レッドタートル感想 あなたにとって「いのち」とは何ですか?

どこから来たのか どこへ行くのか いのちは?

 言葉で語らないこの映画、公式のキャッチコピーは「いのち」に主眼を置いています。では、「いのち」とは何でしょうか?

 すぐに答えられますか? その答えはあなたのものですか? あなたはその答えに満足していますか?

 以前、他の記事でも書いたのですが、言葉は道具ではありません。だから一言に「いのち」といっても、時によって、場合によって、語る人によって、あるいは受け取る人によって、無限に意味が生まれます。
 だから、例えば「いのち」は言葉ですが、それが言葉であるがゆえに「いのち」の意味を言葉だけで語りつくすことができません。

 今、言葉に依らない映画が「いのち」のかたちを私たちに語りかけてくれています。豊かに、雄弁に、暖かに。
 またとない貴重な機会です。せっかくですから、劇場の柔らかなイスに腰を下ろして、この芳醇な映画に寄りそって、ひとりの男の人生に思いを馳せながら・・・80分間だけ、今一度あなた自身に「いのち」の意味を問いかけてみるのはいかがでしょう。

レッドタートル ある島の物語

注:このブログは基本的にネタバレに配慮しません。

 ・・・とまあ、全力で酔っ払った文章を書いて気取ってみせましたが、私ごとき若造が↑のカッコつけた文に見合うほどのご立派な感想文を書けるはずがありません。
 この普遍的な価値を持つ(興行的な意味では、うん、まあ)映画に対して、私が語れるのは今の私の世界観を通して感じ取った印象だけ。いつもどおり好き勝手語ります。

前置き

 「意志」。以下の感想文のテーマは「意志」です。私は「いのち」を「意志」と解釈しました。

 ・・・映画で語られる物語があまりにも豊かすぎて、先にある程度の指向性を持たせておかないと私の力量では収拾つかないんですよ。これまで何回書き直したことか。

孤独という毒

 ようやく本題。
 男はひとりで島に流れ着きます。目を覚ました彼が真っ先に探したのは、人。
 牛の鳴き声がします。・・・牧場でもあるのかと思いきや、声の正体は牛ではなくアシカでした。高台に登って船を探します。・・・見渡すかぎり水平線しかありません。声を張り上げます。・・・答える者は誰もいません。
 探索中に足を滑らせ、縦穴に落ちました。もちろん誰も助けに来てはくれません。どんなに絶望的な状況でも、自力で脱出するほかありません。孤独の中では、たかが足を滑らせた程度の失敗ですら命がけの試練に変わってしまいます。

 物語はいきなりシビアな現実を突きつけます。人はひとりでは生きられません。ただひとりぼっちというだけで、心は寂しさに苛まれるし、些細なことで命を落としかねません。
 一応この島には彼以外にも住んでいる者たちはいます。カニやアシカ、鳥、ウミガメ。けれど男はどうしようもなくひとりぼっちです。だって彼はカニやアシカと意思疎通できませんから。
 この物語はロビンソン・クルーソーのような特別なヒーローの冒険譚ではなく、どこにでもいる私たちの人生を描く寓話です。

 男は島からの脱出を試みます。しかしアカウミガメの怪力か、島の不思議な霊力かはわかりませんが、何らかの働きかけが男の脱出行を妨害します。
 だって考えてもみてください。男は島にいたくない一心で、どの方向に大陸があるのかもわからない広大な海原へ逃げだそうとしているのです。
 海というのは人どころか食べ物や飲み物もなく、景色すらほとんど変わらない、島よりもはるかに孤独な世界です。何の算段もなく闇雲に海に出るのはただの自殺と変わりません。
 そんなの、止められるものなら止めてあげたいじゃないですか。

 それでも男は繰り返し脱出を選ぶんですね。当然です。どう考えてもこの島は男が生きられる環境ではありません。遠くない未来に孤独が彼を殺すでしょう。実際彼は一度死にかけましたね。失意と絶望が心を殺し、彼から立ち上がる気力を奪いました。
 男にとっては島も海もそう変わりません。どちらにしろ彼を殺す世界です。だったら、わずかな可能性に懸けて海に出ようと思うのも仕方のないことです。

意志ある存在

 男はアカウミガメが脱出を妨害していたのだと理解します。だからアカウミガメが島にあがってきたときは、ありったけの憎しみをぶつけて彼女を殺してしまいます。
 これが重要な転機、男にとってのターニングポイントです。

 この島にカニやアシカ、鳥などが住んでいることを彼は知っていました。けれど男はそれらに対して関心を持ったことはありません。彼らと意思疎通する手段がないからです。だからこそ彼はこの島でひとりぼっちでした。
 けれどアカウミガメに対してだけは違っていました。彼はイカダを破壊するアカウミガメに妨害する意志を感じ取ったのです。だからこそ怒りをぶつける相手として彼女を選んだのです。
 それは一種の意思疎通でした。男が望んでいたようなものではなかったかもしれませんが、けれど彼は確かにアカウミガメから意志を受け取り、自分も彼女に意志をぶつけたのでした。この島に漂流してからずっとずっと恋い焦がれてきた、意志ある他人とのコミュニケーションでした。今の彼を救う、たったひとつの特効薬でした。

 男がそれを自覚したのは、取り返しがつかなくなってからでした。アカウミガメは死にました。この島で見つけたたったひとつの希望を、自らの手で消してしまいました。どれだけ嘆こうと、どれだけ求めようと、やり直すことはできません。それこそ奇跡でも起きなければ。

 ・・・ま、奇跡は起こるんですけどね。この件といい、衣食住に不自由しないことといい、男を海に出さなかったことといい、この島は実はとても優しい。
 アカウミガメの死骸が女に変身し、男はついに意思疎通可能な(可能性がある)存在と出会います。アカウミガメを殺してしまった罪悪感や、万一意思疎通できなかったらという不安が、男を尻込みさせますが、女が求めているのはそういう些末な気持ちではありませんでした。
 女はアカウミガメの甲羅を海に捨てます。彼女は今しばしこの島の上で暮らす意志を固めていたのでした。だから、彼女が男に求める意志もたったひとつ。男がつくりかけのイカダを海に捨てることで、ようやく女は彼を迎え入れ、食べ物とぬくもりを分けてくれました。
 女が貝を分け与え、男の顔をなでるこの場面は、映画の中でも屈指の名シーン。たった1カットで男が救われ、恋に落ちたのがよく伝わってきます。というか見ているこっちが恋します。
 こうして長い長い嘆きの果てにようやく男は安息を得ました。孤独によって死の直前まで追い込まれた彼を救ったのは、人のかたちをしながら人ではない、けれど人と同じで意思疎通ができる、意志ある他人でした。

 人はひとりでは生きられません。孤独が人を殺すからです。人が生きるには他人が必要です。それも、意志のある他人が。

広がる世界と好奇心

 ひとまず男は救われたので、物語はいのちのかたちを別の視点から描き出します。
 男と女の間には息子が産まれました。彼は好奇心いっぱいで、毎日島のあちこちを冒険していました。彼の物語においての転機は、砂浜に流れ着いたガラス瓶を見つけたこと。
 ガラス瓶を見つけた息子に、両親はそれぞれ大切なことを教えます。父親が教えてくれたのは、水平線の向こうに人がたくさん住んでいる大陸があるということでした。母親が教えてくれたのは、この世には人だけでなくカメも生きているということでした。

 好奇心はときに危険をももたらします。かつて父親が命の危機を経験した縦穴に、息子もまた転げ落ちてしまいます。
 けれどかつての父親とは違い、息子はひとりぼっちではありません。母親の声かけで心を落ち着けた彼は、かつての父親よりもはるかに幼いにも関わらず、立派に縦穴から脱出してみせました。孤独でないというのはそれだけで大きな力になるのです。

 また、この事件はひとつの出会いにも繋がりました。縦穴の出口で、息子はウミガメの一団と知り合います。
 かつて母親が教えてくれました。この世に生きているのは人間だけじゃない。カメもいる。
 息子は父親の先を行きます。父親はアカウミガメ1匹としかマトモに意思疎通できませんでしたが、息子は彼女以外のウミガメとも心を通わすことができるのです。
 アカウミガメの化身である母親の血も影響しているのかもしれませんが、私はどちらかというと母親の教えの影響の方が大きいように思います。相手に意志が宿っているかどうか、それを認識するのは当人の主観です。父親ははじめアカウミガメが意思疎通可能な相手と気付かずに殺してしまいましたが、その後意思疎通できていた事実に気付き、悲しみに暮れました。「意志ある他人」はその相手に興味を持たなければ認識できません。
 人間同士だって、お互いを知ろうと思わなければ友達にはなれませんし、声をかけなければ出会えないでしょう? まして知らない人なんてただのモブ。それと同じことです。そもそもカメがともにこの世界に生きる同胞だという視点がなければ、ウミガメたちと意思を疎通させようとも思いません。
 知っているか知らないか。知ろうとしているかいないか。あなたがひとりぼっちになってしまうかどうかの明暗を分けるのはただそれだけです。好奇心は世界を変える。実はこの無人島にも友達になれる存在はたくさんいたわけです。

 その証拠に、この島は人だけを特別扱いなんてしません。人も、ウミガメも、カニも、鳥も、森すらも、みんな等しく津波で洗い流してしまいます。良くも悪くも、人はこの島の一部に過ぎません。
 唯一特別なものがあるとしたら、それは意志。両親を失いたくないという息子の強い意志だけが、自然の摂理に逆らって、ふたりの生命をつなぎ止めました。

 力を充実させた息子は旅に出ます。
 好奇心の塊である彼にとってこの島は狭すぎました。毎日毎日冒険して、島のありとあらゆるところを知りつくして、やがて彼は好奇心を持てあましていました。ガラス瓶の向こう、水平線の向こうのさらに向こうには、まだ見ぬ世界がある。そう父親が教えてくれました。
 息子の旅立ちを妨害する者はいません。彼の旅は父親のそれとは違うものだからです。
 かつて彼の父親は、島から逃げるために舟を出しました。孤独に追い立てられて自殺同然の旅を選びました。
 息子は違います。彼は好奇心に突き動かされて旅に出ます。彼の好奇心は、意思疎通できる対象を島に住む両親だけではなく、海に住むウミガメにまで広げました。これから彼は大陸に住むという大勢の人々に会いに行きます。そう、この旅は世界を広げる冒険です。
 好奇心は世界を変えていきます。この島でそのことを学んだ息子は、もはやどこに行っても孤独ではありません。行く先々で意志ある者たちと出会い、友達を増やし、彼の世界をどんどん広げていくことでしょう。

 だから、お別れは悲しいですが、きっと大丈夫です。

満足する物語

 息子の巣立ちを見届けた男の物語はその後も平穏に続きます。特別な事件は何ひとつありません。だって、彼はもうすでに自分の人生に充分に満足しているのですから。島に来たばかりの頃のような激しい感情のうねりは、もはや彼の物語には必要ありません。意思を通わせられるパートナーがいるだけで彼は満足です。
 息子のように新しい出会いを広げていく物語もステキですが、この男のようにしみじみと幸せを噛み締める物語もまた尊いものです。
 男は人生を全うしました。逃げだしたくてたまらなかったこの島も、孤独でさえなければ我が家です。大陸に住むのも島に住むのも何も変わりません。だから、満足です。

 だから、男の死すら大した事件ではありません。この映画は彼の死を当然のように淡々と描きます。女も派手に泣きわめいたりはしません。そっと静かに彼の死を悼みます。
 ・・・私事ですが、去年から立て続けに父方と母方両方の祖父母を亡くしました。お葬式って不思議な場ですね。故人と付き合いの長かった年配の方ほど穏やかに別れを受け入れていて、むしろ若い世代の方がたくさん涙を流していました。悲しんでいないわけではないはずなのに、いったいどうしたらあんなに穏やかに喪失を受け入れられるんでしょうね。今の私にはまだわかりません。

 男との別れをひとしきり済ませたあと、女はアカウミガメの姿に戻って海に帰っていきます。彼女はひとりぼっちではありません。この世界では男や、息子や、カメや、カニやアシカや鳥や森や、あらゆるものをひっくるめて、みんな一緒に生きています。

カニ

 そう。男ははじめ気づいていませんでしたが、なにも意志ある者は人だけではありません。ウミガメだけでもありません。物語を最後まで見届けたあとで振り返ってみれば、実は私たちは映画が始まったときからずっとその存在を見ていました。
 それが、例えばカニなんです。島に流れ着いた男を興味深そうに見守り、好奇心の赴くままに男を追いかけ、やがて息子とも対面しました。男が島から脱出するときもイカダに乗り合わせ、彼がひとりぼっちにならないようにしてくれていました。
 彼らははじめから男に意志を示し続けていました。男が気付かなかっただけで、この小さな友人たちははじめからずっとそばにいたのです。

 言葉を交わせる者だけが意志疎通可能な相手ではありません。言葉は話せなくても、本当は意志ある者たちがそこら中にいます。人も、カメも、カニも、アシカも、鳥も、森も、島も、あらゆるいのちはみんな意志を持っていて、みんな意志を伝えようと私たちを待っています。
 人はひとりでは生きられません。孤独が人を殺すからです。けれど本当はどこにだって、この世界には意志ある者が溢れています。

 だから、たとえどんな場所にいたって、いつだって、あなたはひとりじゃない。

 言葉では言い尽くせない「いのち」の意味を、この映画は言葉に依らないいのちの営みでもって豊かに語ってくれました。
 その芳醇な物語から私が受け取った感動のうち、今の私が言葉で表現できる限りのものは以上が全てです。また映画を観に行ったらもう少し語りたくなるかもしれませんが、そのときはまた別の記事で。

 さて、あなたにとって「いのち」とは何ですか?

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