言の葉の庭 感想 小休止と停滞が釣り合うわけもなく。

たぶん現実なら結ばれる可能性もあったと思います。
けれどフィクションでこんな恋愛は許されないでしょう。

劇場アニメーション 『言の葉の庭』 (サウンドトラックCD付) [Blu-ray]

 君の名は。で初めて新海監督に触れた勢いで、秒速5センチメートルと言の葉の庭を観ました。ミーハー根性丸出し。
 どちらもとても面白かったです。鬱屈して鬱屈して拗らせて、それからクライマックスに向けて走り出す瞬間の「ああ、これで叶わない恋から解放される」というやるせない開放感。この監督はとても意地が悪いですね。どう考えても破綻の始まりでしかありえないシーンをあんなにも爽やかに演出するんですから。

子どもと大人。小休止と停滞。

 言の葉の庭の主人公タカオは終始子どもとして描かれます。彼を取り巻く環境は彼を大人に見せかけようとしますが、その実彼はどこまでもどこまでも子ども。遠い夢に焦がれて、けれどその遠さも理解しています。彼は未来しか見ていません。未来のために頑張らなければいけないことをがむしゃらに頑張って、反面、今の時間を生きようとしていません。今のために費やすべき時間のことごとくを、未来の不安に耐えるために使い潰します。
 ヒロインのユキノは大人として描かれます。とびきりダメな大人です。襲いかかる理不尽に屈し、未来に向けて歩むことをやめました。ボロボロの心でも唯一味がわかるビールとチョコレートに縋り、彼女は今だけを生きています。やがて訪れるであろう未来の到達を少しでも遅らせるため、未来のために使うべき時間のことごとくを投げ捨てて、今の時間に自分を縛り付けています。
 子どもには未来があります。大人には未来がありません。少なくともこの物語では。それがタカオとユキノの決定的なすれ違い。同じ雨の下、同じ公園、同じベンチ、同じ時間に逃げ込んでいるにも関わらず、タカオにはいずれ進むつもりの未来があって、ユキノにはありません。

 土砂降りの雨に誘われて、ふたりでオムライスをつつく優しい時間。その甘い逃避行に終止符を打ったのはもちろん、未来があるタカオの方でした。
 「ユキノさん。俺、ユキノさんのことが好きなんだと思う」 その言葉がふたりの甘い逃避行を破綻させるものであることに、子どもである彼は気付きません。
 だってそれは、この時間が永遠には続かないことを前提とした、それでもふたりでいたいと願う前向きな言葉なのですから。この時間に永遠に縛られていたいと願うユキノがそんなものを望むわけがありません。縋らせてくれる対象として名乗りを上げてくれたことは嬉しいけれど、しかし彼に着いていったら、ユキノは望まない未来にたどり着いてしまいます。
 全身全霊の逃避と、なけなしの大人らしい理性を振り絞って、彼女はタカオを拒絶します。「ユキノさん、じゃなくて、先生、でしょ」
 出会った頃からそれぞれ少しも変わることがないまま「今まで生きてきて、今が、今が一番幸せかもしれない」 甘い甘い逃避行の絶頂に到達した時点で、この破綻は目に見えていました。ふたりはこのモラトリアムに求めているものが違いすぎます。

 鳴神の少し響みてさし曇り 雨さへ降れや君は留まらむ ユキノが求めていたものは、ふたりを停滞させる今の永続性。
 鳴神の少し響みて降らずとも 我は留まらむ妹し留めば タカオが望んだものは、小休止が終わっても未来に続いていく永続性。

 現実ならふたりが結ばれる可能性もあったでしょう。なんだかんだいって現実はこういうどうしようもない関係すらも先延ばし先延ばしにしてくれる懐の深さがあります。ハタから見てどうしようもない夫婦が、案外40年、50年と連れ添うこともしばしばです。
 けれどフィクションは美しい。良くも悪くも、美しい終わりばかりを指向します。彼らのようなどうしようもないすれ違いを抱えたモラトリアムをいつまでも見守ってはくれません。

破綻という美

 甘い逃避行から巣立ったタカオをユキノが追いかけようとする瞬間、希望を予感させる美しい音楽が流れ、画面はここぞとばかりに躍動感で彩られます。なんだこれwww
 すでに述べたとおり、この時点でふたりの関係は決定的に破綻しています。今さらふたりは結ばれ幸せになりましたとさ、なんてふざけたご都合主義はありえません。ユキノがタカオを追いかけたのはただ縋りつくものが欲しかっただけ。タカオが踊り場にいたのはここを巣立つことへの未練が残っていただけです。いずれも醜悪な自己愛の発露。けれど、私たちはそんなふたりを美しいと思ってしまうのです。

 何かが壊れる瞬間というのは途方もなく美しいものです。なんなんでしょうね、この趣味の悪い感情。ゴジラが東京を破壊しつくすとき、500人を殺す隕石が地上に降り注ぐとき、私たちは言葉に表すことのできない感動に襲われます。なんなんでしょうね、これ。本当なんなんでしょうね。
 どこかそこらの美術館に入ってみれば、たいてい数点は破滅を描いた芸術が展示されています。時代を問わず、東西を問わず。どこかで誰かが、どこでも誰もが、破滅の美を描いています。破滅の美に感動しています。なんなんでしょうね、汚らわしい。なんなんでしょうね、この愛おしさ。

 当然、この美しいシーンの先に待っているのはハッピーエンドではありません。
 「俺のこと生徒だって知ってたんですよね! 汚いですよそんなのって!」「どうしてあんたはそう言わなかったんですか!? 子どものいうことだって、適当に付きあえばいいって思ってた!」「俺が何かに、誰かに憧れたって、そんなの届きっこない、叶うわけないってわかってた!」「だったらそう言ってくれよ! 邪魔だって!!」 タカオの口から止めどなく零れ落ちる怨嗟は、結局のところ誰かが甘えさせてくれる、誰かがきっと導いてくれるという身勝手ばかり。彼はどこまでもどこまでも果てしなく子ども。
 対するユキノは先の拒絶を撤回するわけでもなく、少年の怨嗟をひたすら堪え忍び、彼に縋りついて泣きじゃくるだけ。何も否定せず、何も肯定せず、何も甘えさせず、何も導かず、ひたすら身勝手な嘆きを吐き出しながら、幸せだった逃避行の残滓をひとり味わうだけ。彼のいる未来に目を向けようともしません。
 「あんたは一生ずっとそうやって! 大事なことなど絶対に言わないで! 自分は関係ないって顔をして! ずっとひとりで、生きていくんだ!!」
 ふたりはずっとそばにいながら、永遠にお互いの距離を縮めようとはしませんでした。

 この破綻に救いがあるとすれば、ふたりの小休止も停滞も、終わりを迎えたことくらいでしょうか。
 劇的な終わりによる心の傷を抱えながらも、彼らはそれぞれ自分の道を歩いて行きます。モラトリアムを振りきって、それぞれ自分の足で歩けるようになったことだけでも、きっと彼らの出会いと破綻にはかけがえのない価値があったと、私なんかはそう思います。
 彼らの孤独な道行きに幸せがありますように。これ以上安息にその身を苛まれませんように。

 ・・・改めて感想を文に起こしてみると、君の名は。とはつくづく真逆の印象を持ったものですね私。どちらも主人公たちが最大限の幸せを手にした、と信じていることは共通しているのに。

シェアする?

フォローする!