おっ部屋! おっ部屋! 私とみんなのおっ部屋ー!
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(主観的)あらすじ
大きくなったはーちゃんのために部屋を用意することになりました。割り当てられた屋根裏部屋は荷物だらけの埃だらけでしたが、魔法の得意なはーちゃんがひとりであっという間にきれいにしてしまいます。母親役だった立場が揺らぎ、落ち込むみらいたち。
リコははーちゃんに魔法を使わない努力の尊さを教えます。みらいはモフルンと傍で一緒にいられることのステキさを見つめ直します。そうしてみらいとモフルンがお色直しした部屋は、はーちゃんにはとてもワクワクして見えました。
「なんだってできる」魔法の力を生みだすエメラルドを求めてヤモーが襲いかかりますが、今のはーちゃんは負けません。大切なのは力なんかではなく使う人の心と思いだと知っているからです。
今年はビーズメーカーもちゃんと販促するんですね。前回が言葉の魔法の物語ならば、今回は思いの魔法の物語。もし全部自分の力でできるとしたら手をつなぐ必要なんてないんじゃない? というドクロクシーの示した命題について、ある意味で後追いの反証となっています。そしてそれはふたりで手をつなぐだけでも充分じゃない? というみらいとリコについても同じこと。
限界を見た「ふたりで手をつなぐ」物語を転生させるため、3人のヒーローは世界の見方を着々と塗り替えていきます。
もしも願いが叶うなら
「もしも願い事がなんでも叶う魔法の力を手に入れたならば」 私だったらとりあえず「なにもかも自分ひとりで完結できる生活基盤」を求めるでしょう。その煩わしさから解放されればだいぶ好き勝手に生きられるでしょうから。けっこうそういう人っているんじゃないでしょうか。個人的な感覚では「誰よりも強くなりたい」「偉くなりたい」「お金持ちになりたい」 この手の願いも基本的には同質の願いなんだと思っています。
はーちゃんがリンクルストーン・エメラルドから授かった魔法は概ねこういう類の力です。誰よりも万能で、誰よりも強力な力。みんなで手分けしても一日では終わらなそうな屋根裏部屋の掃除だって、はーちゃんにかかれば一瞬で片付きます。ほうきやベッドもはーちゃんが望むだけで簡単に手に入ります。
けれどそれは見方を変えるとドクロクシーのようでもあります。手をつながずとも世界中から力を奪い、誰よりも強くなれる闇の魔法の力。ドクロクシーはキュアミラクルとキュアマジカルの「手をつなぐ」力に敗れ去りましたが、それは単純な力比べの結果です。
あの戦いでは思想戦は繰り広げられなかったので、闇の魔法の何が悪いかという検証はほとんど行われませんでした。校長先生の「自ら災いとなり、世界を困らせてどうする」 くらいでしょうか。そもそもミラクルたちはドクロクシーを言い負かすような確固たる論理を未だに構築できていませんからね。
そんなわけで今回のお話はドクロクシー戦のちょっとしたリフレイン。ひとりですることとみんなですることの違いをひとつずつ検証していく物語です。
キーは「なんかこの部屋、ワクワクが足りないんだよね」。きれいに掃除して、ステキな家具を置いて、かわいらしく壁を塗り替えまでしても、みらいはどこか物足りなく感じます。はーちゃんはひととおり終わらせることで満足してしまって、まだそのことに気付いている様子がありませんね。
贈り物が嬉しいのはどうして?
魔法でみらいの父親の手伝いをしようとするはーちゃんに対して、「魔法を使う以外にもできることってあるのよ」 リコが答えになっていない答えで止めます。たぶんリコもうまく言語化できていないんでしょうね。バーベキューのときにリコが学んだことは、本来もっと別のテーマでしたから。
それでもみらいの父親の手伝いをするリコの姿ははーちゃんの興味を惹きます。なんでもできるようになっても、はーちゃんはやはりリコたちの子どもなのですね。お互いに何がしたいのか今ひとつ分かっていないなか作業は進みます。
ちなみにどうでもいいことですが、あの木材を支える作業、地味に難しいんですよね。下に押し込みすぎても上に持ち上げすぎても、ノコギリに摩擦してしまってかえってうまく切ることができません。支えなきゃ支えないで木材が弾んでしまって切りにくいのですが、うまい具合に水平を保ってもらえないと切る側の労力はあまり変わらなかったり。というかお父さん、いくら万力で固定したところであの軽そうな木の台だけじゃちっとも安定しないと思いますよ。
おそらくはーちゃんに贈るものであろう赤い棚が完成すると、はーちゃんは努力したあとのミルクが前よりも美味しいことに気がつきます。「なにこれ、どんな魔法?」 はーちゃんがそこまで気付いてくれるなら、リコはようやく自分の学んだことを発揮することができます。「魔法じゃないのよ。手を使って、汗をかいて、努力したから美味しいの」 やはり魔法を使って手伝うことがダメな理由としては微妙にズレていますが、これは後述のみらいたちの行動と併せて新しい意味を帯びていきます。
リコたちが日曜大工に精を出しているころ、みらいはモフルンと一緒に思い出を振り返っていました。「小さいころからずっと傍にいて、いつも一緒に遊んでくれた」 たとえモフルンが小さくて魔法も使えないとしても、動くことすらできなかったころからそうしてみらいはモフルンに助けてもらっていたのでした。
けれどそれはモフルンからみらいへの一方的なギフトではありません。「ありがとうモフ。やっと言えたモフ! モフルンはあのときとっても嬉しかったモフ!」 モフルンだってみらいから楽しい日々を受け取っていたのです。「一緒に」遊んでいたのですから本当なら当たり前のことですね。しかしみらいはそんなことにすら今まで気付いていませんでした。
みらいたちの周りにはたくさんの、本当にたくさんの理解ある大人たちがついています。これまでみらいたちはその大人たちからたくさんの愛情を受け取って育ってきました。彼女たちは子どもです。たくさんの祝福を与えられるべき存在です。けれど。彼女たちは気付いていなかったけれど。本当はそれは一方的に愛情を注がれていた関係などではなく、双方向なものだったのでした。
みらいがモフルンに遊んでもらっていたことは同時に、モフルンだってみらいに遊んでもらっていたということになるのです。前回のみらいの母親と同じです。みらいが母親を頼ることは、みらいの母親からすると頼ってもらえることでもあります。
人と人とのつながりはどういうものであっても双方向性です。みらいとリコが互いに影響を受けあってきたのと同じように。
はじめみらいたちははーちゃんのなんでもできる力を目の当たりにして「目が離せなくて大変だった小さなはーちゃん。私たちははーちゃんのお母さんだった。でもはーちゃんはもうひとりでなんでもできるのよね」 と無力感を感じていました。けれど彼女たちの目の前にある問題は、本当ならそんな難しいものではありません。
自分がされて嬉しいことをしましょう。自分がして嬉しいことをしましょう。たったそれだけのことです。役に立つことだけが誰かにしてあげられることの全てではありません。
ビーズのアクセサリが嬉しかったなら、今度もそれを贈ってあげればいいではありませんか。現実にはさすがに迷惑な贈り物は困りますし、なんでもいいというわけではありませんが、幸いはーちゃんはみんなで育てた子ども。好みは把握しています。人と人とのつながりは双方向性。あなたが相手を喜ばせたいという気持ちは、きっと相手にも伝わることでしょう。
ちょうど時を同じくして、はーちゃんの方も頑張ることのステキさを学んだばかりでした。「汗を流すとおいしいし、なんか嬉しい」 今まさに、彼女の学んだばかりのことが彼女の目の前で繰り広げられています。大好きな人たちが、自分のために頑張って部屋を飾りつけてくれている。こんな嬉しいことが他にあるでしょうか。「これって、ワクワクもんだあ!」
こうしてはーちゃんの「私のお部屋」は「私とみんなのお部屋」に変わりました。彼女の部屋に欠けていた「ワクワク」の正体は、みんなで頑張って部屋をつくること、もっと言えばみらいたちからはーちゃんへの祝福という贈り物でした。
魔法なんか使わなくたって、いいえ、魔法を使わないからこそ、この部屋はみんなをニコニコさせる空間へと生まれ変わることができます。
道を見失ってしまった人へ。
「エメラルドを渡してもらいましょうか」 回を増すごとにどんどん凄惨になっていくヤモー。微妙に引っかかるのはその戦う動機の変化。
「不滅の闇に染まりしヨクバールよ、憎きプリキュアを倒すのです!」 当初はそんなことを言っていた彼でしたが、いつの間にか第一の目的が変わってしまっています。主君を奪われたことへの妄執と、敵を討てない無力感が急激に彼を変えてしまったのでしょうか。
本来思想戦であるプリキュアの戦いに、そのような惑う心では勝利することなどできるはずがありません。何代にもわたって敵役や、あるいはプリキュア自身が証明してきたことです。反対にはーちゃんを迎えたプリキュアたちは新たに見方を変えつつあることで、戦うためのより強い意志を手に入れようとしています。現に当初はまるで歯が立たなかったスーパーヨクバール相手にも、今やキュアミラクルとキュアマジカルだけで互角以上に戦えています。
そもそもが非生産的な敵討ちという動機。そのうえ少しずつ道を見失いつつあるヤモーを見て、はーちゃんは彼を「あなたは間違ってる」と断じます。
彼の力であるヨクバールの攻撃をまっすぐに受け止め、キュアフェリーチェは説きます。「魔法は万能ではありません。どれだけ強い力を手に入れたとしても、大切なのはそれを使う者の清き心、そして熱き思い」 今日彼女が得たものはなんでもできる魔法の力よりももっとステキな、大好きな人たちからの祝福でした。
本来のヤモーは誰を大切に思っていたでしょうか。誰のために祝福を捧げていたでしょうか。フェリーチェがそれを理解する日が来るかはまだ分かりません。
けれどたくさんの祝福の元で日々を暮らし、そしてその祝福の形に確かに気付くことができる彼女なら、たとえヤモーのようなどうしようもない敵相手であっても「あまねく生命」のひとつとして「祝福」してあげられるんじゃないか。そうしてあげてくれたらいいなあと、私はこっそり密かに祈っています。
「はー! これからも毎日毎日楽しみだなー!」 いつか誰もが分け隔てなくそう思える日々がやってきますように。
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