この世界の片隅に 観ていて腹が立ったシーン3選。

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ずうっとこの世界で普通で・・・まともで居ってくれ。

このブログはあなたが視聴済みであることを前提に、割と躊躇なくネタバレします。

どうでもいい前書き

 世間の話題に乗り遅れること3ヶ月。ようやっと観ることができました。
 観に行ったのはちょっと離れたところにある小さな映画館。なぜだか妙に客席が暖まっていて、「傘を1本持てきたか」のくだりとか楠公飯の食事風景とか、こまごまいろんなシーンで笑い声が聞こえてきましたよ。子どもの頃に公民館でドラえもんの映画を観たとき以来ですね、このノリ。
 この劇場の雰囲気がまたこの映画とよく合っていまして。そして物語が進み、どんどん話が重くなっていくと、今度はそれに合わせて劇場の空気も暗く、湿っぽく。
 ・・・とてもステキな観劇体験でした。激しく心揺さぶられる映画でした。

 ということで以下感想文です。無駄にセンセーショナル気味なタイトルを掲げていますが、作品を貶す言論は一切含まれていませんのであらかじめご了承ください。なんというか、こうでもしないとうまく感想がまとまらなかったってだけなんです。

ゼロからはじまる嫁心

 広島の海苔農家に生まれた主人公・すずさんは、家同士の取り決めによって呉市の北條家に嫁ぎます。夫になる人とはほんの一言二言しか言葉を交わさず、相手方の家族に至っては顔すら知らないままに。
 もちろん夫に対して恋愛感情なんてあるはずもありません。見知らぬ土地、初対面の家族。何もかもが手探りななかで、彼女はまっさらなところから新しい生活スタイルを築きあげることになりました。
 恋愛結婚が主流の現代において結婚はゴールかもしれませんが、すずさんにとってはスタートです。まず先に嫁という肩書きがあって、それからその肩書きにふさわしい人間になることを求められます。今はまだ好きでも嫌いでもない夫を愛さなければいけません。気性も好みも知らない家族と協力して家事を覚えなければいけません。

 こう書くとずいぶん窮屈そうな人生で、実際後の世には女性解放運動が流行もしましたが、ことすずさんにおいてはそれほど不幸せなものではありませんでした。
 彼女は楽天家でマイペースです。幸いなことに新しい家族も優しく親切な人に恵まれました。(小姑の嫁イビリはありますけどね!) もちろん苦労は少なからずあり、一時期はストレスからかハゲをこしらえもしましたが、彼女はのんびりと自分らしさを失わず、おおむね日々よく笑い、よく打ち解けました。
 恋もありました。もちろん相手は夫。夫婦になってから恋をするというのも現代の感覚では妙に感じますが、実際初夜に枕を並べた時点ではまだ肩書きが夫というだけの他人。キスを求められてもされるがまま。それが次第に、特別なきっかけなんてなく、本当にただ日々を積み重ねることによって、すずさんはやがて夫に恋するようになりました。いつかの日の土砂降りの雨の中、つくりたての防空壕で交わしたキスは初夜のそれとは異なり、お互いに求め合う甘いもの。

 浦野すずは日々の奮闘の末に北條すずとなり、呉市に自分の居場所をつくりあげました。
 愛する夫と、自分を受け入れてくれる家族ができ、のんびりとよく笑い、彼女は人並みの幸せな日常を手に入れました。

 『この世界の片隅に』は、そんなかけがえのない普通の幸せが、戦争という理不尽によって脅かされる物語です。普通が普通でなくなっていく時代の波からかけがえのない普通の幸せを守ろうと、圧倒的な理不尽に抗い続ける女性の物語です。

腹が立ったシーン1:幼馴染みの水兵との一夜

 さて、この気取った前フリからどうやって本題に移ろうか。

 すずさんはある日、偶然再会した幼馴染みの水兵と一夜を共に過ごすことになりました。夫の計らいです。
 夫は客である水兵を納屋に追いやり、そのうえですずさんに行火を持たせ、すずさんをも母屋から締め出しました。要は一晩帰ってくるなというわけです。水兵と寝ろと。
 実際すずさんも水兵のことを憎からず思っていました。もし今の夫との縁談がなければ、きっとこの男性と夫婦になっていただろうと思うくらいに。
 気心の知れた幼馴染みへのすずさんの態度はとてもわかりやすいもので、彼を客として迎えたこの日、夫はこれまでに見たことのない妻の表情をたくさん見ることになりました。それはとても自然な、あどけない少女のような表情でした。
 だからこそ、彼はひとつ計らいを立てます。

 ふざけるなと。
 すずさんと一緒に私も腹を立てました。「うちはずっとこういう日を待ちよった気がする。でもこうしてあんたがきてくれて、こんなに傍に居ってのに。うちは・・・うちは今、あの人に腹が立って仕方がない!」 あの温厚なすずさんにここまで言わせるその所業。言われて当然ですよ、こんなの。
 だって愛されているのが丸わかりじゃないですか。妻を愛しているからこそ、その本来の思い人への気持ちを成就させてあげたい。そもそもすずさんとの縁談は自分が一方的に望んだもので、つまり自分は彼女の本来の思いを踏みにじってしまっていたのかもしれない。ならばこそ、せめてこの一夜くらいは。たとえ大切な妻の肢体を他の男に汚させることになっても。なんという優しさ。なんという愛情。なんという自己犠牲。
 ふざけるなと。今のすずさんが誰を愛しているか、彼だってわかっているでしょうに。愛する夫が苦難を飲み込む様を喜ぶ妻がどこにいるものか。もし彼がすずさんの愛情を本気で疑っているというなら、それならまだしも救いがあります。それならもうどうしようもない。夫婦関係の破綻です。気兼ねなくかつての思い人に抱かれてしまえばいい。
 けれど、あなたはそうじゃないでしょう?

 後日、すずさんは激しく夫婦げんかをします。夫に対してはじめて怒鳴り声を上げます。改めて確認してみて、やっぱり夫には自分への愛情があると見て取れたから。
 「どうでも良うないけえ怒っとんじゃ!」 ささいな気の迷いから夫婦関係を破綻させようとした意気地なしに正々堂々気持ちをぶつけ、すずさんはまた少し嫁らしくなっていきます。
 どこにでもある普通の幸せを盤石のものにしていきます。

腹が立ったシーン2:焼夷弾をぼんやり見つめるすずさん

 戦況は苛烈を極め、軍が拠点を置く呉市は米軍の空襲を頻繁に受けるようになりました。
 それでもすずさんは普通の日常を見失わず、少ない配給で献立を組み立て、眠れぬ夜の続く日々にも負けず、笑い続けました。笑顔こそが我ら最後の砦だとでもいわんばかりに。
 前線が地獄なら銃後は修羅です。軍人が守りたいと願うものは、往々にして民衆の意地によって繋ぎとめられているものです。帰りたいところは帰ってきてほしいところ。ときは総力戦の概念が成立してしまった時代。

 しかしながら戦争という理不尽は圧倒的に強大。すずさんはついに決定的な敗北を喫することになります。姪の死。右手の欠損。
 このあたり、原作よりもずいぶんと重いシーンに仕上がっていますね。海の見える場所を求めて自ら爆弾の落ちた箇所に足を踏み入れてしまった。時限式の爆弾があるという知識があったにも関わらず不発弾に気付くのが遅れた。不幸な事故だったという客観的な事実はそのまま、すずさんの主観においてはより後悔がつのる状況設定です。

 姪の死だけでも飲み込めないというのに、あげく右手が失われたという理不尽がすずさんの心を蝕みます。
 たくさんの思い出が刻み込まれた右手。失われました。取り戻せません。特に、大好きだった絵描き。もう二度とできなくなってしまいました。
 実際のところ、戦時下の厳しい情勢においてすずさんは満足に絵を描けずにいました。絵が描けないということが、ただちに今この瞬間の何かに影響を与えるわけではありません。それでも、それは彼女にとって何よりも決定的な欠損でした。
 それは彼女の「普通の日常」の象徴です。平和だった頃にはよく絵を描いて遊んでいました。今は戦時下という異常環境なのでいくらか我慢を強いられるのは仕方がない。今もできるだけ普通の日常を維持するべく頑張っていたけれど、どうしても叶わない「普通」はある。
 けれど、戦争が終わったなら。普通のことを普通にできる日が戻ってきたなら、今度こそ心の赴くまま自由に絵を描く「普通の日常」を謳歌しよう。
 そんなささやかなどこにでもある普通の願いが、潰えました。

 彼女を好いてくれた幼馴染みの水兵は言いました。「すずが普通で安心した」
 しばし家を空けている夫は尋ねました。「この家を守りきれるかの」
 普通じゃなくなりました。守りきれませんでした。すずさんは結局、家族みんなで笑いあえる普通の日常を、永遠に取りこぼしてしまいました。

 理不尽に対して決定的な敗北を喫したすずさんの元に、焼夷弾が落ちてきます。大切な家を焼き尽くそうと火の勢いを強めていきます。夫と交わした約束を守るなら、彼女は直ちにその火を消さなければいけません。
 しかしすずさんは動きません。彼女はすでに敗北してしまったから。何をしたって普通の日常はもう帰ってこないから。長い長い逡巡。冷え切った眼差し。笑顔を絶やさなかったすずさんはいったいどこに消えた。
 原作と少し趣の異なる逡巡が挿入されたあとの激昂は、私には単なる八つ当たりに見えました。家を守るという目的は従。誰が相手でもいいから当たり散らしたいという動機が主。
 「歪んどる」 そう、歪んでいます。これまでずっと笑顔で普通の日常を守り続けてきたすずさんは、もうここにはいません。ここにいるのは心がポッキリ折れた、空っぽの誰かさんだけ。

 その後も誰かさんは我が身の危険も顧みず、たまたま庭に通りがかったサギを救おうとします。美談か、ロマンか。いいえ、単なる自暴自棄です。我が身の優先順位が低すぎる。
 空っぽの誰かさん。ついには自ら居場所を築いた北條の家を捨てると言いだします。

腹が立ったシーン3:玉音放送

 普通の日常を失い、空っぽになった誰かさん。その穴を埋めたのは他でもない、彼女の夫と家族でした。彼女の描いた日常の残滓。彼女の築いた居場所が、日常を失ってなお彼女の心に「すずさん」を繋ぎとめてくれます。
 「すずさんが嫌んならん限り、すずさんの居場所はここじゃ」 姪を亡くし、右手を無くしたどうしようもない欠落はもはや取り戻せません。ですが、彼女が守ろうとした普通の日常の残滓をかき集めたなら、満身創痍ながらもすずさんの心を埋めるに足りました。

 すずさんの普通の日常を脅かそうとしているのは、戦争という名の圧倒的な理不尽。元より無傷で守り抜けると考える方が甘かったのかもしれません。
 「うちは強うなりたい。優しうなりたいよ、この町の人みたいに。そんとな暴力に屈するもんかね」 すずさんは再び理不尽に抗うことを決意します。傷つきながら、強かに。

 そんな矢先に玉音放送。大日本帝国敗北のお知らせ。生まれて初めて聞いた天皇陛下の声が、無数の人命が失われたことを無意味だったと、質素倹約を心がけ普通の生活を我慢し続けた辛苦を無駄だったと、宣告します。
 理不尽に抗うことを誓った矢先に。今度は抗う権利自体を奪われます。
 「今ここへ5人も居るのに! まだ左手も両足も残っとるのに!」 戦争め、理不尽め、ヤツはすずさんが散々守ろうとした「普通の日常」を踏みにじったあげく、今度は尊厳すら灰燼に帰そうとする。なんたることか。どうせ負けるならどうして姪を、右手を奪って行った!

 すずさんは抗うことを誓っていました。たとえ戦争が終わったって、そこに理不尽がある限り、抗う日々は終わりません。
 社会情勢の激変。深刻な食糧難。原爆による実家の不幸。戦争に負けず劣らず立て続けに襲い来る理不尽。負けてなるものか。すずさんと北條の家族は何があっても笑い飛ばします。いつかのように。いつものように。彼女たちはどこにだって普通の日常を築きます。守ります。笑顔こそが我ら最後の砦。

 いつかどこかで、語られない大切な誰かが言った言葉。「人が死んだら記憶も消えて無うなる。秘密はなかったことになる」
 それはそれで贅沢なことで、ある意味においてひとつの幸せかもしれません。けれど、残念ながら今のすずさんは強かです。死んだからって忘れてなんかやりません。使えるものは仏さんでもなんでも使ってしまえ。
 「晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない。じゃけえ笑うたびに思い出します。たぶん、ずっと、何十年経っても」
 笑顔と一緒に、楽しかった思い出を、嬉しかった思い出を、今ここにある普通の日常に添えて。そういう幸せな居場所をつくるために、「うちはその記憶の器としてこの世界にあり続けるしかない」

 すずさんは、この映画は、『この世界の片隅に』普通の日常を築き、理不尽に傷ついたあなたのための居場所であり続けます。どんなときだって。

 笑いましょう。

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