひとつは絶対にあなたの目の前の敵と対になっているのですから。
 どんな強大な敵が現れても恐れることはありません。この世界の人口と同じ数だけ、この世界には超人が生きているのですから。

 この物語はコンクリート・レボルティオ。超人たちの幻想が人々の心に息づく物語です。どうしようもなく固く、変わりようのない灰色の砂礫で覆われた世界すらも、人の心に宿る力で革命できる物語です。

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