レッドタートル感想追記 妻と息子と奇跡の物語。

 2回目観てきました。感想を書いて頭を整理してから観てみると、改めて脚本の完成度に感嘆します。
 先日私が書いたあらすじだと時系列が間違っている部分がいくつかありましたね。お恥ずかしい。実際の映画は私が記憶していたよりもはるかに整然としていて、無駄がなく、スマートな脚本によって描かれていました。
 この映画の各エピソードは全て必然があって描かれており、テーマから演繹してそれぞれを最良の配置に組みあげられています。物語の全体像を把握してから改めて観返すと、きっといくつかの場面で「このためだったのか!」と膝を叩くことになるでしょう。まるで名作推理小説に出てくるトリックのような美しさです。

 ・・・とまあそういう個人的な感動には関係なく、この記事では前回の感想文では取りあげなかった、ちょっと軽めのとりとめないことを主体に綴ろうかと思います。
 この映画の劇作がいかに巧みかということについては、たぶんもっと頭の良い方がどこかで語っているでしょうしね。

→ 前回の感想文

→ ちょこちょこ間違ってるあらすじ

レッドタートル ある島の物語

カメの初恋

 この物語は男(と、一部息子)の人生を描くものなので、正直なところ女(アカウミガメ)の心理を追いかける必要はあんまり無いように思うのですが、改めて観てみるとけっこう可愛らしいこと考えてそうなんですよね、この人。萌えちゃいました。

 彼女の初恋は・・・たぶん、生まれてすぐ。男が孵化したてのウミガメの子どもを拾い上げたことがありましたよね。たぶんあの子こそがアカウミガメだったんじゃないでしょうか。夜ということで彩度が極端に絞られていますが、甲羅の色も緑より赤に近いように見えるんですよね。
 初めて触れた他種族の手のひらの体温、目線の高さを体験した幼子はいったい何を思ったことでしょう。それは普通に生きていては本来体験することのできない、彼女だけの特別な思い出でした。
 ・・・こう考えると意外と少女漫画的。野生動物にとってはストレスにしかならないんじゃ? という現実に即したツッコミは知らない。

 ところで男が3回も組みあげたイカダ、彼はアレひとつつくるのにどれくらいの時間を費やしたんでしょうね。あれだけの資材、ただ集めるだけでも相当な重労働のはずです。まして立木を切り倒す術なく、選別が必要な倒木しか使えないのですから。1基あたり数ヶ月? ひょっとして数年?
 劇中にさりげなく流れる壮絶な時間の流れを想像するとゾッとするものがありますね。でもまあそれはそれとして、つまり3基分の時間経過があるのですから、生まれたばかりのアカウミガメが立派に成長できる時間的スパンも充分に存在するのですよ。

 私たち観客からすると、島からの脱出が失敗したのは何か正体のわからない理不尽な力によるもの、という情報だけあれば物語理解に不都合はありません。このあたりの考察をすることに意味はありません。
 けれどその正体が実は、幼い頃の初恋を引きずっているアカウミガメの純情一途なアタックだとしたら、ちょっぴり可愛らしくはありませんか? いえまあ男からするとたまったものじゃないですけどね。結果的にそのおかげで自殺じみた船出を止められたということで許してもらいましょう。

 もちろんここまで書いてきたとおり、客観的に考えるなら根拠は薄弱です。そもそもこんなことに想像を巡らす意味がありません。単なる私の趣味で、主観です。
 けれど彼女の行動の前提に恋心を据えてやると、わざわざ砂浜に上がってきた理由とか、転生したときまず海に潜って肌を隠したこととか、自分を殺した男の上衣を素直に受け取ったこととか、色々納得できる気がするんですよね。なんて可愛らしい。

 己の過去を悔いる男に対して、彼女がその頬に優しく触れたのは「許し」ではなく「愛おしさ」の表れ。あるいは懐かしい初恋の記憶をなぞる体温の交換。こんなの接吻よりも甘酸っぱいわ。うん、我ながら恋愛脳ですね。ただし男にとって何を意味していたかはまた別のお話。

負債に打ち勝て

 話はガラリと変わって、津波直後の息子の物語。父と母を求めて必死に声を張り上げる彼の姿は、島に来たばかり頃の父親を彷彿としていますね。ご丁寧に「倒れている人影か?」→別のものがそれっぽく見えただけでした、のパターンまで踏襲します。
 そう、息子にとっての津波は、父親がこの島に流されてきた日の再現です。父親がそうだったように、息子もまるで見覚えのない島の砂浜で目を覚まします。何もかもを破壊しつくされ、その姿を大きく変貌させた島で。

 そうであるなら、父親の救出劇はかつての何に相当するでしょうか。島から去り行く者、大いなる絶望。かつての父親にとってのそれは、アカウミガメの死でした。
 かつて父親は夢を見ました。アカウミガメの魂が天に召される夢。必死に追いすがり、引き留めようとしても、彼の手をするりとすり抜け、無慈悲に空のかなたへと去っていくアカウミガメの魂。彼の焦がれていた意志ある他者という存在の本質が、肉体ではなく魂にこそ宿るものならば、それはせっかく出会えた(気付けた)意志ある他者との決定的な別れでした。

 今、父親は津波によって島から大きく流されました。彼らの生活圏からは見つけることもできない、遠い遠い外洋にいます。普通に考えるなら、か弱い人間の手なんて到底届かない決定的な別れです。かつてこの父親は遠いところへ行ってしまう者に手を届かせることができず、孤独を味わい、奇跡によってしかその孤独を癒やすことができませんでした。
 けれど息子は違います。当時の父親よりも充実した力と意志の通う仲間の存在によって、一昼夜泳ぎ続けなければ届かない途方もない断絶を、自らの持てるもの全てで乗り越えます。子が親を超えた瞬間、かつて人が打ちひしがれた絶望を次世代が克服した瞬間です。

 人は、意志ある者たちは、成長します。個体の寿命なんてものともせず、世代を重ねる連続体として、いのちをつなぎ続けることで、なにもかもに打ち勝ちます。永遠に続くいのちの連なりこそが自然の強かさであり、人の営みの本質です。
 つまり人と自然はおんなじです。人はしばしば自分たちと自然は別物だと考えがち(特に西洋哲学では顕著ですね)ですが、やってることはそこらの獣や草木と全く変わりません。たまに文明の棄却と自然への回帰を叫ぶ人たちもいますが、わざわざそんな非合理的なことをするまでもなく、人はいつだって自然の一部です。

 ちなみにこういう話、今年の冬に放送が予定されているRewrite2期もメインテーマとして扱ってくれるはずなので、興味がある方は是非観ましょう。

奇跡の双方向性

 やがて月日は流れ、年老いた男の最期を看取った女は、冷たくなった彼の手に自分の手をそっと重ねます。これはかつて男がアカウミガメの死骸に対してしたことと同じ行為ですね。
 男がアカウミガメに意志を見出し、その喪失を心から悼むことによって始まったふたりの奇跡は、女が男から意志が喪失されたことを見届けることで終わりを迎えます。
 手を重ねることで始まり、手を重ねることで終わる。そういえば息子が旅立つ前夜にも同じことが行われていましたね。

 意志ある者たちが結ぶ絆は、単方向だけでは成立しません。片思いでは恋は叶いません。イカダを叩き壊してしまうだけです。それでは誰の孤独も癒やせません。
 男がアカウミガメを想い、アカウミガメも男を想うことで彼らは幸福に生きることができました。親が子を想い、子も親を想うことで息子は島から旅立つ力を育てました。
 全てのいのちはそうやって、無数の小さな奇跡を輝かせていきます。個体で見るなら始まりと終わりがありますが、全体を見るならそれは永遠。

 どうか全てのいのちが永遠に結ばれますように。全てのいのちが永遠に続きますように。

 まあ、私個人は生涯独り身の見通しですけどね。

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