コンクリート・レボルティオ第20話感想 ヒューマニズムという正義

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アメリカ人よ! 征服者よ! 人道主義者の練り歩きよ!
真っ先のものよ! 前進する世紀よ! 自由民よ! 大衆よ!

――ウォルト・ホイットマン

 昭和というテレビヒーロー黎明期に描かれた特撮・アニメ作品と、激動の時代でもあった当時の事件とを紡ぎ合わせ、多様な正義のあり方、多様ゆえの心許なさを描いたアニメ、コンクリート・レボルティオ。いかにも描きたいものを描いている感じでとっても面白いです。
 各話感想を書くには私が浅学すぎるので、最終話まで見てからふわっと個人的なヒーロー観あたりでも書こうかなと思っていたのですが、20話には少し思うところがあったので短めに感想を書いてみようと思った次第。(ひととおり書き終わったあと振り返って:・・・短めに?)

 どうでもいいことですが、記事冒頭に内容と直接関係のない偉人の言葉を引用するのはなんとも卑怯な印象ですね。以後控えよう。(たぶん)

世界よ人間たれ

 ヒューマニズムという思想があります。人文主義。「人はどうして正しい行いができるのですか?」 その問いにこう答える考え方です。「それは、人間が正しい行いを見分ける力を持っているからだよ」
 この場合の見分ける力とはなにかといえば、それは理性です。ものごとを推論する力。目の前にある問題に対してより相応しい答えを推し見出す力が人間に備わっているなら、人間は誰に教わるまでもなく正しい行いができるというわけです。
 ひとつ前の時代に「それは、神様が正しいことを教えてくれるからだよ」 と説明されていた反動もあって、西欧では人間の持つ理性がことさらに尊ばれるようになりました。我々が人間であることは素晴らしい! 我々の生み出した文明は素晴らしい! 我々の武器が生存圏を開拓することは素晴らしい! だってそれらは理性の産物ですから。

 ・・・それはつまり、人間とそれ以外を切り分ける考え方でもあります。
 「一方で、人類より古き者たちは人類の進歩を阻む足かせでしかない」 理性は人間が持つ力です。人間以外の獣(あるいは妖怪)たちは人間ではないのですから、当然に理性を持ちません。そして人間が正しい行いをするためには理性が必要だというならば、理性を持たない獣(妖怪)は人間の敵です。
 すなわち、人間を第一の価値と考えるあり方。ヒューマニズム。
 「お前たちにはJusticeがない。悪しき力も、正しき力も、全て偶像にして奉る」 Justiceとは正しいものと間違っているものを選り分ける行為を語源とする言葉です。日本人がイメージする正義とは若干異なります。アメリカの裁判所に飾られる天秤は選り分けるための道具。

 余談ですが、シーシェパードがアメリカ人に支持された背景にはこのヒューマニズムの影響もあるといわれます。鯨は人間以上に大きな大脳を持っている→つまり人間よりも発達した知能、ひいては理性を持っている→理性を持つ彼らは我々の同胞だ。
 人間が人間であることを示す指標は、いつの時代も人間にとっての根源的なテーマですが、ヒューマニズムという思想においてそれは「理性」と定義されたわけです。その理屈に基づくなら、なるほど、鯨は疑う余地なく人間です。(実際に鯨が人間のような知能を持っているかどうかの論議は別として、彼らの世界観ではそうなります)

 その思想の是非、善悪、巧拙は問題ではありません。もとよりコンクリート・レボルティオは無数の正義が併存するアニメです。どんな思想にだって正しいことと悪いことの別があり、それぞれにそれぞれの正義があります。それを否定するのはただ不誠実なだけです。

 「ステイツは我々が拓き、我々がつくった国だ。人間の匂いしかしない」「土着民の文化を完全に封印した上で国家をつくりあげたからこそ今日の繁栄がある」「我々にはこの栄光を全ての人類に分け与える義務がある」「俺たちはキャタピラの響きとナパームの炎で全ての人々を啓蒙する!」
 その全てが、理性を正義と戴くかぎり絶対的な善です。その全てが彼らに彼ら自身を強く肯定させる誇りなのです。果たしてこれらの言葉が狂気に見えますか? それはあなただけの価値基準、あなただけの世界観での判断です。彼らにとってこれらの言葉は正義。あなたの世界の外側には、別の人の世界があるのです。
 「そもそもが帝国主義者の産物とは根幹が違う」「超人の軍事利用にいったいどんな違いがあると?」「大義だ」
 人吉爾朗はそのことを理解しきれていませんでした。

「正義は勝つ」

 ベトナム戦争は大国アメリカが敗北した数少ない戦争です。敵国ソ連が拡げつつある共産主義を食い止め、代わりにアメリカ文明の旗印たる資本主義で教化しようとベトナム内戦に介入しましたが、ベトナム人ゲリラの活躍や本国の反戦運動によって撤退を余儀なくされました。
 それをモデルとしたメコンデルタ戦役もどうやら概要は同じようです。Booger(アメリカ他西欧圏)、ElCoco(スペイン語圏)、Troll(北欧)、妖怪(日本)・・・そういった理性の外にある古き者から人間を解放するための戦いだそうな。つまるところ、ベトナム戦争との違いは彼らの布教したい思想が資本主義かヒューマニズムかの違いでしかありませんね。

 ところがジョナサンたちステイツの思想家たちは現地人の抵抗に遭うわけです。倒すべき古き者たちではなく、ともに理性を戴くべき人間の手によって。
 彼らにしてみれば恐ろしく理不尽な話です。彼らのヒューマニズムに基づけば、妖怪たち古き者は人間の敵で、そして彼らの理性が生み出した武器はそれらの敵を駆逐することができるはずでした。ごくシンプルな勧善懲悪です。しかし現地人たちが彼らの謳う勧善懲悪の物語を拒絶するのです。彼らとともに理性を戴くことができるはずの、彼らと同じ姿形をした、人間たちが。
 ハタから見ている視聴者にとっては彼らが抵抗に遭うのも当然なことだとわかるのですけれどね。ステイツがヒューマニズムと理性を戴くように、メコンデルタの人々にも彼ら自身の思想があり、かけがえのないものがあるのですから。

 あげくステイツの思想家たちは敗北します。それは彼らの正義である、ヒューマニズムの敗北です。彼らに人間としての誇りを与え、彼らに豊かな文明を授け、人ならざる者に打ち勝つ武器を生み出した、理性は敗北しました。
 理性が人を正しい行いへと導くのなら、いったいこの敗北はどういうことでしょうか。この敗北は人間にとって正しいこと? それとも理性は人間を正しく導かない? どちらにしても自己矛盾です。
 ヒューマニズムと理性の敗北は、それらが与えてくれた正義や栄光、誇り、そういった人間にとって大切な何もかもをジョナサンたちから取りあげてしまったのです。
 「それでもあのジャングルを抜け出せば証明できる日が来ると思ってた。この戦いは正義だと。戦いに意味はあると。・・・その結果がこれさ」

 「正義は必ず勝つ」「勝ったから正義だ」 正義とは様々な視点から語られてきた言葉ですが、その一側面がこれです。ある正義においては、もし正義が敗北したなら、それは正義じゃない。

彼らの愛するかけがえのないもの

 要するに、ジョナサンがステイツへ帰れなかったのは彼がステイツ国民としての正義や誇りを失ってしまったからです。設定上は人体実験がどうとか軍の意向がどうとかそういう説明がなされますが、物語としてはそういうことです。妖怪や祭壇、理性の外にあるものに恐怖するジョナサンはもはやステイツ国民たり得ません。
 「あなたが最初に求めた力は間違いなく正しいものだ」 熱っぽく自分の正義を語る爾朗を眩しく見つめるのは、それがすでに彼の内から失われてしまったから。彼の正義は今もメコンデルタのジャングルに転がっています。彼の在処は日本にはなく、ステイツにもなく、もはやそれは戦場だけ。
 だから彼は帰ります。メコンデルタの戦場へ。観音像の見下ろすあのジャングルへ。自らの身体を、己の正義を敗北せしめた象徴、千手観音に模して。ヒューマニズムを負かした者に変身したジョナサンは無敵です。今度こそジョナサンのヒューマニズムは何者にも負けないでしょう。・・・彼の戦場においては。

 それは確かにヒューマニズムの体現です。メコンデルタを教化しようとした戦争の続きです。けれど、そんなものジョナサンの本当の願いとはまるで正反対ではありませんか。彼はステイツに帰りたがっていたではありませんか。たとえその資格を失っていたとしても。
 ジョナサンの正義、状況を正しく認識できていない爾朗に彼を救うことは不可能でした。正義と誇りをメコンデルタに置き忘れたジョナサンは、たとえ肉体はステイツへ密入国できたとしても、かの国のヒューマニズムに適応することはできなかったでしょう。もはや彼は理性を信頼することができません。それができないからこそ千手観音という理性の外の力に縋ったのですから。

 だから彼を正しく理解し、救ってやれるのは思想を同じくしたステイツの同胞だけ。
 カロルコ大佐は妄想の中の戦場で戦い続けるジョナサンの悪夢を終わらせ、彼が正義や誇りを失ったことを秘匿したままステイツへ帰しました。ステイツ国民はジョナサンがメコンデルタに置き忘れたものを知ることもなく、彼を誇り高い正義の軍人として、ヒューマニズムの国へと喜んで迎え入れるでしょう。これだけがジョナサンにヒューマニズムを取り戻してやれる唯一の手段。これだけが本当の意味でステイツへと送り届けてやれる唯一の手段だったのです。

 「いいや、連れて帰るのだ。故郷に。せめてもの名誉とともに」
 思えばカロルコ大佐はジョナサンの身柄確保にあたって機密秘匿に拘り、マスター・ウルティマに爾朗確保を指示されたときもジョナサン追跡任務の方にこそ執着を見せていました。ヒューマニズムの言葉どおり、彼はまさに何よりも先に人間を愛していたわけです。
 「曹長、もう戦う必要はない!」
 劇中ではどちらかというと悪役めいた描かれ方をした彼らの思想も、見方を変えれば暖かなものが確かにあるのです。ジョナサンやカロルコ大佐は悪ではありません。彼らとてひとつの正義。この物語はコンクリート・レボルティオ。無数の正義が併存する物語です。

 「ジョナサンは超人に憧れ、超人になろうとした。それだけで俺には助ける理由があった。見届ける義務もな」 ジョナサンの正義をあくまで自身の正義観によって読み解く姿勢を貫いた人吉爾朗。果たして最後に彼はどんな答えへとたどり着くのでしょうか。
 願わくば彼が彼自身の答えに満足できますように。叶うならその答えが彼自身と我々にとって、優しいものでありますように。

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